教会礼拝メッセージ要旨


 
2007年8月5日メッセージ

健康であれ (マルコ10:46-52)

ベテルキリスト教会 牧師  横谷 誠一
 

  普段なにも考えなくでも健康はありがたいものです。自分が病気になったり、身体に異常が出たときなどは、「何も欲しくない。健康であればいい」と思うものです。ところが健康で身体に異常ないときは、「あれもあれば・・・これもあれば・・・」といろいろ思うし、「あれも欲しい。これも欲しい。」と欲しい物がいっぱい出てくるのです。人間とは実に勝手のものです。

 聖書のなかに盲人バルテマイと言う人が出てきます。(マルコ10:46―52)
この人は生まれながらの盲人だったのでしょうか、それとも病気で人生の半ばで目が見えなくなったのでしょうか、また家族はあったのでしょうか、家族があったら家の人はこの人を見捨てたのでしょうか、妻や子はいたのでしょうか、といろいろ考えさせられます。
この人が「目が見えない」ばっかりに物乞いをしていたと言うのは実に気の毒です。目が見えておれば働けるし、また好きな趣味も娯楽もできたでしょうし、いろいろ家族と楽しめたことでしょう。目が見えないばかりに物乞いをしたり、他人の世話にならなければならないこの人にとって盲目はまさしくこの世の望みなき、暗やみであったようです。そんな折、イエスがこの街に来られこのところをお通りになると聞いたときにこの人は先ず人目はばからず「ダビデの子よ!イエス様」と叫んだのです。
 イエス様のうわさは常日ごろから聞いていたのでしょうか、そうでないとイエス様と言えないからです、私たちもこの福音は伝えておかなければなりません。福音を聞いていれば時が来てこの盲人のように主を叫ぶときが来るのです。
この盲人はイエス様と叫んだときイエスは「この叫ぶ盲人をつれて来なさい」といわれ、弟子たちはこの盲人をイエスのところにお連れしました。そのとき自分の上着を脱ぎ捨ててとあります。
 私達は、古い自分の考えや自分の不運の上着を脱ぎ捨てる必要があります。盲人がイエスのところに連れて行かれたとき、イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねておられます。イエスはその盲人の必要を全てご存知の方であり、盲人の思いを知っておられた方ですが、あえてその盲人に聞かれるのであります。イエスに声を掛けられた盲人は、イエス様に、金をくださいとか、家をくださいとは言ってないのです。イエスが「わたしに何をして欲しいのか」と聞かれた時、「主よ、この目が見えるようになることです」といっています。この人にとっては目が見えることがまず先決だったのです。目が見えると働ける、目が見えるとまた家族を迎えられる、また話している人がわかる、そうしていろいろなものが見える、また学習できると考えたのでしょう。それで「この目が見えるようになることです」とイエスにお願いしたのです。盲人は何にもまして神の子であり救い主でありいやし主であるイエス様をこの眼で見たかったと思います。

 わたしたちは健康であり、住まいがあり、一通りの家財があってもまたこの肉の目が見ていても霊的盲人が大勢いることを知らなければなりません。その霊的盲人とは恐ろしいものです。父なる神がわからない、神の子であるイエスと言う方がわからない、救いとはなにかもがわからない、天国があり地獄もある、それすらもわからない、イエスの十字架の意味もわからない。イエスがわれらの救い主としてこられたと言うこともわからない、また人間はどこから来てまたどこへ行くのかもわからない、このような人が霊的盲目者です。聖書を知り、イエスを信じて真理を知ってください。神の真理はあなたに幸せをもたらします。
イエスの言葉
「私を見たものは父を見たのです」まさしくイエスを見るものは父なる神を見るのです。
                                       (ヨハネ12:44,45)

 

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