教会礼拝メッセージ要旨


 
2007年2月11日メッセージ

キリストにある変身(心)( マルコ5:1〜20)

ベテルキリスト教会  横谷 純子
 
 現代は、この箇所のように墓場で騒ぐ凶暴な人はいないでしょう。
もし、家で暴れ危険なら、すぐ病院へ連れて行かれ薬の力でおとなしくなるでしょう。でも、薬には副作用はつきものです。イエス様によって癒されるなら何も副作用がなく完璧です。
現代も目には見えなくてもゲラサ人のような、人もいるのです。
実は私も救われる前は、このようでした。
 中高生の頃、イエス様に反抗して生きていました。心は空虚で切れやすかったのです。兄とよく衝突しました。
私は口でうまく言い表すことが出来ず、『こんなに怒っているのだ』ということを示す為に、台所へ行っては、刃物を持ち出しました。兄は私が『脅かしているだけだ』と知って台所の仕切りの窓ガラスを閉めて「ヤーイ」と言います。もう一方の出入り口から行こうとすると、先回りをして戸を閉めて「ヤーイ」と言うのです。いつも同じパターンなので、ある時「私は本気や」を示そうと兄が閉めた戸を開けて追いかけました。兄は慌てて居間などを通って玄関から、外へ行きました。さすがの私も外までは行きませんでした。狂人と思われるからです。
そのような私ですが、高校3年の夏休みにYWCAのキャンプに行って変わりました。
講演があり後でグループに分かれての交わりの時、私は一杯質問しました。「何故神様は罪人の人間を作ったのか?」「どうして、いろんな派があるのか?」「何故献金するのか?」・・・・と。
その先生は的確に答えてくださいました。それ以上に私の心を捉えたのは、その方が何も飾らず、生きてらっしゃる姿でした。私は人に良く見られようと、いろんな仮面を付けている自分をまざまざと見せ付けられました。そして、『私が間違っていた。今度から教会へ行こう』と決心しました。
そして帰宅して数日後、また兄が気に障ることを言いました。私は前のように台所へ行き、包丁を取りに行きました。その時その先生の顔が浮かび、『これは、したらいかんことや』と初めて気づきました。いくら、頭の良い学校に行ってても善悪の判断はイエス・キリストの光に照らされないと解らないのです。
兄の名誉のためにいいますが、兄は、私を熊本に連れて行ってくれたり、宝塚歌劇(フォスター上演)を見に連れて行ってくれたりしました。
最近、弟が兄を殺したり、親類の人を次々殺す人がありますが、自分で何をしているのか、判らないのでしょう。私はイエス様の光に照らされて、そういうことにはなりませんでしたけれど・・・ですから、こういう事件を起こす人々は、悪霊に取り付かれているのです。
どんな凶暴な人もイエス様に出会うと変えられるのです。
このことは、後でもう一度考えてみましょう。
16〜17節は人々の態度です。「なんと冷たい」と思われるでしょうが、これが人間の罪の本質です。現代も同じです。身体障害者の自立を目指しておられる山中牧師も作業所や、ホームを建てようとすると地域の猛烈な反対に遭われたそうです。山谷で伝道されている森本春子牧師も、ホームレスの人々の施設を建てようとした時大変な反対にあったそうです。お二人とも反対者達を説得されて建設されました。
自分の子が障害を持っていたら、なんとしてもそういう施設を建てて欲しいと願うでしょう。ところが、アカの他人となると、「かっこわるい」とか、商店街なら「そんな人が歩かれるなら、マイナスイメージや」とか言われるのです。イエス様は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と戒めを与えてくださいました。クリスチャンである私達は、障害のある方々やホームレスの方々を自分の身内と思って考えようではありませんか!

 18節からは開放された人が、イエス様と共に伝道旅行したいと願っているところですね。イエス様はお許しにならず、今の自分のいるところで伝道せよと言われます。自分の住んでいる所で伝道するのは、場合によっては、難しいことです。
私の家で、月1回家庭集会をしていて、ともかく10人の人に声を掛けようと決めました。2月の時、ぶどうの会(家庭集会)も近づいて、「誘わなければ・・・」と思いつつ、重い腰があがりません。それでボーっとテレビを見ていました。TVは民放でリュウマチについてのいろんなことが言われていたようで、最後にある医者が登場したところから、見ていました。その医者は「どんな病気でも本人が治るという思いを持てば治る」というようなことを言われていました。「なるほど」と思いつつハッと気がつきました。イエス様はすべての人が救われるのを望んでいらっしゃいます。4世紀のアウグスティヌスの[人は神の元に憩うまで平安がない]と言う言葉を思い出しました。「そうや。神様はみんなが天国に行くことを望んでいらっしゃるし、人々は本当は求めているんや」と。それで力を得て、声を掛けに行きました。

悪霊につかれた人に戻ります。
こういう人物に私達はならないとは限りません。
マスコミで報道される凶悪犯も、生まれた時はかわいい赤ちゃんであり、幼子であったでしょう。
では、どうして、こうなったのでしょう。いろんな説があるでしょうが、私はサタンにやられたのだと思います。第1ペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。
神様は私達を祝福したいと手を差し伸べておられますが、悪魔は私達を堕落させ、地獄に引きずり込もうと必死なのです。クリスチャンであっても、サタンは私達の隙を突いてきます。ですからエペソ書にあるように
いつも腰には真理の帯を締め胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、信仰の大盾を取りサタンの放つ火矢を打ち消し、救いのかぶとをかぶり、御霊のあたえる剣である神のみことばを受け取って武装して歩みましょう。
靴下の穴でも毛糸のほころびたところでもほっておくと、だんだん大きくなっていきます。メル・ボンド師は、少しの悪霊を侵入させほっておくと次第に別の悪霊が入って来ると言われますが、私もそう思います。
ひとつ、覚えているのは、「怒りの霊をそのままにしておくと、今度はもっとひどい憎しみの霊が来る」です。
しっかり御言葉で武装して9個の御霊の実を結んでいこうではありませんか。
私達は、自分の心を神様の言葉で満たして、祝福された人生を歩みたいものです。
神様は、私達を束縛する為でなく、崇高な喜びを与えようとされているのです。
最後に箴言4:23を読みましょう。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」
 
 

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