聖書(マタイ28章1−20節)
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キリストの死なくして復活の喜びはない。それもただの死ではない。キリストは苦痛と恥の十字架の死であった。十字架はだれも望まない処刑であった.
罪ある囚人が釈放され、何の罪も無いキリストが十字架にかけられた。自分が神の子と真実を言ったばかりに、かけられた。
事実キリストは神の子であった。しかし、人々はその言葉を受け入れることは出来ず、彼は神を冒涜したと言うのであった。この世ではキリストは罪を見出されなかったが、神を冒涜したと言う理由で処刑された。
一方バラバと言う強盗殺人犯は赦された。実に不合理な裁判であり、又処刑であった。
キリストは死なれたが、神はキリストを死の墓よりよみがえらせた。ここに我々の喜びがあるのである。キリストの復活は息を吹き返したと言うような復活ではない。もう2度と死ぬことの無い霊と肉を持った復活であった。
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我々も罪あるために死ぬ運命にある、しかしキリストにあるならば、我々は死ではなく罪とがはキリストと共にかけられ、キリストの復活はキリストにある者も復活の命に預かることが出来ると言うのが神のメッセージである。ここに真の喜びと希望があるのではないだろうか。
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キリストの十字架は清めの十字架である。工場の煙突は、昔は黒い煙を出していた。すなわち、煤(ばい)煙である、今は煙突から出る煙は白い煙である。あの白い煙はじつは脱煙装置をくぐった煙が水蒸気となって立ち上っているのである。我々の心の罪もそのままでは神の前に立ち上る黒い煤煙のようなものであるが、キリストの十字架をくぐりぬけた祈りは清く白く変えられて神の喜ばれるささげ物となるのである。
だから私たちには十字架が必要になってくるのである。
- キリストは処刑されたあと真新しい墓に収められ、墓の入り口には大きな石が封印されてあった。
もう絶体絶命の状態であった。もう二度と墓から出ることが出来ない状態であった。人はキリストを永遠に墓に閉じ込めようとした。しかし神はキリストを墓よりよみがえらせた。大きな石は人の手によらず地震と御使い達によって取り除けられたのであった。私たちも死ねば人々は死者を墓に閉じ込めようとするがキリストにあるならば決して墓に閉じ込められることは無い。キリストが我々を復活させてくださるのである、
我々の住まいは墓ではなくキリストと共に永遠の御國における命です。
| マタイ28:4 |
ここにはおられません、よみがえられたからです。 |
| ルカ24:25 |
すると、イエスは言われた。「ああ愚かな人たち。
預言者たちの言ったすべてを信じない心の鈍い人たち。」 |
| ヨハネ17:3 |
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、
あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 |
| ヨハネ20:19−22 |
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」 |
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