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喜びの泉となった使徒パウロとテトスの人間関係 ―
聖書 コリント第2の手紙 10章12−18節
先日の新聞やテレビのニュースで、名古屋高等検察庁の総務部長をしている検事が、スーパーや本屋で万引きをして捕り、検事をしている身分を 明らかにしてお詫びしたことが出ていました。私も12年前、スピード違反をしてパトカーに追いかけられて捕まった時、職業を聞かれて「牧師です」と、恥ずかしい思いで答えたことがあります。スピード違反であれドロボーであれ、衝動的な感情の赴くままに行動する時、人間として誰でも与えられている「誇りを持って生きる精神的な力」は、まったく無力なものとなります。
もしもあの方の心の一番深い処に、検事としての誇りがもあったならば、そんな馬鹿なことなどしなかったでしょう。
「衝動的な気持ち」をコントロールできるために、神さまは人間に「誇り」を与えてくださっています。でも最近は「この世の打算的な成功思考による力」が強くなって「誇り」を支える「人間らしい心」が、どんどん力を失って来ています。
使徒パウロの大切にした、イエス様を信じる力は(第1コリント
1:30)に証しされているように「キリストを誇り」とする生き方によって、ますます強められて来ました。そこにはイエス様が「神の民となった人々に与えられる人間としての力」によって支える「イエス様に従う生き方を誇り」とする最高の人生があるからです。
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1.キリストに従うことを誇りとする生き方は、(12-3節から) |
「比較しないで生きられる」心豊かにされることです。
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コリントの教会に集まる人々は、いろいろな豊かな能力を持った人々が多かったようです。その能力がきよめられ、イエス様の恵みによって「聖霊の賜物」としてもう一度貸し与えられました。ところが彼らは「聖霊の賜物」がイエス様から貸し与えられたことを忘れて自分の持っていた能力であると錯覚し、自慢し始めて、神の愛が入り込めない教会となっていました。そのような人達のことを使徒パウロは(12)で「自己推薦しているような人達」と指摘して、(17)誇る者は、主にあって誇りなさい」と警告しています。
自慢したがりやの「自己推薦する人」背伸びしている人は、いつも人と自分を比較して、喜んだり悲しんだりして時には、憎んで人殺しさえもすることがあります。
(創世記4:1-89)には現代人類の最初の兄弟であった、アベルとカインのあいだに衝動的に起きた「殺人事件」について記録しています。ふたりしかいない兄弟の間に「殺人事件」が起きたその理由は、兄カインの心の中に「比較する考え方」が起こされて、主なる神に気に入られた、弟アベルさえいなければと衝動的な行動の結果でした。
「比較する生き方」は恐ろしい衝動的な結果をうみだします。「最も大いなるは愛である」と神の愛をもって一生を貫いた、使徒パウロもかってはそうでした。自分が一番すばらし立場になりたいため、自分のないものを持っていたステパノに対して、衝動的にとった態度は「殺人」でした。
昔の人は「窮鼠、猫を噛む」ということばをもって衝動的な行動の恐ろしさを教えています。韓国やアメリカの指導者たちは、今まで、北朝鮮の指導者たちが衝動的な行動を起こさないようにと、いろいろな話し合いを進めてきました。「比較する考え方」はいつも衝動的な思いを起こし、そこに悪魔が誘惑の手をのばします。あなたの心に衝動的な思いが起きた時、あなたの生活は何によって支えることができるでしょうか。
この恐ろしい「比較する心」から生まれる衝動的な強い思いから、私たちを自由にする道は「キリストに従うことを誇り」とする生き方です。
イエス様はいつも衝動的に行動する人々に囲まれて生活されました。人々はついにイエス様に向かって「十字架につけよ」と叫びました。そして彼らは裁判官として彼らのまえに立ったローマの総督ピラトに「その人の血の責任は、我らと我らの子孫の上にかかっても良い」とまで宣言しました。しかしペンテコステの日から始まった、神の憐れみによる「悔い改め運動」の結果、多くの人々はイエス様の十字架の救いを受けて、衝動的な生き方に「聖霊によるブレーキ」のかかる人生を歩むことができました。
しかし神の憐れみを拒否して衝動的な行動に走り続けたユダヤ人たちは、その後も、二千年近い間、その責任を負って「流浪の苦しみの民」としての民族となりました。
ユダヤ人ほどではなくても「あの人たちのように私も欲しい」と「比較する考え」のために衝動買いをして後で後悔する人々は、世間に満ちています。
神は、イエス様を信じ従う人々を、ひとりひとり「最高の神の作品」として、イエス様による再創造をしてくださいました。(エペソ2:10)それが、「力」によって始められた「神の国体験」が、人格的な「聖霊の実を結ぶ」という「神の国体験」そして見えないキリストが心に住まわれるという「「霊的な神の国体験」へと成長して、今では世界中にまで拡大しています。
