失われた羊。放蕩息子のはなしから、考えてみたいと思います。ルカ15章
- 神様から見るならばすべてのものが失われている。神から離れている。
人々の関心のあるのはこの世のことだけ、自分のことだけに関心があり神に対しては案外無関心である。
そういうものに対して神は神ご自身のため、人々の救いのために捜しておられる。
- 神は罪びとを捜し救うために来られたということ。神は神のみ元に帰ってくることを願っておられる。
あなたは神のみもとから離れた友、友人を捜して神の元に連れ戻りなさいということでしょうか。
教会を休んでいる人、今、病床の人訪ねてあげなさいということでしょうか。その人たちのために祈っていますか、電話をしていますか?
- 心が失われている、形式的、儀式的では、神は喜ばれない、「霊と真を持って主の御名を賛美します。」を礼拝する人を神は捜し求めておられる。
今日の証から、ヨブを思い出しました。ヨブは神の前に全き正しい人でしたが、サタンの試みに遭い、子供たちも家も財産も失ってしまいます。奥さんまで「あなたは神をのろって死になさい」とひどいことを言います。しかし、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はもむべきかな」と言って神を恨まなかったのです。
それで、最後にはまた財産も復活され、子供たちも与えられ、2倍の祝福を受けたのです。神はこのように私たちに対しては良い神様なのです。また、神様は、私達の罪を赦し、永遠の命を与えてくださるかたでもあるのです。この世のことや、食べ物のことばかりに気を取られて神の祝福を失った、エサウのようにならないようにしたいものです。
ある方は、毎日、十字架の前で悔い改めの祈りをするそうです。私も見習って、最近そうしています。そうすると大きな平安がやって来ます。十字架の血潮はすべての罪を清めることが出来るのです。また、親は子供のことをいつも考えています。そのように父なる神様はいつも私達のことを気にかけていてくださいます。
民数記12:3,6〜8
「モーセは非常に謙遜な人であった。」と記されています。神に対して謙遜になるとは、礼拝を休まないことです。「解っている、知っている」と傲慢にならないで主のことばを謙遜に聞かせていただきましょう。
そうするならば私たちの心は、いつも聖霊に満たされていくことでしょう。
この1週間も神の前に謙遜になって、聖霊に満たされて、歩んでいきましょう。
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