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新年あけましておめでとうございます。神さまの救いの約束が今年こそ実現するようにと、期待して「約束のもことば」を信じて第1歩を歩きだしましょう。 新年は神さまのみことばを期待して、歩き出すために与えられた日だからです。 神さまは、エジプトでの奴隷の苦しみの中にある、ご自分の民を救うために過ぎ越しの祭を守るようにとお命じになりました。 その「過ぎ越しの祭」の準備の第1日が、年の始めの日と定められたと、聖書 出エジプト記12章1節に記録されています。 だからその時から神の民は「種入れぬパンである餅と、 苦い菜である水菜を入れて、羊の肉の代わりに鳥の肉の入った雑煮」を、家族が全員集まって食べながら、神さまの働かれる恵みの日を期待して守って来ました。 しかし「雑煮を食べて神さまの愛と、その恵みをお祝いする」と言う、信仰の心だけをどこかに忘れ捨てて、新年を祝う形だけが残っています。 過ぎ越しの祭の主人公は、罪の身代わりとなって殺される「傷無き子羊」です。それは、神さまがやがて救い主として送られる「神の子羊なるイエス様」を指し示す雛形でした。 だから彼らは過ぎ越しの準備の中で、罪の身代わりの制度を立てて救い出してくださる「神の愛」を、繰り返し感じるようになりました。 イエス様を「私の主」として受け入れ続ける人は、聖霊が働いてその心に 神の愛を注ぎ続けて、イエス様の愛を心の中に育てて、やがて時が来るとその愛がその心に溢れて、イエス様の愛を人々の心に注ぐ人と変えられて、イエス様に感謝しながら、人々にイエス様の愛をもって与える人生を歩く人とされます。 ヘレンケラーの両親は、祈って神さまから与えられた可愛い女の子が2才の時、思いがけない高熱のために、見えない聞こえないしゃべれないという三重苦の苦しみを背負う、生まれもつかぬ重症心身障害児となって、一時は悲嘆の涙に暮れる生活となりました。 しかしイエス様は彼らに十字架の愛を繰り返して示されました。その結果、その三重苦のこどもも神の愛を知って心の中で育てて、神の愛を、身をもって説いた「愛の聖徒ヘレンケラー」となりました。 彼女の示した光は、イエス様の愛のすばらしさの故でした。 |
一昨年前、ノ−ベル化学賞を受けた筑波大学名誉教授の白川英樹さんは 「物質的な豊かさが(頭と体を働かせる)理科離れを加速させる」と、1月5日の朝日新聞に投稿されたなかで、
と、すべてのものを働かせないで
一部だけを働かして 欲しいものを手に入れようと云う考え方や生き方に 警告を投げかけています。 「神の国は近づいた 悔い改めて福音を信じなさい」
バブル的なんとかなると云う考え方は、「何ともならない」と云う、
現実に直面しようとしています。 |
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今世界は「先が見えない時代」と呼ばれています。
1.宗教的原理主義の強調による争い
その結果、全人類の中に大切な「愛の思想」が冷たくなると、イエス様は警告しています。 |
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今、時の人としてプロ野球「阪神タイガース」の星野仙一監督の一挙手一投足がスポーツ関係以外のマスコミに話題をもたらしています。 星野監督のキャラクターである、選手を愛しチームを愛する情熱が人々の心を動かしてきたからです。 その、人の心を動かすキャラクターは、恩師の明治大学野球部時代の監督で、人々から「御大」と呼ばれた島岡吉郎さんから影響を受けた結果だと本人も語っています。 愛するための情熱をもって、時には無責任な者に「ゲンコツ」を見舞うことさえもあることを、自他共に認めています。だからこそプロ野球ファンは、星野監督に声援を送り続けて来ました。 現代は「愛の情熱」よりも合理的な常識を優先して、無責任な考え方や怠け者の生き方を許して、人の心を動かす力よりも、人々の気持ちを上手に操るための社会となっています。 だから社会は、政治的にも経済的にも、自らを犠牲にして情熱を傾けて生きる生き方が軽視されています。 そのような考え方をする人々が益々増える未来について見通し「闇の世界が待っている」と大多数が予測しています。人の心を動かす情熱ある人々があまりにも少ないからです。 この予測は、自然界の予測と同じように、このまま進めばその通りになることでしょう。 神は、自分の今のことしか考えない人間社会が闇の世界となることをよくご存じでした。 だから人間の常識を越えた神の愛を人間社会に注いで人の心を動かし人間社会を救う方法を定めて実行されました。 そして、かけがえのない「御子なる神」を人間社会に遣わして、神の怒りによって滅びる道を歩いている人類へ、常識では考えもつかない十字架の身代わりの死による「贖いによる救い」の道を開いてくださいました。 その驚くべき神の愛は、神の心を知って「十字架の贖いによる救い」を受け入れた人々の人生の中に実現しました。それが2000年も続いています。 しかし今、終末時代のしるしは、ヨナのように悔い改めた人々を用いて人の心を動かす「信じて従う」人の体験する、復活したイエス様がいつもともに生きて人の心を動かされるという事実です。 |
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教会は世界中の人々に向かって「福音・喜びをもたらすことば」を語り伝えて来ました。 その結果、ことばとしての「福音・喜びをもたらすことば」は人々が自由に使うようになり、今では「よいニュース」「ゴスペル」として、ひとり歩きしているようです。 肥満で悩んでいる人のための福音、あなたにやせる食物、末期ガンの人でもみるみる回復する、ガンに効く薬や食物などの紹介には、必ず「福音」「よいニュース」が添えられています。 「よいニュース」には、悩んでいる人々、苦しんでいる人々を救う事実がともなう時に使うことばだからです。 そして今、人々は世界の経済を道徳的な社会に「福音・喜びをもたらす、よいニュース」を待っています。 聖書が人類に伝える福音とは「キリストの十字架による福音」です。 キリストの十字架上での死が、私の身代わりであったことを信じて受け入れる時、キリストが人となって生きた、33年のご生涯のような、力ある人生を生きることが出来る、それが「福音・喜びをもたらす、よいニュース」です。 大切なことは、イエス・キリストの十字架の死が私のための身代わりであったと、そして自分が神の怒りを受けてさばかれるべき罪人であることを認めて、キリストの贖いの中に生きることです。 すると、絶望的な十字架の死の先にある、キリストの復活のいのちの力が注がれて、生きる力が溢れます。そして、復活の主であるイエス様の救いの力が働いて、自分の弱さの元である、環境の力から、救われる生活に中に移されて行きます。 このことを聖書は「死からいのちに移された」(聖書 ヨハネ 5:24)と宣言しています。 十字架のことばは、ただ単なる「ことば」ではなく「ことばは神とともにある、いのちに満ちた人の光である存在」(聖書 ヨハネ1:1)だからです。 イエス様はある時、生まれつき目の見えない人を紹介されました。 人々はその人を不幸の種を一杯背負った「罪人」と思っていました。 しかしイエス様は、神の栄光を顕すことの出来る存在として、人々の中に送り返されました。 生まれつき目の見えない不幸な人が、イエス様にお会いした時から自信をもって行動し始めました。 それは、イエス様が私のために神の約束のことばを与えて下さったことを知って信じたからです。 |
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マレ−シヤのボルネオ島の山奥で 聖書翻訳宣教師として働いている土井圭子宣教師は、私たちの教会にいる頃、故郷高知県の清流四万十川について楽しい思い出を幾度となく話してくれました。 そのせいか、あの遠い四国の彼方にある四万十川が、いつもすぐ近くに流れている川のように感じるようになりました。 四万十川は高知県の南西部の山間を流れていたために、ダムを作っても、ダムの水によって得られる水益費よりも建設経費が比較できない程高いために、ダムのない川として今日まで清流を保って来ました。 そのために四万十川は今でも流域に住む魚や生物を、昔のままで育て養い続けています。 それが日本中の心ある人々に「四万十川の清流を守ろう」との 環境保全の合いことばのようにこだまして広がっている理由です。 世界宗教と呼ばれる宗教は、いずれも立派な教えを保持しています。しかし仏教にしても、ヒンズ−教にしても、そしてイスラム教にしてもみな政治の力を用いて強くなってそのすばらしい教えの花や実が乏しくなっています。 しかしキリスト教だけは今も、世界の涯にまで宣教師を送り、美しい花を咲かせ豊かな実を結び続けています。 そのいのちの力が見られる理由は、愛の祈り、とりなしの祈りが教会誕生から今に至るも尚、生き生きとして捧げられているからです。 イエス・キリストは「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりにその人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(聖書 ヨハネ7:38)とおっしゃいました。 この生ける水の川とは、聖霊が心の中に湧き溢れさせてくださるとりなしのいのりの川のことを示しています。 キリストのいのちのつながりのある人々には、イエス・キリストが身をもって示された「とりなしの祈り」が川のようになって流れています。 どんな川でも源流は小さな流れから始まります。しかしその小さな川の流れはすべて泉から生まれています。そしてその川の水は、すべての流域にある生物を活かし育てています。 四万十川が自然の宝庫と云われるように「とりなしの祈りの川」の流れるところ、すべての人が生かされ、豊かな実を稔らせています。 イエス様の十字架は人々の心に、愛の泉となってすばらしいとりなしの祈りの流れを多くの教会人と結集して、愛の川となっています。 |
