私の子どもの頃は時々、停電がありました。その度にろうそくをつけるのですが、確かに、お茶の缶とか何か高い所に置くと周囲がより明るくなったのを、思い出しています。
イエス様は、こんな当たり前のことをどうして言われるのでしょうか?
目に見える明かりは、私たちは言われなくても、そのようにします。けれど目に見えない、あかり(光)につては、私たちはつい隠したり、その価値がわからずに、どこか机の下でも置いてしまうのでしょう。それでイエス様は言われたのでしょう。
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隠すのは恥ずかしいからです。私もクリスチャンになりたての頃は「どちらへ行かれますか?」と言われて「はい、教会へ」と言わずに「ちょっと、そこまで」と言っていました。しかし、その当時の所属教会の礼拝メッセージで何度もマタイ10:32の「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられる私の父の前でその人を認めます。」を聞かされてから、自分が教会へ行っていることやクリスチャンであることを隠さなくなりました。
ある人は、「私はクリスチャン」と言ったら、「なんか変な目で見られるのではないかしら」「変わっていると思われるのではないか」「いじわるされる(迫害)のではないか?」と思うからでしょう。この日本において、そんなことは、ありません。先ほどの御言葉をもう1度考えてください。
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イエス様のあかりのすばらしさに気づかない私たちです。イエス様の光より、お金、名誉、快楽の方が、もっと明るいと思ってしまうのです。私たちは、サタンにだまされやすいのです。
エペソ1:18,19に「神のすぐれた力がどのように偉大であるかを知るように」と言っています。私たちは、イエス様のすばらしさが解らないから人々に伝えないのです。それは、あかりを枡の下に置くのと同じです。
イエス様の素晴らしさを聖書から考えてみましょう。
まず、私たちはイエス様の十字架の贖いで神の子とされたのです。(ヨハネ1:12)
そして神の子としての特権は、
(1)必要を備えてくださる。アブラハムがイサクを捧げるとき、第1コリント2:9
(2)癒してくださる(霊、魂、肉体)第1ペテロ2:24
(3)勝利を与えてくださる(人生の戦い、サタンとの戦い)出エジプト17章のアロンとフル
(4)いつも平安を与えてくださる士師6:24
(5)羊飼いとして、守り育ててくださる 詩篇23
(6)義としてくださった イザヤ61:10
(7)共にいてくださる マタイ27:20」なのです。
こんな素晴らしい身分を思うとき、喜びが沸いてきます。
このような、すばらしいあかりを持っている私たちです。これはイエス様によって贖われたから、その身分を与えられているのです。ですから、私たちは神様にあって新しい歩みをするのです。ローマ6:3〜5を読みましょう。神様を私達の心の王座にいつも座ってもらい、主に聞かなければなりません。
そして注意しなければ、ならないのは悪魔がその火を消そうとすることです。
ひとつは、憎しみです。人を憎んでいる人は光が消えているのだと第1ヨハネ2:11に述べています。それから偶像礼拝(むさぼり)も明かりが消えてしまいます。
これらのものから、解放されて、いつも光の中を歩み、人々を照らしていきましょう。いつのまにか、「あなたの神を教えてください」と言う方が、現れます。
世界最大の教会の牧師チョー・ヨンギ先生は「今日の世界の問題は、クリスチャン達がもはや光でも塩でもなくなってしまったことにあります。生活の中でイエス様との真実な出会いです。」といっています。「父なる神様、私を真実で誠実な人としてください。聖日を忠実に守り、什一献金を必ずおささげするよう助けてください。救霊のために忠実に仕える者としてください。」と祈ることを勧めておられます。 |