門真バプテストキリスト教会 2001年のみことば
神には約束したことを、必ず成就する力があることを固く信じた。
ローマ人への手紙 4:21


毎週教会の主日礼拝で配布される2001年の週報に掲載されたショートコラム
“本日の一言”を全てご紹介します。タイトルをクリックしてご覧下さい。

  1月 1日  21世紀の出発にあたって思う。      2月 4日  「いやし」の場
  7日  「心の持ち方」   11日  理想的な子育てと親子関係
  16日  人生の挫折と、心の世界の勝利   18日  失望の後の「希望」
  21日  心が新しくされる   25日  「苦しみ」を乗り越えた「幸せ」
  28日  「逆転の信仰」      

  3月 4日  本物に見える「造りもの」と「本物」      4月 1日  身代わりの苦しみ
  11日  砂漠の恐ろしさと「オアシス」   8日  「苦しみ」の未来にあるもの
  18日  「望みが叶う」   15日  「自分自身」を知る
  25日  恥ずかしくない生き方   22日  祈りが届く
        29日  考え方の対立から・・・

  5月 6日  世界のベストセラー「聖書」      6月 3日  「聞く」こと 
  13日  「祭り文化」の原点    10日  信じる心
  20日  「与えること」と「受けること」    17日  「きよくありたい」
  27日  楽しみを重ねる「ゲーム時代」   24日  目には見えない世界

  7月 1日  幸せな生き方      8月 5日  福音=よろこびのメッセ−ジ
  8日  心の流れる方向   12日  神の知恵 
  15日  「受け入れる」   19日  闇に打ち勝つ
  22日  すべてを委ねる時    26日  目に見えない霊の力
  29日  心のポンプ       

  9月 2日  本当の「真実さ」    10月 7日  きよい信仰と勝利の人生
  9日  心がキレる !?   14日  生きる喜び
  16日  いのちの光   21日  人生のゴール
  23日  愛の勝利者   28日  接ぎ木の法則 
  30日  「いやし」は「神の恵み」       

11月 4日 選ばれて遣わされて生きる    12月 2日 「喜びの歌」
  11日 自己中心から解放された幸い   9日 死は天国へのスタート
  18日 「欲と情」への勝利   16日 説文解字(文字の意味)
  25日 「学ぶ」楽しみと幸せ   23日 クリスマスの一言
        30日 宗教観

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21世紀の出発にあたって思う。 (1月1日)

 昨年からマスコミや、社会に関心を持つ人々は「世紀末」ということばを、よく使いました。
 それは2000年の終わりに、何か恐ろしいことが起こるのではないかとの、不安から生まれたことばだからです。
 ローマカトリック教会では、その根拠としての千 年期に巡って来た、不幸な出来事を紹介してきました。だから2000年末頃は、人々は憎しみを深めて、不幸 な社会が始まるのではと「世紀末」現象の到来を恐れてきました。
 そして現実に聖書に預言されているような出来事が世界の各地に起こり始めています。
 でも聖書は、それは終末現象ではない、このようなことが起こり始めたら「人に惑わされるよう気を付けなさい」(マタイ24:4)とのイエス様のことばを紹介しています。それは「世の終わり」が近づいたしるしだからです。だから「21世紀」に入ったらと恐れる必要はありません。「世の終わり」が近づく時、イエス様は同時に「収穫のための秋の雨」と呼ばれる、「世界的な聖霊の注ぎ」の時を用意して、世の終わりの時の救いの業を同時に進められるからです。大切なことは、その時聖霊を拒むような生き方をしている人には「救い」も拒まれることとです。
 AD525年、教皇ヨハネ1世の命令を受けて、世界の暦を、ローマ帝国建国暦から、キリスト降誕日を1年とする「AD我らの主の支配のもとに始められた暦」として、ローマ暦AUC750年であったその年から逆算してAD525年と定め、すべての歴史の起源としました。ました。しかし6年計算違いしました。
それとともに、正確な歴史はイエス様が復活された時が起源であるべきです。すると今年は1974年年にあたります。そこから艱難時代の7年を差し引くと、世界の終わりはもうすぐです。そして約束される聖霊の注ぎの時も、もう近くです。ペンテコステの約束を信じて祈り続けた、イエス様の弟子たちを見習うべき時、それがこれからのキリスト者の生き方として、示されている事ではないでしょうか。

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本日の一言 (1月7日)

 神には約束されたことを成就する力があることを固く信じました。(ローマ4:21)

 21世紀は先行き不透明なため、これから先何が起こるか判らない暗闇の世界であると、云われ続けてきました。しかし同時に明るい希望もある社会です。それはロボット技術で紹介されているように、21世紀には、人々が希望することは、科学の力で殆どのことが実現出来るようです。
 しかしやはりこの希望も活用する人の「心の持ち方」が素晴らしければそれだけ素晴らしい社会が生まれることになり、そのために「人の心」を良くすることが前提となります。ところが肝心の「心を良くする」道を社会 はまだ「これだ」と、確信をもって紹介出来ないばかりか、逆に悪くなる される存在ではなかった。それは世界のキリスト教社会を構成している国道を留めることが出来ない悩みばかりが、強くなっています。
 アブラハムが若き日を過ごした「カルデアの町ウル」は、豊かな水を注ぐ、ティグリス川とユーフラテス川に囲まれた肥沃なペルシャ湾沿いの町でした。そこは紀元前3000年には、人類最初の「絵文字」を発明したシュメール人が開いた、高い文化と盛んな商業活動の進んだ社会でした。彼らが洪水から守るための技術を生み出した、角度の単位である60進法は、現代も数学の基本定理として定着しています。
 ノアの大洪水後の「海沿いの国々と最初の王国」を開いた「ニムロデ」を王とするアッカデ王国(紀元前2400年)ハシルアル(シュメール)に生まれたと聖書(創世記10:5〜10)にも記録として残っています。
 今のクエートからイスラエル(カナン)に至る「三日月形肥沃地帯」と、歴史的な豊かな土地の源泉が「カルデアのウル」でした。だからこそアブラハムの父テラは、豊かさを求めて幼いアブラハムを伴って「ウル」に移住したのです。しかし現代と同じように豊かさを求める余り、神から独立して神は豊かさを獲得するための「便利屋的存在」となりました。
 そのような環境に育てられた中で、アブラハムの「神に似て造られた」内なる心は「全能の神エルシャダイ」を求めて渇き、祈る生活が起こされました。その「全能の神」がアブラハムの祈りに答えた方法が「約束のことば」をもって語りかけてくださったことです。この御方はイエス様でした。

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本日の一言 (1月16日)

 私たちの信仰 これこそ世に勝った勝利です。(ヨハネ第一の手紙5:5)

 「キリスト者の歴史の中で 繰り返し語り継がれて来た教訓は 危機の中にこそ神の働かれる好機がある」と云うことです。
 人々の心は目に見えるものに頼って生きて来ました。しかし目に見えるものが人を助け支えて来た訳ではありません。それ故に いつまでたっても目に見えるものを頼りとする時、人々はいつか失望する時が到来し挫折した人生を迎えます。
それは聖書に登場する人々にも例外はありませんでした。 イスラエル民族の歴史の中でも 有能な政治的な手腕を振るって豊かな国づくりに成功した、ヒゼキヤ王と云う人も同様でした。西はエジプト帝国、東はアッスリヤ帝国の軍事強大国に囲まれた小国を政治力で結束して同盟を作って二つの強国の支配から守ることに成功しました。
しかし同盟国の王たちの心の世界まではつなぎ止めることは出来ませんでした。経済的なそして軍事的な圧力と物質的な支援をもって誘ってくるアッスリヤ帝国によって、次々に同盟の王たちは打算的な考え方の故に同盟関係を無視してアッスリヤ王の力の前にひざまづきました。まさにヒゼキヤ王は、外観もそして心の中も絶望観に打ちのめされてしまいました。
 聖書は「油断することなく あなたの心を守れ」(箴言)と私たちに語りかけています。目に見えるものを頼りとする人の心は 無防備で小さな変化によっても心の思いは砕かれるものだからです。
 イエス様はただひとりになった時 ゲッセマネの園に云って祈ることが出来ました。それは神の語りかけを待つ心からでた行動でした。この神のみこころを待つ生き方こそ、たった一人で十字架の上で私たちの救いのためにこの世の神サタンと、心の世界での戦いに勝利して「父よ彼らをお赦しください」とイエス様に向かって「十字架につけよ」と叫び続けた人々のために、愛の心を持って「とりなしの祈り」をささげることが出来ました。
愛の心を保ち続ける時、心の世界の勝利はそこにあるからです。

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本日の一言 (1月21日)

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント第二5:17)

 早いもので新しい年ともてはやされた「21世紀」も3週間が過ぎ去ろうとしています。ビジネスの世界に生きる人々が15日までの「松の内」に交わす年賀の挨拶とともに、新年の新しさも古い過去の世界に移って行きました。それでも人々は、いつも新しさを求め、新しさの中に生きたいと願っています。新しいものを少しでも身につけることによって、少しでも新しさの中に生きる喜びに浸りたいからです。このような形式的・表面的な新しさではなく、イエス・キリスト様は、毎週、人々の心を新しくしてくださっています。
 昨年、私たちの教会員として地上の生涯を終えて天国に移された八木武男さんは、90才にもなられたにもかかわらず、いつもお洒落なところを感じさせてくれた方でした。何気ないところに新しさが「ちらり」と見えるような、心の若さを失わない生き方であったためでしょうか、何度も何度も、80才過ぎでも、町会の老人会会長を依頼されたりしていました。その八木さんに「若さを保つ秘訣」をお聞きすると、必ず同じことばが返ってきました。教会で毎週心が新しくされることです、と。
 今、日本銀行総裁として、高齢であるにもかかわらず驚くようなエネルギーをもって、日本経済の舵取りしている速見さんは、その秘訣を「毎週の日曜日、教会において心を新しくされるから。」と、日経新聞上で語っておられます。また、今の天皇夫妻の結婚をまとめられた、元慶應義塾大学学長の「小泉信三」さんの教会での指定席が毎週埋められていたことも、有名です。この人々はみな、厳しい社会の荒波を乗り切る「日本丸」の航海責任者たちです。イエス・キリスト様の十字架によって人の心に贈られる新しい力は「創造的な力」と呼ばれています。
 その新しい力は、去って行く古き世界の良きものをさえも活性化させる「日ごとに新しくされる」心の世界を育てます。世界の歴史の転換期には、いつも「創造的」な新しい力を持つ人が起こされています。あなたの人生にも、この「新しさ」を受け続けてみませんか。

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本日の一言 (1月28日)

 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず 反対にますます信仰が強くなって神に栄光を帰し...(ローマ4:20)

 昔からキリスト者は「逆転の信仰」に生きる不思議な神の力に支えられていると、人々から考えられて来ました。日本でもキリスト教徒のことを「キリシタンバテレン」と呼んで、ふしぎな生き方をする人々として時には魔法を行うのではないかと、警戒さえされた程でした。
 今でもお隣の国、中国ではキリストを信じる人々は国家警察から迫害を受けています。東シナ海に面した地方では1998年の一年間だけで18万人以上の人々が逮捕され投獄されています。また、イスラム圏のキリスト教徒たちで殉教した数は10万人近いと推定されています。けれどもそれらの迫害を受けている地域では逆にキリスト教徒はどんどん増えています。中国ではもう一億人位となっているそうです。
本当のキリスト者達は信仰によって生きていく時に生じる困難な状況から決して逃避しません。むしろ困難に直面すればするほど、現実の社会の中で働かれる主なる神イエス様への信頼を深めます。その生き方が「祈り」を土台とし神の約束の御言の実現を信じて助けてくださる聖霊による「知恵と力」を推進力として神の助けを人々の中でハッキリと紹介することのできる素晴らしい「神の愛による勝利者」として歩んでいます。
 その代表的な生き方の見本がアブラハム達でした。神が約束された内容は妻サラとの間に与えられる子供の子孫の中から「救い主」が生まれる事でした。しかし、その時アブラハムは99才、妻サラは90才でした。その現実をしっかりと認めながらも神は「不可能な事のない御方」である故に現実の中に神の全能の働きのある道を歩みました。そしてその通りになった時、現実しか認めない人々に「神の約束に授かること」の素晴らしい事実をハッキリと示して、その証人として生きる人生を歩きました。
  聖書は「豊かさに満足を求める人々はこのアブラハムの信仰を見失う」と警告しています。(黙3:15〜19)どんな現実からでも逃避しないで神の約束を求め約束された主なる神イエス様の働きをその証人として生きる人々が現代には必要です。

