本日は聖書の愛について話したいと思います。いのちのことば社の聖書辞典(1961年)を参考にしています。
ギリシャ語には、日本語の「愛」に相当する言葉として、アガペ、エロスという言葉があります。それぞれの愛の説明をみますと、
アガペ=1)人の心はこの愛について知らない。
2)相手に愛される資格を問わない。
3)自己を与える愛。
エロス=1)自己中心的
2)相手に愛される資格を問う
3)相手から奪う愛
4)男女の愛 です。
たまに友愛、親愛の気持ちで相手を配慮するという意味のフィレオという言葉も使われますが、今回、愛と言ったときには、アガペかエロスかのどちらかとして考えます。
私たちが普通「愛」といったときには、エロスを意味します。たとえば、小鳥を飼っていて、その小鳥を愛しているためにえさをやり、水をやっているとしましょう。小鳥のためだけを思えば、放してやって自由にしてあげるのが良いでしょう。しかし、私たちは小鳥の自由を拘束し、そしてその美しい姿や鳴き声を自分が楽しめるように小鳥を飼います。つまり、自己中心的な愛で、エロスの愛ということになります。
次に聖書の愛、つまりアガペの愛についてもう少し詳しくみます。
- 愛の源は神です。神は愛だからです(1ヨハネ4章8節、16節。)
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イエスキリストは神の愛の啓示であり(1ヨハネ4章9節)、最高の賜物(ヨハネ3章16節)です。彼の地上における言行は愛の啓示、実でした(マルコ6章34節、使徒の働き10章38節) そして、彼の十字架での罪の贖いが愛のクライマックスとなります。
- 聖霊の現臨と働き (1コリント13) 愛は
「1.教会に与えられた最大の賜物(1コリント12章31節、13章1-3節)」
「2.最大最美の道徳的気質と行為を与え、また促します(同13章4−7節)」
「3.愛は永続します(13章8節)」
- 信仰や希望にも勝る(13章13節) 理由として、
「A、信仰と希望は被造物の性質にたいして愛は創造主の性質」
「B、愛はイエスの人格と御業において、人類への最高の啓示」
「C、信仰や希望はそれ自体が目的ではない(救いの信仰、天国の希望など)愛はそれ自体が目的、完全へと結ぶ帯(コロサイ3章14節)」
- 新しい律法(マタイ5章43節)
- 相手の資格を計算しない(45節から48節)
- 敵をも愛す(5章44節) 律法の中で最も大切な戒め(マタイ22章35節から39節)
ここまで聞くと、「これは弱者のためのものだ。私は強いものにあこがれる。」と言う人もいるでしょう。自分の理想の人物の中には、歴史上の人物では豊臣秀吉、ナポレオンなどが入るかもしれません。漫画の世界を含めば、ドラゴンボールのゴクウや、北斗の拳のケンシロウなんかも魅力的です。また一方では、「アガペの愛について、わかった気がする。ただ、アガペの愛を持っている人がいたら、あって話してみたい。」というアガペの愛の存在に疑問を持ち戸惑う人もいるでしょう。
これらの質問に答える一つの例として、マーチンルーサーキング牧師をあげようとおもいます。彼は著書「汝の敵を愛せよ」(strength
to
love直訳:愛する強さ)のなかで、「強さ」をつぎのように見ているようにおもいます。罪に負けない強さ。つまり、人に悪いことをされたとしても、その罪に打ち勝つ強い愛をもって人を愛する。罪を犯されたが、それに打ち負かされることなく愛し続ける。「罪を憎んで罪びとを憎まず。」という姿勢であるとおもいます。
彼は、1963年、ワシントンでの行進においてI have a dream(私には夢がある)という演説をしました。そのビデオを見ますと(http://www.youtube.com/watch?v=PbUtL_0vAJk&eurl= )、その中に多くの白人がいることがわかります。これは、マーチンルーサーキングらが、憎しみではなく、愛による訴えかけをおこなったからだと思います。
当時の白人の罪は憎んだが、白人を憎もうとはしなかった。これが、愛のなす業であると思います。また、同じ本のなかに、そのちょうどその100年前にゲティスバーグで有名な演説をしたリンカーン大統領の話も載っていました。リンカーンは南部の人に愛を示そうとしました。なぜ、そのようにするのかという問いに対し、「自分の敵を友に変えてしまうとき、敵を滅ぼしたことにはならないでしょうか?」といったそうです。
聖書に書かれた愛は、神からの無条件の愛です。しかもそれは、罪に打ち勝つ強さを持っています。われわれも、罪に負けない強い愛をいただきたいものです。 |