| 2007年10月21日メッセージ |
信じる者には、どんなことでもできる(マルコ9:14〜30) |
| ベテルキリスト教会 横谷 純子 |
|
イエス様が変貌された山から、3人の弟子と共に帰ってこられました。 群衆が集まっていて、イエス様のお顔を見ると驚いた(15節)とあります。 人々が驚いた理由に2通りの解釈があり、一つは「イエス様に未だ変貌の輝きが残っているので、人々は驚いた」もう一つは、「イエス様の突然の出現にびっくりした」です。 私は、前者の方と思います。なぜなら、イエス様が十字架にお架かりになる時、捕まえにきた人々は誰か判らず、ユダだけが判ったのです。モーセも主と語った後には、栄光の輝きが現れたので「おおいをかけた」とあります。(出24:12、34:29、33) 群集の騒ぎ(?)の中心は「てんかん」のような症状の子を癒して欲しい父親が、お弟子達にお願いしたのです。しかし、お弟子達には出来ませんでした。まだ聖霊の力に預かってないからでしょうか・・・ イエス様は「ああ、不信仰な世だ。いつまでがまんしていなければならないのでしょう。」と嘆かれました。 もし、イエス様が今ここに現れたら同じようなことを言われるような気がします。 いえ、イエス様は今も生きてここにいらっしゃいますから、お姿は見えなくても嘆いていらっしゃることでしょう。 私達は神の子で偉大な神様の力を持っているのですが、サタンすなわち、この世の科学、医学などに、だまされて、力がないと思わされているのです。 「いつ頃から?」とのイエス様の問いに父親は「幼い時から」と答えます。私達の罪の性質、病は幼い時からあるということです。今の青少年の犯罪をみても窺われます。 この父親は、お弟子達が出来なかったのでイエス様も同じようなレベルと考えたのか22節で「もし、おできになるものなら・・・」と言ってしまいます。 そこでイエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」といわれます。 そうです。信じるなら、どんなことでも出来るのです。ところが悲しいかな、私達には疑いが多いのです。 この父親の答えは、素晴らしいですね。24節:するとすぐに・・・叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」:このように素直に「信じられない弱い私を助けてください」という、父親を模範にしようでは、ありませんか?一度、御一緒に言ってみましょう。 そして、イエス様は悪霊に命令して、解放されました。この命じる祈りを私達もしなければなりません。私達は神の子でその権威も頂いているのです。(マルコ16:17、マタイ10:1) 弟子たちは、悪霊を追い出せない理由をイエス様に聞きます。 イエス様は「祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」と言われています。 私は、創世記を読んでいて、本当に祈りが人生を変えることを知りました。 創世記33章と34章は全く人生の明暗が描かれています。 ヤコブは父を騙して弟であるのに長子の権利を獲得し、兄に命を狙われるようになったのです。ヤコブは着の身着のままでゲラル(ペエル・シェバ)の地からパダン・アラム(カラン)の親戚の地へと逃げ出すのです。そこで20年間、人生の辛酸をなめ(信仰的に言えば試練を受け)て、人格が整えられてきます。 しかし、ラバン(妻ラケルの父)あくどいやり方に、(蒔いた種は刈り取る:ガラテヤ6:7) 我慢の限界を超え、主の言葉もあって兄の住む故郷へと飼えることになりました。 兄エサウは、400人を引き連れて出迎えに来ます。未だ恨みが消えないのでしょうか?大勢で来るとは戦うためでしょうか?ヤコブは非常に恐れ、心配し(創32:7)徹夜祈祷をいたします。(創32:22〜32) そして、主による平安と謙遜な態度により、劇的な和解のシーンとなりました。ハレルヤ! 一方、レアの娘ディナは、神様に聞かないで、異教の地に出かけます。その結果が大惨事を引き起こしてしまうのです。(創34:1〜30) ヤコブは祈りによって闘いの危惧から平和へと変えられました。一方ディナは祈らなかったため大惨事をひきおこしてしまいました。 私はこの箇所を読んで「祈りの大切さ」を深く思わされました。でも、問題が起こった時、祈りより他の方法で憂さ晴らししている自分を見ます。 どのようにすれば、よいのでしょうか?「聖書は御霊によって歩むなら、肉の欲望(生まれつきの悪い性質)を満足させることは無い(ガラテヤ5:16)と言っています。 御霊によって歩むには、どうしたらいいでしょうか? 祈りによって平坦な道を歩むことが出来ます。聖書は「絶えずりなさい。」(テサロニケT、5:16)とありますが、いつも祈れるでしょうか?車を運転している時とか、自転車をこいでいる時、祈りに気を取られると事故が起こります。でも異言の祈りなら、なにも考えないでいいので、いつでもできます。そして異言で祈っていると、神様からの平安や示しがあります。聖書の「絶えず祈れ」というのは異言と解釈すると納得いきます。 私は皆様が、聖霊を受けて異言でしゃべれるように、なることを願っています。異言をしゃべれる方は、いつもしゃべってください。私も、そうして時間を神の子にふさわしい歩みをしたいと思っています。 |

Copy right (C) 2003 Bethel Christ Church. All Rights Reserved..