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本日の一言 (2月4日)

 こう云うわけで、あなた方は神の家族です。(エペソ人への手紙 2:19)

 現代社会は「ハウス(家)は出来てもホーム(家庭)は出来ない」と云われて来ました。形は出来ても「心」が見られない、いわゆる「情報技術」を優先しているうちに「知識」は溢れるようになったが、その知識は人や社会を活かさないばかりか、環境破壊によって現されているように恐ろしい害毒をもたらしています。
その根源にある思想は「利己主義」です。そのために社会の一番大切な「家族」の中に、地獄のような現象がどこの家庭の中にも始まっています。これが聖書が警告している「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)と指摘されている現象です。
 そのためでしょうか。今多くの人々は関心のある環境として「いやし」の場を求めています。いやしの音楽、いやしの旅行、いやしのことばなどに人々の心は向けられています。そこには、そのままの自分をそのまま受けとめて包んでくれるいやしの場があるのではと思われているからです。
 イエス様を救い主として信じて受け入れる人々には「キリストの証人としてのすばらしい人生」が用意されています。それは「キリストの打ち傷のゆえに、あなた方はいやされたのです。」(ペテロ第1 2:24)と聖書に保証されている「心と体とたましいのいやし」を受けた人々が、多くの人々に「あなた方にために十字架につけられたイエス様を、私のためにと受け入れて仰いでご覧なさい、この御方によるいやしを、私と同じようにあなたも受けられますよ」と、イエス様のいやしの恵みの証人として生きる力が注がれるからです。
 最近、韓国の熱心なプロテスタント教会に集う人々の中から、カトリック教会に転会する人々が増え始めました。熱心な余り傷つけあう信仰から、静かに十字架の苦しみを甘受されたイエス様を見上げていやされる信仰の尊さを自覚し始める人々が、韓国でも起こされているようです。
 イエス様を見上げて、イエス様による「いやしの恵み」を分かち合って生きる人々のことを、聖書は「神の家族とされた人々」と呼んでいます。

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本日の一言 (2月11日)

 神が私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第1 4:10)

 昔の人は「子をもって知る親の恩」という格言を残しています。子供を育てる苦労を重ねる中で「自分の心の中で子供えの愛が深まって、自分を育ててくれた親の愛の深さ」を知る体験の尊さからでたことばでしょう。
残念なことに最近では、体験による「子育て」より、情報を集めてより効果的な「子育て」をしようという合理的な親が増えてきました。
 そのために「子供のための苦労を喜ぶ親より、楽して楽しく子育てしたい親」が増えて「愛」子供との苦しみの中で育つものと考えないで、子育ての「ソフト情報」とはして理解する存在になっています。
 だから親も子も ともに「よりすぐれた愛の情報」を、いろいろな本や知識人と自称する人々の話を集めて、不必要な反省をしたり満足しようという、知識主義的親が増えて来ました。
 その結果「私はこれだけのことをしてあげたから、よい親なのに」とか、「私の親は自分の満足ばかり求めて、私の本当に必要なことは何一つしてくれなかった」などと、親子の間の不平や不満があちこちで爆発しています。
 そのすべての原因は、愛を「お互いが向き合って苦しみながら生み出して行く体験」としてではなく「幸せになるためのソフトとしての情報」として第三者的に受け止めて、いつも相手を責めようとしたがるのです。
  聖書は「愛は神から出ています」と宣言しています。苦しみや痛みや悲しみを人のせい」にして逃げようとしないで、それを抱えて主なる神イエス様と向き合ってみることです。すると「主はご自身が試みを受けて苦しまれたからこそ、試みの中で苦しんでいる者たちを助けることがお出来になるのです」(ヘブル2:18)との「神の愛の深さ」の体験者とされるのです。
親子が苦しみから逃げないで「向き合って苦しみに立ち向かう時」そこに「愛」は親子の間だけに留まらず、他の人にも注ぐ喜びの力となる「愛の事実」の強さと素晴らしさが見られるようになるのです。
理想的な親子の「向き合う愛の事実」に見本が、すべてのイエス様と向き合う人のために今日も用意されています。それが十字架の愛と言われる事実の愛です。

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本日の一言 (2月18日)

 この希望は失望に終わることがありません。聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

  2月の下旬は冬の寒さが一番厳しい時です。今年はいつもの年よりも更に厳しい冬となっています。しかしその厳しい氷を溶かすような春がもうそこまで近づいて来ているという「希望」の訪れを信じて、野も山もすべての生きるものたちは、春を待ちその準備のために忙しく働いています。この「希望」は誰かの努力や考え方によって生まれたものでなく、神の愛による支配の中に生きたものたちが共有する、確かな未来を信じさせられた現実です。「夜明け直前が一番暗い」のと同様に、春が近くなればその証として、冬の寒さも厳しいものです。
 今、人間が造り上げてきた合理主義社会は、人の心を暗くする一つ一つの出来事を通して「希望の灯」を消してきました。「良心的社会の灯」などもうどこを眺めても「結果がすべて」という合理主義的な考えによって、踏みにじられるようにして次から次へと消され、「愛の温かさ」も「自己愛の満足」のために吹き消されています。
その最後の「希望の灯のともされる場」としての教会の中でさえも「理想」という飾り棚に治められて、展覧会の陳列品のように、自分も持てたら幸せと思われる存在となっています。
 聖書は、この「希望」を「信仰」が生まれた人の心にもたらされる「望み」とし、その生活を完成させるすばらしい「愛」を支える大切な存在として「信仰と望みと愛とはいつまでも残る」(第1コリント13:13)と啓示しています。そして、この「望み」はまた「神の愛の働き」がもたらす、生きてゆく力です。ぶどうの木の樹液が送り込まれる時、その枝の先に芽が新しい枝を創造するために盛いよく伸びて行く力、その姿が「希望」です。
 だから聖書は「神はこの宝(希望)を壊れやすい、私という土の器の中に入れて下さった。だから途方に暮れても望みの灯は消えません」(第2コリント4:8)と、神を相手に生きる人々の心を」支える「希望」の素晴らしさを教えています。イエス様が十字架の死を代価にして信じ受け入れる人々に注いで下さっている「希望の力」は、「光はやみの中に輝いている。やみはこれにうち勝たなかった」と、歴史を貫いて、失望の中に滅び行く人々の心を照らし続けています。

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本日の一言 (2月25日)

 あなた方が神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル人への手紙 10:36)

 昔の人は「冬来たりなば、春遠からじ」と詩の一節として残しました。冬の厳しさの中で、植物は美しい花を咲かせるための準備が出来るからです。それが「苦しみ」が与える意味です。「苦しみ」を避ける生き方には美しいものは生まれません。
 絹の中で「王様の絹」と呼ばれる美しい絹糸は、特別な繭が中から虫が出た後の1本の糸をさぐり出した絹糸から作られます。中の虫が繭から出るための穴は、まるで針の穴のように小さなものです。その針の穴のような小さな穴を通って太さが1センチ近い虫が、長い時間をかけて出るのに大変な苦しみの時を過ごさなければなりません。そこで親切な植物学者が、針のような小さな繭の中に「メス」を入れて、穴を大きくして、中の虫が出やすいように手助けをしたそうです。繭の中の虫は親切な植物学者のおかげで、楽に繭からしかも時間をかけずに出ることが出来ました。しかし、その虫は繭の外に無事に出たものの、自分を包んでいる殻を破ることが出来ないために、殻にしめつけられて苦しみながら死んでしまい、羽をはばたかせて、空を飛ぶことは出来ませんでした。
そしてもう一方の繭もまた、美しい糸をくり出す道が切断されたため、糸となる前に、繭が腐って「王様の絹」と呼ばれる美しい絹糸を繰り出すことが出来ませんでした。美しいものが生み出される条件として「苦しみ」を乗り越えることが必要であるからです。
 イエス様が「神の立場を捨てて、人として生きた」その人生は、文字通り「苦しみ」の連続でした。だから「祈り」に集中する時を大切にされたのです。それ故に「十字架の苦しみをも喜んで耐え忍ぶ」(ヘブル 12:12)信仰の道を開かれる御方とされました。
 私たちの人生の秘訣は、このイエス様の美しく生きる秘訣である「苦しみ」の中で、祈って小さな自分の考え方から脱皮した「忍耐さえも喜んで」と云う、イエス様の開かれた「信仰の道」を歩む時、約束のみことばを信じて生きる幸せを体験することが出来るのです。

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本日の一言 (3月4日)

 信仰がなくては、神に喜ばれることは出来ません。(ヘブル人への手紙 11:6)

 最近、近所のマ−ケットで、てっきり「本物だ」と思える造花を見ました葉も花もそして茎も 手で触れても「本物」の花のようでした。すばらしい技術です。でもどんなにすばらしく造られていても「本物」でない証拠には その造花を土に差して どんなに水を注いでも造花ですから根は出ません。生きた花ならば 花も葉もそして茎までもやがて腐って 見るかげもない程になります。しかしやがて根が出て、新しい芽を育て始めます。造花は美しいかたちをそのまま保ち腐りません。しかし新しい芽も育てません。生命の力がないからです。人造花だからです。
 信仰も「心の美しさ」を求めて、人間が造り出す信仰と、弱くなったり腐ったりするような「みじめな信仰」であっても、いつも「キリストにある新しい自分」を発見出来る 神のいのちの力によって生かされる信仰とがあります。一見 弱くてみじめな「駄目信仰」のように見えても、イエス様から「わたしは、あなたの信仰がなくならないように あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、優しく諭されたペテロのような信仰こそ、神に喜ばれる「神のいのちの力」の伴った信仰です。
 恩師の沢村五郎先生は「自分の持っている信仰に行きづまったら 聖書に登場する人物」について聖書からしっかりと学んでごらん、行きづまった自分と同じ姿を発見する。しかしそこからどのように立ち直ったかを知ってその生き方を見習うならば同じように立ち直ることが出来る」と、何度も聖書人物伝の学びの中で教えてくださいました。人間が造りあげた信仰は 一見美しく見えても いつまで経っても変化のない 型だけの信仰はパリサイ的な「してはならない」ばかりの律法主義信仰で イエス様に向かって「もし神の子なら十字架から降りて来て 自分を救いそして我々も救え」と叫んだ神に敵対する信仰です。アブラハムは その導かれた信仰生涯の中で 神に喜ばれる信仰に目覚めるために 長い年月と信仰のアップダウンを幾度と無く繰り返しました。しかしアブラハムの心の中で働いた「神のいのちの力」は遂に神に喜ばれる信仰に到達することが出来ました。
それが「恵みに生かされる」自覚に目覚めた時でした。

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本日の一言 (3月11日)

 荒野と砂漠は楽しみ、サフランの花のように、花を咲かせ、喜び喜んで歌う。(イザヤ書 35:1)

 聖書は、神の民にすばらしい約束を与えました。「荒野のような辛くまた砂漠を歩かされたりするような人生をたどる人々にも、その生活の中で美しいサフランが咲き乱れるような人生に変えられる時が来ると。
 その時から長い年月が経過して、人々もこの「神の約束のことば」も忘れ去ったような現代、その約束の地に旅してみると、荒れ野であり砂漠であった地には、そのことばの通りに「サフランの花」だ美しく咲き乱れているばかりでなく、その荒野や砂漠が今では、ヨーロッパの花工場と云われるような、見事な替わりぶりを見せています。それは聖書に啓示される霊的精神的出来事は、たとえとして使われた物や場所や事物などの現実として、ハッキリと示されていることを教えるためです。
 以前、テレビの歌謡番組の中で「東京砂漠」という歌ことばを聞いてうまい表現をしていると感心したことがあります。東京という都会は、若者たちに不思議な魅力をもって呼びかけてきます。「東京に来て自分の力を験して見ないか」と、それは冒険的な人々に砂漠が呼びかけているのと同じような「挑戦的な呼びかけ」です。だからどんなに「東京は砂漠のような恐ろしい処だ、経験豊かなガイドなしで挑戦すれば、心は枯れ果て、体は疲れ果てて、ズタズタになって滅びるのみだ」と警告しても、東京の魅力に取り付かれた若者たちは、滅びの美学さえも理由に傷つき倒れています。
 私は僅かな機会を利用して、何度か「砂漠歩き」をしてきました。エジプトのリビア砂漠、アラビアのネフド砂漠やシリヤ砂漠など。そこはどんなに性能のよい四輪駆動車を持っていても、ガイドがいないまま「自分を験そうとして飛び出す」ならば、必ず渇きと不安の中で死を迎える、恐ろしい処です。しかしどこの砂漠にも、不思議なことに「オアシス」と呼ばれる「泉」の湧き出る場所があります。そこには、美しい草木が生い茂り、すばらしい果物がいつも豊かに実っています。そこは「神の恵みの地」です。ところがその「オアシス」は時々移動します。それは地下水の流れが突然変化して他の処に移されるからです。
 神の恵みの泉がベルレヘムに移されたのは、ルツの泉の信仰の故でした。