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昔の人は「人」という文字はお互いに支え合う関係で生きることを教えるために、あのような形の文字としたと伝えています。 もっとも新しいコンピューター社会は、支え合う関係によって成り立っている「ネットワーク」が信頼によって繋がっていることは、時代が変わっても社会は、人と人が支え合うことによって成立することを示しています。 先週のニュースに、参議院議員の大橋巨泉氏が辞職した後に参議院議員になった、フィンランド人のツルネン氏のことが報道されていましたが、政治の世界が信じられなくて止めた人の後に、人を信じて「恩返しの心」で政治の世界に飛び込んだツルネン氏の考え方には、フィンランドという環境が生んだ生き方がにじみ出ているようです。 フィンランドは北極圏の国といっても過言でない過酷な寒さとの戦う生活の国です。その上、東隣りは恐ろしい国ロシア(少し前まではソ連)と直接国境で接しているため、二重の苦しみと戦ってきた国です。 しかしフィンランド人は決して争う人々では ありません。神を信じ、人を愛して貧しくても喜びの心で人に接して、幸せを作り出す名人たちです。 460万人の人口の小さな国でありながら、全世界に宣教師を1,000以上もフルサポートで送り出している「愛と平和」の輸出国なのです。フィンランドの人々の宣教師を支える秘訣は「祈りのネットワーク」を大切に保っていることです。 ツルネン氏にはこの世の中の財産は何もありません。 しかしツルネン氏にはすばらしい財産を持っています。フィンランドから今も送られて来ている「祈りのネットワーク」が大切な財産だからです。参議院議員として活躍出来るよう祈って支えたいものです。 イエス様はペテロを指導者として、全世界に向けて福音を伝える教会として育てるために「祈りのネットワーク」を育てるように、お命じになりました。 「私はあなたのために祈った。だから立ち直ったならば、兄弟たちを祈りによって力付けてやりなさい」 それが悪魔の恐ろしい働きに打ち勝つ秘訣であったからです。 信仰の祈りは危機的な状態に晒されている人々を救う神のわざだからです。 環境を超え、考え方を超えて働く祈りに目覚めましょう。 |
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昔から「国敗れて山河あり。」と云われ、どのような無惨な敗北をしても帰るべき国土さえあれば、希望を持って立ち上がることができると教えられて来ました。 日本も55年前、世界を相手に戦って敗れ、国土の35%を失い人々の心は荒廃に満ちていましたが、緑の豊かな日本列島と云う国土の中で、苦しいけれども希望を持って働き始め、世界第二位の経済大国にまで成長しました。 しかし人々が豊かさのために国を愛する心を失って自己主張と経済大国を誇るようになった時、日本社会は奈落の底に向かって滑り落ち続け「日本は希望の持てる国」と自覚する人の率が世界で46番目にまでさがってしまい、なおも下り坂を滑っています。 それは、日本の社会には知恵があると思い込んで、生きてゆくために必要な知恵を求めることをしないことに原因があります。 ユダヤ人たちは1900年前、ローマ帝国によるエルサレム陥落の時から、祖国を失い帰るべき国土はたった一坪さえも与えられないさすらいの民族となりました。 彼らはいつも、自分たちには力も知恵もないことを自認していました。だからユダヤ人たちは生まれたその日から「神から知恵を与えられる生き方」を大切に守りました。 それが聖書のことばを毎日暗唱して、毎日生きて行くための知恵を神に求め続けることでした。その結果、ユダヤ人は今、世界の知恵ある人々の70%を占め、世界の金の三分の二を握って、世界を支配しているとさえ云われています。 教会の誕生時の指導者であったペテロは、自分の知恵に頼って臆病な人生を送っていた人でした。 けれどもその人間的な知恵が自分をダメにして行くことを悟って、いつも知恵のない自分が人間らしく生きて行くために神に「知恵を与えてください」と祈りながら生き始めました。 その時から世界宗教としてのキリスト教の「いのちの力」に満ちた指導者として働き、2000年後の今日まで、人々に生きる力を与える教会となりました。 これが、イエス様が「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばによる」と教え実証された道を歩くことができる幸いです。 |
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イエス様は人々から「ラビ(先生)」と呼ばれました。 それは人々が求めてきた「福音信仰」をご自身の生活を通して教えられたからです。 それ故に12人の弟子たちは今までの生活も家族も捨ててイエス様と行動を共にしてイエス様の弟子と呼ばれました。 イエス様から直接教えられた幸せな人々であったからです。 イエス様もまた、彼らの思いに応えられ、イエス様の名声を利用して悪魔のワナに陥った「イスカリオテのユダ」以外の弟子たちには、使徒としての光栄ある信仰生活を保持出来る生き方をもたらして、使徒達から指導を受けた人々の信仰は、全ては永遠の世界で通用することを保証して下さいました。 その使徒的信仰にいきる人々に対して主が約束された「真理の御霊」をその心に注いでくださいました。 新約聖書として認められた文書の基準が「使徒から出たもの」であるかどうかが詳細に亘って調査されて今の27巻に制定されたのも、イエス様の教えに立っている「使徒職」の尊さを明らかにするためです。 福音的な教会が「聖書信仰」に固く立つことに生命を欠けてきたのも、キリスト教はイエス様が始められただけでなくイエス様がみこころにかなう人々に聖霊を注いで聖霊に満たされた人々を通して、イエス様が責任を持って指導し完成してくださる信仰であるからです。 教会の長い歴史の中には、たくさんの有能な人々が教会の門を叩き聖書の教えを学び育てられて来ました。 しかし、大部分の人々は聖書の中から自分の考え方を発見し、その考え方による信仰を生み出して教会から卒業して、自分たちの仲間を集めてキリスト教と自称する集まりの指導者となって行きました。 教会の歴史はそのような働きの記録で満ちています。 コロサイ教会の指導者「デマス」はこの世を愛し、「私を捨ててテサロニケに行ってしまい」と使徒パウロを悲しみの中に突き落としています。 「この世を愛して」とは、イエス様の考えよりも自分の考えを優先することでその道には罪の赦しも永遠の命の力によって迎えられる天国も保証されない迷える小羊の信仰です。 イエスキリストは今も生きて働いておられます。聖書にたって生きる人々の心に注がれる聖霊はいろいろな人々の信仰指導の背後にいて教えられるイエス様の存在を感じさせて下さっているからです。 |
