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 ましみず 礼拝メッセージ要旨 2002年6月メッセージ

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イエス様が歩かれた、見本としての信仰の道

門真バプテストキリスト教会 牧師:白井 公郎

聖書の箇所 ヘブル人への手紙書 12章1〜4節
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

序論
  聖書には、人間と神との関係を「羊と羊飼い」のようだと教えています。
羊は、他の動物と違って「よく迷う動物です。人間も同じようによく迷います。羊は迷った時、声を張り上げて「羊飼いをよびます」そして「羊飼いならどうするか」と考えて、いつも羊飼いの行くところにまいります。それが羊の安全が保障され、また恐ろしい「外敵から身を守る方法」です。
 私たち人間もまた羊と同じようです。「まことの羊飼いであるイエス様」と一緒に生きることによって、いろいろな災いから守られ、支えられ強められる「救いの人生」を歩むことが出来るのです。                   イエス様の歩まれた信仰人生は、始めは神に守られ祝福される道を歩かれました。だから人々はいつもイエス様と行動を共にしました。しかし誰ひとりとしてイエス様が生活された「神の国」を体験する人はいませんでした。だから何か都合の悪いことにぶつかると、イエス様から離れ去って行きました。 
そこでイエス様は、神に支えられ強められる「救いの人生」を、自ら歩いて「見本」を見せて下さいました。このイエス様の「救いの人生」によって「救われた人」は、十字架の上でイエス様に頼った犯罪人、たった一人だけでした。
 しかしペンテコステ以後、弟子たちは聖霊に満たされて、みな「イエス様の歩いて示した信仰の道」を歩きました時、彼等が想像も出来ないほどの多くの人々が「救いの人生」を歩むようになり、現代もその「救いの道」を歩む人々は世界中で続出しています。彼等は、イエス様が歩かれた「救いの道」を見本として歩いたからです。

本論
イエス様が歩かれた私たちに対する、信仰の見本の道とは、
 1.「人生のゴールを目指して生きた信仰の道」でした。

12章1節に、「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪とをかなぐり捨てて、走り抜こうではありませんか」と、みことばが呼びかけています。
信仰の道とは、運動会の障害物競争」のようであると教えられています。ある人々は「競争」と云うと、「他の人との競争」と思い込んで競争相手に勝る何かがなければ、負けると思い込んでいます。いろいろな人生にまといついてくる「自分をダメにする障害物」をかなぐり捨てて「ゴール」を目指して走ることを意味しています。
しかも障害物競走ですから、その時々に必要がなくなって人生の障害物となったものを、ひとつひとつ捨てて、ゴールを目指して走ることです。それが、障害物競走のルールです。
 イエス様のご生涯は、まず人々から感動をもって迎えられることでした。だから病気で苦しんでいる人々の処を訪ねて、人々を病気の苦しみや悪霊の力から解き放って「神の力を持って癒され」人々から感謝を持って迎えられました。
しかし知恵ある人々は、聖書の知識によって、そのイエス様の働きを「悪霊」の働きとして攻撃しました。するとイエス様は「癒しやしるしの力」にたよらず、神のみことばの解き明かし」をもって、人々のために「みことばによる、たましいの癒し」を与えられました。
イエス様はいつも信仰によって生きるためには、どんなすばらしい体験であっても、過去の体験はみなかなぐり捨てて、ゴールで待っていてくださる神に目を留めて、その人生を歩かれました。だから「永遠のいのち」への道を求めてイエス様の許にに来た、若いユダヤ人の指導者に対して、彼がその時「永遠のいのち」を受けるための妨げとなっている、彼の人生に於いて潜在的な頼りとしている「富」を捨てて、そして私に従ってきなさい」と勧められました。
かつて学問を学ぶ時には役立った「富」も、永遠のいのち」に与るためには、妨げとなっていたからです。だから、イエス様を信じて生きるために妨げとなっているさまざまなものを、イエス様ご自身がまず「かなぐり捨てて」ゴールである「神の国」を目指して走って、私たちの見本を示されたのです。
 私が牧師になった頃、イエス様のお名前によって祈ることは、実によく実現しました。時には医者が開腹手術をして見放された「胃ガン」の人のために祈った時、奇跡が起こって「完全に癒され」たこともありました。だから当時牧師たちの間で流行した「いやしの伝道者」となろうと考えたこともありました。
ところが、私自身が「心臓が時々止まる」大変な状態に立たされました。こればかりはどんなにイエス様のお名前によって祈っても、治りません。スッカリ自信を失った私は、もう「いやしの伝道者」に挫折して、神の前に全面降伏して「何もかもイエス様にお委せします」と祈れるようになりました。
体験にたよることではなく「イエス様に頼る」ことの素晴らしさを知りました。罪も徹底的に悔い改め、神の前に、イエス様の十字架の贖いの故に「咎めの無い」者とされたすがすがしさは、「心臓が時々止まる」不安さえも消え失せてしまう幸いでした。
イエス様が、何もかも捨てて、丸裸になられて、十字架につけられたのは、十字架のイエス様を見上げて生きる、「神の国」を目指した私たちが、どんな時でもイエス様だけにお頼りして「委せて生きる」道を開いてくださったためです。そのために、妨げとなっているものを「かなぐり捨てて委ねる」ことが必要です。

