礼拝説教宣教要旨 2007年7月度
7月 1日  「世界の救助者」
8日  「この身をもって」
15日  「夜明けは近い」
22日  「備えるべきこと」
29日  「主のみ前に住む者」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年7月1日 教会礼拝
  題  : 「世界の救助者」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  19章19節〜25節

   本章はエジプトへのメッセージです。ユダ王国にとってはクシュ、アッシリアと共にエジプトは強力な国でした。
 しかし、クシュへのメッセージでもそうであったように、神を無視した力は必ず神によって裁かれることが示されます。

1.内乱  2〜4
 「エジプトをエジプトに刃向かわせる」とは、内戦状態を指しています。神様が裁きをされるときは、外敵による裁きが多いのですが、ここでは、政治的な内乱があり、宗教的な混乱による悲惨な状況が起こりました。

2.自然災害  5〜10
 エジプトにとって母なる川とも言うべきナイル川が干上がるという、異変によってもたらされる経済的不安定という裁きも加えられます。農業、漁業が成り立たなくなれば、エジプトの経済は確実に低下するという裁きです。

3.知者の崩壊  11〜15
 わたしたちはエジプトの知恵の豊かさを知らされています。しかしここでは、万軍の主が彼らに混乱を与えられ、エジプトの国内外を収めることさえ出来なくなることを示しています。どのような知恵にも勝る主を畏れる知恵をもって、社会、家庭、教会での生活をすることが大切であることを忘れた結果が示されています。

4.その日には  16〜25
 ここから5回も「その日には」と出てきます。つまり神が裁きを行われる日に、エジプトは目を覚まし、悔い改め、主を信じるようになるのです。
(1) 万軍の主を畏れるようになる。---------- 16〜17
(2) 太陽の町ととなえられる。--------------  18
(3) 救助者を送り、救いの業を行われる。---- 19〜22
(4) 福音が伝えられる。------------------- 23
(5) 世界の祝福の基となる。--------------- 24〜25

救い主キリストが与えられ、救いが完成し、信じる者が祝福の基になるのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年7月8日 教会礼拝
  題  : 「この身をもって」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  20章1節〜6節

   当時の地中海沿岸の諸国は、エジプトやクシュに関心を寄せその力を利用しようとしていましたが、この頃、神はアッシリヤを用いて神にそむいたエジプトとクシュを裁かれました。
 わたしたちも、自分の判断や常識でこの世の知恵や力に頼ってはいけません。大きな問題が起こり、神から罪を指摘され、悔い改めを迫られた時は心から素直に悔い改めることが大切であることが教えられています。

1.イザヤ自身の教材
 イザヤは主の命令によって、3年間裸で過ごすことになります。この姿は、戦争に敗れて捕虜となった者の姿であり、奴隷の姿でもありました。
 これは、ユダも含めた地中海沿岸の諸国がエジプトやクシュに期待することの虚しさを示しています。これらの国は神様に用いられたアッシリヤに滅ぼされて捕囚となり、恥ずかしめを受けるのですが、イザヤは、自分の恥ずかしい姿を見せることで、そのようになることを象徴的に示し教えているのです。

2.キリストの姿
 主はわたしたちの罪を示し、その裁きの厳しさ、苦しさを教えるために、自ら罪人の姿となって下さいました。イザヤ書53章は正にその姿です。しかしこの姿はイザヤが象徴的に示した姿とは違い、わたしたちが負うべき苦しみ、痛み、罪のゆえに受けるべき裁きを代わりに負ってくださった姿です。神が自ら、その身をもって罪の裁きを受けてくださったのです。「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、とりなしてくださいました。そのことによってわたしたちは罪ゆるされ、神の子どもとされる特権に与かったのです。

3.主にのみ期待をする
多くの人々は、イザヤの姿を見て自分たちのより頼もうとしていた国の力がいかに虚しいかということを悟ります。わたしたちはイエス・キリストの十字架の姿を多くの人々の前に示し、この世の目に見えるものにより頼むことの虚しさと、罪の裁きの厳しさ、救いの恵のすばらしさを伝えていく者でありたいものです。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年7月15日 教会礼拝
  題  : 「夜明けは近い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  21章11節〜17節

   ここにも、バビロン帝国の滅びと、ドマ(エドム)についての預言が記されています。BC605〜582年にイスラエルを滅ぼして4回に分けて捕囚としたバビロン帝国も、ペルシャのキュロス 2世によってBC539年に滅ぼされることになります。
ここで、イザヤはまるで今日明日にも起こるかのようにバビロンのことを語っていますが、実はこのことが実現するのは約150年も後のことになるのです。

1.バビロンの陥落
 バビロンは、やがて訪れようとする神の裁きである、強大なペルシャに気付かず、宴会に明け暮れていたのです。(5節)
 わたしたちは、現代社会にあって「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです」(1テサ5:3)とならないように、信仰の目を主に向ける必要があります。