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昔から習い事は、3才から始めることが最も良い方法と云われてきました。 音楽家も、歌舞伎役者も、芸術家たちは最初の反抗期が終わった3才頃に体で憶えるように、習い事と接すると、目ざめていない良心の働きの潜在的な応答によって、何が正しいか、何が誤りであるかを瞬間的に感じとる能力が育つそうです。音楽の世界でも完全音感を感じとるのも3才位のようです。 だから子供を育てる時、親は自分の良心の働きに従って接すると、子供もまた良心の働きを大切にする人生を歩く人となります。 現代は、良心の働きよりも「ことば」による結果を大切にしています。 そのために人々は、決定的な悪の証拠を示さない限り「ドロボ−にも三分の理がある」方式によって、とんでもないこじつけ論理を持ち、悪よりも正しい人を悪者呼ばわりさえする社会です。 アメリカ社会ではこのようなこじつけの論理によって、社会をゆがめている弁護士が沢山いて、とんでもないことを正当化して高い報酬を得ています。 聖書は「ことば」ではなく、「良心」よりも高い思いをもって生きる力を与える「真理」こそ、神より人間の判断力として与えて下さったことを教えています。 この「真理」こそ、人類が求め続けてきた「自由の喜び」をもたらすからです。 「真理」と云う判断基準のない人々の自由は、わがまま人間の自己主張の代弁者で、その自由を主張させる自己利益心こそ恐ろしい神の審きを受ける悪魔の思想なのです。 この思想の故に善を求めながら結果は悪を行ってしまう 罪人のみじめな人生が生まれるのす。 イエス様は「私はあなたを死刑にすることさえも出来る」と語った総督ピラトに対して、「私は真理の国の王として、真理に生きる人々を生み出すために来た」と答えて、ピラトを当惑させました。 イエス様は何ものにも束縛されることなくして、自ら十字架につけられました。それは罪が贖われる唯一の方法であったからです。 本当の自由は愛によって評価されるものです。それが神の支配する真理の世界の姿です。 それ故に すべてのものが奪われても、悪のすべてを投げつけられても尚、悪に勝利して「父よ彼らをお赦し下さい」と、イエス様は祈られたのです。 そこには死の力に対しても自由な永遠のいのちの力の素晴らしさが立証されたのです。この素晴らしい自由こそ、まことの財産です。 |
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昔の人は「栄枯盛衰は世のならい」と言い続けて、衰退した時みじめな思いを抱かないような心得を普段の生活の中で持つよう教えています。 インドからエチオピアまでの、120の国を支配したアハシュエロス王の王妃として、その美貌とともに与えられた権勢の故に誇り高ぶっていたワシュテも同様でした。奢り高ぶる者に訪れる神の摂理だからです。 だから人は自分の手に持っているものは、すべて神から託されたものとして、たえず神のみこころを追い求めて、謙虚になって、無である者として生きることが大切です。 見えない神の摂理は、イエス様を信じる者、信じない者の如何を問わず、神は摂理をもってさばき、また支えられるからです。 今ニュースを賑わしている国会議員の鈴木宗男という人などの姿は、よい教訓です。 人気絶頂の外務大臣をさえ辞めさせ、日本の世界外交を自分の思い道理に動かしてきたあの人が、今では後ろから石を投げられて追われるような淋しい姿をマスコミは、これでもかこれでもかと追いかけ描いています。 自分には力があると思い込んでいた者に対する、見えない神の厳しい現実的な摂理の現れです。 聖書が人類に伝えるメッセージは、その人生の土台は「無」であり、その終わりは「死」です。 持っているもののすべては神から託されたものであり、「死」は人生の総決算の時として、死後のいのちの道で評価される生き方に心を用いる人生には、神は味方であることを感じる神の摂理の中を生きることが出来ます。しかし、神を無視する人々にはさばきの摂理です。 イエス様の救い主としての働きは、人々から大喝采で迎えられた「神の国」についての説教者としての生涯ではなく、十字架の上で「我が霊を聖手にゆだねます」と、頭を垂れて死なれた時からでした。 それ故に神は「彼を高く上げ、もろもろのものに勝る主」として、すべての人々の礼拝の対象とされ、またご自身は「生ける神」として信じるすべての人々と共に生きてお働きになっておられます。そこに神を味方とする人々に対する、神の摂理が発見できます。 エステル記の著者モルデカイが見た、神の働きも同様でした。 |
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科学者たちは、科学の最先端の知力を振り絞った先に存在するものがあることを知っています。 それは目に見えないが共通の法則の先に感じる、創造の原則を持って統治される人格的な神のことです。 だから科学者たちは少しでも、目に見えない世界にあるものを目に見えるかたちで紹介して、神の本当の意志に接しようと、日夜懸命に努力しています。 その一つが、生命科学と呼ばれている遺伝子の世界での神の創造の原則の探求です。正しい科学か誤れる科学かの鍵は、神の意志を探す先端科学か、自己表現の科学かにあります。 哲学は、この科学の在り方を形而上学的存在と呼び、科学的世界を形而下学的存在と呼んでいます。つまり目に見えないものは「存在しない」ことではなく、目に見えるものはすべて、目に見えない神の働きの下から生まれてきたと考えています。 日本の科学者の社会は、このような考え方を持たない物真似科学から出発しており、そのために真の科学的発送を育てることの出来ない教育をしてきました。だから創造的発想は育っていません。 教会は、この目に見えない創造主であり統治者なる神と、目に見えるものしか信じようとしない、神を否定する社会の橋渡し的な役割が与えられています。 だから目に見えない神との関わりである「祈り」を、目に見えるものしか信じない人々のために捧げて、目に見えない神の働きを体験させ、神の意志を大切に生きる人々を育てるのです。 教会の役割は神なき「偶像宗教」の物真似であってはなりません。しかし日本のキリスト教会は、しばしば「御利益宗教的」になって、神の意志に従う信仰は歓迎されていません。 しかしそれでも教会に対して聖霊は、神の意志に従って人々のためにとりなしの祈り人であることを求めておられます。 そのためにまず何よりも、イエス様が、とりなしの祈りをもって信じる人々のために仕えてくださっていることを知る必要があります。とりなしの祈り人たちこそ神から与えられた知恵の素晴らしさを体験し証し出来るからです。 教会のとりなしの祈りの結果、ペテロは釈放されてローマへ旅立ち、やがて世界宗教としてのキリスト教会の土台を作る人となりました。 同じ生き方がモルデカイのエステルのための祈りから生まれました。私たちの教会も「神に熱心に祈る」もでありたいものです。 |
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すべての不幸は「信頼関係」が傷つき損なわれることからはじまります。だから人間関係が幸せなものとなるためには、物やお金がからむと、更に複雑なものとなります。 人間としての幸せの土台は「信頼関係」の上にのみ成り立っています。 それも相手に信頼できることを要求することではなく、信じられない状態の下にさらされても、尚信じ続ける行動を具体的なかたちで現すことです。 それは約束することと、その約束をどんな状況にあっても実行し、信頼の堤防をこちらから相手の心に向けて少しでも延ばして行くと云う、自分の信じた道を行き続けることです。そこには「相手にこびる」気持ちではなく「愛する心」のみ貫く姿が届けられます。 その見本のような生き方を貫いている政治家が、お隣の国の大統領である金大中氏です。金大中氏は熱心なキリスト教実践主義者であり、彼の姿は、よき理解者であるばかりではなく、キリストの愛を政治に実践させるためのかけがいのない同士であることは 新聞やテレビのニュースによって、世界中の人々がよく知っています。 その生き方を顕著するために、ノーベル平和賞が贈られました。しかし、太陽政策もすべては目に見えるものしか信じない共産主義的唯物論に立つ、北朝鮮の政府に利用されて、もっと経済的支援を要求して、金大中大統領の約束を守ろうとしません。 その態度に立腹した韓国の国民は、金大中大統領の親戚や側近の不正行為を取り上げて、金大中氏の大切な「信頼関係」の構築に対してさえも批判し始めています。金大中氏を切実な思いで応援したいものです。 今日(平成14年3月24日)世界中のキリスト教会では、受難週第6主日「しゅろの主日」として、受難週前の40日間のキリストが拒絶され続けた6週間の終わりの聖なる主日として大切にされています。 ある人々は40日間の断食を行い、信頼関係のために人々から拒絶されたイエス様の苦しみをしのびます。 そのために、モルデカイとエステルの苦しみの祈りによってユダヤ民族が全滅の危機から救われた時のしゅろの枝をふりかざして、神が約束を成就して神に感謝した時のように、イエス様もメシヤ預言を成就する「ロバの子」に乗って、エルサレム入城をされました。 そのことを知って人々はイエス様を「ホサナ」と歓迎して政治的な悪感情からしばしの救いの時をもたらしました。 今必要な働きはイエス様による「信頼関係のいやし」です。 |
