礼拝説教宣教要旨 2007年2月度
2月 4日  「神の家に行こう」
11日  「自分の行いの実」
18日  「主の若枝」
25日  「災いだ」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年2月4日 教会礼拝
  題  : 「神の家に行こう」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  2章1節〜5節

   イザヤ書の1章〜5章の中に、叱責と約束の4つの説教があるといわれます。そして、本章は2番目の説教です。ただ、初めの部分はリバイバルの祝福です。
 また、イザヤと同時代に南ユダ王国で活躍していた預言者に、ミカがいますが、本章の2〜4節とミカ書4章1〜3節の預言が全くと言っていいほど同じです。

 さて、イザヤとミカが口をそろえて同じ預言をしたということは、神が特に重要なこととしてわたしたちに語っておられるのです。
 そのテーマは「終わりの日」です。しかし、単に暗いイメージの「終わりの日」ではなく、神が勝利を得られる時を示しています。

1.主の神殿の山
 直接的には、ユダ王国のエルサレムにある神殿を指していますが、霊的、信仰的には、主のご臨在とそのメッセージによって、全世界の人々が注目し、関心をもって信仰の中心となる、ということです。

2.ヤコブの神の家に行こう
 多くの民が、このように語り、多くの国の人々が神のもとに来るようになるというのです。
 すなわち、ここは終末のリバイバルを示しています。現代のわたしたちも、今教会に人が集まって来られない、と嘆いています。しかし、やがて終わりの時には、多くの人々が教会に押し寄せてくるのです。

3.光の中を歩もう
 聖書は、今の世の中にも終わりの日、終末が来ることを語っています。わたしたちの教会は、今日教会総会をもって、世の終わりのあることさえ知らないで神に背を向けている人々に対して、福音を伝えるためには何が大切なのか、どのようにするべきなのかを考えようとしています。

 私たち自身が、主の光の中を歩むことによって人々に福音を伝えていきましょう。
本章の、6節以降は背をむけ続ける者に対するさばきが語られます。イエス・キリストの十字架と復活を信じ、伝え続ける教会でありましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年2月11日 教会礼拝
  題  : 「自分の行いの実」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  3章8節〜15節

   前章でイザヤは「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」(2:22)との警告をしました。
 しかし、ユダ王国は神に従うことをしないで、兵隊、占い師、魔術師、呪術師などを頼りにしていましたから、神はこのことのゆえに裁きを行なわれると言われます。

1.日常生活への裁き  1〜7
 神の裁きは、パンや水の欠乏にまで及びます。この欠乏は、ウジヤ王の時代の繁栄を知っている民にとっては大変苦しいものでした。そうです、すでに人間の力の及ぶ限界を超えてしまっているのです。
 わたしたちも人間関係、仕事や家庭の問題で人の知恵と力ではどうすることも出来ないときがあります。これらがあるのは必ずしも神の裁きというわけではありませんが、問題にぶつかった時に、自分を振り返り、悔い改めるべきは悔い改める必要があります。

2.わたしの民  8〜15
 神は、このような状態にいるユダ王国の民に対して「わたしの民よ」と声をかけて下さいます。神はどこまでも反抗を繰り返す民をなお「わたしの民」と呼ばれますが、神は現代のわたしたちクリスチャンに対しても、常に愛の目をもって見つめていてくださるのです。真っ暗な中に光を見るようなお言葉です。
 そしてこの裁きの記事の中で、「主に従う人は幸い」「彼らはその行いの実を食べることが出来る」と言われます。

3.女性に対する裁き  16〜26
 繁栄の時代のエルサレムでは、贅沢に過ごしていました。現代の女性たちもうらやましくなるような装飾品を身に付け、香水をふりかけ優雅を誇っていました。しかし神は、神によらないその繁栄を落とされたのです。
 わたしたちは、足ることを学び、神様の前にはあくまでも謙遜に、人に仕え、神に絶対服従をしながら、わたしの民と呼んでくださるお方様と、毎朝、毎夕交わり、神が与えてくださる実を食べるものでありましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年2月18日 教会礼拝
  題  : 「主の若枝」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  4章1節〜6節

