礼拝説教宣教要旨 2007年4月度
4月 1日  「彼らをお赦しください」
8日  「心は燃えていた」
15日  「手を上げて祝福された」
22日  「万軍の主の熱意」
29日  「その日が来れば」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年4月1日 教会礼拝
  題  : 「彼らをお赦しください」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ルカによる福音書  23章 32節〜43節

  今日は、イエス・キリストが子ロバに乗って、エルサレムの町に入城された日で、棕櫚の聖日(パームサンデー)と呼ばれています。
 神戸中央教会では、今週の火曜日から金曜日まで、受難週祈祷会を計画しています。受難週のしおりに沿って聖書を読み、受難週祈祷会に出席しましょう。
 さて、今日はイエスが逮捕されて十字架につけられ、息を引き取られる記事を通し、イエス・キリストの大きな犠牲と救いのすばらしさを教えられましょう。

1.裁判
 イエスはゲッセマネの園で祈られた後、ローマの兵隊に捕縛され、それから明け方にかけて3回のユダヤ教側の裁判、3回のローマ帝国側の裁判を受けられました。
 はじめは、アンナス、カイアファ、によるユダヤ教による裁判、ピラト、ヘロデ、再度ピラトのもとでローマ帝国の法律で裁かれたイエスは、再び、ユダヤ教指導者の前に引き出されてユダヤ教の立場による裁判を受け、ついに死刑判決をピラトが下すことになったのです。

2.バラバの釈放
 この時、ピラトは極悪人バラバを立たせて、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」(マタ27:17)とたずねると、群衆はバラバを釈放するように求めました。おそらくバラバは自分が釈放されるとは思ってもいなかったでしょう。わたしたちも自分の罪を見ると、とても赦されるような者ではありません。しかし、十字架はわたしたちを赦してくださるのです。

3.赦し
 バラバが釈放され、イエスが残酷極まりない肉体的苦痛を受け、そして十字架にかかって下さいました。そして、その十字架の苦しみの只中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って下さいました。わたしたちはこの言葉によって赦しの確信がいただけるのです。あのバラバではない、このわたしが罪赦されるためには、罪のない神の独り子イエス・キリストが十字架にかかり、あの赦しの祈りをしてくださる必要があったのです。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年4月8日 教会礼拝
  題  : 「心は燃えていた」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ルカによる福音書 24章28節〜35節

   本書の記事は13節から続いています。イエスが復活された日の午後、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン(約11km)ほど離れたエマオと言う村に向かっていた時のお話しです。

1.目がさえぎられていた
 この弟子たちは、イエスの復活の出来事について話し合い、論じ合っていたと言います。彼らは、墓に行った女の弟子やペトロやヨハネたちの語ったことについて話し合っていたのでしょう。すると、復活されたイエスが一緒に歩きながら二人の会話に入ってこられたのです。それからイエスが主導権をもって話し始められました。
 それでも、彼らにはその話しておられるのがイエスだとは分からないのです。わたしたちも、友人と信仰について話し合っているとき、祈っている時に、そこにイエスが共にいてくださることに気付かない場合が多くあります。注意して下さい、復活されたイエスは、あなたが気付かなくても信じる者といつも共にいてくださるのです。

2.目が開かれた
 心の鈍い弟子たちも、一緒に話しているお方がイエスであることに気付く時が来ました。イエスがパンを取って賛美の祈りを唱えてパンを裂いてお渡しになった時です。この姿は最後の晩餐の席でイエスがなさったのと同じだったのです。
 ここでわたしたちは、すなわち聖餐式の大切さを教えられます。わたしたちの、霊の目が開かれるのはイエス・キリストの十字架を覚え、受け留める時です。わたしたちも、もう一度キリストの十字架を仰ぎ霊の目を開いていただきましょう。

3.心が燃えた
 霊の目が開かれた弟子たちは心の燃えるのを覚えました。そして、イエスとの会話のことを振り返ってみると、イエスの語られる言葉に聞き入っていた時、聖書の話しを聞いているときに心が燃えたのです。
 わたしたちは、毎日、聖書を読み、学び、イエスとの会話である祈りをささげるとき心が燃やされます。それは、イエスと話し、イエスと歩いているからです。毎日十字架のイエスを見つめつつ、復活の主と共に心燃やされて歩みましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年4月15日 教会礼拝
  題  : 「手を上げて祝福された」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ルカによる福音書  24章36節〜53節

   イースター礼拝によって、復活のイエス様の姿を思い起こしました。また、信じるものと共に歩んでくださるお方を見せられ、お互い心が燃やされました。
 さて、今日の箇所は、あのエマオから帰ってきた弟子たちとエルサレムにいた弟子たちの記事です。

1.復活の事実
 弟子たちがイエス様の死体を盗んだという説もありますが、それはマタイ28:11〜15を見ると、ユダヤ教の指導者たちが仕組んだ作り話だったことが分かります。また、敵対者がイエスの死体を持ち去ったという考えは、復活しなかったという証拠を自ら提示できなくするのですから矛盾します。
 弟子たちが幻覚や亡霊を見たという説もありますが、イエス様が弟子たちに話しかけ、姿を見せ、魚を食べることで、復活の事実を証明してくださいました。