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「もしもあの時...と云うことばは 自分を惨めにするだけです。」とは昔から多くの人々が体験して来たことです。 先週も若き衆議院の論客として人々の注目を集めて来た辻元清美議員が、週刊誌のワナにはまって実情を調べもしないで、秘書問題をいつものようにハッタリ的に記者会見で否定しました。もしもあの時「そうですか調べてみます」と、自分のことですから謙虚に応答していたならば「人をウソつき呼ばわりしながら自分のことは平気でウソをつく」と、あんなにひどい攻撃にさらされることはなかったことでしょう。そのために何度も「もしもあの時」との思いが「悔しい、悔しい」と 時には涙を流して訴えましたが取り返せませんでした。 イエス様が十字架と復活によって開かれた「再生の道」は、どんな事情であってもまずそのまま受け入れることです。 そして神のみこころに自分自身をゆだねて、自己吟味することです。その結果、悔い改めるべきことは、まず神の聖前に悔い改めます。そして神に受け入れられた者とされます。 するとヨブのように「主が与え、主が取られた、主の御名はほむべきかな」とどんな辛いことをも、神からの試練として甘んじて受け入れる思いが起こされます。 すると「しかし神は」と云う「信仰の思い」が起こされます。 「もしも」が、「どんな情況の下に置かれても しかし神は」と、神を仰ぐ時、人の思いは「永遠の世界」の中での神が許された出来事として辛い悲しい出来ごとを受け入れることが出来るようになります。 そのような思いは、“神のみこころは 神が愛なる方である故に最善”と信じて 神のみこころを求め、神のみこころを行うことを喜ぶ人生へと歩く人となり、そこに「助け主なる聖霊」の力ある働きがもたらされるようになります。 失敗の弟子ペテロは、そのようにして駄目な弱い人から試練を喜び、自らは逆さ十字架につけられて殉教する勝利の人生を歩む人とされました。 自分の計算通り行くことを求める人は「もしもあの時」と自分を惨めな思いに落とす人生となり、「しかし神は」と見上げる人は弱さが強さに変えられる勝利の人生が待っています。 イエス様は罪人とされて弱さの故 十字架上で贖いの死を遂げられました。 しかしイエス様は 十字架の死を前にした絶望の中で「しかし神は」と仰ぎ復活して神のいのちによる救いの道を完成して下さったのです。 勝利はイエス様の復活の道をともに歩く時 そこにあります。 |
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「太陽が昇る夜明け前が、一番暗い時」であることを誰でも信じています。だから人々は、夜明け前にはよく眠って、疲れを取り除いて、翌日の働きのために備えます。 今、世界はどこを見ても過去の明るかった時代の希望の灯は、次から次へと消えて暗やみの時代を迎えています。しかしその中で人々は暗いことを憂えるばかりで、「暗やみの先にある光の時代に備えよう」と呼びかける人は本当に少ないのです。 聖書のみことばは、「生ける神のことば」として神の民に与えられています。それは暗やみの先に備えさせるため「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。 「夜明けとなって、明けの明星があなた方の心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」(聖書 ペテロ第二の手紙1:19)と神の民たちが自覚するところです。 そして神のことばは、日々神のみこころを大切にして生きる人々の人生の中に神のことばであるしるしとしての祝福された生活をもたらして来ました。 だから神の民たちは世の中が暗くなればなるほど神のみことばを求め、その約束を大切に守って、その歩みを神のみこころに沿って生きるのです。 もう僅かで、サッカ−のワ−ルドカップが日本と韓国が共同開催国となって、それぞれ10カ所の会場で予選から決勝まで開催されます。共同開催はサッカ−のワ−ルドカップの歴史で初めての出来事となろうとしています。 この影の推進役を担っている人々が、教会の民クリスチャンたちが多いことを知る人々は少ないようです。彼らは近くて遠い関係にある韓国と日本を近くて近い関係に導くための神のふしぎな働きかけと受けとめて、暗い世界に未来の明るい社会を築くための未来志向の道しるべとして受けとめているからです。 ここに、暗い世の先に神が備えられた「キリストにある和解」を土台である十字架を担う福音の祝福があります。 BC479年 世界の覇者ペルシャのエロア・シェロス大王がギリシャのマラトンの遠征で敗れ、暗い世を迎えた時、神の民モルデカイは暗い世に注がれた神の恵みの光として神のみこころとしてのエステルを王妃となる道を開いて、希望の光を掲げました。 今 神の民たちは おなじ状況の中にあることを知るべきです。 |
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若い頃、アメリカ人の宣教師から頼まれて、子犬のシェパードを購入して育ててあげたことがありました。その子犬の名前は飼い主が「スモーキー」とつけました。ところが事情があって1年後には飼い主はアメリカに帰り子犬も遠くに住むアメリカ人に売られて行き、私の記憶からも消え去りました。 8年後、岐阜県にあるキャンプ場でキリスト教会の合同修養会が開催されて、私は講師として招かれて奉仕するために、岐阜県のキャンプ場に行きました。するとキャンプ場の入り口の番犬の檻の中から、大きな犬が大声で吠え続けているのです。それは怒って脅す声ではなく、夢中になってほえる声でした。 その犬は名前も飼い主も変わりましたが、私が育てた「スモーキー」でした。 恩を仇で返すような人間関係で傷ついていた私の心は、おかげで癒されました。それは若い牧師にとっては、神の恵みの時でした。 聖書は、「牛はその飼い主を、ロバは持ち主の飼い葉おけを知っている。しかしイスラエルは、彼らを守り育てた神を知ろうともしない。そのために彼らはその生きる道を悟ることはない」(イザヤ 1:3)と訴えています。 世界中の識者たちは、イスラエル民族の不思議な歴史をよく知っています。彼らは「救い主」として与えられた「主なる神イエスキリスト」を拒絶して十字架に付けて殺しました。 神の守りを失ったイスラエル民族は、その後30年にして、ローマ帝国の力によって、一人残らず殺されて滅びました。 ところが全能の神の力は、帰るべき祖国を失った人々の中から「ユダヤ人」を起こして、エルサレムで壊滅したイスラエル民族を、1,800年後、国連によって回復させてくださいました。 それは、神の意志を全人類に示すという特別な役割が与えられた民族だけが体験した「神の力」の現れでした。だから今もイスラエル民族は、世界中の人々を敵に回しても、イスラエル民族を必ず壊滅させると叫んでいる、アラファト議長の追放を強く進めています。 イスラエル民族よりももっと不思議な道をたどる人々がいます。 その人々は、神の愛の力を、世界中に示す役割を与えられたキリスト者です。彼らはいつも神の恩を忘れず、神の近くにいることを喜ぶ人々です。 主なる神は、いつも彼らとともに生きて、愛の力による勝利を持って守られる御方です。 |
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教会の社会的な役割は「世の光」としてイエス様から与えられた「光」を掲げ続けることです。その役割を果たす方法が「神のみことばの実践」であり、この実践をさせる「祈り」に生きることです。 その結果、人々は神の愛を知り、救い主なるイエス様の恵みを受けることが出来るようになるからです。 だから教会に「愛」や「救い」を求めることは、教会の役割を果たすために参加しようとすることではありません。救い主なるイエス様は教会を通して「神のことばに従う生き方」と「神に祈る信仰」を育てられるからです。 今の社会を見ていると、人を育てる教育について、特に家庭と社会はその大切な役割を放棄しているのではないかと思えてなりません。 学校ばかりに教育を押しつけて、自らは教育的な役割を果たさないのに、逆に批判や要求ばかりしています。だから育てられる子供たちもまた、家庭や社会の姿を反映して放任主義的な無責任な人間となっています。 人が育てられる場は、まず家庭でありそして社会です。学校は生きる心を教えるところではなく、生きる技術を教える役割が与えられているところです。 生きた信仰を育てるために、イエス様はまず弟子たちを、一人一人ご自分の身許に招かれて、個人的に教え導かれました。そしてすべての人々に共通している教えとして「祈り」を体験できるよう訓練されました。 だから人々は、個人的にも社会的にも「みことばに立った祈り」を大切にするように育てられました。それがイエス様から教会に託された役割です。 神のすばらしい祝福に与ったモルデカイたちに対して、神は彼らが自分たちの幸せという、小さな世界に閉じこもることを喜びませんでした。 それが彼らに訪れた危機でした。彼らが危機に直面した時、神はまず「みことば」に心の目を向けさせます。 そして神のみこころに立った祈りへ導きます。この祈りは「戦いの祈り」と呼ばれています。戦いの祈りに勝利した人だけが、イエス様の開かれた勝利の道を発見し歩く人とされるからです。 イエス様の弟子たちは、イエス様が昇天されて、目に見える形で彼らの目前から離された時、危機に直面しました。 しかし彼らはいつも「神のみことばに立って祈り」そして勝利の道を歩みました。 この祈りこそ神が教会を通して身につけさせて下さる武具なのです。 |