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本日の一言 (3月18日)

 望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。(ローマ人への手紙12:12)

  今、ある若い人々は「望みが叶って」希望する学校や職業に就いて、幸せそのものの人生を歩き始めています。しかしその幸せ感に浸った同じ人々が、「5月病」と呼ばれる「望みがズタズタにされて生きて行く力」を喪失した状態の人々へと、変わって行きます。
 イエス様の処に来た、盲目の若者に対してイエス様は「あなたの望みは何ですか。」と問われました。するとその若者はすぐに答えて云いました。「主よ、(あなたにあって)目が見えるようになることです。」(ルカ18:41)すると彼は「あなたの信仰があなたを直した。」と云われたイエス様のお言葉を受け、その「主にあって」と云う信仰の結果、神をあがめながらイエス様に従う人生を歩いて行きました。その若者にとって、目が見えるようになったことは「主にあって生きる」ことの通過点に過ぎませんでした。
 聖書は「信仰と希望と愛は、いつまでも永遠に、私たちの心を支えます。」(第1コリント13:13)と、イエス様にある望みは、私たちの永遠の人生に深い関係を持っていることを教えています。
 それは、永遠の神であるイエス・キリスト様が、私たちに与えてくださった「イエス様の望み」を「信じる人々の望み」として与えて下さっているからです。
 イエス様によって与えられるすばらしい希望は、永遠の希望に向かって歩む人々の、人生のひとときに見られる、美しい道の傍らに咲く花のようなものです。イエス様にお会いしたいとの望みがかなえられた人は、イエス様から与えられた望みを抱いて、美しい花を育てる農夫のように、祈り心を持って日々を歩みます。美しく咲いた花を送り出すともっとすばらしい花を咲かせる望みを祈り心を持って働きます。やがて次から次へと美しい花を育てながら、幸せな生涯を歩みます。
 罪深い人間の心が「何とか捉えたいと願う望み」から、イエス様のすばらしさを知って「主にあって受けた望み」に転換させられる時、イエス様に「あなたの信仰があなた(すべて)を直した」と賞賛される人生に移されます。イエス様がもたらす「永遠に支えられる希望」こそ、福音そのものです。

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本日の一言 (3月25日)

 私は福音を恥とは思いません 福音は「信じるすべての人」にとって 救いを得させる神の力です。(ローマ人への手紙 1:16)

 現代の倫理の基準は「恥から利益」に移行しているようです。そのために、子供の躾が出来ない親が続出しています。躾の原点は「人間として恥ずかしくない生き方」にあるからです。最高のモラルを持っている人々と思われて国民から選ばれた国会議員たちでさえ、自分の利益のために行動しています。ただ法律に触れるかどうかの問題となっています。だから世界中での人々の生きる基準は「恥ではなく利益」のあるか否かになっています。そのことをイエス様は「不法がはびこるので多くの人々の愛が冷えて来る」(マタイ 24:12)と、預言しています。そのイエス様のみことばの通りになって来ました。この預言は終末のしるしとして語られたものです。
 イエス様の十字架は「恥を受けられた」故の苦しみでした。「罪人として十字架に付けられることは、聖なる神としての本質を持っておられたイエス様にとって、この上なく辛い「苦い杯」でした。だからこそゲッセマネにおける祈りで「この杯を私から取りのけて下さい。しかし私の願いとしてではなく、あなたのみこころのままを」(マルコ 14:36)と、祈られました。それ故に父なる神は、十字架の呪いの恥をも、喜びに溢れて受けられたのは、恥が栄光の働きと変えられた結果でした。
 イエス様の十字架を「私のため」と受け入れて生きることは「恥ずかしい思いをさせられる(人から軽蔑される)生き方」と思われるものです。現代的感覚で云えば「利益を失う」生き方です。しかしそこには、世界中のすべてのものを手に入れることが出来る程、儲けた人でも獲得できない「尊い永遠のいのち」をもたらす人生が持っていると、聖書は啓示し信じて生きた人々は、身をもって証ししています。
 だから使徒パウロは「私は福音を恥とはしない、むしろ栄光として生きる、それは信じる者を救う永遠のいのちの力に溢れている」と、証し続けたのです。利益を求める人生には、この栄光に満ちたすばらしい救いの力は理解出来ません。
しかし恥ずかしくない生き方を求める人生には、この神の力こそ「まことの救い」をもたらすものであることがハッキリと理解して求め続けるようになるのです。

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本日の一言 (4月1日)

 あなた方はキリストのために苦しみをも賜ったのです。(ピリピ人への手紙1:29)

 神はアブラハムに かけがえのない「ひとり子イサク」を アブラハムの罪のための身代わりとして なだめの供物として 神に捧げることをお求めになりました。それは信仰の父と呼ばれたアブラハムにとっても ことばに表すことの出来ない 苦しく辛いことでした。出来ることならば、かけがえのない子イサクの代わりに 自分を捧げることならばと アブラハムは何度も何度も 神さまに懇願したかったことでしょう。
 しかし罪の身代わりとして神に捧げられる人は 罪なき者以外に 罪のためのなだめの供物となることは出来ません。それ故にアブラハムは 神の約束のことばと信じて 神の愛の手に我が子イサクを「なだめの供物」として捧げ その時 神からのメッセ−ジがアブラハムの心に響いて来ました。「その子に何もしてはならない。今わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた」(創世記 22:12)と。
 それは 全人類の罪の「なだめの供物」として 十字架の上で殺されるために 御子なる神イエス様を送られる ほんとうの神の愛ゆえの痛みを知った人として、賞賛の「なだめの供物」の身代わりとして一頭の雄羊を送って下さいました。「神の愛ゆえの痛みを知る幸い」を「アドナイ、イルエ主の山には備えがある」とアブラハムは感謝に溢れて 神をほめたたえました。
 私が子供の頃 母の口ぐせは「我が身をつねって人の痛さを知れ」でした。人の痛さを知る思いには愛の心が育つと、クリスチャンホ−ムで育った母はいつも祖父母や両親から聞かされていたからでした。そんな私がイエス様のことを聞いたのは、「人その友のためにいのちを捨てる これに勝る愛はない」とのみことばからイエス様が十字架の上で私のすべての罪の身代わりとして私の罪のすべてを負って苦しみ死なれた話でした。
それを聞いた私は「これが本当のことなら私は一生をかけてイエス様の愛に応えて行かなければならない」と思い信じました。受難までの一ヶ月間はレントと呼んで イエス様の苦しみを思うときとしてキリスト者たちは毎年イエス様の身代わりの苦しみを憶えるための時を持つのはこのためです。

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本日の一言 (4月8日)

 また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。私の行く道はあなた方も知っています。(ヨハネ 14:3〜4)

 イエス様は時の権力者たちの謀略にかけられて、十字架の苦しみを受けて殺されることになりました。しかしイエス様は、その十字架の苦しみの死の道を、勝利のいのちの道として歩み、死人の中から復活されて、同じ道の上に天にある神の国の出発点を新しく開いてくださいました。
 だからイエス様に依り頼んで生きる人は、世の中の人々が歩く同じ苦しみの上に、イエス様が開かれた「神の国」への道のあることを知り体験して、イエス様の復活が、私のためであったことを喜び祝います。そこには十字架の苦しみが復活の栄光に昇華させられた光栄ある体験者の神への賛美と感謝が溢れます。祭司町長たちの悪巧みによる十字架の苦しみさえも、復活の光栄に昇華する幸い、それがイエス様の開かれた「神の国」への道です。
 飛行機に乗って旅する時、いつも緊張させられる場面に遭遇します。それは飛行機が離陸する時です。飛行機は滑走路を全速力で走ります。そして離陸地点のランプで翼の羽根の部分が下に向く時、飛行機はファーと、滑走路から浮きます。あとは一直線に空高く舞い上がってゆきます。しかし同じ滑走路を走る自動車は、どんなに猛スピードで走っても離陸地点に達しても空に舞い上がることが出来ません。そのように作られていないからです。
 イエス様は私たちを自由の喜びをもって生活出来るように「新しく作ってくださいました。それは「御霊の自由」と聖書が示している「喜びの人生」です。外見的には全く何も変わらないように見える「苦しみ」という滑走路を同じように走っていても「御霊の自由」という新しい生き方という精神的な構造によって、十字架という離陸地点に達した時、イエス様に従う行動に移ると心のハンドルを空に向かって引き上げる時、復活のイエス様によって支えられて、神の愛に生きる人とされます。そしてかつての、罪の力によって地上的な「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(1ヨハネ 2:15〜6)に束縛された生活から解放される「キリストの自由」を以て「苦しみさえも益」とする(詩編 119:71)勝利の人生のすばらしさを見出します。
 この「苦しみ」の未来にある自由への離陸地点、それが受難週にあります。

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本日の一言 (4月15日)

 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25)

 哲学を空想的な学問から人間の生きるための学問としたソクラテスが、その哲学の教えとして「あなた自身を知りなさい。」と語ったことはあまりにも有名です。ソクラテスが指摘したように、「あなた自身」を知らないために、人々はすべて他者のせいにしたり神のせいにして、世の中から希望を追放して来ました。
 聖書は「あなた」と自覚する時、三つの自分を自覚すると示しています。「霊と心と肉体」です(テサロニケ第一5:23)。そしてその三つとも平和の神が完全に守られるものであると教えています。しかし神の守りには順序があります。まず霊を守ってくださいます。 霊は、物質世界では空気のようなものです。
 次に心は、水のようです。きれいな水も自己中心な人々によって汚染され、その汚染された水のために、植物も動物も神経系統のバランスをくずして、健全な社会生活を送る思考力が失われ始めています。そして肉体の満足のために、社会は弱肉強食の地獄の世界に向かっています。その根本は「霊的存在」であることを放棄した人間の罪に支配された生き方にあります。
 イエス様は、すべての人の罪の身代わりとして十字架上で死なれました。そのイエス様は、神の霊を注がれて、完全な死の中から、神として復活されました。それは、神に似て創造された人間を、新しい霊によって回復させるためでした。だからイエス様の復活が私のためであったと受け入れ罪からきよめられた人々がイエス様に頼って生きる時、罪のために死んでいた霊が、復活されたキリストに合わされて、神に似た人として生きる人生へと変えられます。
 使徒パウロが「私が生きるのは、私を愛して死んで復活してくださった御方を信じる信仰による」(ガラテヤ2:20)と告白したのはこのことです。そして、やがてすべての人がこのことを知らされて終わりの時が来る時、霊的に復活し心が天に引き上げられた人の肉体もまた、イエス様を初穂としたすばらしい肉体の復活の時が来るのです。
これが福音です。

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本日の一言 (4月22日)

見よ、今こそイスラエル人の叫びはわたしに届いた。 わたしはまたエジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た (出エジプト 3:9)

 イエス様は「失望しないでいつも祈りなさい」と弟子たちに教えられました。そしてイエス様ご自身もいつも祈られました。祈りは 自分の生き方を神に告白することだからです。それ故に自分の生き方をしっかりと持っていない人は「祈り」も、ただ単なる「お願い」の気休めに過ぎません。
使徒パウロは「私の願いは彼らが救われることである」と祈り続けました。それは、彼の生き方の告白でした。それ故にそのような祈りは叫びとなり、神に届き、神の働きが始まられるのです。
 日本が朝鮮半島を支配していた時、植民地的支配ではなく属国的支配を持って統治しました。植民地支配の場合「文化や宗教」はそのまま持続することが出来ましたが 属国支配は伝統的文化や宗教もすべて認められず、天皇を神とする皇国主義によって支配されました。そのため名前も日本式に変えられ、皇民教育と称して日本語による教育と、すべての人は天皇の赤子として天皇のために働き、天皇のために死ぬことを浸透させました。そして天皇を中心とする大東亜共栄圏の実現のため、すべての男性は1銭5厘の召集令状で発され、若い女性は従軍慰安婦として強制連行されました。今もその事実を認めていません。
この苦しみの中で叫びを神に呼びかけたのはキリスト者たちでした。朝鮮総督府はこのキリスト者たちを弾圧し、ある教会では外からガソリンを注いで全員殺害したり、日本のキリスト教会統理であった人を派遣して、伊勢神宮の神棚を会堂の正面にかかげて偶像礼拝を要求しました。当時の朝鮮半島のキリスト教たちは、生命をかけて神に訴える祈りを捧げ続けました。その結果、神は歴史の中で神として見ています。
神に訴える祈りは危機意識があるかないかにかかっています。
 この神のみこころを日毎の生活の中で味わう時、神が私の祈りを聞き届けて下さったと喜びをもって感謝できる人生が始まります。
この人生が証人の人生です。