2.希望の実現
 失望のどん底にいた彼らに、復活されたイエス様が現れてくださったのですから、彼らの驚きと喜びは想像に絶するものがあります。ヨハネ20:19〜23では、弟子たちが復活のイエス様を見て喜んだことが記されています。
 知識や理屈だけでキリストの復活を論じていても、心は変わりません。しかし、復活のイエス様を心から信じ、受けいれる時、心は喜びに満たされます。人間を苦しめ、恐れさせてきた死を越える勝利の希望が与えられます。

3.再臨の希望
 イエス様はオリーブ山の東側の山すそにあるベタニヤで、弟子たちのうちにある疑い、誤解を正された後、これからの弟子たちの働きには聖霊がおいでになって助けてくださることを約束した上で、手を上げて祝福しながら天に上げられました。
 わたしたちの中に、信仰の疑い、不信仰が起こってきたとしたら、イエス様の復活を思い、聖霊なる神によって聖潔の恵みに満たされる時、やがておいでになる再臨のイエス・キリストを心から待望することが出来るのです。
キリストの十字架と復活、昇天と再臨、この福音の原点に心を向け続けましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年4月22日 教会礼拝
  題  : 「万軍の主の熱意」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書 9章1節〜6節

   神様は、アッシリヤの勢力のもとに心が弱くなっている神の選民に対し、また後代の人々にもまことの光であるキリストの来臨を永遠の希望として掲げておられます。

1.暗闇の中に光が輝く
 イザヤは数年後に起こることを、すでに起こったかのように過去形で語っています。そして、このような暗闇にも大いなる光が輝くと言います。それは、この暗闇に置かれた地方にまことの光であるキリストが来臨されることを預言しているのです。
 わたしたちは、このイザヤの預言から、現代の世相を考える必要があります。アメリカでの乱射による32名の殺人事件、長崎市長の射殺事件、相変わらず頻発しているイラクの自爆テロ、そして18日に起こった、トルコの現地牧師2人と1人のドイツ人宣教師殺害事件、そうした中でも、快楽と自己中心の世相に染まった日本、これらを見るとき、わたしたちは正に暗闇の世界に住んでいると思わせられます。しかし、神は信じる者に大いなる真の光と希望を与えてくださっています。

2.再臨の希望
 復活のイエス・キリストは、手を上げて祝福しながら天に上げられました。そして弟子たちに「イエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)との約束が与えられました。この約束は今もわたしたちに与えられた約束として信じ、期待すべきものです。それを信じるお互いの間には平和があり恵があるのです。

3.永遠の御国の約束
 確かに信じる者の心の中には、祝福があり、平和があります。しかしわたしたちの現世の社会は、相変わらず罪と汚れに満ちています。この世界が、大いなる光輝く中で真の平和が実現するのはいつでしょう。
 人間の高慢と悔い改めようとしない硬い心が裁かれる、最後の審判、そして、神が新しく創造してくださる新天新地が実現する時だと言えるでしょう。
 しかし幸いにも、わたしたちは現世において教会という神の家、クリスチャンという神の家族の交わりが許されています。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年4月29日 教会礼拝
  題  : 「その日が来れば」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  10章20節〜27節

   9章において救い主来臨の約束が預言されました。しかし、現実にはアッシリアの圧制は続き、民は苦しみの中にあえいでいる状態です。そのような民に対して、イザヤは神に叛逆する者への警告と、裁き、さらに回復の預言を語っています。

1.高ぶりに対する裁き  1〜19
 ここは5節以下に続くアッシリアに対する裁きの警告だとする説もあります。つまり、アッシリアはイスラエルを裁くために用いられた道具に過ぎないのに高ぶっていたために裁かれるのです。何かが良くできたとしても、自分自身の力によるかのように思い上がってしまうなら、神は一度は用いられた国や人物であっても、裁かれることを覚えなければいけないのです。

2.その日が来れば  20〜27
 アッシリアが神様に裁かれて衰退した後、かつて神に裁かれたイスラエルの民の残った者が帰還すると言うのです。
 今までイスラエルを苦しめ続けたアッシリアを裁いてくださる様子が記されています。それは正に出エジプト記に出てくる奇跡的な神の保護のようにです。
 わたしたちにとってその日が来ればとの「その日」とは、イエス・キリストの十字架と復活による救いの完成の日です。
 イスラエルが、アッシリアから解放された時に、それまで負わせられていた重荷が取り去られ、奴隷のように首にかけられていたくびきが取り除かれたように、罪の重荷、サタンのくびきから解放されるのです。(マタイ11:28)。

3.選民を守ってくださるお方  28〜34
 解放されたと思ったイスラエルでしたが、アッシリアは残った勢力をもってイスラエルを攻撃してきます。正に風前の灯のようになった時、「見よ、万軍の主なる神は」と、神が立ち上がって、イスラエルを守ってくださいます。
 わたしたちにもインマヌエルの神が共にいてくださって、罪の誘惑、滅びから守ってくださいます。自分の力を誇らず、常に主を仰いで、主により頼んで信仰の戦いを勝利させていただきましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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