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イスラエルの国は、何かが起こると四方八方から苦しめられる国です。今でもアラブの諸国にパレスチナ難民が支援されて、国連までが全体でイスラエルを批判し、孤立無援の中に立たされています。 しかし彼らは神の約束を信じて、悔い改めの証として世界の各地からイスラエルに帰ってきて信仰を守る生き方を貫いています。 エジプトから安息日に戦争をしかけられた時もそうでした。ナチスドイツからユダヤ人全滅方針にさらされた時も同様で絶対絶命の危機の中で神の助けによって約束の地に神のみことばに立つ国造りは進められてきました。 それはすべて孤立無援の苦しみの中にも「神は約束されたみことばを実現させてくださる」との信仰の礎の生き方の証しとなっています。 この生き方は神のみことばに対する不従順の悔い改めに立った彼らの心に神が注がれた「信仰」の結果生まれた生き方でした。 だからユダヤ人の王「ダビデの子」として十字架に架けらた彼らの主であるイエス・キリスト様は十字架の死から復活されて「主の主、王の王」として神の約束の民イスラエル民族のみではなく全人類にこの「悔い改め」の祝福の力を注いで下さるお方となられました。 イスラエル民族は血のつながりによればアブラハムの子、イサクの子ヤコブの子と呼ばれるセム系(黄色人種)民族です。そしてセム系民族はいつも宗教心の源泉となって来ました。 使徒パウロも純粋のユダヤ人です。シャカもセム系ですし、モハメットもセム系民族です。そして彼らの教える宗教は土着のご利益宗教ではなく「悔い改めの実を結ぶ信仰」です。 エステル記の舞台は、セム系民族が世界を支配した中で展開されていて不変の真理を示しています。 それは民族主義ではなく悔い改めの源底こそ民族的存続の原則であり、また、個人が「永遠の世界」に存在できる唯一の道であることを教えています。 イエス様が救い主としての活動を開始された第一歩は「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(聖書 マルコ1:15)でした。どんな絶望状態の中におかれても神に対する悔い改めは、キリストイエスに対する信仰の実を結ばせる「福音」であるからです。 イスラエル民族に見られる孤立無援の中におかれても神の約束に立って戦う光栄の中に「恵みの福音」に生かされる教会の指針を発見させられます。 |
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私たちの教会に 京都で友禅染の絵描きとしてその将来を期待されていた松本伸子さんと云う人がいました。 その人はいつも絵を動かない死んだ絵「模写」としてではなく、動いている途中のヒトコマの絵として画くために、まず本物をじっと見つめて、感動した一瞬を脳裏に焼きつけて絵として描くことに集中したいと云っておられました。 聖霊が私たちの心に焼きつけるイエス様は、感動のない絵画的なイエス様ではなく、神の愛に満ちて私を見つめ、私を導いて下さる神のいのちに溢れて私に接して下さる御方です。 心に焼きつけて、世の中の人々の中にあってそのイエス様を表現して行くようにと「あなた方の信仰の導き手であり 完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか」(聖書 ヘブル12:2)と呼びかけています。 使徒パウロは、キリスト信仰者を迫害して、彼らを棄教させるためにダマスコに旅しました。しかし、彼はそこで彼のために身代わりとして死に、また三日目に復活されたイエス様が、彼のために会って下さいました。 その事実を心に受けとめることが出来た時、彼は感動に溢れてイエス様のこの愛をすべての人々に伝えたいと、人生の再出発をしました。 それは教えられた「動かない絵画的なイエス様の愛ではなく、生きていて私を愛し続けて下さる神のいのちの溢れているイエス様に接触した一瞬」でした。 パウロは、その生涯「私にとって生きることはキリストである」と告白し続けて、イエス様の愛をいつもその心に注がれ、イエス様の愛をパウロとして表現させてその生涯を歩みました。 だから今ではとても想像も出来ないような 第一次、第二次、第三次と伝道旅行を、その足で一歩また一歩と歩いて、エルサレムからロ−マに、アジヤのエペソからイスパニヤにまで、ただひたすら受け続けるイエス様の生きた愛を与え示す旅の人生を天国にまで走り続ける、感動に満ちた人生となりました。 キリスト者の人生のエネルギ−は、このイエス様の生きた愛をいつも心に満たしていることにあります。 愛を見失った人々が 愛を求めて傷つき疲れて倒れ果てようとしています。「私があなたを愛しているようにあなたも あなたの隣りにいる人をあいしなさい」と主は云われています。 |
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今パレスチナでは、信仰と力による「血の戦い」が繰り返されています。 世界のマスコミはこぞってイスラエルの暴挙を指弾していますが、実際はイスラエルは神のみことばを信ずる信仰による行動に対して、周囲を取り囲むアラブ諸国が「ホロコースト民族虐殺」のために仕掛けている戦争です。 アラブ諸国は、十字軍をもってイスラムの殲滅を図ったローマカトリック教会に対して抱いたものと同じ感情を、イスラエルに向けて「イスラエルの全滅」のために「ユダヤ人は最後の1人まで地中海にたたき込め」を合い言葉にしてパレスチナ難民を煽動して、子供までテロ活動に巻き込んでいます。 これは、1948年5月15日独立した翌日、保護していたイギリス軍隊が去ったその日の一日戦争でイスラエルは6,000人の死者を出し、その後、旧ソ連軍の提供を受けた、近代兵器を持つアラブ諸国が一致協力して、イスラエル民族抹消のために1967年に戦争を仕掛けました。有名な6日戦争です。 1973年には完全全滅を目指して、旧約聖書に忠実なイスラエル民族にとって、最も大切な、テレビもラジオも消して、車も走らせない「聖なる大贖罪日」に戦争を仕掛けて、その日だけアラブ諸国は大勝利をあげ、人口の2%以上の人々が死にました。 しかしイスラエル国家は、神に従順な信仰による戦いで勝利し、「神の助けによる勝利」と神をほめたたえ、今も戦っています。 イエス様の十字架の贖いに立つ新約聖書には「愛がなければ一切は無益である」と明言しています。どんなに勝つ戦いを繰り返しても、そこには更なる争いと憎しみが燃え上がるばかりで、救いはないからです。 イエス様の弟子たちは、社会権力によって教会全滅の危機に幾度となく見舞われました。その度ごとに教会は結束して、祈りました。神はその祈る人々の心の中に「神の愛」を注いで、とりなしの祈りの群れとして育てました。 神を信じられない人々の目にも、見える形で奇跡としるしを顕して、主なる神こそ、彼らの教会の「かしら」としての、生命共同体であることを示され社会の中で、教会の託されている役割を果させ、世の人々は教会を尊敬し信頼するようになりました。それは「神の愛」の勝利のあかしでもありました。 モルデカイが、自我の満足を図るハマンによる暗い社会造りの中で、神を愛して、救いのために生きたエステルを育てた働きこそ、教会の役割です。 |
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祈りは、人間だけの生活行動です。それ故に猿がどんなに「類人猿」と名付けられても、祈りがないならば人間ではありません。 しかし人間社会は、科学が進むに連れて、物質や金が「人を幸せにする」と云う物社会化によって、多くの人々の生き方が「祈り」を失い、動物的な社会に変ってしまいました。 伊藤博文がドイツに旅した時、ドイツの首相ビスマルクが「私は今や、神以外に何も恐れるものはなくなった」と演説した後で、ビスマルクに向かって「私も日本も、今や神さえも恐れるものでなくなった」と語り、ヨーロッパの人々から失笑を買ったそうです。 祈りのない人は、神への恐れさえも否定して、物や金がすべてと頼り、また祈りも、金や物を願って与えられる物質的祈りしか生まれない人間として、役立たないものとなっていきます。 イエス様は、神の世界から使わされた御子なる神です。しかし同時に「救い主なる神」でもあられます。だからまず第一に、創造主なる神を、自分の霊の父として、祈る対象であることを教え、またご自分も毎日、いつもの時、いつものように祈られました。 そして罪のために、正しい審判者なる神に祈れなくなっている人間のために、十字架の死によって罪を贖い『ご自分の名』によって祈る時、神に向かって「ほんとうの祈り」が出来る道を開かれました。 同時にイエス様は、十字架の贖いを受け入れた人々の心に「助け主」なる聖霊を注いで、「アバ父、天の父なる神さま」とほんとうの祈りの始めのことばを祈れるように、助け続けてくださっています。 ペンテコステの時、イエス様の弟子たちが体験したことは、まず「祈る」ことでした。 イエス様が人としてお出でになる前は、罪の悔い改めの断食の祈りが「イエス様の御名」の代わりでした。エステルが自分も、そして支援者たちにもまず「断食の祈り」を求めました。 それはペンテコステ以後の「イエス様の御名」によって祈ることのすばらしい事実を、証しとして示すためでした。 それ故にペンテコステ以来、教会に集められる人々は「神へのほんとうの祈り」を捧げて、エステルと同じように、自ら行動し、人の心を動かし、神から示される知恵に従って、神の働きによる危機からの救いの証し人とされてきました。 この「ほんとうの祈り」こそ、神に似る人生を送る、ほんとうの人間の生き方を示すものだからです。 |