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本日の一言 (4月29日)

同じ主が すべての人の主であり 主を呼び求めるすべての人に対して 恵み深くあられるからです。(ロ−マ人への手紙 10:12)

 今 世界は呼び合う人々と、憎み合う人々が民族の対立と 民族超越するグロ−バル化の両極端の考え方となって同時に拡がっています。
そしてその二つの考え方は、まず民族対決から生まれ、やがてキリストの平和を受けた人々によって、違いを認めながらも共通点を大切にする考え方となって、国家主義によって生まれる戦争を回避する国家協調的なインタ−ナショナルが生まれ、科学や経済の競走と共調の中から、グロ−バル現象が インタ−ネットに象徴されるような姿で世界中に拡がり続けています。
 その鍵は、「相手を愛し認める キリストにある平和な心を持っているかどうか」にかかっています。
 父なる神は、神にさからい自己主張によって自己破滅の道を歩き続けている人類を、そのまま苦しみ傷つけ合って滅亡させることを望まず、罪なき御子イエス様を身代わりとして神のさばきである十字架につけるために人の世界に遣わされ、その信じられない深い神の愛を約束の通りに実現させて下さいました。その結果、イエス様の聖名を呼ぶ人々と、神を無視して時には罪の行為によって神に敵対する人々が、色々な形をもって自己表現をしています。
しかしそれでも神は、くり返してひとりひとりの心に向かって「あなたの心は今 どこにいるのか」と呼びかけています。
 迫害者サウロとして キリストの平和を大切にする人々にとって恐怖の相手となっていた使徒パウロは この神の呼びかけを聞いた時「あなたはどなたですか」と問いました。その問いかけへの答えのことばは「私はあなたが迫害しているイエスである。とげある棒を蹴るのは苦しむだけだ」(使徒26:15)と愛に満ちたことばで教え示されました。
その瞬間サウロの心には「イエス様の聖名を呼ぶ幸い」な生活が始まりました。
 同じように 迫害者であったヘロデ大王は 教会の祈りを通しての神の語りかけを拒否して小さな虫にかまれただけでも 神の守りが受けられずにたちどころに死に絶えてしまいました。イエス様の聖名を呼ぶことを拒否したからです。
 この二つの事実こそキリストの平和の心を与えられた人々がすべての人々に紹介すべき内容です。受け入れる人々には平和が始まり拒否する人々には対立から滅びに至る戦いが始まるからです。

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本日の一言 (5月6日)

知恵であるわたしは 分別を住みかとする。 そこには知識と思慮とがある(箴言8:12)

 今でも聖書は、世界中で一番多くの人々に読まれる書であることが、毎年発表される聖書発売冊数によって、よく知られています。
日本でも昨年一年で六千万冊の聖書が売れています。圧倒的な人気歌手といわれる宇多田ヒカルのレコ−ドが爆発的に売れたと驚いても三百万本ですから、地味な聖書がこの日本でさえも 毎年六千万冊も人々に購買され、どこのホテルにも各部屋には必ず一冊づつ机の引き出しには入っており、お客は一応は手にするようです。
その理由は「聖書は(あなたに)(生きる)知恵を与えて、キリスト、イエスに対する信仰による救いを受けさせることが出来、聖書は神の霊感によるもので 神の人がすべてのよい働きのために、ふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテ第二 3:15−17)とあるように、神の霊感が注ぎ込まれている書物として、その事実を二千年もの間 聖書を読む人々の中に明らかに実証して来たからです。
 その聖書が「キリストは神に立てられて 私たちの知恵となって下さった」と証言しています。聖書を読む人々の心に 主なる神イエス様が働きかけ 教えられて イエス様のことを知らない人々とは 本質的に違うすばらしい生き方に導かれるからです。
聖書を読む人々には 聖書を人生の参考書として読む人々と、生きて行くための「いのちの糧」として心に受ける読み方をする人々の二種類あります。
聖書を人生の参考書として読む人々は、この世の状態や自分の於かれた環境と聖書の示す生き方の相違の故に、座右の書として読む人は少ないようです。
イエス様からの現代に生きるための語りかけがないからです。しかしイエス様を主なる神としての生ける糧として受ける人々は 、その心にもたらされるいのちの力と、暗やみの世の先を照らす世の光としての輝きの故に、確信と力強い判断力を持って生きる人とされます。
この生き方が「分別をすみか」とされる 心の中にイエス様を「救い主」として持つ人生です。
 「分別のない指導者」によって、国がどのようになるかを体験させられたこの日本でも「分別のない若者や子供たち」が増加しています。
 「時がよくても悪くても、みことばを伝え世の光として輝かす」とのみことばが 心の中に響いて生きる尊さを知る者となりたいものです。

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本日の一言 (5月13日)

神はまた彼らを祝福し彼らに仰せられた「すべての生き物を(神の心で)支配せよ」(創世記1:28)

 人間社会の文化は、その根源は「神の恵み」を忘れることのないようにといろいろな形とともなって、後世に伝える「祭り文化」として存続してきました。
 その一つとして日本の各地に見られる「御神輿」の川や海への乗り入れるお祭り行事の原点は、イスラエル民族のヨルダン川渡りの出来事です。
 彼らが神の約束の地に入るための大きな障害は、川一面に水を湛えていたヨルダン川でした。しかし神の命令は祭司が契約の箱を担いで、ヨルダン川に足を踏み入れ12部族の代表者たちがそれに従って行動する事でした。
祭司たちは神のみことばの通りに契約の箱を担いでヨルダン川に足を踏み入れたその瞬間、神はヨルダン川の上流をせき止め、イスラエル民族は一人残らず乾いたヨルダン川を無事に渡ることが出来ました。その神のすばらしい働きをいつまでも記念するために、12部族の代表者たちは一番深い真ん中にある石を一つずつ積み重ねて記念碑を建てて、神を礼拝して祝いました。それ以来イスラエル民族は、その行く先でいつも「契約の箱」を担いで祭りを祝いました。その祭りがやがてその土地の文化となり残されています。
「祭り文化」の原点は、神のみことばにに従う時、神もまた約束を成就してくださったことを忘れないため「神の良くして下さったことを何一つわすれるな」(詩編 103:2)との教えから生まれ、それが日本文化の源流となっていることは尊いことです。
 神は人間を創造された時、祝福して「すべての生き物を(神の心を持って)支配せよ」とお命じになられてそのための能力も与えて下さいました。そして人類は神から与えられた支配できる能力を用いて、現実にすべてのものを支配する立場に立っています。
しかし一番大切な「神のにことばを信じて行動して感謝する」ことを捨てました。その能力を自己満足のために使い「神に感謝する文化」とは逆の、破壊と破滅の恐ろしい「自己満足の文化」を蔓延させています。「母の日」も「クリスマス」もみな「消費の自己満足の文化」に堕落させてしまっています。
 神に似て造られた「神の心」をもって「すべての生き物」に対して「神から受けた愛の心」をもって支配する「福音による文化」を生み出すため、感謝をもって歩む者と成りたいものです。

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本日の一言 (5月20日)

主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われたみことばを思い出すべきである。」(使徒 20:35)

 「文化的な社会」は「与えること」を前提として育ってきまして。ところが文化的後進社会では「受ける」ことを前提とした生き方をします。これでは「文化的な社会」は逆に衰退してゆきます。「文化的社会の豊かさ」は「物質的」な豊かさではなく「心の豊かさ」の中に見られるものだからです。
 近代合理主義社会は、物質的な豊かさを追求して心の豊かさを喪失し続けてきました。近代合理主義(モダニズム)社会は文化的崩壊現象をあちこちに来しています。
そして人々は新しい合理主義(ポストモダン)は「心の豊かさ」なしには生まれないだろうとの結論に達しています。
 キリスト教会が世界宗教として存在し続けてきた理由は「与えること」を前提として「受ける」ことを実践してきたからです。「与えること」のために生きる人々を、神は助け支えてくださる御方であることを、キリストを信じる人々自身が、明確に体験してきました。このことは、キリスト教会2000年の歴史を超えて、旧約聖書の時代から貫かれてきた聖書の示す真理でもありました。
 預言者エリヤはツァレファテ地方で最後の食事をしようとしていた母子に対して、この聖書の真理を示して、神のみみことばに従って「与える」ために生きることを教えました。彼女は最後の食糧を「神のみことば」に従ってエリヤに与えた結果、「神に必要を与えられる」幸いな人生を歩む母子となりました(列王記第一17:7-16)。それはまた、イエス・キリストがご自身の生涯をもって教え示され、十字架上に、罪なき身を罪人たちの罪の代価としてお与えになりました。「それ故に神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:9)そして、この「受けるより与える方が幸い」との生き方がキリストを信じる人々の中に、聖霊の助けによって実現した証が教会でした。だからキリストの教会は「宗教」ではなく「文化的活動」のすばらしい見本として、世界中に拡がり続けています。
 家庭の中に「与える幸い」が浸透しその家庭の文化となる時、与えることよりも受けることから始まる家庭の悲劇は解消します。これが福音です。

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本日の一言 (5月27日)

聖霊に満たされていたステパノは 神の右に立っておられるイエスを見てこう言った(使徒 7:55)

 少し前まで 人々は自分の願いを簡単に満たす「インスタント時代」を体験して、何でも簡単に済ませてしまう「軽装な生き方」が流行しました。
 今は 楽しみを積み重ねる「ゲーム時代」に移っています。パソコンの与える正確な応答に触れて楽しむためには パソコンのルールに従って楽しむことが出来なければ「ゲーム時代」を楽しみつつ生きることは出来ません。
 無責任な「インスタントやフリーター時代」に楽しんだ人々は 誠実なまでに正しく応答する「パソコン、ゲーム機、携帯電話」の要求するルールをどんなかたちであってもマスターしなければなりません。現代はそれだけ健全な社会性が、知らないうちに人々の中に浸透していると喜ばねばなりません。そして次はマスターした現代の機器を、自らの人間性を高めるために活用する番です。
 御子なる神が、人の子イエス様として社会に出現した時 人々は無責任な態度で「インスタント時代」の人々のように、イエス様のところに群がり集まりました。そこではイエス様は「ほんとうに便利な御子」としてもてはやされました。やがてイエス様を慕って弟子となった人々に対してイエス様は、神のみことばを「聞くだけではなく教会に集まり信じて従う」と云うイエス様の弟子としてのルールを要求されました。すると無責任な「インスタント的フリーター人間たち」はイエス様から離れ後に残された人々は「みことば」のルールに従った人々のみでした。
 この「みことばのルール」とは教会に集まり神の約束のことばを信じるだけではなく従って実践することでした。すると、イエス様の約束された聖霊が心の内から働いて「イエス様の弟子としてのルール」に従って生きることが楽しみとなり喜びを持って高い生き方を目指す人々となっていきました。まるで現代の子供たちが「難しいゲーム」に夢中になって挑戦しているのと同じです。
 子供たちであっても「ゲームソフト」の要求するルールに従って挑戦する時、画面の登場人物から目を離さないように、ペンテコステ体験以後の弟子たちは、心の目をイエス様から離しませんでした。その結果弟子たちは、イエス様が御子なる神としての働きを体験する人々となりました。

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本日の一言 (6月3日)

永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの速わされたイエスキリストを知ることです。(ヨハネ 17:3)

