人にはたいてい尊敬する人というのがいる。たとえば、私の父は彼の恩師の西原博牧師を尊敬していたので、長男の私を博と名づけたと聞いたことがある。
われわれは尊敬する人のようになろうとする。その人の口調を真似たり、その人の思想を自分のものにしてみたり・・・。今日、すべてのクリスチャンがナザレのイエスキリストを尊敬し、この人のようになりたいと願っている。神の助けにより、イエスを模範にして生きるということを勧めたいとおもう。
以前お話したように、私たちは信仰により神の恵みによって救われる。イエスキリストが罪のない完全な生涯をおくられ、その報いとしての「義人」という称号が、私たち罪人に与えられた。すべての権限を握る全能なる神が私たちを正しいとされたのである。
一度神が「清い」と宣言されたものに、人は「清くない」などということはできないし、言うべきではない。以前、オークションで買い取られたという例をだした。つまり、悪魔は私たちに罪の楽しみを与えることで私たちの魂を買い取ろうとする。しかし。其れを永遠の地獄で滅ぼす。一方で、イエスはその流された血により私たちを買い取られ、永遠の命を与えてくださる。オークションの最高値は、イエスキリストが支払われ、我々はただ感謝して永遠の命の贈り物をいただくのみである。言い換えれば、其れはすべて神の業であり、私たちはまったく何もしていないし、何もすることができない。神は、私たちがイエスを信じた時点で、その場で我々を「清い」と宣言される。この宣言は、その場でなされ、其れをだれも覆すことができない。そして、すべてのクリスチャンにこれらのことがあてはまる。
一方で、今朝お話をするイエスキリストを模範にして生きるということの特徴は、まず、1)神様の助けにより、我々もそれに積極的に参加する。2)内面的なことである。3)生涯を通して継続して行われるものである。4)この世においてそれは完成されることはない。そして最後に、5)各々にその段階がある、ということである。
- 我々は完全に神の恵みにより救われた。神は、私たちをキリストに似たものになれるように助けてくださる。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志をたてさせ、事を行わせてくださる。」(ピリピ2:13) しかし、使徒パウロは以下の聖句で、私たちが積極的にこのことに協力していくようにと勧めている。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2:12) ここでの救いという言葉は、おおよそ「キリストに似たようになる」と同意で理解する。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル12:14) 「キリストに対するこの望みをいだく者は、みなキリストが清くあられるように、自分を清くします。」(1ヨハネ3:3)そのほか以下の箇所で私たちが積極的であることが勧められている(1コリント6:18、2コリント6:12、2コリント7:1、第2ペテロ1:5)。確認の為にもう一度触れるが、私たちの魂が救われたのは完全に神の働きによるものである。そして、キリストに似たものになるためにもまた、神が働いてくださる。つまり、キリストに似たようになるように積極的でありながらも、神に信頼をおく事をわすれては本末転倒である。
- 次に内面的なことがある。もし無欲の老人をつかまえて彼に内面の罪について聞くと、正直な人ならば自分には内面に罪があるというであろう。表向きに清い人をつかまえてその人の内面について聞くと、正直な人ならば清くないことを告げるであろう。仮に人がなんといおうとも、神の前にはすべての人が罪びとである。そこで、内面がイエスキリストに似なければならないとはどういうことか。まず知識がキリストに似なければならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識にいたるのです。」(コロサイ3:10)神や宗教は迷信だという人が神の存在を知り、神の愛を知って真の知識にいたるのです。次に感情がイエスキリストに似なければならない。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容・・・」そして、意思や志がキリストに似たものとなる。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志をたてさせ、事を行わせてくださる。」(ピリピ2:13) また、私たちの霊がキリストに似たものとなる。「愛する者たち。私たちはこのような約束が与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖(きよ)きを全うしようではありませんか。」(第2コリント7:1)「・・・身もたましいも聖(きよ)くなる・・・」(第一コリント7:34)最後に、体に関しても、以下のところで清くなるようにすすめられている。「平和のかみご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(第1テサロニケ5:23)その他(第2コリント7:1、第1コリント7:34、第1コリント9:27、ローマ6:12,1コリント6:13、1コリント6:19−20)
- 継続して生涯キリストを模範にしていきる。ひとたび神が、正しいと宣言されれば、それは永遠の正しさを意味する。それで、キリストによる信仰により、恵みによって、神は私たちを正しいと宣言してくださった。永遠の正しさ、永遠の命を受け取ったのである。一方で、キリストを模範にして生きるということは、一生涯継続して行われる。賀川豊彦は、”Make
me like
Christ”(キリストのようにならせてください。) と祈り、貧民窟での奉仕などを通して、生涯キリストを模範として生きた。我々も同様に、神に信頼を置きつつ、一生涯という長い期間をかけて、キリストを模範をして生きるのである。
- 神が私たちを正しいと宣言されたとき、その宣言は完成された。一度清いとされたものをもうだれも清くないといえない。一方で、キリストを模範にする生き方は、この世において完成されることはない。人が罪の性質を有している限り、完全にキリストにはなりえないのである。落胆せず、神に信仰をおき続ける必要がある。
- キリストを模範に生きる一人一人に、それぞれの段階がある。他人をさして「私はあの人よりもキリストに近い。」といって人を見下したり、「あの人は私よりもキリストに近い。」といってねたんだりする必要はない。
終わりに、キリストを模範として生きる目的はさまざまある。キリストに似たものとして成長したときに感じる喜びと平安は多くの人に共通する。
「しかし今は、罪から開放されて神の奴隷となり、清潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠の命です。」(ローマ6:22)
クリスチャンの人生のなかには、励みになることもあれば、落ち込むこともある。そのなかで、キリストを模範にしたい生き方は、生涯を通して行われる。私たちの内面に変化が見られ、私たちもその変化に協力し、喜びを得る。ただ、それぞれに段階があり、誰一人完全になることはない。神に信頼を置きなが
ら、キリストを模範にして生きる必要がある。
参考 Chapter 38 Sanctification (Growth in Likeness to Christ),
Systematic Theology, Wayne Grudem, Inter-Varsity Press Zondervan
Publishing House, 1994 |