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人生には、何事も予想計画したこととは、すべてのことが逆となって悪くなる「真夜中」に向かうようなことが、しばしばあります。 その時、感情や打算によって選択を誤って破滅の道を誰も信じられないまま「孤独」の中を歩きます。これは個人的だけではなく、会社やいろいろなグループや、そして国家でさえも想像もしない恐ろしい「ワナ」にはまって苦しみを深くしています。 国民の熱狂的な支持と期待によって出発した小泉首相は、今まさに「真夜中」に向かっているようです。 固い決意によって実行したことは、靖国神社を総理大臣として参拝したり、戦争放棄を高く掲げた日本国憲法の下にありながら、戦争に巻き込まれることを前提とした、有事法制を国会に通そうとすることだけで、一番するべき財政改革は、ことばだけで終わろうとしています。 小泉首相ひとりの問題ではなく、日本国民全体に対する神の警告です。「真夜中」に向かう、すべてが悪い結果となるような時こそ、創造者にして全宇宙の統治者なる神を意識し、祈りつつ、神をほめたたえて、神の働きを発見する「信仰に目」を保持することが 不可欠なことです。 そして社会も国も、そして家庭も「ひとりひとり」の個人の集まりです。だから「真夜中」に向う時、まずその中におかれた「ひとり」として、神に祈り、救い主なる御方のすばらしい十字架の死と復活の力に与っていることを信じて、感謝し賛美出来る人となることが大切です。 聖霊は私たちのために「うめき」のとりなしをもって、そのような「夜明け」に備える生き方に導いて下さいます。 イエス様は、ヨハネ福音書17章によれば、弟子たちに訪れる「真夜中」人生のために、繰り返して「御名の中に彼らを保って下さい」と祈られました。 その祈りによって「悪い者の力」から守られ、イエス様の約束された神のことばに従って、聖霊が心に注がれ、神の働きを次から次へと発見して「私たちの信仰こそ 世に勝つ勝利です」(聖書 第1ヨハネ 5:4)と叫ばせた真夜中に光を見出した、喜びの人生に移された原動力です。 ハマンの悪計の下で全滅の道をたどっていたイスラエル民族の中で祈りつつ賛美した人々のひとり、エステルが見ることの出来た神の働きは、今も聖霊によって心の目が開かれた人が見られるものです。 |
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最近、結婚式の花嫁さんのウエーデングドレスの色が、純白からカラーにする人が増えていることが心配です。自分らしさの主張が、その後の結婚生活にまで、自己主張の対立を生んで、僅かな時で相手のことが判ったような気持ちになって、かけがえのない大切な人との「愛」を育てられず、離婚する人々がどんどん増加し続けているからです。ジューンブライトも台無しです。 聖書は、神が罪深い人間の「神に会いたい」と云う気持ちを受け入れて、罪に苦しむ人間が 罪を持ったままで 「神に会うことの出来る」罪の贖いのために、特別な恵みをもって 「神に会えるように」してくださいました。 それは人間では到底できない「神の愛の働き」の故でした。それが罪なき御子なる神、イエス様の十字架の死でした。 だからどんな罪深い人でも、「私の罪のためにイエス様が十字架の上で身代わりとなって死んでくださった」 と感謝の心で「父なる神さま」と祈る時、私たちは「神に会える」のです。 その証拠に 私たちのたましいに 神のことばが響いて来るのです。 それは「神の愛」に包み込まれる、心温まる体験です。 「神が私に語りかけてくださった」この感動は、「この御方の云われることは どんなことでも致します。」との思いをもたらす 力ある神体験です。 初代教会の老聖徒アナニアは、キリスト者たちが恐れ脅えていた迫害者サウロに対しても、イエス様が贖い主として 会って下さったことを知りました。しかもその迫害者サウロの処に訪ねて イエス様からのメッセ−ジを伝えると云う恐ろしい役目を託された時、ふしぎな心の熱くなる思いに満たされました。 それはイエス様の愛がアナニアの白紙のような心に注がれたためでした。だからもう恐れることなく 神の愛に心満たされて、迫害者サウロを訪ね、メッセ−ジを伝えることが出来ました。そして神の奇跡を見ました。恐ろしかったサウロが 神の愛に満たされて、イエス様の十字架の救いを伝える人として立ち上がったことでした。 神に会うために いつも白紙の心が必要です。神の愛を体験するためです。 |
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先日から、韓国と日本では、サッカーのワールドカップ世界大会の予選リーグが開かれて、連日の新聞やテレビを賑わせています。 この予選リーグでは、たとえ最初に負けても次に勝って2位以内に残れば、決勝トーナメントに進む制度であるために、一度負けても「敗北者」の汚名を挽回することが出来るために、それぞれのチームの選手も応援のサポーターたちも、たとえ負けても、次のゲームには反省を活かして戦い、それぞれ精一杯、声と体を用いて、すばらしい感動的な光景を世界中の人々に見せてくれています。 私たちの人生は、このワールドカップ世界大会の予選リーグの出場選手のようです。 聖書によれば、応援のサポーターたちは、先にイエス様に召されて天国に迎えられている証人、「雲のように群がる人々」であると、記されています(ヘブル12:1)。 彼らは、私たちの信仰生活が、たとえ敗北を喫しても尚、声の限り応援し続けています。神の国の規則には、負けても次に勝てば勝利者としての栄光が備えられているからです。 大切なことは、神から与えられている恵みの賜物をすべて用いて、ベストを尽くして戦うことです。 そのためには、敗れても反省して、次にはベストを尽くすチャンスを活かして、まず自分自身との戦いに勝利を治めることです。 人生における戦いに敗北する原因のすべては「私が」と、ひとりぼっちで戦うところから始まります。 人生の戦いは、すべてチームの一員として戦うことが、「神の国のルール」です。お互いが、自分のしなければならないことをする。攻撃する時も、守り支援する時も忘れてはならない原則です。 イエス様と寝食を共にして、イエス様から神の国について直接に教えを受けた「ユダ」の敗北の原因は、ひとりで解決しようとして、「罪」にノックアウトされてしまい、二度と立ち上がることが出来なかったからでした。 たとえユダのように「罪の結果の解決」であっても、ひとりぼっちは敗北者の道です。「罪との戦い」なれば尚「罪の苦しみ」を共に負って支援してくれる友とのチームで 戦うことが大切です。 ユダよりも「悪質な罪」のために苦しんだペテロは、弱さのために「罪」にノックアウトされましたが、イエス様から離れず、約束の聖霊を注がれて、弱い人間が、信仰によって勝利する人の見本のような人生を歩きました。 |