2.夜明けは近い
 12節の言葉は、2種類の解釈ができます。「夜明けが近いと思ったが、まだ夜明けには時がある」と「夜明けは来る。しかし、またすぐに夜になる」と言う解釈の2種類です。多くの学者は後者を採用しています。
 しかしここに両者を折衷した見方もあります。時代は繰り返し、平和が来たかと思うと又すぐに暗黒の世界がやってくる。しかし繰り返しながらも、主の最後の審判の日に近づいているのです。そうです、最後の審判の日は、救われた者にとって永遠の救いが完成される日です。しかし、信じない者にとっては永遠の滅びの日です。

3.目を覚ましていよう
 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ています」(ロマ13:11)、イザヤは、自らを見張の者として語っています。
わたしたちこの世の多くの人々より先に救われた者は、現代の預言者です。この預言は何か目新しく、人を驚かせるようなことを語るのではありません。聖書が語っている、神につき、罪につき、救いにつき、裁きにつき、永遠の滅びと永遠の命について語る預言者です。目を覚まして語り続けましょう。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年7月日 教会礼拝
  題  : 「備えるべきこと」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  22章6節〜14節

   わたしたちクリスチャンは謙遜であるべきだと思っていますし、そのような方が多くおられます。しかし、よく注意をしていないとクリスチャン独特の傲慢に陥っていることも多くあります。それは「自分は神様を信じて救われたクリスチャンだ、しかし、あの人たちはまだ神様を知らないノンクリスチャンだ」といった目で、自分たちを一段上においた立場で人々を見ている場合があります。わたしたちは、いつも神に救われた罪人であることを心に留めるべきです。

1.エルサレムの罪
 イザヤがエルサレムの裁きを預言しているのに、エルサレムの住人たちはそれを無視して踊り、歌い、飲んで騒いでいます。これは「エルサレムには神の神殿がある。ここは聖都だから滅ぼされることは無い」と思い、神を畏れる真実な生活ではなく、神を忘れ、ただ選民意識だけのある、安易な生活をしていたのです。

2.弱さを知る
わたしたちが聖書を読み、キリスト教会の歴史を見るとき、必ずしも神様に救われた者が完全な人に作り上げられるのではなく、時には弱さを持ち、足りなさを持ち、苦しみながら神様によりすがって生きている人の多いことを知ります。ですから、パウロも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ3:12)と言っているのです。
 確かにエルサレムは聖都です。しかし、そこに神殿があるから大丈夫というのではなく、神の前に神の民として神を畏れて歩み、清い生き方をすることが大切なのです。毎日悔い改め、聖潔を求め、救われた者としてふさわしく生活したいものです。

3.シェブナとエルヤキム
当時の成功者と言われたシェブナですが、心から神を拝することをしないばかりか、自分の才能や知恵で努力すれば成功し、自分の思うままにできるという思い上がりが彼を失脚させ、エルヤキムをその地位につかせることにされたのは神様ご自身でした。主に信頼する者と自分の力に頼る者との違いが示されています。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年7月日 教会礼拝
  題  : 「主のみ前に住む者」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  23章15節〜18節

   ティルスはイスラエルの北に位置し、地中海沿岸に広がる古代フェニキヤの主要な都市でした。経済、通商において世界的に知られていました。
 イスラエルは、かつては軍事に勝る国に期待しようとして神に戒められました。そこで今度は経済的な力を誇るティルスに頼もうとしたのですが、そのティルスの末路もまた惨めであることが示されました。

1.行き場の無い人々
 ティルスの人々が、タルシシュ(現在のトルコ)に貿易に行って帰る途中、キプロスに寄港した時に自分たちの町が滅ぼされていたことを知り、タルシシュに船を戻そうかどうか迷っている様子が記されています。
 神により頼まず、経済のみを頼りに生きている人が、経済的な危機に陥った時、混乱状態に陥るのと似ています。わたしたちは、経済もまた神様の恵みによるのであって、与えられる富も神様からの賜物であると知ることが大切です。

2.世界を支配される神
 エジプトもバビロンもアッシリアもそれぞれ後から台頭してきた国によって滅ぼされました。ティルスやシドンもバビロンに滅ぼされたという説と、前332年にアレキサンダー大王によって滅ぼされたという説もありますが、いずれにしてもすべての世界の歴史を支配し、治めておられるのは神であることを心に留めつつ、現代の世界情勢も、日本の政治も見ていきたいものです。

3.主のみ前に住む者
ティルスは、滅ぼされて70年後に再び商業都市として回復し栄えます。遊女の報酬と言っていますが、これは世俗一般の商取引であることを指しています。しかし、そのようにして得た富を今度は、収益を神と人とのために用いるようになり、社会の繁栄と祝福に貢献するようになると言うのです。神は神を知らない人であっても、その人が神様の御旨にかなう謙虚な歩みをしようとするなら、神は祝福を与えてくださるのです。まして、神に生かされていることを信じるわたしたちは、常に神様のみ前に生かされ、神の支配される世界に住んでいることを自覚して生活したいものです。
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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