あなた方は、聖徒と同じ神の家族であることの自覚を深め
その恵みを証し、人々をその救いに導こうではありませんか。 |
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あなたは日曜日がどうしてお休みになったか、ご存知でしょうか。
日曜日は、はじめ教会に行く為の日として守られて来ました。そして今では世界中で、日曜はお休みとなっています。でも、かんじんの教会の方は、おるすになっているようですね。
しかし教会の方がおるすになった結果、人の心はどんどん弱くなり、そして悪い力に流されながらも、どうしようもなくなっています。
その理由について、聖書は、はっきりと日曜日に目的を果たしていないからだと教えています。
聖書は、人間は精神的に「羊のようだ」と教えています。そのために「迷える羊」と云うことばが「本当だなぁ」と思い当たることが良くありますね。
しかし、私たちの心に通じる神として働いている、イエス・キリストは、羊飼いのような心で、私たちの弱い愚かな心を、いつも支えてくださいます。その方法が「みことばを聞く」ことです。聖書のお話を聞いているうちに「どうしたら良いかわかってくる」と云う、素晴らしい体験をさせられることです。
その素晴らしい体験が日曜日、教会に出席することによって始まります。クリスチャンたちが「狼のような世の中にも羊の心で生きられる」理由がここにあります。
あなたも一度、日曜日に教会へ出席してみませんか。

聖書には、聖徒について「聖徒として召され、キリストイエスによって聖なる者とされた方々(第1コリント1章2節)」と紹介されています。
「聖徒として召された」とは、完成した人ではなく、聖徒となるように召された、現在進行形で、いわば「卵」のような状態を表現したことばです。だから育てて下さる神と、育てられる教会と育つ本人の三角関係によって成り立っています。
ぶどうの枝はすべて、毎年剪定されます。それは枝の中に虫が巣を作って幹から送る栄養分を吸い取ってしまうため、枝ごと剪定します。
毎週の礼拝は、信仰生活の虫のような罪を、自我ごと取除くために聖霊が働かれる時です。その心に聖徒となるいのちの信仰生活が始まります。
その聖徒となるための原則は、歴史を貫いて世界中で共通しています。
だから聖書の中や歴史のなかで、聖徒と呼ばれている人々を「聖徒の卵だち」は自分の家族のように、喜びと誇りをもって、自慢したくなるのです。 |