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昔の人は、食べて寝て着るものがあれば、人は幸せに生きることが出来ると云いました。「衣食足りて礼節を知る」と云う格言まで残しています。 しかし日本では食べ物は毎日捨てるほどで、足りるよりも有り余っています(世界では食べ物がないために1日に3万人以上の人が死んでいます)。 それでも日本では「不幸だ」と嘆いている人が今、世に満ち溢れています。昔の格言が役に立たなくなっています。 物ではなく心が貧しくなってきたからです。貧しいどころか、極貧です。自殺寸前と云う人々が一杯いるのです。物でも人でも満たされない、罪と云う精神的な悪性腫瘍(ガン)の末期症状の苦しみにあえぐ人々が何と多いことでしょう。たましいの医者を無視して、自己主張を繰り返して、心のガンの苦しみを大きくさせているからです。 イエス様は「健康な人は医者を必要としない。医者を必要とするのは、自分の病気を知り苦しんでいる人です。」また、「わたしは主であって、あなた方をいやす者である。」と言われました。 イエス様という、たましいの医者のもとに行って、イエス様から言われたとおりに治療を続けイエス様の生きた道をイエス様とともに生きる、心のリハビリを続けた人々は、たましいの本源である神の霊の力によっていやされます。 その生き証人たちは、どんな恐ろしい世の中にあっても、イエス様が一緒に生きて下さる道を生きて、神のいやしを体験しています。その姿が「常に喜べ。絶えず祈り、すべてのことを感謝せよ」をモットーにして人生を歩む人々です。 東京の蓮見博士はイギリス王立ガン学会の名誉会員で、ガン治療の先進地アメリカのガン学会の名誉顧問でしたが、30年前に60万倍の電子顕微鏡を使ってガンの治療法を発表しました。 その治療法はイエス様の原則を取り入れています。だからその研究所に行くと、ガンであっても勇敢に人生を生きている人たちで溢れていました。イエス様のいやしの原則は、先端技術の先にある、たましいのいやしから始める方法でした。 イエス様が教え歩かれた、たましいがいやされて世の中を勇敢に生きる道をあなたは見出しているでしょうか。 |
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昔からキリスト教会の財産は、「評判の良い人」を生み育てて来たことです。 でも、初めは偏見を持ってキリスト者達を見ていたために、良い評判どころか、逆に悪い評判が先立ちました。 キリスト者達は、何か困難に直面すると、まず、祈りました。すると祈りを聞かれる御方は、生きている神ですから、奇跡なども時々起こりました。 それを見て人々は、「バテレン」魔法を行うキリシタンと悪口を広めました。しかしキリスト者達の誠実な生き方に触れた人々は、特別な人を除いて、多くの人々はキリスト者を信用するようになりました。 日本にキリストの福音が伝えられたのは、明治4年(1870年)、今から130年前のことでした。 そらから戦争に敗れた昭和20年(1945年)までの75年間、「嘘をつかないクリスチャン」と云う評判が日本の社会の中に根をおろしました。 戦後、結果で評価する、富めるアメリカ文化と共に日本に再輸入されたキリスト教のために、「貧しくても嘘をつかないキリスト教」は、世俗化して変質したようです。 「ア−メン(真実)」と云う評判が聞かれないことは残念です。だから今、日本のキリスト教は悔改めとキリストに従うことによる「リバイバル」が必要であると真剣に祈り求めています。 キリストに従う人々の受ける「良い評判」こそ、教会の大切な財産だからです。 私達の教会員の田原寿子さんは、寝屋川高校を出て門真市内で、OLとして働いていました。その田原さんが「人生の見本」としてイエス様を見つめて生活しているうちに、「自分の出来る事をしたい」と、フィリピンの貧しい家庭の子供達のために働くようになりました。 今、田原さんはセブ島の極貧の子供達500人以上のお世話をして、その地域では「聖女」のように尊敬されています。 それは田原寿子さんの心の中に「神の愛」が注がれて起こされた神の知恵の結果でした。 聖書エステル記にある、ユダヤ人全滅の王の命令に、実現寸前にブレ−キをかけることが出来たのは、神の民として生き続けたエステル王妃とモルデカイに対する評判の良さの故でした。 それ故にキリストの福音は「キリストの香り」と称されています。 教えではなく生きる力を受ける時、神からの知恵が良い評判をもたらすからです。 |
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サッカーのワールドカップの日韓共同開催が決まった時、心ある韓国の教会の指導者は「何としても、この機会を用いて、韓国人と日本人が心を会わせて、お互いの国のチームの応援とともに、日本人は韓国チームを韓国人は日本チームを応援することの出来るようにしたい」との固い決心が見事に実現しました。ほんとうに嬉しい限りです。 韓国の教会指導者が期待するほど、日本人の社会と日本人の心は、韓国に向けられていません。むしろ、日本人の心は、ヨーロッパやアメリカに向けられて「追いつけ追い越せ」と云う思いが大きかったからです。 そのような考え方は、明治以来、日本の社会と日本人の考え方となって来ました。だから意識しないまま、アジアの諸国、特に隣国である韓国の人々を傷つけて来ました。傷つけると言うよりは蹂躙(じゅうりん)し続けて来た、と云う方が当たっているようです。 だから韓国の人々は、小学校の教科書から、日本に蹂躙されたことをキチンと教えて来ました。それほど日本は韓国の人々にひどいことをして来たのです。しかし日本の政府と大多数の日本人たちは、そのようなひどい仕打ちをしたことを「水に流して」しまって忘れてしまっています。 それどころか、韓国の人たちを蹂躙し続けた「A級戦争犯罪人」として処刑された人々を靖国神社で「神として祈り」そこを小泉首相が公式に参拝するのですから、韓国の人々にとって、怒りが爆発するのは当然です。 だからこそ、傷つけられた韓国の人々が、まず日本人を赦し、一緒になってサッカーのワールドカップの相互応援を実現し、日本を赦して愛する運動を起こしたいと、一生懸命に神に祈り、神の愛を実現して働いて来たのです。 それは、人間の罪のために傷つけられ、蔑げすまれて十字架につけられたイエスキリスト様が、その罪深い人間を愛し、とりなして弟子たちを通して、罪人たちに神の愛を伝えさせた方法でもありました。 それは日本と韓国の実情を知っている人には、不可能なことでした。しかし、心ある人々は「神」が望み実現してくださることと信じて努力を重ねて来ました。そしてとうとう実現しました。でもこれからです。 日本の社会と日本人が、過去の罪に目を向けて、神の赦しに目覚めることは、韓国の人だけでなく、世界中の人々の望みでもあるからです。 |
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サッカーのワールドカップでの健闘に、全ての人々が「新しい希望を持つことが出来た」と喜んでいた韓国の人々に、ショックなニュースが伝えられました。 北朝鮮の艦船と韓国の海軍が銃火を交えて、小さな戦争のような事が起こったと云うのです。韓国の人々は、北の人達も一緒に喜んでくれているとばかり思っていた矢先のことです。 「何のためにこんな事をするんだ」とやり切れない思いにさせられたことでしょう。そして、もう、金大中大統領の「太陽政策も限界だ」と感じる人々も出始めたそうです。 信念や理想を実現しようとする時、自分のことしか考えない人がいつも大きな壁となって立ちはだかります。 人によっては、「ジコチュー」と、若者達ですら嫌われる様な言葉や態度を当然視して、貫こうとする人も少なくありません。 国際的に孤立すれば「核弾頭」を付けることの出来るミサイルを発射して脅かし、嫌われることなど何とも思わない暴力団のような「北朝鮮」的生き方が今の社会を暗くしています。 しかし、このような嫌な存在は、自分の外にいる訳ではありません。私達の心の中に、自分をだめにする存在として働いています。 ただ、いつも自分を正当化してカモフラージュしているために、時々、心の中で「なんて嫌なものを自分は持っているのか」と悩む程度です。 聖書はこのような自己中心的な自分を駄目にする考え方を「世とか肉の思い」と指摘して、いつも自己中心的な生き方と戦って勝利する道を歩くように奨めています。 イエス様は弟子達への最後の教えを「あなたがたはこの世にあっては悩みがある。しかし、私はすでに世に勝っている(聖書 ヨハネ16:33)」と自己中心的考えに勝利して、十字架の苦しみの道さえも勝利の凱旋の道として歩かれました。 だからこそ、御自分をののしる人々のために、愛を持って祈ることさえ出来たのです。心の中に自分を守り、庇(かば)おうとする肉の思いに対して、徹底的に戦われて勝利された姿があの十字架のイエス様が明らかに示されたものです。 聖書のエステル記にある、モルデカイ等神の民達は、断食の祈りによって「自分自身の心の中に」大きな力となっている「ハマン的考え方」と戦いました。 そして、神の恵みによって勝利した時、本当の敵とは何かを知って戦うことが出来ました。 内心の戦いこそ、人生勝利者の歩みだからです。 |