イエス様が歩かれた私たちに対する、信仰の見本の道とは、
2.「どんなに辛くても、走り続ける信仰の道」でした。

  聖書 12章1節を見ましょう。「私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、みことばは語りかけています。
 私たちの人生には、何度も「ゴール」を目指す生活を重ねます。赤ちゃん時代のゴールは、立って歩くことです。小学校から始まる学校生活のゴールは卒業することです。こうして何度もゴールに向かって走って見て判ることは、人生は他人との競争ではなく「自分との競争」です。
 自分を弱くしてしまう「人生の重荷」そして「自分をダメ」にしてしまう「自我や欲」と云う「罪の性質」と云う障害物をかなぐり捨てないことには、到底「ゴール」を目指して走ることが出来ません。だからイエス様は、どんな人でも「人生のゴール」を目指して走れるために、見本を示して下さったのです。それが「父なる神さまへの祈り」です。
(マルコ 1章35節)には、「イエス様は朝早く起きて祈られた、(ルカ6章12節)イエス様は神に祈りながら徹夜されました。
それが「ゴールへの障害物」である、「弱いこと」を正当化したり、「自我や欲」に走ることを正当化しようとする生き方に対して、勝利するただ一つの道でした。イエス様が私たちの見本として「ゴール」への道を走られたのは、(ヘブル4章14〜16節)に示されているように「私たちの弱さを知って同情し、助けて下さる」ためでした。
だから今日もイエス様は私たちに呼びかけておられるのです。「すべて重荷を負って苦労している人は、私のもとに来なさい」(マタイ11章28〜30節)と。

イエス様が歩かれた私たちに対する、信仰の見本の道とは、
3.私たちでも喜び歩める、十字架の道を歩むことです。

 (12章2節)には、「イエス様はご自分の前に置かれた喜びに故に」と、イエス様の信仰人生の歩き方について示しています。
イエス様の歩かれた道は、まず十字架の苦しみの道ではなく「救い主」となられ、人々がこれによって「救われる」ことを感じて沸き上がって来る「ご自分の前に置かれている喜び」のゆえに、十字架の苦しみと辱めを、ものともしなかった」のです。
これがイエス様が歩かれた「神の子とされた人々への見本の道」勝利の道です。
イエス様は、この「人々が救われる喜び」の素晴らしい人生を生きるようにと、復活された後弟子たちに、「全世界に出ていって、すべての造られた者に福音をえなさい宣べ伝えなさい。」とお命じになられました。それは「やがて人々が救われる」という喜びを、分かち与えるためでした。そのためにイエス様も責任をもって福音を伝える弟子たちとともに働かれます。(マルコ16章15、20節)
 生まれて始めて、結核で苦しんでいる方にイエス様の十字架の救いをお伝えしました。その方は豊かな奥さんでしたが、結核のための大喀血をされた後、知人の紹介で招かれました。
私はまだイエス様を信じて救われたばかりで、宗教的な理屈は何も知らず、ただ「イエス様によって永遠の滅びの中から救われて、永遠のいのちの道」を見つけた喜びについて証ししました。何度の訪問しても、いつも滅びの中から救われた証しをさせて頂きました。そしてその方もイエス様の十字架の死が「私の身代わり」であったことをて認めて「イエス様が私の救い主であると信じます」と、仰ってくださいました。その時から、天国に迎えられる時まで、イエス様はいつもその方と一緒に生きてくださっていることを、周囲の人々はハッキリと感じとるようになりました。イエス様に迎えられて天国に移されるその瞬間、全世界よりも尊いひとりの人が救われる「イエス様の十字架を伝える喜び」は、私の心に満ちあふれました。
そのことがきっかけとなって、イエス様の十字架の福音を伝える伝道者の道を歩む者とされました。あれから50年の年月が経過していますが、想像を絶する辛く悲しい道でしたが、イエス様はいつも私の前に「この喜び」を置いてくださり、人々が永遠の滅びから救われる、その喜びをもって、すべての道を歩かせてくださっています。
 使徒 2章25〜28節)を見ると「ダビデは自分の目の前に主を見ていた」と証しています。その主が私の心に与えるために、喜びを備えて下さっていると、告白しています。だから主の喜ばれることを行う時、備えられた「主の喜び」もともに頂くのです。それが喜びをもって福音を伝える生活となるのです。
 イエス様は、ご自分の歩まれた信仰の道を歩む人々とともに今も生きてお働きになられるお方です。

おわりに

  何年か前、私たちの教会から巣立って、宣教師としてフイッリピンで貧しい子供たちのために働いている、田原寿子宣教師を訪ねたとき、彼女は弱り切っているときでした。
しかし私たちはともにイエス様のことを語り合いました。すると働きを妨げている重荷は消え、イエス様が先頭に立って働かれている「神さまが喜ばれる」働きのために新しい希望と力が注がれて、救い主であるイエス様を伝える「喜び」が燃え上がって、弱った肉体も元気になりました。
それがイエス様が歩かれて「神の子」とされた人々が歩むべき道だからです。

 イエス様は「私は道である。誰でも私によらなければ神の御許に行くことは出来ない。」と仰せられました。そして、「信仰の創始者であり完成者であるイエス様を仰ぎ見つつ歩もうではないか」と、きょうも神が、聖書のみことばによってあなたに語りかけていることをご存知でしょうか。

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