 日本には「聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥」と云う格言があります。
それは人間は本来、聞いて体験して人間としての成長をみるものだからです。
だから知らないことを「聞く」ことは、決して恥ずかしいことではありません。むしろ「聞いて体験して」その結果成長することですからむしろ逆にすばらしいことです。
 聖書もまた「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての、みことばによるのです」(ローマ 10:17)と、教えています。ただここで大切なことは無責任な信用の出来ない話は、いくら聞いても人間として心豊かな存在とされると云う成長はない。そればかりか時には麻薬のような力をもってその人の生き方さえも「満たされない心」によって支配されるような恐ろしい結果をもたらすことも、世の中には満ちているからご用心をと云う訳です。
 今、若い女性たちのタバコの体に及ぽす害についてまた男性も含めて、タバコの煙がタバコを喫わない人にも及ぼぎす「肺ガン」への影響の恐ろしさについて新聞やテレビで警告しています。タバコは百害あっても一利もないのに、人々はタバコを喫う習慣が、タバコの持つニコチンが喫席者の体内で中毒を起こしているためにどうしても止められません。また、もっとひどいものにアルコール依存症があります。
タバコを喫う習慣、酒を飲む習慣が人々の人生を破壊しています。それは「聞く耳」を持たない生き方を貫いているので人間としてのすばらしさを自覚する成長が見られないのです。
中毒症状に陥った人々は、まず悪習慣に向かわせをことが、人を不幸にする生き方であることを、「聞く」ことから救いが始まります。聞いて理解した人は自分は何をすればよいかも教えられるからです。聖書はこの生き方を「悔い改めて神を信じ神の国に生きる」生き方であるとイエス様のみことばをもって教え示しています。
 聖書のことばを聞く人々は、神が御子を世界のためだけでなく、私のため、遣わされたと云う「神の愛」を体験する人生に導かれます。
神の愛に生きた人々によって綴られて来た教会の歴史はその証拠です。

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本日の一言 (6月10日)

わたしを信じる者は聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる(ヨハネ 7:38)

 イエス様はいつも弟子たちの心の奥底に向かって「私を信じなさい」と、呼びかけられました。イエス様の呼びかけを、物質的な面で表面的な受け止め方しか出来なかった人々は、自分に不利な状況に置かれると、イエス様よりも自分の立場や気持ちを大切にして、この世の中に受け入られる道を選択して、自分の感情の流れに沿って行動する人々となりました。最後に残った人々は、12弟子と4人の女の弟子たちだけとなりました。
その最後に残った人の中には、イエス様を権力者たちに売り渡したユダがいてさすがのペテロも、すっかり自信を失うほどでした。人々がイエス様に求めたものは自我の満足と云う表面的な生き方でした。
 日本のクリスチャンの中で井戸掘りの技術者たちが、今発展途上国ですばらしい活躍をしています。彼らは日本からすごい掘削機械を持ち込んで、厚い岩盤を掘削して、地下に流れている「きれいな美味しい水」をポンプを使って汲み上げて「豊かな水」のある社会を作り出しています。
 今まで発展途上国に住む人々は「雨」を集めた「濁った汚れた」地の表面を流れる水」を頼って生活してきました。土の下は彼らの持っている道具などは寄せ付けない厚い岩盤に遮られていたからです。しかもその「濁った汚い水」でさえも、雨が降らないために枯れ果てて、多くの人や動物が死んでゆくのです。
 イエス様を信じないで、その救いを拒否している人々も、霊的に同じ体験を繰り返しています。人々は自我という最初の岩盤に遮られて、心の奥底にある「神を信じて生きるいのちの泉」のあることさえも気づかないで、悩み苦しみ続けています。時には病気や失敗などによって自我がが砕かれて、少しばかりの信仰の喜びを体験しても、欲と情と云う厚い岩盤のために少しばかりの信仰も役に立たないことを知らされて挫折しています。
 ペンテコステ体験は「十字架の力」によって、どんな岩盤でも打ち抜い、聖霊が供給される「いのちの水」が、信じる心の奥底から流れ、信じる人の心の中から実り始める「愛から始まる、喜び、平安、善意、誠実などの聖霊の実」を結ぶ素晴らしい人生となって、暗い社会に証しています。

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本日の一言 (6月17日)

心のきよい人は幸いです。その人は神を見る。(マタイの福音書 5:8)

 子供の頃から、宗教心を持って育てられた人々は、いつもその心の中に、真、善、美、つまり「きよくありたい」との思いを抱いて生きています。社会の悪や、自分自身の自我の力によって「きよくありたい」との思いがズタズタに引き裂かれても、その心の中にはなお「きよくありたい」との残像があって、その考えの中に現れるものです。宗教心のある環境は尊いものです。
しかし宗教心は、今、そのほとんどの場合、自己主張によって打算的なものに変色して、「きよくありたい」との思いは消え「心が豊かでありたい」から始まってご利益信仰となり、願望を満たすための心の道具と化しています。その結果、自分の願望を失わせる現象を、すべて悪として捉え、自分の考え方や生き方を「きよくありたい」と云う心の鏡に写してみようとしなくなっています。
そこにはきよさを求める宗教心を失った現代人の不幸があります。恐ろしい犯罪を犯す前に、自分の心を振り返ることが出来ないで、自己主張を貫いて、接する人のことを配慮出来ない、「きよさ」を失わせる社会の恐ろしさは、毎日のようにニュースで知らされています。
 ダビデ王が、神の人ナタンから、自分の願望を満たすために、貧しい隣家の大切にしていた小羊を奪って殺した話を聞いた時、怒って「そんな男は死刑だ。」と叫びました。しかし神の人ナタンは「あなたがその男です。」と、ダビデの罪を指摘しました。その時「きよくありたい」との思いが心のどこかに残っていたダビデは、すぐ自分の罪を認めて、神の前に悔い改めました。
その結果、神もまた彼の罪を赦して、その心に「きよい神の霊」を注いで、「心のきよい人」として下さいました。彼の前に王とされたサウルは、決して自分の罪を悔い改めようとしないばかりか、すべてを人のせいにして、その結果、悪感情に流されて更に多くの人々を殺し、やがて神に捨てられて、誰ひとり支えてくれる人のない人生を閉じました。
 しかしダビデはその後の生涯、筆舌に表せない苦しみの中でも「心のきよい人」として、いつも神に祈り、神の約束に支えられた名君とされ、彼に接する人々に「心のきよさ」を持って生きることの幸いを、身をもって証しする人とされました。「きよくある」ために神は助け支えて下さるお方です。

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本日の一言 (6月24日)

私たちは この望みによって救われているのです。(ローマ人への手紙 8:24)

 自然界は今、次から次へと花盛りです。僅か100日前の光景からはとても信じられない美しい世界です。この美しい自然界の原因は、人々の目に見ることの出来ない「根」の環境から生まれます。どんなに素晴らしい花も、根がおかれた環境が悪いと、美しい花も一度だけで後は続きません。見えない根の働きが、大切な酸素を受けられるいのちの力が、地上に現れ美しい花を咲かせ実をつけさせてくれます。
 イエス様は、目に見えない霊の世界で、いのちの力の注がれる環境を備えるために「助け主なる神・聖霊」の働く世界をもって、信じる人々の心を包んでくださっています。その環境が「教会の中」に見られます。それ故に人々が教会に集まる時、目に見えるものの原因となる「心の動機」をきれいにしようとの思いがおこされます。動機がきれいな人は、たとえその時が思ったより結果が得られなくとも、いつか神の時が来たら、私にふさわしい、私らしい花を咲かせ実をつけることが出来ると、神に望みをおいて生きる人とされます。人と自分を比較したり、自分を良く思われようとして、辛い弁解を繰り返すことから解放された自由の喜びは、目に見えない世界の中で私の霊そして私の心が養われ育てられていることの素晴らしさを知る人の特権です。
 イエス様は、パリサイ人から「私はこの人のようでない」と比較された取税人の自己弁解しない生き方を、神に義とされて家に帰った人として賞賛されました。また、豊かな金持ちの家の残った食べ物を得て、病の中にも天を仰いで生きた貧しいラザロのために、用意されていたアブラハムの懐に抱かれた永遠の安らぎの理由を、神から与えられた望みに生きた人として紹介しています。心の動機をきれいにして生きた人々でした。
 望みをおき、心の置かれた環境が汚染された土の中に根をおろした草花のように、花を咲かせる事がないばかり、されを手にし、口にする人や動物たちに被害をもたらします。キリストにある「望み」のない人々の姿です。
 御子なる神イエス様による、和解の結果である「心の見える人生」を生きる幸いを知り紹介したいものです。

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本日の一言 (7月1日)

 また主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきである。(使徒の働き 20:35)

幸いな生き方は時代が変わっても、環境が変わっても変わるものでないことを知らない人々が余りにも多いために、多数決の優越性によって決定される現代の社会では、本当に幸いな生き方を見出すことは 不可能だと思われています。
それは、自分の気持ちが満たされることが幸いだと要求する人が続出しているからです。そう言う人は「要求」していることによって、自分の幸いはどんどん遠ざかっていることに気付いていないようです。
聖書の中で使徒パウロは「私には、自分のしていることがわかりません。自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ロ−マ 7:15)と、キリストの見本のない生き方の悲しみについて告白しています。自分にも出来ないことを、他の人に要求して苦しめて来た その生き方についての嘆きです。
 しかしこの使徒パウロの生き方は、主なる神キリストに出会い教会生活の中でキリストの愛に応えて生きた時、変わりました。要求する人生から人の欠けを補う生き方こそ、永遠不変の幸せな生き方であるからです。
 病気のために「ことば」さえも失った水野源三さんはその詩集の中で「キリストに出会ってから」と、キリストに出会い続ける幸せを与えることの出来る人生に変えられたと、喜び溢れて歌っています。
 腹を立てている人を見る時、その人のため神の愛の注ぎがあるように祈ることが出来る幸せ、気持ちをとり直して優しくしてくれた人のために代わって神に感謝出来る幸せ、それは健康でなくても、力がなくとも、そしてお金さえもなくても 心に満ち溢れて来る幸せです。「キリストに出会ってから 私の人生はこんなに幸せになりました」と歌う水野源三さんは、イエス様の心を受けて、イエス様の心に支えられて生きる幸せを沢山の歌で証しして来ています。
 イエス様は教会を通して「私はいつもあなたと一緒に生きていますよ」と聖書のみことばによって約束しておられます。
だから教会生活によって古い心の新陳代謝として、イエス様の心を注ぎ込んで下さっています。
接ぎ木が危険な養成期間を過ぎるとやがて接がれた枝が成長して美しい花すばらしい実を結ぶように、イエス様の心はそれを証しするものとなります。

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本日の一言 (7月8日)

ですから私たちは勇気を失いません。たとえ外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(コリント第2 4:16)

 聖書はイエス様を信じて生きる人には、「心の奥底から生ける川の水が、流れ出るようになる」とのイエス様のみことば通りの人生を約束します。
 夏になると子どもの頃、近所の地下水が湧き出る「泉」から流れる清流で遊んだり泳いだりした楽しい想い出がよみがえってきます。
ある時、心ない人が「泉」の上の崖から「ゴミ」を投げ込み「泉」は「ゴミ」のために壊滅状態となりました。子どもたちは泣きながら「泉」の周囲の「ゴミ」掃除をしましたが、肝心の「泉」の中の「ゴミ」には届かず「ガッカリして家に帰りました。
しかし1週間後もう一度「泉」に行った時、驚きました。「泉」は以前のように、きれいな水が溢れて「ゴミ」もすっかり流されていたからです。それは「泉」の奥底から溢れて来る地下水の力のゆえでした。自然界に満ちている不思議な神の力に驚き感動しました。
 聖書はイエス様を信じる人の心の奥底には、この不思議な聖霊なる神の生ける力、川の流れが湧き出て、どんなに失望させられるような状況に直面した時でも、神の力ある愛の流れによって、美しい心の流れが、聖霊の実と呼ばれる「喜び、平安、寛容、慈愛、忠実、節制」という花と実を以て、イエス様を信じる心のすばらしさを証し出来る人生に導かれると、教えています。
 今の社会は、たとえイエス様を信じていても、自己主張という罪の濁流によって押し流して信仰の挫折感の中に巻き込んでしまう恐ろしい社会です。しかしイエス様は十字架の死という敗北的な環境の中から、復活されて信じる人々の心の奥底の通じる、聖霊の蛇口を完成してくださいました。
 それ故に、心がどんなにこの世の中の汚れに汚されても、聖霊の蛇口に心がセットされる時、心の奥底からきよいいのちの水が溢れだして、心の奥底にある「神を信じて生きる」幸いを実感して生きる人とされるのです。
 大切なことは、心の奥底でイエス様としっかり繋がっていることと、心の蛇口のコックを「イエス様に従って生きる」方向に開いていることです。
 使徒パウロは「私は神の恵みによって、今の私になりました」と告白出来ました。
 「生けるいのちの水」が心の奥底から流れ出る人生は、私たちのものです。

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本日の一言 (7月15日)

聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント第1 12:3)

