我々は八百万の神から、聖書に書かれている唯一の神を信じるようになった。科学を基に神はいないという人もいるが、私は、全宇宙を支配する法則は全宇宙を支配する唯一の神から来ると理解している。ニュートンは、全宇宙を支配する神を信じ、全宇宙を支配する法則があるはずであると考えたのだろう。そして、全宇宙を支配する万有引力の法則を見つけた。
私たちはその後、自分たちの救い(つまり罪の赦し)はイエスキリストの十字架によって完成されたと知った。 そして、救われた。イエスキリストは、完全な生涯を送られた。 しかし、その報いとして神の義を受ける代わりに、私たちの罪の代わりに十字架につけられた。ただそれを信じ私達は救われた。私たちが努力をしたから救われたのではなく、神の恵みによりイエスキリストを信じたから救われたのである。さらに、私たちには再臨信仰がある(この点で、親鸞の他力本願と大きく異なる)。再臨の細部については、クリスチャンの間でも議論がある。
今回は、ほとんどのクリスチャンが信じている再臨信仰について話す。
仮に、「では、また明日お会いしましょう。」と私が言ったとする。皆は、今日と同じような感じで明日私がここに来るのだと思うだろう。イエスキリストもまた、「すぐにまた来る。」と言っておられる。今回は再臨の3つのポイントについて話す。まず、復活の体をもっての再臨であること。次に、再臨は期待して待つべきことであること。最後に、再臨の時期については誰も知らないということ。
まず、イエスキリストが復活の体を持って、私たちに見える形で再び現れるということについて。イエスキリストは、私たちの罪のため十字架にかけられ、三日目に復活された。そして、復活のからだで40日間弟子たちに会われ、食事をされた。その後天に昇っていかれたとき、身使いたちが、使徒1章の11節で「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と言う。イエスキリストは、霊のみでなく、復活の体と共に、私たちに見えるようなかたちで、もう一度戻ってこられるということがはっきりと書かれている。イエスの復活から考えると、その復活の体でもう一度現れると考えるのはそれほど難しくないであろうとおもう。
次に、初代教会は熱心に待ち望んでいた再臨を私たちクリスチャンも期待して待ち望むべきである。
新約聖書の最後に「『しかり、私はすぐに来る。』アーメン。主イエスよ。来てください。(黙示録22章20節)」とあり、再臨の希望と共に新約聖書が締めくくってある。また、歌などでマラナタというが、これは1コリント16書22節「主よ、来てください。」という意味である。これらから、初代教会が主の再臨にどれほどの希望をおいていたかがわかる。 現在のわれわれも、この世の中に戦争の絶えないこと、また、手のつけられないような地球規模の問題を抱える中、すべての希望を主イエスの再臨に集結すべきである。自分が救われたのは、イエスキリストが自分の心のうちに来てくださったからである。この世が救われるのもまた、イエスキリストがこの世にもう一度こられるときである。救い主の来るのを切に持ち望み、そこに希望を見出すことができる。また、罪赦され救われたものの、内に宿る罪の問題に関しても、イエスキリストの再臨のときに罪なき者とされるという希望をもつ。個人としても、また社会に生きるものとしてもイエスキリストの再臨を期待して待つことができる。
最後に、再臨のときは誰にもわからないということ。
マタイ24章44節「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけないときにくるのですから。」また、マルコ13:32−33「ただし、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っています。」 簡単に言えば、誰かが再臨の日を指定した時点で、其れは間違っているとしていい。仮にもし誰かが、「イエス様が明日来られるといわれた。」といったとしても、そんなことを気にせず、そのまま普通に農業をし、日々の仕事をすべきである。今まで、イエスキリストの再臨の日を予言した人が何人もいた。たとえば、エホバの証人は、1914年に再臨があると予言したが、その後、目に見えない形での再臨とした。これは、復活の体を持ったイエスキリストの見える形での再臨(使途1章11節)と一致しない。また、一部のクリスチャンで、紀元2千年頃にキリストの再臨があるというという説がある。キリスト以前の4000年と、キリスト以降の2000年を足し、新旧約時代の合計が6千年になる。一方、天地創造が6日でなされ、7日目が安息日であった。そこで、一日が1000年のようであるという聖書の記述をもとに、紀元2000年にキリストの再臨があり、千年王国がその後にくるという説である。これも私には、年代を限定しすぎているように感じる。もし、明日再臨があるとわかると、誰も長期的な計画を立てなくなる。家を売り払う人も出てくる。子どもを学校に行かせないようなことにもなりかねない。そういった意味で、神様は再臨の日時を教えてくれないのだと思おう。
最後に、すべての希望を可能にするイエスキリストの再臨は大切な教義であるとおもう。ただ、難しい教義でもあると思う。 だから、もう一度聖書の基本に立ち返って今回の話しをおわりたい。つまり、自分たちが救われたのは、神の恵みにより、イエスキリストの十字架によるのであるということ。私たちは、自分自身にではなく、イエスキリストに目を向けることによって。神の恵みにあずかることができる。 |