イエス様を信じ従う人々が「最高の神の作品」とされることは、比較によって知ることではなく、内心の確信によって知ることです。永遠の世界である天国に行った時明確に知らされます。そのためにイエス様は、無限の可能性を持って導いてくだいます。だからクリスチャンたちは、神の国を生きるルールである、「イエス様に従う心で生きる」のです。その神の国のルールとしての「限度を超えない」生き方です。
このすばらしい生き方は、発明王エジソンがその生涯をもって証明した、無限の可能性の世界に生きた、イエス様に従う人々に用意されている生き方です。このため自分を自慢している暇はないのです。
日本のクリスチャンで世界中のクリスチャンたちから、献金の祝福の証人として知られる鈴木留蔵さんも「こんな私でも、主に従って生きたら、喜びに溢れてどんどん献金できる祝福の道を歩いていた、とても人と比較する暇はありません」と証ししています。
ただ「イエス様を信じて従う」という「限度のなか」で、使徒パウロとともに、イエス様が用意している「私に対する無限の可能性」に向かって生きて、この「イエス様を誇り」とする人生を歩いてみませんか。
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2.イエス様に従うことを「誇り」とする生き方は、(14-5節によれば) |
「福音の力」を実証できる喜びに満たされることです。
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使徒パウロはこどもの時からすばらしいクリスチャン生活を送っていた人ではありませんでした。(1テモテ1:13-16)によれば、「自分の願う良い生き方とは逆の願わない悪を行う」神の名を汚しクリスチャンを迫害する教会のもっとも恐ろしい敵として「私は罪人のかしら」という人生を歩んでいた人でした。
しかしイエス様はその迫害者を神の恵みの中に包み込んで、再生の力を注いで救ってくださいました。それはどんな人でもイエス様のみことばを受け入れて従うならば与えられる、神の同じ恵みに包まれる「福音の力」の証しでした。
さらに神は、福音を伝えるために、使徒パウロをコリントの町に導き、コリントの町に福音の基地としての教会を建てさせ、コリントの町に住む人々は福音に従って成長しました。それは、イエス様に従う人々にもたらされた「福音の力」の紹介する「福音の恵みの見本」となっていると、コリントの教会の人々に教え示しています。
イエス様に従うことは教えではなく「福音の力」の証しだからです。そしてイエス様に従う「私たち自身」の事実なのです。
80年ほど前、ゴールドラッシュの吹き去ったアメリカの社会が、過去に経験したこもない経済的なバブル崩壊に直面しました。キリスト教会もまた全面的な崩壊危機に直面し、教会指導者たちは伝道経費を切りつめ、活動を閉ざして、真剣に教会の生き残りのために話し合いを重ねました。その結果キリスト教会はイエス様に従って、聖書の信仰に戻って海外宣教のために立ち上がることを決意しました。
やがて彼らは(マルコ16:20)のみことばに従って行動し始めた時、アメリカの社会に経済不況から立ち直る力が起こされてきました。宣教師たちは、家族を連れて長い船旅を繰り返して世界の果てまで、出かけて行く人々が続質しました。教会は彼らの宣教師としての働きと生活を、ひとりひとりのクリスチャンたちが、が主に従って献金を捧げて支えました。そして主なる神イエス様の働いて、教会だけでなくアメリカの社会全体に、経済的な豊かな力を持つ国として、社会とともに教会も豊になりました。それが「福音の力」です。
私たちの教会も、今同様に社会の中に嵐のよに吹きまくっている経済的不況に直面して、今まで進めて来た伝道第一の教会活動も、そのまま継続させてゆくならば、いつかは教会崩壊の危機に直面しています。
しかしそれでも私たちの教会は、聖書の信仰に立ってイエス様のみことばに従い、田原宣教師をフィリピンに送り出しその宣教活動から、イスラム宣教が「ブリッジ方式」として進展して行くよう支援を拡大して行く予定です。更に他の6人の宣教師の支援を今まで通り続けます。これは教会としてイエス様に従う道だからです。そこには「福音の力」を実証する喜びが待っているからです。
あなたも教会の「与えるプロジェクト」に参加して、イエス様に従う人々に用意されている喜びをもって、「イエス様に従うことの誇り」を実証して見ませんか。
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3.イエス様に従うことを「誇り」とする生き方は、第3に(16-18)によれば、 |
「神に頼って人を頼りとしない」強さに支えられることです。
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パウロはいつも他人の伝道した働きを土台にして、教会を建てることをしませんでした。いつも一緒に信仰生活に励んだ人々と、信仰を合わせて教会を創る幸いな道を歩くことが出来ました。それは、自分を誇ろうとする人間の誇りから守られるためでした。
