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 ましみず Back No.2000年4月メッセージ

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信仰の喜びを持つ友を持つ幸い
― 喜びの泉となった使徒パウロとテトスの人間関係 ―

聖書 コリント第2の手紙 7章13−16節

序論

 少し前、オリンピックの出場資格選考会となった名古屋国際女子マラソンで優勝した選手が、自分の頭に被せられた月桂樹の冠を取るとすぐ横にいた監督の頭に被せて、「この冠を被る人は監督です」と言ったそうです。苦しい時を励まし支えた監督とそれに応えた選手であったこそ、素晴らしい喜びを共有することができたことでしょう。
さてコリント第2 7:5-7と13-16には、使徒パウロが体験した、長く辛かった苦しみに勝った結果の、大きな喜びを自分のせいにしないで、神さまが「テトス」を用いてくださった結果であったと、美しいことばで飾られています。それはオリンピックのためのトレーニングの苦しみも、監督と一緒になって味わって、もっと大きな喜びをも体験出来る、マラソン選手の心境と通じるものがあります。そこには師弟の関係はなく「利害を超えた友だち」関係がみられます。
イエス様が私たちのために造られる人間関係は、この時の使徒パウロとテトスのような「利害を超えた信仰による友達関係」によって「神の愛」を育てて下さっています。ともに悲しみ苦しんだ故に、大きな喜びもイエス様は用意しておられるからです。
そこでテトスがどのようにして、使徒パウロに信仰の喜びをもたらしたかを学び、私たちも人々の心に「信仰の喜び」を注げる人生を歩ませて頂きたいと願いながら、イエス様からのメッセージを受けたいと思っています。

本論

 1.「信仰の喜び」は信仰の友によって起こされるものです。(1−3)

 使徒パウロの信仰の喜びは、テトスの喜びから始まりました。(13)で「私たちはなお一層喜びました」と、使徒 パウロはこの時の信仰の喜びは「テトスの喜びが加わって」と説明しています。ここにイエス様が私たちの心にもたらしてくださる「聖霊によって起こされる喜び」の性質が示されています。信仰の喜びは「神のみこころに従って喜ぶ人によって伝わる」ものです。
 昨日私たちは、教会の聖書通読は(ルカ福音書19:1-10)を読みました。そのなかで私は、ザアカイの喜びについて考えさせられました。(ルカ19:5)に記されている「イエスは上を見上げて」というところを、有名なアレキサンダーマクラレンという学者は「こどもがいちじく桑の実を探すようにイエス様は「いちじく桑の葉の陰に隠れているザアカイを見つけて、喜んで「ザアカイ」と呼ばれた、ザアカイはその瞬間、イエス様のその喜びが伝わって、こんな私をイエス様は受け入れて、私の家まで来てくれる」と、大喜びでイエス様をお迎えしたと解説されています。
なぜイエス様はザアカイを見つけたことが、そんなに喜こばれたのでしょうか。ザアカイがイエス様に会う前から、イエス様はザアカイのことを心に掛けて「エリコに行くときザアカイに会えますように」と祈られていたからです。その祈りに応えられてザアカイが、イエス様を見たいという気持ちが起こされて、いちじく桑の葉の陰からイエス様を見ていたのです。だからイエス様は喜ばれて「ザアカイ」と呼びかけられたのです。そのイエス様の喜びが、ザアカイの心に注がれた時、ザアカイの心は大喜びで一杯になったのです。これが「主にあって喜ぶ」という経験です。皆さんはこんな経験はありますか。
 私は始めてイエス様を「私の救い主」として信じようと決心した時、このイエス様の喜びが心の中に始まりました。しかし教会でイエス様のことを私に紹介してくれた人は、性格のよくない人で自分の考え方をやたら人に押しつける人で、私のすきなタイプのひとではありませんでした。でも彼がイエス様のことを話し始めると、その心に喜びが私に向かって爆発するのです。そしてその喜びが説得力をもって迫ってくるのです。彼は「使徒パウロのによる喜びは、少々大変だと思っても無理だと思うことを実行しなければ消えちゃうよ」とイエス様って、毎日聖書を30ページぐらい読まなきゃ、と私に要求します。私も意地を張ってそれならば45ページを読んで「どうだ」言ってやりたくて、聖書のことばが何も判らなくても読み続けているうちに、読んでいる聖書のみことばを通してイエス様が私に語りかけてくださることが判ってきました。またそのイエス様の語りかけに私の心の返事を繰り返しているうちに、これが「祈り」というものかと判って、祈りの喜びも、毎日毎日、どんどん大きくなって、教会生活そのものが喜びとなってました。その結果、気が付いていたら、あれほど私の心を捕らえて離さなかった悪い習慣が、1日40本も吸っていたタバコ、毎日コップ2杯の焼酎、徹夜のマージャン中毒、競輪狂いなどが2年の間私の心に注がれたイエス様の喜びのために、私の生活からの心に注がれた結果でした。
使徒パウロが「テトスの喜びが私の心に加わって、私たちは尚いっそう喜びました。」とはそうゆう喜びでした。これが使徒パウロの喜びです。
私たちは辛く悲しみによって「気落ち」した時、自分を見つめて惨めな思いに成りやすい弱い者です。そのような時イエス様はテトスのような「信仰の友」を送って無理にでも、私たちの心をイエス様の方に向けさせて下さいます。そこに「主にあって喜びなさい、繰り返して言うが喜びなさい」と聖書が呼びかける「信仰の喜び」が始まるのです。あなたの今の心境は、使徒パウロですかそれともテトスのようですか。

