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私たちの教会では、10周年の時にも、教会設立10年を記念して「記念誌」を発行しました。私も頑張って「石部焼き」の磁器湯飲みを「練り」から手がけて造り、苦労をともにした教会の皆さんに貰って頂きました。
その頃は小さな教会ながらも、勢いに満ちた楽しい思い出がいっぱいありました。
教会の伝道意欲も盛んで、牧師夫人が「上顎ガン」で召されても、信仰を合わせて 「’80ビリーグラハム国際大会」の働きに参加し、夢中で働きました。
教会20周年の時は、私が中心となるように主の導きにより、大阪城ホールを会場とした「ルイスパラオ大会」は、教会全体も巻き込まれて「無我夢中」で、実を結ぶ伝道を進めました。祈られていた玉置真生君、り抄子さんたちが救いに導かれました。
やがてクリスチャンホームの彼らの仲間が、具志堅神学生や沢田神学生に指導されて「フォージーザス」のバンド活動を始め、すばらしい伝道的な信仰者に育ったのもこの頃です。そのため、20周年記念誌の発行などは、忘れていたようでした。

阪神大震災が起こり、私は特別に教会や牧師を支えるために重荷を持って、救援活動の先頭に建って、深夜を忘れて働きました。その真っ最中に、心不全と脳梗塞を併発して倒れ、生死を彷徨うことになりました。75日間「国立循環器病センター」のベッドに横たわっていたとき聞かされたことは、妻の寿美江が「悪性の乳ガン」であり、もうすべてが手遅れとなっていて、肺にもガンは転移して腰の骨もボロボロになっていることでした。すぐに私は中途退院して、妻のために手配して、妻は関西医科大学病院で、「乳ガンと肺ガン摘出の応急手術」を受けました。それからが教会も私も大変でした。
「羊飼いが打たれると羊は散る」と、イエス様でも体験されたように、去ることを勧める人なども起こされ、私たちの教会も、あちこちで「いつの間にか無くなっていた教会」と、同じ道をたどっていました。
不思議な恵みのときが、残された教会員たちに訪れました。その恵みは、闘病中の牧師の助け手として、主から召された宮元師と、新しく教会に招かれた人々までが一緒になって、「主の恵みを忘れない」
新しい教会へ転機するためのスタート的働きが起こされました。それが、30周年の記念プロジェクトとしての、記念誌の発行と、教会堂の本格的改装でした。
この記念誌は、短い準備の時間しかありませんでしたが、美しい手製の記念誌として出版出来たことを、感謝しています。
私たちの教会は、暫定的な集会所として出発しました。そのため稲田宅と曾我宅に挟まれた狭い正面だけを教会的なスタイルにして、会堂を無理矢理建てました。広い土地を探して新会堂をと、祈りは切実でした。しかし門真は小住宅密集地であるため、近所でも高いときには、1坪300万円以上で、今は少し下がっている程度です。
昨年、隣接地の旧稲田宅が引越しし、その跡地が駐車場なって、教会堂の東側が一望出来るようになりました。するとモルタル塗りの壁は無残なほど割れ目が
目立つようになり、その壊れかかった壁に近所の子供たちが、ボールを投げて遊ぶのです。もう少しで崩れそうです。でも両隣の地主が教会の移転を強く主張しているため、両方の隣地を使わなければ修理も出来ません。祈るのみでした。
ところが、ひとりの姉妹の提案に沿って、執事会は教会の臨時総会を開き、祈って隣地の了解を求めて教会堂の内外を本格的に大改装することを決定しました。反対していた隣地の人を祈って訪問した結果、快く同意を頂きました。また片側の方は、駐車のために隣地を貸してくれることになりました。建物も重量鉄骨部分と枠組みは、新築時そのままの新品状態でしたので、安心して内外の改造改装を行うことができました。
すべては、先だって働かれた主の恵みと、教会を愛する皆さんの働きの結果でした。
教会が信仰をもって自立を宣言して30年を迎え、この様な嬉しい「恵みの証し」を前にして、教会の主であるイエス様と、イエス様を愛する教会員の皆様に、感謝しています。
いま教会は、新しい10年に向け、主に導かれて第1歩を踏みだそうとしています。
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