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サッカ−のワ−ルドカップは、日本と共同開催した韓国とに、大きな教訓を残してさわやかに過ぎ去って行きました。 京都のJリ−グチ−ムに帰って来た韓国のワ−ルドカップ出場選手は、「韓国が準決勝に出場できたことは、誰ひとりとして想像もできなかったことでした。」とテレビで語っていました。 しかしそれが出来たのは、ワ−ルドカップ出場のための準備としての厳しい練習を重ねたこと、監督の指示を忠実に実行できる技術をマスタ−したこと、そして何よりも最後の最後まで全力を尽くす心の強さが育てられたことです。 だからこの精神でこれからもぶつかって行くことが出来たら、世界のどこへ行ってもひるむことはないとの心境を披露していました。 けれども、それ以上に韓国チ−ムの心の豊かなことが、多くの人々に感動を与えました。 ちなみにメンバ−23人のうち11人は、熱心な 福音信仰の持ち主たちでした。ブラジルチ−ムの心豊かさも、終わりに環になって、神に感謝の祈りを捧げている光景がテレビで見ることが出来たことで、よく知ることが出来ました。 心を1つにすることは、一見やさしいようですが、そこに自己主張したい打算的な人がひとりでも登場すると不可能なことになる難しいことです。 そこには初歩的な所から、いつも目的のために個人的な願望をひとまず放棄して参加することが求められるからです。 高いレベルになればなるほど、目的のために自己放棄を強く求められます。しかし終えた時の喜びは、全員共通の喜びが待っています。 イエス様が復活して天国にお帰りになった時、弟子たちは、心に起こされた願いは「イエス様の約束のことばに従って行動しよう」と云う目的でした。 だから二階座敷に集まって、心を1つにして祈り始めました。またみことばの定めにたけた働き人を、皆で一致して選びました。 その結果、すべての人の心に「イエス様のみことばの約束」は実現して、いのちの喜びの力となって、世界の地の涯まで流れ出て行きました。 ユダヤ全滅の国王の命令におびえていた人々もまた同様でした。心を合わせて祈り、神の約束実現のために働き、共通した喜びとなりました。 聖書のみことばは すべての人の生きる力であり原則です。 |
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梅雨も明けると、日本の社会は「夏祭り」のシーズンとなります。京都の町を山鉾を巡行させながら奏でる「コンチキチン」が古い郷愁を心に感じさせる祇園祭は、そのはしりです。これらのお祭りの中心は「人と神」が一体となっての楽しみです。 ところで「祭」とは広辞苑によれば、京都の賀茂神社の総称のようです。 死者の33年目に最終年忌を終えて祭りあげとなって、50年目に祭神の世界に迎えられることを地上に残された人とともに喜んだことが、日本全国に拡がりました。 だから祭られる祭神も、そこに迎えられる死後50年を経過した人も、簡単に云えば「死んだ人」です。 でもそれらの人々の世界は「冥冥」の世界つまり「暗くて判りにくい、ただ感じる世界」のようです。 その「冥冥」の世界に存在し、不思議な能力を持ち人々に禍福を降す霊を日本人は神と呼んで恐れてきました。つまり日本人の神とは聖書が「神々」と呼ぶ霊を指しています。 イエス・キリスト様は霊を支配する権威を持たれる「御子なる神」であり「神々」ではありません。「すべてのものは、この御方によって出来た」(ヨハネ 1:3)と聖書に明言された創造主なる「単数の神」です。 霊もまた「この御方」によって「この御方」のために造られました。 しかし霊は、その持つ力の故に高慢になり、自己主張を貫き続けて、自分に逆らうものに呪いを、従う者に福を与え始めたために、神によって地上の冥土に閉じこめられて、悪霊とされ、霊の目的である「この御方」に逆らう存在となりました。 イエス様の十字架の贖いによって、神の世界において罪赦された人々は「神の子」と呼ばれて、この霊の働く恐ろしい、嵐の吹き続ける世界の中で「神が味方」となってくださる立場におかれました。 神が味方となって下さると云う時、三つの世界で「神が味方」であることを体験することを意味します。 一つ目は霊の世界で神が味方です。 二つ目は、心を閉ざさせて暗くする世界で、心に光を受けることです。 三つ目は神が創造し神の法則によって支配されている自然界において、自然法則に優先する「神のみこころ」を実現させられることです。 そのためにイエス様は、人として死なれた後、3日目に復活して、人々にその事実を明らかに示して、神の世界で活きて働いておられます。 神が味方であることを体験することができるのは、信仰によって「神の世界」に生きている人々のみです。 |
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本格的な夏となり、各地で水の事故のために「水死」のニュースを聞くたびに心を痛めながらも絶対に「水の事故」には遭わないように、子供たちの考え方を(そして大人にも)身に付けて欲しいと願っています。 高校の時、家が貧しかったためにお金のいらないクラブにはいりました。そのクラブは「水泳部」で当時は学校に「プール」が なかったために「水泳部員」は、皆「赤フンドシ」で「お城下」と呼ばれる川が城を囲むように流れている「水練場」での練習でした。 だから時々そこで溺れた人々を皆で協力して助けたり溺死者を皆が一列に並んで潜って探すと云うような事などもさせられました。 そのために水泳部員はどんな急流に巻き込まれても「溺れない」という考え方を身に付けさせられました。 人々は「水」に対する潜在的な恐怖心を持っているため、思いがけない状態に陥ると、その潜在意識が働いて、よく泳げる人でも簡単に溺死するようです。 この古い考え方が変えられるためには実際的な水の中でも訓練による以外に潜在意識を変える事はできません。 今、社会の中で声高に叫ばれている「危機意識」が身に付く方法も実際面での訓練がもたらすものです。 イエス様が弟子たちを教えたのは「みことばに従う」訓練でした。 どんな理由があっても信仰の実際的な訓練なしに「みことばに従う」ことはできません。考え方が「難しいからダメ」と言う不信仰な潜在意識にとらわれているからです。 イエス様の訓練方法はイエス様の愛を体験する訓練から始まりました。 トマスは、自分の考え方がイエス様に対して失礼なものであることを知っていながら、神なき理解によって自分の考え方を正当化しようとしました。 しかし、イエス様はその失礼な考え方さえ受けとめて神の愛でトマスの考え方を包み込んでしまいました。 その結果、信仰の目がひらかれたトマスの潜在的な考え方は変えられました。 他の弟子たちと心を合わせて「みことば」を信じて従いペンテコステの日に「聖霊によって心が満たされて」イエス様の考え方である「死からいのちに移され」ました。 そこには嵐の世にも勝利の道を歩むことの出来る考え方が生まれました。 |
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先日、日本女子陸上長距離選手のホープである 福士さんは5,000メートル日本新記録を出しました。福士選手は高校生になってから陸上を始め、高校を卒業してから本格的な競技に参加して、まだ2年足らずだそうです。 彼女はいつも「練習は辛いが楽しい」と言っていると、新聞は紹介しています。 ほんとうの練習は「自分の欠点や弱さ」を知って、その弱さや欠点が強さや利点に変えられるための自己訓練であるからです。このことが体験できるようになると「練習は辛いけれども楽しい」ものと変えられることを、福士選手は実証しています。 しかし多くの人々の練習は 自分の弱さや欠点には目をつぶりただ練習させられるため「練習は辛く嫌いなもの」となっています。 人間は、いつも自分の弱さや欠点よりも、強さを認めたいようです。 日本政府は、昨年来アメリカの貿易センタービルにおけるテロ事件や、太平洋から東シナ海にかけての不審船の銃撃事件などを契機に、「有事法制」に対して国としての対処する在り方を「法制化」しようとしています。 それは、まさしく世界に向かって「日本は戦争になると、こんな強い国になるぞ」と、宣言するようなものです。 しかし、それは相互信頼よりも、憎悪感を深める危険なもので、イスラエルとパレスチナの争いがそれを証明しています。 イエス様は主なる神であられる方なのに、人として生きた時、徹底して「人としての弱さ」を貫かれました。 その姿が「祈り」を一番大切な生きる道とされたからです。「祈り」なくして 何ひとつ行われませんでした。 「祈り」は、自分のほんとうの弱さを自覚した人の特徴だからです。 だから十字架の上で、神の力を用いて、その場にいたすべての人を恐れさせることが出来たのに「父よ 彼らをお赦しください」と、イエス様は祈られました。すると、父なる神はその弱さの中で「死に打ち勝つ永遠のいのちの力」を注いで下さいました。 それがイエス様の十字架の愛による勝利であり、地獄の中からの復活でした。 だからイエス様と同じ弱さに徹して「祈り」のある人生を歩む人々には イエス様と同じ勝利者の人生を歩みます。 強さを求めて「祈り」のないみじめな人生の中から、イエス様によって強くされる、本当の弱さの中に生きる人は幸いな人です。 |
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