2.「信仰の喜び」は、イエス様の働きを知って成長するものです。

(14)にはイエス様の働きを知った使徒パウロの「安心と喜び」のことばが記されています。「「私はテトスに、あなたがたコリントの教会のことについて少しばかり誇りましたが、恥をかかずに済みました。」とは使徒パウロの「信仰の喜び」を現したことばです。
(2:4)によれば、テトスがコリントの教会に行く目的は、使徒パウロのことを誤解している人達によってコリント教会が潰れて、使徒パウロたちの努力が無駄になってしまう危険な渦巻きの中で混乱している教会に、使徒パウロの代わりに、「涙の手紙」を持ってコリント教会を再建するための使命を果たすためでした。だからテトスにはコリント教会の直面している問題とともに、コリントの教会に集まる人々の「よい面」について紹介して「私は彼らのこんな処に誇りを持っている」と、誉めて送り出しました。でも使徒パウロの心は「もしかして逆になっていたら」と心配が積もって落胆しつつも、一生懸命にに祈り続けたのです。
イエス様の働きは、2種類の使徒パウロの友が揃った時始まります。祈る人とみことばを信じて従う人によってです。使徒パウロはこの時祈る人でした。
テトスはイエス様の働きを信じて、みととばを実行した人でした。このことが出来るのは「信仰の友」です。
(エステル4:15-17)を見ると、全世界にユダヤ人を皆殺しの王命の中で、イエス様の働きがどのようなことから実現したかが記録されています。断食して祈ったモルデカイたちと、主の働きを信じて「いのちを賭けてみことばを実行したエステル」によって、神の手が動き出して、ユダヤ人皆殺しの王命は撤回されて救われたのです。
今世界の指導者たちは、人類の滅亡の危機から救う方法を見いだせなくて困惑しています。聖書もまた「天地は滅びます」と人類の滅びについて明言しています。そしてこの「滅びの哲学」は、現代に生きるひとりひとりの「人生哲学」となって、社会の混乱の元を作り出しています。それが享楽主義です。そのために社会は力によって評価されて政治は崩れ、社会環境は秩序を失い、家庭は崩壊して、本当の「友」を見出す人は亡くなり、ひとりひとりもまた滅びの道を歩き続けています。
しかしイエス様を信じる人々は「信仰の友たちの2種類」の働きによって、滅びから救われることを信じる「信仰による楽観的な人生観」について紹介する絶好の好機です。使徒パウロがテトスにコリントの教会のよい処を誇って語ったように、人々を裁かないで、祈り続ける時、みことばを実行したテトスが「使徒パウロの言っていた通りになった」と、2人の信仰の友の喜びがコリント教会の全体にあで拡がったことは、「信仰の友」だけが体験したイエス様が用意された「信仰の喜び」です。
滅びの待っている暗い人生を歩いている人々のためにも、お互いに「祈りとみことばの実行」のある信仰の友として「信仰の喜び」を拡げて行きたいものです。
使徒パウロの友として、イエス様を信じあって歩んだ使徒パウロとテトスの歩みは、あなたと私たちのためにイエス様がきょうも用意している人生です。

3.「信仰の喜び」は、相互信頼のゆたかな実を結ものです。

 (15-16)で使徒パウロはテトスが「彼はあなたがたがみな、よく言うことを聞き」使徒パウロがテトスに誇ったコリント教会のすばらしさを「思い出して喜んだ」と、コリントの教会の人々に「喜びのことば」を送っています。
なぜ使徒パウロはそんなにもコリントの教会に集まる人々を誇ることが出来たのでしょうか。答えは簡単です。(コリント第一2:2-5)にあるように、彼らの信仰の基礎は「十字架信仰」によったものでしたからです。
使徒パウロは十字架信仰に伴う神の憐れみの力を、誰よりも深く体験して(1テモテ12-16)この「憐れみの恵みは、キリストイエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました」と告白しています。そして「私はその見本です」と証ししています。
だからどんなにひどい状態に陥っていたコリント教会のひとびとでも、十字架信仰に戻ることができれば、あのすばらしい信仰と人生観の実を結ぶ人々になれると信じることができたのです。信じられないことは不幸なことです。しかし、イエス様にあって信じ合えることは幸せです。自分もまたイエス様にあって信じらることが出来るからです。このイエス様にあって信じ合える信頼の回復こそ、信仰の友たちが、「信仰の喜び」が咲かせる花であり結ぶ実だからです。

結論

  先日教会員の大江さんの孫が、喜んで私に報告してくれました。
「おれ、今度小学校に入るぞ、ランドセルも買ってもらったもん」と。
私はすぐに「学校に入ったら友だちを沢山つくれよ。そしてその友達を先生にも紹介してよ、先生は君の友だちにイエス様という心の友達を紹介したいから」とつたえました。
もちろん彼の答えは「オッケー」でした。
 人間社会にはすべて利害関係が生まれます。すると「喜び」も消えて行きます。
しかし「イエス様は「人はその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない」と仰って利害を超えた「私たちのまことの友」となって下さいました。そして言われました。「あなたも行って同じようにしなさい」と。
イエス様にある「信仰の友」の人生に、イエス様は聖霊によって「信仰の喜び」をもたらして下さるお方だからです。
教会で「信仰の友達造り」を練習してみませんか。イエス様はあなたにも使徒パウロとテトスのような「信仰の喜び」のともなった「友」を与えて下さいますよ。

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