| 2008年3月9日メッセージ |
赦すこと(マルコ11:18〜26) |
| ベテルキリスト教会 横谷 純子 |
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26節はありませんが、25節の末尾に*印がついていて、欄外に「しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくださいません」とあります。これは、マタイ16:14、15にも載っています。 さて、先月からイエス様が十字架にお架かりになる前の箇所をしていますが、今は丁度受難節の時期でピッタリのところです。 イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入城されますが、あまりの人気や、宮清めのために祭司長、律法学者はイエスを殺そうとします。詳しくは28節からになります。 前回14節で葉ばかりで、実のない「いちじく」を呪われましたが、本当に枯れてしまいました。 私達も、葉ばかりの人(人にせよ、せよと言って自分はしない人、口だけの人、見てくれの良い人)になって滅ぼされないようにしましょう。 ペテロが感心していますとイエス様は、どんな祈りでも信じて疑わなければ叶うと言われます。 高い山でも、海の中に入って無くなると言われました。山とは大きな問題、人間にとって不可能なことも可能として下さると言うことです。又、ある人は山のような罪も海に入って消えて無くなるということです。 そして、25節の赦すということが、祈りの聞かれる条件だと言う人もいます。 今日の主題は「赦すこと」ですので、赦しについて深く考えてみましょう。皆さんは憎んでいる人がありますか? 十戒の「殺してはならない」とあります。実際に手をかけて殺していなくとも、主の教えは憎むだけで人殺しと言っています。そして、その人の内には永遠の命が無いとあります。 第1ヨハネ3:15を読みましょう。 主の祈りの中に「私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負い目(罪)のある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)とあります。 主の祈り、文語では「我らが我らの罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ります。 先ず、自分の罪を赦して貰ってから、人を赦すことが出来るのに、これは変ではないかと思いませんか? その答えは、イエス様のたとえ話マタイ18:21〜35に出てきます。 24節の1万タラントとは、とうてい償いきれない額なのです。平均34kgの金塊で、重いものは60kgもあるのです。それをしもべは赦してもらったように、私たちの1万タラント程の弁償しきれない罪を主は赦してくださったのです。 私たちは神の前に出ることの出来ない汚れた罪人なのです。 窓などから光が差し込むとホコリだらけが見えますね。いつも部屋の中には、同じホコリがあるのですが、ふだんは気付きません。 そのように神様の光(聖書の教え)に照らされると私たちは、大変汚いのです。 その罪は、いくらお金を出しても弁償できないものなのです。その罪をイエス様の尊い血潮で弁償してくださったのです。 それなのに、私たちは、そのことは忘れて人にされた悪いことを赦せないでいるのです。(28〜30節) この聖書に出てくる、しもべも100デナリ、今の額にすると100万円か、もう少し上の額です。 これも、まあちょっとした額ですが、日本人は低所得層を除いて100万円くらい貯蓄はあるそうです。それを知った王様は、その人を牢屋に入れて自由に行動できなくされたのです。 私達も自分が赦されたことを忘れて、人を赦さないで憎んでいると自分が牢屋に居るように縛られている状態なのです。 私が、聖書学院に居る頃、聖書のどの箇所が1番好きか?話し合うことになりました。ある人がイエス様の十字架上で「父よ。彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と言われた箇所が1番好きだと言われました。自分を十字架に付け、殺そうとしている人々に対して「彼らを赦してください」なんて人間なら、出来ません。 又別の方は、この箇所を読んで「このお方は神様だ」と確信したそうです。 イエス様が自分を殺そうとする者に対しても赦してくれと神様に執り成されるのです。それを思う時、私たちの苦しみは取るに足りないものではありませんか!この話しを聞いてから、私もそれを心に入れました。それで、人にびっくりするようなことをされてもこの箇所を思い出しまし、赦すことができます。 大抵の悪は知らずにすることが、多いのです。「ああ、この人は知らないんだなあ」と思う時、赦すことができます。 もう一つ、相手を赦せる方法があります。それはアダムとエバから、学ぶことが出来ます。 創世記3:8〜13、16〜19 アダムとエバは神の戒めにそむいたのですが、「すみませんでした。」と謝りませんでした。 アダムは「あなたが与えてくれた女が・・・」と相手のせいにしました。エバも同様に蛇のせいにしました。自分の過ちを棚に上げて、人のせいにする・・・これを責任転嫁(てんか)といいます。 もし、アダムとエバが自分の非を認めたら、神の罰は、こんなに(17〜19節)にならなかったかと言う人もいます。 ですから、私達もたとえ相手が悪いと思っても、自分をもう一度点検しましょう。 相手が90悪くて、自分が10だけ悪かっても自分を反省するところに祝福があるのです。 もう一つの方法は、相手の状態、立場を善意に考えて上げることです。 人間は洞察力が大切だそうです。イエス様も自分を十字架に付けた兵士や群集、祭司長、律法学者たちに対して、「彼らは何をしているのか判らないのです」と言われたのです。 ですから、赦せる方法は3つあります。 1) イエス様の十字架上の「父よ。彼らをお赦しください」を思い浮かべる。 2) 自分を点検し、少しでも悪いところを悔いるようにすること。 3) 相手の状態、態度を善意に洞察すること。 もし、私たちの中に赦せない人、苦々しく思っている人があるなら、今その人を赦す祈りをいたしましょう。 それと、誤解からその人が自分を嫌っている時、自分で小細工して、近づくと逆効果になります。神の時を待てるようにも、お祈りいたしましょう。 その時、あなたの内から聖霊様が流れ、心が解放され、健康になり、経済も祝福されていきます。 |

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