 現代は「受け入れる」ことの幸せを知る人が非常に少ないようです。「受け入れる」代わりに、自己主張を貫いて無視するする人々が続出して、人と人との間に冷たい空気が流れ、そのために傷つけ合い、時には殺人事件さえ起こしています。自己主張を貫くことの恐ろしさが社会に満ちています。
 イエス・キリストの十字架は、自己主張する人々のすべてを受け入れた結果の悲惨な姿を、今日まで教え続けています。
 しかし他面、イエス・キリストの十字架は、キリストが人間が自己主張を捨てて受け入れるべき御方であることを、聖書を通し「この御方による以外に、世界のどこを探しても、救いはない。」(使徒4:12)と、宣言しています。しかし自己主張を貫こうとする人々にとって、人間が自己主張を貫いた結果十字架に付けられたイエス・キリストを「受け入れる」ということは、自分の非を認めることになるので、特別な心境の変化のない限りできません。
 しかし聖書は、イエス・キリストに近づく人は、聖霊の働きによって、何の抵抗感もなく、イエス・キリストの十字架は自己主張した自分の救いのために今も立ち続けていることを「受け入れる」ことを示しています。
その結果聖霊が心に注がれて、自己主張ではなく「イエス様は私の主」と信じて行動する人生へ生まれ変わります。それは人間の努力や能力によらず、イエス様に近づいて聖霊の注ぎを心に受ける人だけに与えられる、特別な神の恵みです。
 インドで16年間キリスト教の伝道を続けた宣教師スタンレー・ジョーンズは、自分の能力を最大限に使ってキリストのすばらしさを教えました。しかし一人としてイエス・キリストを主と受け入れて救われた人生を歩んだ人はいませんでした。
失意のうちにアメリカに帰ったジョーンズは、人々にキリストを知らせることではなくキリストに近づけさせるべきだったことを知りました。その時から彼は、イエス様が共に行動して下さると信じて人々に近づき「イエス様は私の主」とする生き方に変わりました。すると彼と同じようにイエス様を受け入れ主とする人々が,1年で14万人も起こされました。
それは、霊なる神の働きの結果でした。

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本日の一言 (7月22日)

 だれでもわたしの声を聞いて 戸をあけるなら わたしは彼の「心の中」に入って...(黙示録 3:20)

現代は、ものごとを整理できる人と整理出来ない人とは、その生活に差が出てくることを知らされています。
何の役にも立たないと思われて 捨てられる「ゴミ」でさえも、今では分別収集して出すことを義務づけられています。整理してみると役に立たないものでも 行く先によって役立つものと変えられるからです。
イエス様は「すべて疲れた人 重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招いています。イエス様のところに人生の重荷をすべて委ねる時、「わたしは心優しく へり下っているから、わたしのくびきを負って わたしから学びなさい。」(マタイ福音書 11:28.29)と教えてくださっています。
イエス様の御許に人生の重荷のすべてを委ねる時、イエス様は、漁師が網を引き上げて、魚とゴミを分けるように、私たちの人生の重荷も役に立つものと、害をもたらす役に立たないものを選り分けて、私たちを役立つ者として大切にして下さいます。だからイエス様を信じる人々は イエス様に委ねるだけでなく イエス様に従って生きることは、 もっと大切なものとして生活化しておかなければなりません。
明治維新の混乱が収まって、日本にも憲法が発布された時、初の国会議員の選挙が行われました。その時は現代のように誰でも選挙権があった訳ではなく、高額な税金を支払う人たちだけにしか投票できませんでした。
その時 高知県で国会議員に立候補した片岡健吉は 友人の大隈重信の政党人として立候補するようにとのすすめを断って、心の中に語りかけてくださるキリストのことばの故に、立候補することを明らかにしました。
片岡健吉の友人たちは 落選するだろうと誰ひとり応援に行かなかったそうです。
しかし彼は最高得票数を獲得して当選したのみならず、初代の衆議院議長として推挙されました。
片岡健吉は生涯故郷では高知教会、東京では富士見町教会での礼拝を欠かしませんでした。それは心の中に住んで下さって「これは道だこの道を歩きなさい。」と教え導いて下さるイエス様のみ声を聞いて歩いた道であったからです。
キリストが心に住んで 語りかけられる人生には「いのちの光」が輝く、信用され導き教えられる生涯を歩みます。
それは人生の奥義を体得した人の歩む道でもあります。

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本日の一言 (7月29日)

ユダヤ人はしるしを要求し ギリシャ人は知恵を追求します。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。(第1コリント  1:22〜23)

 キリストを信じる人々にとって、一番大切なことは何でしょうか。それは自分が体験したキリストを伝える事です。そのためにキリスト者たちは、もっとすばらしいキリスト体験に引き上げられる信仰生活を大切にします。
 人間社会は、信じて体験していることは どんな障害物があっても、いつか接する人の心の中に浸み込んで行くものです。だから信じて体験している生き方を、いつも保ちまた少しでも引き上げるために、霊的な努力を重ねます。
イエス様の「人を赦す」と云う、神の国体験は、信仰の力によってイエス様の弟子となった人々の心に浸み込んで行きました。
自分の考え方を絶対化して、その考え方を受け入れようとしなかった人々を、次々と逮捕して時には「石打の刑」によって殺すことさえ行った迫害者サウロは、ダマスコの郊外で復活されたイエス様に接しました。
その時サウロは不思議な体験をさせられました。まず、「赦されていた自分」を感じて大人のキリスト者に成長させられました。
やがて、「愛がなければ自己主張によって全てが破壊されて滅びてしまう。無責任なもの」として有名な「愛の華」を 書き教える人となりました。
そこには「キリストの赦し」が、迫害者サウロの心の中にまで浸み込み、その心はキリストの愛に漬け物とされた生き方に満ちてしまったからです。
それ故に「自己主張する大岩のような頑固なサウロから、キリストの愛に満たされる小石のようなパウロ」と名前を変えて再出発人とされました。
 本州と淡路島を結ぶ「明石海峡大橋」には人々に知られていないものが通っています。直径1メートルもある太い水道のためのパイプです。
それは淡路島には水源地が無い為、人々は、夏や雨の降らない時、特別に神戸や明石から水を送るようにしました。この大切な水が人々のために役立つようになるために、淡路島側にポンプアップする設備が作られています。
 キリストを受け入れた人々のためイエス様は信じる心に聖霊を注いで心をポンプアップしてキリストの赦しの愛に生きてキリストを主であると伝える人とされるのです。

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本日の一言 (8月5日)

 神はあなた方のうちに働いて、志を立てさせ事を行わせてくださる(ピリピ人への手紙 2:13)

 キリスト信仰が「福音―よろこびのメッセ−ジ」となる原因は、人や自分に失望し、神なるキリストに望みを抱き続けることです。
 使徒パウロは、この信仰に立つために「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
これは今の私たちを救い出し、将来も私たちを救い出し、どんな環境の中にあったとしても私たちを救い出して下さる御方は神であると云う望みを与えて下さる(聖書 第二コリント 1:9−10)」と救いの信仰のダイナミックな生き方を証しています。
つまりキリスト信仰の源泉は、どんな状況の下にあったとしても「私たちではなく神なるキリストにある」という事で、そしてそれが信仰が「福音」となる生き方なのです。
 日本人の信仰観は、その原因を「信念」において生きようとします。だから いろいろな体験の中で「信念」がくずれる時「信仰」も失われます。そして自分以外の人で「信念」に生きている人がいると、その人に望みを託そうと思うようになります。
 「信念」の信仰は その文字のように「信じて念じる」ことを繰り返している中で、実現するような錯覚に陥ってしまうものです。
小泉首相に対する日本人の抱く思いはその見本のようです。どうしても崩すことの出来なかった 自民党の悪循環に挑戦した小泉首相の「信念」の強さに感激した人々が、内容の確認をすることなく、ただ小泉さんの云っていることだから 実現させたいと云う感情が「信念」となっているのが実状です。
これは一歩間違えば非常に危険です。国民感情が全体主義に走る可能性が大きいからです。
靖国神社は、時の政府の指導に従って死んだ人々の霊を祭るために作られた この世的思想の報いられる場所であるとの「信念」が 多数の日本人の国民感情を動かしているからです。
 キリスト信仰は「信念」ではなく「福音」の事実です。
「キリスト信仰は神の選民であるユダヤ人を滅ぼす 麻薬のようなものである」との「信念」をもって迫害者人生を生きたサウロは、十字架の死をさえ人々を救う神の愛の働きであったことを知って、自分の「信念」を捨てて「福音」のために生きる使徒パウロとされました。
それ故に聖書のみことばが伝えられるかぎり、パウロの生き方が永遠に賞賛される「祝福の人生」として伝えられるのです。
今こそ神なるキリストから始まる「福音」によって生きる祝福の証人が必要なのです。

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本日の一言 (8月12日)

主は仰せられた「今行け、わたしはあなたをパロのもとに遣わそう」(出エジプト記 3:10)

  全世界の人々の中に働かれる神は、狂信的な人々が期待するような超自然的な方法によってお働きになることなく、どんな場合でも「神のみこころを行う人を育てて、神の知恵をその心に注ぎ込んで、人格的な神の働きを進められます。
 エジプトの王が人間的な知恵を駆使して、王の権力を発揮して、人々を地獄のような苦しみに合わせていた時、ミデアンの荒野にて神によって訓練されたモーセは、神の選びの民を救い出すために、エジプトのパロ王の 前で、その心に注がれる「神の知恵」によって立ちました。
神の知恵は、ただ論議を繰り返すだけの「オシャベリ」ではなく、神の全能の権威の力ある「ことば」でした。そのために、モーセの語ることばは、神の力を伴ってすべて事実となりました。
 脅迫的なエジプトの王パロのことばをさえ、空しく葬り去り神の選びの民たちに「紅海」の先を目指して進むよう導くことばとして語られました。
モーセによって語られた神のことばは、「人間の権力」によって語られたパロ王のことばに勝った「神の知恵」にみちたことばでした。
「人間の英知」による、紅海を後ろに「イスラエル全滅」と思われたその道も、逆に世界最強のエジプトの軍隊が紅海の底に全滅するという、完全な神の勝利に導く「神の知恵」による勝利となりました。
そのために「神の知恵」と信じて行動する指導者モーセの果たす役割が必要でした。
1945(昭和20)年の日本の社会は、人間の知恵争いに破れて「地獄絵図」さながらの光景でした。武器のない丸裸の日本の空は、大型爆撃機の爆弾攻撃に、全国の都市は火の海と化しました。
そして沖縄では「生き地獄」のような地上戦となり、広島長崎では原子爆弾が落とされ、おびただしい人々が傷つき苦しみながら死んでゆきました。
また不可侵条約を結んでいた「ソ連」が突如戦争に加わり、沢山の人々が飢えと寒さのために、非業な苦しみをうけて死にました。
すべて「人間の知恵」によるものです。
この地獄の苦しみの中で、ダグラスマッカーサーは「神の愛による快復」をとの「神の知恵」の注ぎを体験したそうです。そして平和日本の立て役者となりました。
「神の知恵」の注ぎを受ける、現代の小さなモーセは誰でしょう。

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本日の一言 (8月19日)

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ福音書 1:5)

  太平洋戦争の末期現象の中、B29大型爆撃機による大空襲で投下された焼夷で火の海となった市内を、私は学徒動員での疲れ果てた肉体にむち打って、病身の母と幼い二人の弟たちの頭に水で濡らした布団を掛けて、投下される大型花火のような焼夷弾をくぐって夜中逃げ続けました。
その夜の空襲による私たちの町の死者は44人以上と報告されています。疲れをいやす暇もなく、学徒動員で働きに行っていた豊川海軍工廠がB29大型爆撃機100機の大型爆弾を投下され、身を守るものもなく道路を逃げまどう私たちは、空からグラマンやP51戦闘機によって機銃掃射でねらい打ちされ、目の前で機銃弾に打ち抜かれて友人たちは死に、数人だけが残りました。
その翌日、広島に原子爆弾が投下され、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破って、丸腰の日本に攻撃を仕掛けてきました。
6月19日から8月7日までの間、私たちは文字通り、皆殺しに合う苦しみの中をただ逃げるだけの時を過ごしました。
中学二年生の私は「どうせ殺されるなら、敵を一人でも殺して死のう。」と思って少年兵に志願し、納得行く死に方をすることに決めました。
 あれから56年、平和な時代が到来しました。
しかし人々の心の中はその時と同じように、恐ろしい自己主張社会の地獄の中で、何に向かってどう生きて行けばよいか全く判らず、ただ何となく「自己満足」を求めて逃げ回っているだけのようです。やみが人の世界を覆っています。
そしてどんなに逃げても、やがて「死」という本当のやみに捕まり、死のやみの中に巻き込まれ永遠の苦しみに落ちて行きます。それが一皮むいた本当の人生の姿です。
 故に詩人ゲーテはその暗闇が襲いかかろうとした時、両手を空に向けて「光はまだか」と何かを捕まえようともがいて死んだそうです。
俳人正岡子規も襲いかかろうとする死を恐れて、看病する母に「助けて」と泣いて叫んだそうです。
やみが覆って何もない時、神が「光よ、あれ。」と仰せられると光が出現し、やみも夜とされたと聖書は啓示しています。
 その光とは「わたしは世の光です。わたしに従ってくる者はやみのうちを歩くことなく、いのちの光を持つ」と仰ったイエス様です。
イエス様は「死」も打ち破って「いのちの道」とされた御方です。