   本日の午後は、ケズィックコンベンション神戸大会が開かれます。ケズィックとはイギリスの地方の名前で、そこで開かれたコンベンション、すなわち131年前から毎年開かれている聖会は、しばしば神様がすばらしい祝福を与えられ、リバイバルが起こりました。そこからこのすばらしい流れを全世界にということで、ケズィックの名前をつけた聖会が全世界で開かれるようになったのです。

 さて、イザヤ書4章から神様の恵みを覚えさせていただきましょう。

1.裁きの続き
 2章から始まった裁きの預言は、4章1節まで続いています。男性は戦争で激減しています。そこで女性たちが結婚を願っても相手がいません。
 これは、信仰的にも堕落して求めても答えられない姿を教えています。正に、霊的絶望の裁きです。

2.若枝の恵
 主の裁きの預言が続く中で突然祝福の預言が語られ始めます。「イスラエルの生き残った者」とは、イスラエル全体の堕落の時にも清い信仰を保ち、正しい行動を貫いた人々です。
 その人たちに「主の若枝」即ち「救い主」の希望が語られています。そして、この記事は再臨の折に現れてくださるイエス・キリストを指しています。

3.聖潔(きよめ)の順序
 完全に見捨てられても仕方のない状況にある者たちも救いのチャンスが残されているのです。先ず、裁きの霊によって罪を指摘し、悔い改めに導かれます。
リバイバルには必ず悔い改めの業が伴います。そして、それは完全に焼かれて不純物を取り除くような完全な聖潔です。そして、すすぎ清めて下さいます。言うまでもなくわたしたちの聖潔は、キリストの十字架の血潮によってすすがれます。

 裁きと、聖潔の後には主のご愛と寛容のゆえに隠れ場と仮庵をもって保護してくださるのです。イスラエルに現されたこの神の愛は、現代のわたしたちにも表されています。わたしたちも完全な聖潔に与る者としていただきましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年2月25日 教会礼拝
  題  : 「災いだ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  5章8節〜22節

   イザヤ書5章は、裁きの書、罪の指摘の書ともいえる箇所です。「災いだ」で始まる文章が6回も出てきます。ここで、わたしたちはイザヤを通して語られる裁きの原因を学んで、反面教師として心に留め、神の祝福を得る者としていただきましょう。

1.ぶどう畑の歌
 イザヤは豊作を祝って歌われる歌をもじって歌ったと考えられます。一生懸命に育てたぶどうが、外側ばかり立派で、酸っぱいぶどうであったと言うのです。
ここで言う「酸っぱい」は、「悪臭を放ち、忌み嫌われる」(箴言13:5、出エジプト7:18)の意味です。神に愛され、手をかけられ、良い実を結ぶように期待されたのに、酸っぱいぶどうで、悪臭を放ち忌み嫌われる存在になってしまったことを歌っています。

2.災いだ
 災いを指摘しています。「家に家を連ね」これは、隣人を省みない貪欲の塊のような存在を語っています。「朝早くから濃い酒をあおり」は、快楽主義に心を奪われた者の姿を指摘しています(ガラテヤ5:19〜21)。
「むなしいものを手綱として」は、神を無視して、罪や咎を引き寄せ、神に対して「早く事を起こさせよ」と侮辱的にふざけるように語っているのです。「悪を善と言い」正義、善、真実を尊重するように言いながら、不利益になるとき、自分のすることは全てが正しい。他人のすることは全てが悪であるとする人がいます。
「自分の目には知者であり」真の知恵は神が認知されるのであって、自分で決めるのではありません(フィリピ2:3、箴言16:18、26:12)。「酒を飲むことにかけては勇者」今一度、快楽主義を戒めています。

3.神の審判
 先の罪の羅列を踏まえて「それゆえ」と言っています。ここでの主の裁きは切って落とされた。という表現がぴったりなように一挙に裁きが行なわれる様子が記されています。ここまで、イスラエルの罪の姿勢を見、主の裁きを見せられたわたしたちは、彼らと同じ道を歩んではいけません。
 私たちはキリストの十字架と復活による永遠の命と、祝福をいただいています。彼らの失敗を反面教師として主に喜ばれる歩みをさせていただきましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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