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聖書 コロサイ人への手紙 1章12〜14節
コロサイの教会の人々は、使徒パウロとにとって信仰的にはエパフラスによって育てられた人々でしたので、いわば孫のような関係にある人々でした。昔の人は三代目で潰れるものだと云われてきた通り、甘やかして駄目にになる人が多かったようです。しかしエパフラスによって健全に育てられたコロサイの教会員たちの報告を聞いて、使徒パウロは彼らのためにまず祈りました。4つの祈りが「また」ということばによって分けられています。そして今日の学びは4つ目の祈りで(12-14)で「聖徒とされた誇りを喜びと感謝をもって保ち続けるよう教えています。
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聖徒の誇りというものは、イエス様を信じて |
1.聖徒としての相続人された感謝と喜びから生まれるものです。
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「光のうちにある聖徒たちの相続分に与る資格」ということばは、罪の世の中を彷徨ってやがて永遠の地獄に墜ちてゆくものを、神の子されたことの感謝のあふれたことばとして使われています。このことは(1:5)にある天国に蓄えられている望み」地上において実現しなくても地上で望んだことは天国で体験出来る喜びを指しています。
世界の名著と言われる「懺悔録」を書いたオオガスチヌスの母モニカは、秀才な故に悪に深まり神の救いから遠い生き方をしていた息子のために、毎日涙の祈りを欠かすことがなかったそうです。
その姿に触れて牧師はモニカに「たとえどんなことの中でも主なる神は、あなたの望みをかなえて下さるおかたですから、すべてをまかせて祈りつずけなさい」と指導されました。しかしモニカがその地上の生涯を終える知らせをうかた時、オオガスチヌスが5人の女性と同時に性的な遊びに耽っていたそうです。しかしその息子は罪の楽しみの最中に、牧師に自分の罪を悔い改める手紙を書いて送りました。「天国に望みを蓄える人」には、「たとえ今目にすることが出来なくてもイエス様が望みを構えて下さる」と、信じて喜ぶことが出来るのです。これが聖徒の誇りちして蓄積されるのです。だからイエス様はいつもわたしたちに「あなたの望みは何ですか」と問われているのです。
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聖徒としての誇りは、イエス様の光に照らされて |
2.贖われたことを自覚して生きる喜びと感謝によって育ちます。
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「イエス様を信じて生きる喜びと感謝は、お祈りが聞かれる程度のことではなく「神の国で聖徒として扱われる相続人」として選ばれ扱われている」というすばらしい特権が与えられていることです。だからイエス様を信じて生きる人は、「神はイエス様によって私を選んで下さった」とどんな時でも「感謝と喜びをもって聖徒としての誇り」を抱いて生きることが鍵です。というのは、「イエス様によって選ばれた」のですから、イエス様を無視したら当然この喜びも感謝も無くなり、誇りは逆に負担となったしまうからです。
このことを昔から「神の子」とされることはイエス様によって「神の養子とされて聖霊によって育てられる」ものと理解されてきました。
「神の子」としての何の資格もなく、逆に悪魔の用意している自我がによって傷つけあい憎しみあって、神の恐ろしい永遠の審判の道に引きずられて歩いてきた罪深い私が、イエス様の十字架がわたしの罪のためであったことを認めて悔い改めてイエス様に従いますと、告白したとき、神の前に罪なキリスト者とされた事実な、体験したひとでなけれがけっして解らない感動です。これを「贖い体験」と聖書は紹介しています。そして信仰が解れば解るほど、自分の罪深さとその罪の贖いの事実が分かり、自発的に「贖い」の人生をよろこんで歩む人になるようになります。
しかし神の愛を軽んじて「罪の贖い」の道を魅しする時、資格を失った養子として「神から離縁」されて、何の束縛もなく「自業自得の人生」を歩くことができるからです。
だからこそ使徒パウロは、コロサイ教会の人々や、この手紙を学ぶ人々に、イエス様とともに生きる「贖いの人生」を歩き、「聖徒の誇り」を失うことのない生き方を教えています。
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喜びと感謝の湧き出る、聖徒の誇りをもつ信仰人生目標は |
3.愛して下さる御子のしはイエス様に生きることです。
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それがイエス様によって心に差し掛けられる「光の中」を歩くことです。
(13)を読んでみましょう。「神は私たちを暗闇の圧制の中から救い出して」とあります。このことがイエス様によって救われたということです。教会に長い間来てもうぼつぼつバプテスマをrけて救われたとは、聖書にはどこにも書いて有りません。
「心の中を支配している暗闇の中に光なるイエス様が働き初めて下さった」その結果まず自分が解り、自分の罪深さが解り、自分がどうしたらよいかが解り始めてきた」それが「救い出された」と聖書は教えています。だから昔「救い出された人でも」自分の手探りの経験に頼り、イエス様に心を閉ざして「暗い心」過ごしている人のために、イエス様は(黙3:20)でこう呼びかけています。「扉を開ける」と。すると「みことばがひらくと光を放って愚かな者を聡くする。」と。
有名な詩人ゲーテは、死に臨んで叫んだそうです。「光はどこに」と。心のなかの暗闇は、どんどんその暗さが濃くなり、どんな経験も真っ黒の塗りつぶして絶望のなかに突き落としてしまいます。だから一度光を受けた人々は「イエス様の光を受けた」と言う幸いを忘れないで、心に暗闇が広がり「不安やあいらだち」が起き始めたら急いで、あなたの心の扉を叩かれているイエス様に心を開いて「イエス様私の心にお入り下さい」と申し上げることです。するとイエス様が「私は世の光です。私にに従って来るあなたもいのちの光をもつでしょう」との約束が事実となります。これが「聖徒の誇り」をたかめてゆくものです。
今世界はかつての時代から考えて信じられないような平和なああ時代を迎えています。その平和の立て役者をご存じでしょうか。ソ連のゴルバチョフ書記長です。軍事力では、水爆も原爆もそして人工衛星もアメリカなど比較出来ない力をもっていたソ連の書記長として、地球の破滅から守るためにアメリカの大統領のレーガンと会談した時、ソ連をめの敵にしていたレーガンが、ゴルバチョフ書記長の一言で、ゴルバチョウフ書記長のことばと行動を信用して、米ソ対立の冷戦時代が終わったと言われています。
その一言とは、「私は中学時代に洗礼を受け、今も聖書を大切に読んでいますよ」とのことばでした。彼らは心に同じ光を受けて理解しあうことの出来る関係であることが解ったからです。
そしてゴルバチョフ書記長は、ソ連の社会体制をアメリカのように合衆国てきな体制として、自らは書記長から初代大統領に就任して、レーガンを感動させました。また8つの人工衛星局のすべてを提供して、ビリーグラハム博士によるキリストの福音を伝えることを許可しました。そしてクーデターを起こす立場にある軍人たちに、ルイスパラオのよる聖書研究会を開催させて改革を平和のうちに実現さsることができました。これが世界がソ連という暗闇の圧制から救いだされた近代の事実です。その事実を私はソ連が崩壊するとき、モスクワで、また西シベリヤの収容所列島と呼ばれる、オビ河の流域の町々で体験し、友人のルイスパラオ博士のことばを確認することができました。
一人の人が愛をもって導かれるイエス様の支配の中にに生きるとき、その人の心に差し掛けられる光は、接する人の心が開かれているならばあ、その人の心を用いてイエス様は果てしなく広げて下さいがります。
そのための、お互いが光りを受けられる開いた心でイエス様に接することが出来るように、祈り合うものたちとさせて戴きたいと聖書は私たちのために願っています。
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