教会礼拝メッセージ要旨


 
2007年9月16日メッセージ

神に愛されている私達

ベテルキリスト教会  横谷 純子
 

マルコ9章1節〜13節
9:1「ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」とイエス様は言われます。21世紀の私たちの思いでは「神の国が力をもって到来する」のは、イエス様が雲に乗って迎えに来られる時(使徒1:9〜11、1テサロニケ4:16,17)を連想するのではないでしょうか?けれど1世紀にイエス様が言われたことは、十字架からの復活後か、聖霊降臨のことを言われたのです。
 その6日後にイエス様は、最も信頼できる3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登られます。そして、イエス様は本来の姿、栄光ある姿に変わられました。そしてなんと旧約の偉大な人物エリヤとモーセがいるではありませんか!
ペテロ達は、昔の会ってない人のことが、どうして判ったのでしょうか? 当時は写真もありません。モーセとエリヤの「会話」からと内面の偉大さがにじみ出ていたり、彼らが天国に行って栄光ある姿に変えられたからではないでしょうか? 会話の内容は「イエス様の最後についてである」とルカ9:31記されています。
昔の人が(亡くなった人)が地上に出てきているのを考えますと,死んでも肉体はあるということがわかります。日本では火葬で骨と灰になりますが、それでも主はもとの肉体に変えてくださいます。天国では男も女もないとあります(マタイ22:23〜30)から、別の体なのでしょうが。
 でも主は、亡くなった人を呼び寄せたりすることを禁じていらっしゃいます。(レビ19:31)この時の状況は誰かが大変苦労して呼び寄せた(霊媒師達が呼び寄せる時は非常な苦しみがあるので大抵は自分で演じているそうです)のではなく、自然と3人が集まった感じですね。
ペテロは恐怖に打たれて、訳のわからないことを言います。私達も、もし今、目の前に神様や天使が現れたら、恐れることでしょう。私たちが怖がらないために、天使は人間の姿で来られます。しかし、どこか違います。後で「あれは天使だったんや」と判るのです。
 そして天の父はイエス様のことを「これは、わたしの愛する子・・・」と言われました。イエス様は父なる神様に本当に従順で愛されています。私達も天の父なる神様に愛されているのです。何故ですか?それは御子イエス様が私達の身代わりに罰を受けてくださり、「人々の罪をわたしが代わりに罰せられましたから、どうぞわたしに免じて人々を赦してください」と頼まれたのです。父なる神様がその計画をされたのです。神様がどれだけ私達を愛されているか、ただ赦すだけでなく、子供として迎え入れてくださるのです。(ヨハネ1:12)なんと嬉しいことでしょう。私達はなにも心配することはないのです。
そして主は「彼(イエス)の言うことを聞きなさい。」と言われたのです。イエス様の言うことをどうして聞くのでしょうか? 声は聞こえません。聖書の御言葉がイエス様の声なのです。

 聖書は硬貨のように2つの面があります。「信じたら救われる」とありますが、救われたと言って好き勝手なことをしては、よくありません。むしろ厳しいことが一杯書かれています。なぜなら神様は「愛なる方」であると共に「義なる方」なのです。だからこそ十字架が必要なのです。今、私たちは天国の住民にふさわしい者になる為の準備期間なのです。合格するように聖霊様に助けて頂かなければなりません。
イエス様は「小さい事に忠実であれ」(ルカ16:10)と言われますが、小事とはお金のことだそうです。お金の使い方を言われています。聖書では什一は神のもの(マラキ3:10)と言っています。
 ホームレス伝道されているS牧師はホームレスの人に[什一をしなさい。10円でも1円でもしなさい]と言われるそうです。それは、教会のためでなくその人本人が祝福され、天国での家の材料になるからです。戒めを守る者はこの世にあって祝福され、又来たる世でも大いなる者と賞賛されるのです。
9節でイエス様の姿変わりを復活まで堅く口留めされます。なぜですか?それは、イエス様があのように立派な神様だと判ったら誰も十字架に架けません。イエス様はただ普通の人間におなりになり、人間として罪をかぶられたのです。それを果たすことがイエス様の使命であるのです。でもイエス様は罪がありませんから復活され、信じる私達も復活の命に預かることが出来るのです。
 今日はイエス様に愛されている私達というテーマですが、キリスト教の真髄は自分を捨てて神様と共に歩むことです。(マタイ10:39、ガラテヤ2:20)

中国で20年間、獄中生活を送った伝道者の言葉を読みます。
「激しい迫害下に置かれると殉教の覚悟をしますが、普段の生活で楽しみや名誉、愛するもの、人情、プライド、時間、金銭、健康、快適さなどを主の故に拒絶することのほうがずっと難しい。」です。
日々自分自身と闘う者でありましょう。祝福がありますように。
 

 

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