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本日の一言 (8月26日)

神は霊ですから 神を礼拝する者は 霊とまことによって礼拝しなければなりません(ヨハネ 4:24)

  神学校の教室で、恩師の小島伊助先生が「神が霊であると信じることは、神がすべての根源たる御方であると云うことだ」、「神は霊であるとは、零ではなく無限に続く零の先に存在する“1”である」と語られたことを一夕も忘れることはありません。
ゼロだけでは幾つゼロがいくら続けられてもゼロです。
しかし、ゼロの先に“1”がつく時、ゼロがつけ加えられるだけ大きなものとなります。
神は私たちの信仰に応じてその偉大さが比例して判る御方です。そこに信仰の心と主なる神であられるイエス様を頭に戴いていることの尊さがあります。
 テレビや新聞のニュースで今年の夏の暑さと異常渇水が毎日のように告げられていました。そのために日本中で取水制限を行い水道の水も節水するようにと呼びかけが始まりました。
そして先日、不思議な台風が南は沖縄から北は北海道に至るまでゆっくり、ゆっくりと日本列島に沿って北上して日本中に充分な雨を降らせてくれました。
気まぐれ台風の偶然のおみやげと決めつけるには余りにも調子の良い台風の到来です。そこには人格的な働きが見られます。
 宗教は偉大な宗教体験をした宗教家を「神として仏として」拝みます。
しかし、この台風をもたらした人格的な御方と多くの人々が拝む神や仏とは余りにも大きな違いがあります。見えない霊の力を持つ働きです。
 イエス・キリスト様はこの自然界をご自分の意志のように動かす霊の力を持つ神としての存在された方が人の眼に見えるかたちである「人間」としてこの世界にその姿を現せてくださった「人となられた神」です。それが故に聖書は「この方にいのちがあった このいのちは人のひかりであった」(ヨハネ 1:4)と証しています。
この「人の光」とは「霊の知恵」によって明らかにされる神の働きです。霊の働きはこの地球を創っています(創世記 1:2)。
そして神のことばに沿ってそのすばらしい力はすばらしい結果をもたらします。それが罪の奴隷であった人間が神の子とされて聖霊の実を豊かに結ぶ(ガラテヤ 5:22〜24)という個人生活の中にまで実現する神の働きです。
だからこそこの神との接点として私たちの霊的状態は大切にしなければなりません。

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本日の一言 (9月2日)

約束された方は 真実な方です。 (ヘブル 10:23)

 今年 日本の社会は「小泉旋風」が全国に吹き、今もその旋風は吹き続けて その力によって「構造改革」が進められようとしています。
なぜ今年になって「小泉旋風」が吹いたのでしょうか。それは小泉さんの生き方や考え方の中に、今までの政治家に見られなかった「真実さ」を感じた故でした。
そしてこれから「真実さ」がほんものかどうか、その結果が明らかになるようです。
 「真実さ」は社会の中で尊いものです。そしてその「真実さ」は結果によって 本当の真実であるか見せかけの真実であるかは、時間、あるいは歴史がすべてを明らかにいたします。歴史を動かす真実な神の働きがそこにあるからです。
 イエス様は 弟子たちに大切なことを教える時「まことにまことにあなた方に告げます」と語られました。この「まこと」とは、聖書の原文であるコイネ−ギリシャ語の発音は「ア−メン」と呼びます。
 イエス様はいつも ひとりひとりの人とお会いになります。そしてイエス様と会った人は 根本的にその生き方考え方が変えられます。外見的な関係を大切にすることから、内面的なことを大切にする人とされます。
現代人は「結果」を重視するあまりに いつも外面的な生き方によって その心の内面は「ズタズタ」になっています。すぐに「キレ」る人々の姿は「真実さ」を無視した「結果主義」が生み出した悲劇です。
使徒パウロが、迫害者サウロと呼ばれていた時の生き方考え方は「キレ」ることで 彼自身が苦しんでいた人でした。
自分の信念と相容れないキリストを信じる人々に対して、暴力の限りを尽くし 人々を扇動して 石打ちによって殺すようなことも 平気で行い、その上に自分を正当化しようと ことばの争いに 明けくれた人生を歩いた人でした。
そこには 生きて行く上で、もっとも大切な「真実さ」など どこにも見当たりませんでした。
その迫害者サウロによって殺されようとした キリストの弟子ステパノに最後に接した時、大きな衝撃を受けました。ステパノが死を前にしても尚「真実さ」の結果である「赦しととりなしの愛」をもって サウロのために 祈り続けたことでした。
それはステパノの信じた「主なる神イエス・キリスト様」がもたらした「神の真実」を反映した結果でした。
「真実さ」の結果は「神の愛」を見させるからです。
十字架の上で「真実な神の愛」を示されたイエス様はご自分を信じる人々の心に復活の力を注いで「神の真実な結果」をもたらしてくださいます。

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本日の一言 (9月9日)

この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。(ヨハネ福音書 1:12)

 21世紀は「心の時代」と言われ、世界の教育界も経済界も「心」に深い関係のある『インフォメーション・テクノロジー=I.T』に関心を抱き、人も金も投入してきました。「心の問題」を解決するために必要だからです。
 ところが社会全体の努力にも関わらず、最近では逆の現象が世界中に拡っています。
「人々の心」がよく「キレル」ことです。「心がキレル」とはどう云うことでしょうか。
昔の人は「堪忍袋の緒が切れる」と云いました。我慢の限界を越えた時「キレル」と云うことばが使われました。
しかし現代人は何も我慢しなくても「心」は「キレル」のです。心は感情の調整機能を喪失しているから、何か自分の思い通りにならないと、すぐ「キレル」のです。堪忍袋の緒(ひも)という「信じる」ことによって働く調整機能を失う時、人の心は堪忍袋の緒(ひも)も失ってしまうのです。
 聖書は「心」について、旧約では「胸」(出エジプト 28:29-30)とか「心 臓」(ヨブ 41:24)などのように大切ないのちの力を生み出すところを包む存在をさすことばを使っています。また新約では「考えるところ」(ロマ 1:21)とか「決定するところ」(マルコ12:30)など、知的な存在を示す時使うことばが使われています。
つまり「心」はいつも「受け身」な存在なのです。
つまり「命令する絶対的な存在」に従う性質をもって働くところが「心」です。
だから人々は自分の心に対して「絶対的な立場」をもつ存在が必要です。
そのような存在を持たない人は、何でもない小さなことで悩んで病気になったり(イザヤ1:5)、大したことでない事で感情を損なって失敗を繰り返して、敵ばかりを作って不幸な人生を送り続けます。
 人として生きてゆくために絶対に必要な御方が、超越的な神なのです。
 神が人となられて、人の弱や惨めさを体験され、救いの道を十字架と復活によって開かれた御方がイエス様なのです。
 イエス様だけが、人の「心」に対して「絶対的な立場」を持ち支え救う「主なる神」なのです。
ロンドンのセントポウロ教会の講壇の左壁面に、有名な「戸を叩くイエス」という絵が架かっています。その絵のイエス様は悲しそうな顔をしていました。
人々の「心の外」に置かれていたからです。心に主を受けとめましょう。

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本日の一言 (9月16日)

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 (ヨハネ福音書 8:12)

 若い頃、スキーの上手な友人たちに誘われて、スキーで冬の山越えをしたことがありました。低い山でしたが道に迷い、その上、夜となりました。月の光のまったくない暗い夜は、一面銀の世界のはずが、手探りするような「真っ暗闇」で、懐中電灯だけが頼りの心細い時でした。
その時チームのひとりが、はるかかなたの光を見つけました。それは一軒の小さな農家でしたが、疲れ切った私たちにとっては、大きな励ましの光でした。そこに助けを求め、温かく受け入れられたのは言うまでもありません。暗い世の中には、たとえ小さな光でも、貴重なものです。
 最近の新聞やテレビのニュースは、政治から経済、そして社会の姿にまで暗いニュースばかりが重なり、遂にアメリカのニューヨークとワシントンの、現代の世界の代表的な建物に、ハイジャックされた大型旅客機が体当たりし自爆すると云う、60年前の日本の神風特攻隊のアメリカ航空母艦への体当たり攻撃と同じことが、平和な社会の中で行われて、もしこの対応を一歩でも間違えて、アメリカが世界の国々を巻き込んでテロ国家を攻撃すれば、原爆を使った世界戦争になりかねないという、恐ろしい状態の中にあります。
 しかし聖書は、社会がどんなに暗くなっても、その中に「キリストにある光」を持った人々が残されると預言しています。
しかもひとり二人ではなくどんなに少ない時でも「7000人と云うまとまった人々を、光を回復させるために用意する」と書き加えています(聖書 ローマ 11:3〜5)。
この「いのちの光を持つ人々」とは、救い主として、十字架の上で殺される時でも「父よ、彼らをお赦し下さい」と愛の光に輝いた祈りをされた、イエス・キリスト様のみことばに従う人々です。イエス様は十字架上でこの暗闇の勢力によって殺されても神の力によって甦り、今も、救いを受け入れる人々の心に「復活のいのちの力」の伴った「愛の光」を灯されます。そして暗やみの世界を心から追放する「いのちの力」に満ちた「いのちの光」を持つ人生を歩む者として下さいます。
 詩人ゲーテは「光はまだか。」と言い残して死にました。しかし聖書は「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と、勝利の宣言をしています。

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本日の一言 (9月23日)

私たちの信仰 これこそ世にうち勝った勝利です。(第1ヨハネ 5:4)

 シドニーオリンピックの女子マラソンで、高橋尚子さんが優勝して金メダルを獲得しました。普通は 金メダルを獲得した選手はすぐに国旗をかざし、グランドの観衆に面したところを走ります。
ところが高橋尚子さんは、グランドではなく観覧席下にある準備のための広場をウロウロと人を探していました。彼女の探していた人は、恩師であり指導者であった小出監督でした。
小出監督を見つけるとすぐに抱きついて、優勝の報告をした後、グランドに出て日の丸を掲げてウイングランをし、観衆の喜びに応えて走りました。
それは心温まる一連の光景でした。勝利の喜びは、決してひとりじめすることなく、苦労を分かち合った人々とまず共有する時、喜びは大きなものと変わるからです。
 使徒ヨハネは、イエス様から「ボアネルゲ・雷を落としてばかりいる人」と仇名を付けられるほど、自分の感情を抑えることが下手な人でした。
ところがそのヨハネが、イエス様の弟子としていつも生活を共にしている間に、彼の性格に変化が始まりました。そしていつもイエス様に対する受け身な態度を大切にする生活となりました。
その結果、彼の心の中にイエス様の愛がどんどん注がれて、人々から「愛の使徒ヨハネ」と呼ばれるようになりました。
だからいつも喜びの時も悲しみの時も、まずヨハネはイエス様に、その時のありのままを申し上げ、感謝したり、涙したりでした。
そのような心の柔らかさは 聖霊が働き易い性格でした。
 初代教会の弟子たちは、激しい性格の故に、福音を無視したり反対する人々に挑みかかるような伝道を進めました。その結果、大部分の指導者は殉教し、愛するイエス様のみ許(みむね)に召されて行きました。
ところが使徒ヨハネだけは、迫害の激しさの中でも、エペソ教会の監督として、人々をイエス様の愛の救いの中に導き続けて、90才以上になっても現役の牧師として働きました。
それは、キリストの十字架こそ「愛の勝利者」のしるしであることを人々の生活の中に現らかに示し続けたからです。
 ダビデは「主はわたしのよい牧者」と詩篇23篇で賛歌しています。このよい羊飼いであるイエス様によって、心と体が守られる人は「たとえ死の陰の谷を歩かされるようになっても、恐れることはありません」と証しました。
これこそイエス様がもたらしてくれた「愛の賛歌」です。心が弱る時、真剣に「十字架のイエス様を私のため」と見上げる時、私たちの心に不思議な喜びが始まります。
それが、勝利者の歌う歌なのです。