その使徒パウロがコリントの町に伝道した時、イエス様は彼のために「アクラとプリスキラ」というすばらしい夫婦を与えてくださいました。ローマの名家の出身である彼らは当然お金持ちでした。しかし彼らは使徒パウロの信仰の指導に従い、親の金を当てにしないで、神に従い「天幕作り」の仕事のために額に汗して働いて、多くの友を作り「イエス様の救い」に導きました。
だから使徒パウロも、経済観念の厳しいコリントの人々に伝道するために、イエス様の導きにしたがって、彼らと一緒になって「天幕作り」に励んで、コリント伝道の資金を作りました。それはコリント伝道のためにピリピ教会から献金が送られてくるまで続けました。それは、たとえ伝道のためであっても「死者をよみらえらせてくださる(全能の)神により頼む者(使徒パウロでありアクラとプリスキラ)となるためでした。」そこには人に裏切られても傷つけられても、なお愛することの出来る「イエス様を誇りとする信仰の強さ」に生き、また育てることの出来る栄光に満ちた人生がありました。
私が門真の開拓伝道に導かれるまでの三ヶ所の開拓伝道は、奇蹟の連続で、すべての時間は伝道のために使うことの出来た働きでした。しかし門真は田舎から出稼ぎのために大阪にきた経済観念の厳しい人達が移り住んだ町でした。
そのためにイエス様は私がイエス様のために捨てた「建設関係の設計者の仕事」につく道を用意してくださいました。最初私はためらいましたが、イエス様に従って伝道と仕事に励みました。そして二年後牧師の働きに専念できるよう導かれました。
その働きの中でイエス様は、すべての時間をイエス様に献げて仕える人々を、3組の宣教師を含めて牧師のような働きにあたる人を 16家族起こしてくださいました。そして私は、彼らに経済的に支援する約束はしないで、イエス様に導かれた時、導きに従って支えてきました。彼らがイエス様だけを頼りとする信仰のすばらしさに立つためでした。
それは、たとえ気が進まないことでもイエス様に従う道であるならば、イエス様らしい方法で「イエス様を誇り」とする「主と伴に歩むその楽しさ」を知る道であるからです。
先週の聖書日課の中で(エステル8:1-17)のみことばから大きな感動に満たされました。神の契約の民であるユダヤ民族を皆殺しにせよとの命令が、当時の世界の覇者であるペルシャ王の名で世界中に徹底して準備が進んでいる中で、ユダヤ民族の指導者モルデカイが「彼の信じる主なる神を誇りとしている」生き方を現実的に世界中の人々に示した出来事は、すばらしい感動的でした。
モルデカイの神への信仰は、神に従う誇りとは、彼の主なる神として信じて一生懸命に祈ったことです。その結果、王の命令を否定しないで新しい命令として「ユダヤ民族」を保護する命令が、皆殺しの期限の前に世界中に浸透して「ユダヤ民族」の守りは主なる神によって全うされたことを、すべての人々が知ったという素晴らしさでした。
だから本当のクリスチャンは、使徒パウロのようにお金が必要なときには、イエス様に一生懸命にお願いします。お金のことでは人に頭を下げる事なく、神に頭を下げて「神に従う信仰を誇りとする」生き方を貫く時、全能の神の働きによって支えられます。
人を頼る人は「罠に陥る」が、イエス様に頼る人は、何があっても揺るがない岩のような約束のみことばをもって、支えていただける(マタイ7:24)保証された道が用意されています。それ故にイエス様に期待しながら生きることが出来ます。だからこそ、心の一番深いところで「イエス様を誇り」として生きられるのです。
私が学んだ神学校は、社会的の中で生きて来た人間の目で見ると、中学卒業しただけの人から東京大学を卒業した人まで、同じように卒業までの4年間、寮生として舎監の指導の許で生活するのに、4年間は無駄のように感じられる神学校生活でした。
しかし卒業式の時、校長の沢村五郎先生が「卒業証書」をテーブルの下からそっと手渡した後、「これは皆さんが、神に従うことが喜びと判ったことのしるしです。」と餞けのことばを送られました。イエス様のためにすべてを捧げた人々が、イエス様に従う生き方を「誇り」と感じるためには、4年間は基礎的な訓練の時として必要な時間であることを知らされました。
イエス様ご自身のご生涯もまた「神に従うことを誇り」とされたと、聖書に繰り返して記されています。
そしてイエス様の弟子たちのように、イエス様に従って生きる人だけが、恐ろしいような時代の嵐に翻弄されて「比較したり、挫折したり、人に頼って裏切られたり」しながら心の傷を深めている人達の中で、使徒パウロのように、人々を「揺るがないイエス様の救いの中に導く」ことが出来る人とされます。
だからこそイエス様を見習って生きた、使徒パウロが一番大切にした「イエス様に従うことを誇り」とした(第1コリント一
11:1)その生き方を見習って欲しいと、聖霊は聖書のみことばをもって。今日も私たちに呼びかけているのです。
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