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創世記7:7 ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟を作り、その箱舟に入ったのです。
ノアは、神のさばきの大洪水が来ても船を通して自分も家族も救われるようにしました。これは神様の指示に従ったのです。舟は水の上に浮かばせ水に浮く船を作ったのです。水に沈む船なら始めからノアは舟を作らなかた事でしょう。信仰も同じことが言えると思います。沈むような信仰なら始めから持たないほうがいいです。救われる信仰があるから信じているのです。皆さんはどのような箱舟を作り、どのような舟に乗ろうとしていますか。イエスキリストこそ救いの箱舟であり、神のさばきの大洪水に対して、沈む船ではなく、どこまでも浮き上がり、人々を助ける船でもありました。これは神様の約束です。
- ルカ8:22〜 ガリラヤ湖でイエスが「向こう岸に渡ろう」と弟子達に言われたのです。
弟子達が「向こう岸に行こう」と言ったのではなく、イエスが言われたのです。
それで、イエスの弟子たちはイエスをお乗せして船を出したのですが、湖の中ほどで大暴風に襲われたのです。船は進むことも、引き返すこともできません。イエスをお乗せしていることを忘れたのでしょうか。それとも、自分らの今までの経験からこの暴風雨を乗り切りきることが出来ると思ったのでしょうか。イエスが舟にのっておられるならイエスが責任を取ってくださいます。湖は世の中を現し、暴風はこの世の問題を表します。
イエスを信じて信仰を持ったものの、いろいろな問題が来る時があります。「何でこんな時に舟を出すんだよ」とか、弟子たちは漁師でしたから嵐の来る前触れ、風向きの読みができなかったのでしょうか、予測はできたと思います。しかし、イエスが向こう岸に行こうと言われたので、文句を言わずに、イエスの言われるまま舟を出したのです。これは信仰です。イエスに対する信仰と信頼がなければ、船を出すことはできなかった事でしょう。船を出すまでは良かったのですが、問題の大風雨と嵐が来たときには、イエスをお乗せしているにもかかわらず、自分らの方法や、経験、努力で向こう岸に着かせようとしたのです。向こう岸とは目的地、天国です。私たちは自分の努力や経験や方法で船を向こう岸(天国)に着くことはできません。信仰とはイエスの指示を仰ぐことです。助けを求めるとイエスは問題の嵐を沈め、不安の波も鎮めてくださいます。いつもイエスをお乗せしていますか? 船は人生です。イエスが共にいてくださるなら安心です。参照ヨハネ14;1
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彼らはイエスに頼ろうとせず、自分らの経験や自分らの方法でこの嵐を乗り切ろうとしました。しかし、人間には限界というものがあります、その時自分らの助け主が乗っておられるのに気づいて、「イエス様、助けてください。船も、私たちも沈んで我々は死んでしまいます。」と叫び声を上げました。
イエスはその弟子達の声を聞き、「待ってました」とばかりです。こんどはイエス様の出番です。イエスは立ち上がり、荒れ狂う波と風雨をお叱りになると風はやみ、波も穏やかになった・・とあります。そして「なぜ恐れるのか」とイエスは弟子達に言われたのです。その後イエスをおのせした舟はまもなく目的地に着きました。
私たちもこのことを通して、教訓として自信過剰になることは禁物だということです。いつもイエスがおられることを信じて、問題をイエスに祈り、問題はイエスにゆだねるなら、イエス様が解決してくださいます。
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