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本日の一言 (9月30日)

イエスの足もとにひれ伏して 感謝した。(ルカ 17:16)

 最近、埼玉県で開かれた「老人ホ−ム キングスガ−デン日本連合」の研修会に参加しました。この「キングスガ−デン」と云う老人ホ−ムは、全国でも珍しい「非拘束(何があっても縛らない)制度」とタ−ミナル・ケア−(死に行く準備)を実施している純粋なキリスト信仰に立つ施設を経営している、社会福祉法人です。
 その研修会で発表された、老人たちの変わり方はすばらしいものでした。ひどい痴呆症のためにいつも周囲の人々を「ドロボ−呼ばわり」しては「警察を呼べ」と、あばれていた老人が、「感謝、感謝、ありがとう」とのことばをもって 周囲の人々にもらすようになったのです。
ビデオテ−プを見た人々も、みんな感動しました。このような変化は、介護スタッフが徹底して昔の楽しかったことを思い出させて「神さまの恵みでしたね」と、あいづちを打ってあげる応対のくり返しの中で 生まれて来たものだそうです。
老人の心の一番深いところにある思いは「嬉しかったこと 楽しかったこと」だそうです。しかしそのほとんどの人は それが昔の事として 心の奥にあるタンスの引き出しに閉じ込めています。時々思い出しても「遠い昔の思い出」として今の生活にはつながらないそうです。
しかし その「楽しかったこと、嬉しかったこと」を神さまの恵みとして心の中で再成をくり返しているうちに、今も続く「神さまの恵み」に結びついて「感謝、感謝、ありがとう」と 毎日の生活の中で 人々の好意に気づくようになりました。
 イエス様の時代に、人々は自分を認めさせるために、他の人との違いをさがしました。パリサイ人と取税人の話はその見本のようで「私はこの取税人のようでないことを感謝します」と、感謝さえも人と自分を較べました。
そのような社会の中で 特別な「皮膚化膿症」とも云うべき病気が 時々流行して人々を悩ましました。その特別な皮膚病になった人々を「神に呪われた人」と決めてしまうほどでした。
しかしイエス様は人と自分と比較して感謝したり悲しんだりする「罪の心」を「十字架の愛」と云う「心の薬」によって消し去ってくださいました。
10人のその病人が幸いな体験をしました。ところが10人中9人は「神の恵み」であることを忘れて「ラッキ−だった」と喜ぶだけでした。
しかしその中のひとりだけ「神の恵み」として思い出しイエス様に感謝しました。「神の恵み」の思い出がある人は、その神の恵みは今も続きます。
それが「いやし」のすばらしさです。

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本日の一言 (10月7日)

私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。(ヨハネ第1の手紙 1:7)

 聖書の教える生き方は、きよい神の御子イエス様との交わりを保って生きる」ことです。
それは熱心な信仰によって、何か特別な体験をすることではなく、神のみことばである聖書のことばを受け入れ、信頼の心をもってみことばを与えて下さったイエス様に従う心で生きる時、そこにイエス様が実現してくださる「きよい信仰」があり「きよい信仰のしるし」としての、イエス様によって勝利する人生を歩むことが出来る、美しい「きよい信仰の花を咲かせて社会の人々から認められる「勝利の信仰」の証しが見られるようになります。
 20世紀の後半から、人間の世界には人々を恐怖に陥れる恐ろしい病気が新たに発生しています。
その代表的な病気は「エイズ」であり、そして今、多くの人々が恐れて「牛の肉」を食べようとしないでいる「狂牛病」です。
そして、その二つの病気には共通点があります。治療法がどうしても判らないことです。
原因は、聖書のみことばをもって、神が禁止していることを 人間が自己主張によって無視し、破っていることです。
 聖書は同性愛を神の愛を拒否して社会に害毒をもたらすために禁じています。
しかし人間は男女平等の「自由恋愛」を主張して同性愛は世界中に拡がっています。
「エイズ」は最初、同性愛者たちの同性セックスによって発生しました。そして アメリカでは2000万人以上の人々に「エイズ」の陽性反応が出ているそうです。
 もう一つの「狂牛病」は、聖書は「子牛を母の乳で煮てはならない」と禁じています。
しかし食肉業者たちは同種族の共食いによって「おいしい肉・早い成長」を求めて牛の飼料として、他の牛の躯や骨を粉末にして混ぜて食べさせて来ました。
「牛骨粉」を食糧として与えた牛の肉を食べた人々の中に「狂牛病」が発生しました。今では世界中が牛肉パニックに陥っています。
「エイズや狂牛病」で死ぬ人は、テロで死んだ人々の一万倍にもなっています。テロで死んだ人々と、この二つの病気で死んだ人々のために本当に心に深い悲しみを持って残された人のために祈っています。
 神の愛を無視し拒否する社会の不幸な宿命です。
だからこそ私たちは 神のみことばによって「悪の力」から「イエス様によるきよめ」を人々に伝え「勝利の人生を共有したい」との思いで、福音を伝えます。

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本日の一言 (10月14日)

聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして地の果てまで、わたしの証人となります。
五旬節の日になって、皆が一つ処に集まっていた。(中略)すると、みなが聖霊に満たされ...(使徒 1:8、2:1〜4)

 聖書は「教会とはキリストの体」であると宣言しています。つまり一人の人間の頭と体のような、人格的、生命的なつながりをもった存在で、体のどのようなところが痛んでも全身で痛みを感じ、体も頭が考えることに、行動を伴って従う関係であると教えています。
キリストは「キリスト教」という宗教的な組織体ではなく、救い主であるイエス様との間に「あなた方は、私を離れては何をすることも出来ない」と、「ぶどうの樹と枝のような形で実を結ぶ」と、弟子たちに教えています。
 それはキリストの教えではなく「いのちのつながりの事実」として、教会の姿が示されています。それが聖霊を受けてキリストの証人となることで、そこには、個人が大切にされながらも、生きる目的はイエス様のためです。
そのような生き方を求める人々のために聖霊がお働きになります。
 明治時代のクリスチャンで、最初の衆議院の議長になった片岡謙吉は、毎週、霊南阪教会に出席して、礼拝の案内の奉仕に励みました。その教会に衆議院の事務総局の係長をしている人が、友人に誘われて出席しました。
衆議院の係長は当時の社会では「高等官」と呼ばれた、大変偉い立場の人で、自分も「偉い立場」にある人間であると、自慢していたほどでした。
だから教会に出席して「履き物を頂きます」と、手を出した片岡謙吉にも、高慢な態度で足を突き出して履き物を脱がせました。
ところが帰る時、受付は自分の勤めている衆議院の議長である片岡謙吉であることを知って驚いて平身低頭してお詫びしました。
その時片岡謙吉は「衆議院議長は国から頼まれて受けたが、教会の受付は全世界を支配している神の命によって、奉仕させて頂いている光栄の限りだ」と謙虚にに履き物を渡しました。
 それは片岡謙吉の心の中に働かれるイエス様が育てた生き方でした。
 イエス様の十字架の救いに与った人々の心には、助け主なる聖霊が働いて、イエス様のために生きることの素晴らしさを体験させてくださいます。
そのような人生に、聖霊の実を結ばせて、「イエス様の証し人」として生きる喜びを満たしてくださいます。
教会とはそのような人を育てる処です。

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本日の一言 (10月21日)

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者への書 3:11)

 最近また小説家「三浦綾子さん」の小さなブームがあるようです。テレビで彼女の朝日新聞懸賞第一位当選の「氷点」がもう一度、再制作・上映されたり、全集が再出版されたり、また多くの著作がテレビ化されようとしています。
三浦綾子さんはキリスト信仰者としても、立派な考え方を持たれて、「塩狩峠」とか「新約聖書物語」などを出されています。
 その三浦綾子さんは死期を感じ始めた頃からいろいろなものに「自分にはまだ死ぬと云う最後の仕事が残っている」と書き綴っています。
それは、マラソン選手がゴールを目指して大観衆の声援を聞きながら「ゴールイン」する時とまったく同じように、天国に晴れのゴールインできるために、最後の自分に残っているエネルギーを発散させて、時にはそれが倒れ込むような状態であっても、めでたくゴールのテープを受けると云う、人生の最も大きな仕事として三浦綾子さんは自覚しておられたからです。
これが、ゴールに続く賞賛を、天国へ先立っていた人々から受けて、ともに楽しく「人間として生きた人生レース」を振り返ることの出来る「永遠のいのち」を与えられて生きる人々の、マラソンコースです。
 神は人間にだけ、この永遠を思うと云う「思い」を心の一番深いところへ与えて、人として生まれさせてくださいました。この思いは動物にはありません。したがって動物の墓を作ったり葬式をするなどは問題外です。
使徒パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が、私のために用意されているだけです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです」(第2テモテ 4:8)と、大胆に告白しています。
 人生のゴールのかなたにある栄光を信じて、与えられた人生における使命を果たし続ける人々の幸いな人生がここにあるからです。
 イエス様が、神の立場を捨てて人となり、十字架の果てに復活に続く道を開いてくださったのは、すべての人々が「永遠のいのち」の恵みの道を、感謝し喜びつつ歩くためでした。

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本日の一言 (10月28日)

わたしはぶどうの木で あなた方は枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその中にとどまっているならそういう人は多くの実を結びます。わたしを離れてはあなた方は何をすることも出来ないからです。(ヨハネ福音書 15:5)

 今はどこへ行っても収穫のシーズンです。動物も厳しい冬を越すために、食欲の秋として野に山に木の実を求めて駆け回っています。
私の家にも「少しばかりであるがと裏庭の栗の木から落ちたものだけれども中華料理の栄養一杯の水を吸っているのでおいしいようです。」と大きな栗を貰いました。
この素晴らしい収穫の季節は、主なる神が創造された生物のすべてを養い育てるために作られた自然の法則の結果です。
 そして主なる神イエス様は、人間に対しては創造されたすべてのものの管理者として特別な役目と権限を与え、またその収穫物を自分の考えのままに利用する事の出来る支配者として託してくださいました。
このために神から託された管理者としてまた、支配者としての立場を大切にそして忠実に守るなら神は育てられる御方として祝福してくださいます。
しかし、真の所有者である神を無視して自分の考えを第一とする時、神は育て養う力を注がれる事を注ししたり、少しずつカットして神から離れた考え方が、どんなに正しく見えても神から離れた考え方であることの証拠として「不安な思い」が生まれその不安な思いが的中するような事が次から次へと起こってきます。
 世界経済が信じられない程の早さで悪くなり、人々の道徳的な考え方が自分中心的な恐ろしい程の悪を生み出した事実は、人類がすべてを創造された「主なる神」を無視して自己主張して来た結果です。
 神は自然界に接ぎ木の法則をも用意してくださいました。その代表的なかたちが悪に傾く罪人の為に、神ご自身である方が十字架の上で御自分の体を提供してくださいました。
その十字架の心を私の心に接ぎ木の理論で結ぶ時、十字架のいのちの力は私たちの心に流れ込み神の愛と力によって、私たちの心は新しい「神に養われて育ち、神の喜ばれる実を結ぶ」すばらしい人生に変えられます。
 だからイエス様は今日も「私にとどまるならば私もその人の中にとどまります。」と呼びかけておられます。

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本日の一言 (11月4日)

イエスが来られて言われた「平安があなた方にあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなた方を遣わします。」(ヨハネ福音書 20:21)

 私はスポ−ツ大会の入場行進を見るのが好きです。高校野球の入場行進を見るために、和歌山県から甲子園球場にまで出かけたこともあります。
私だけでなく、スポ−ツの好きな人はみな例外なく入場行進を見ることが好きです。
そこには「選ばれて、代表として遣わされた」感動に満たされた喜びを、すべての選手の顔に見ることが出来ます。オリンピックに自分の仲間や家族が入場行進するのを一生懸命に見ている人にまで、その喜びは共有することが出来ます。
 イエス様は、イエス様の救いに与った人々に対して「あなた方がわたしを選んだのではない わたしがあなた方を選び任命したのです。それはあなた方が行って実を結び、そのあなた方の実が残るため」と、イエス様を信じて生きることのすばらしさを教えました。
イエス様から 選ばれて遣わされて生きる、それがイエス様を信じる人生だからです。だからイエス様によって遣わされて生きる人は「力のない人の弱さをにない、自分を喜ばせるべきではありません。」(ロ−マ 15:1)と、聖書は教