礼拝説教宣教要旨 2007年8月度
8月 5日  「神の栄光の輝き」
12日  「揺るぎない真実」
19日  「恵みの測り縄」
26日  「神は避けどころ」
   「広がり続ける福音」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年8月5日 教会礼拝
  題  : 「神の栄光の輝き」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  24章17節〜23節

   ある人たちは、イザヤ書の24章から27章を「イザヤの黙示録」呼ぶことがあります。内容が、地域的でなく宇宙的であること、小さな見方でなく大きな見方をしていること、歴史的にではなく象徴的に、神の直接的関与として、終末を取り扱っているからです。本来「黙示文学」というとペルシャの影響を受けた、前2世紀頃のものという性格をもっているのですが、イザヤはそれらの思想が出てくるはるか以前に神の知恵によってこのような文章を表すことが出来たのでしょう。

1.世界的裁き
 主の裁きは、世界的規模で行なわれるのです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日天は激しい音を立てながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)
 ここでは、「地は渇き、世界は枯れ」は、「高慢な者、また地位の高い者は衰える」と訳すことが出来るといわれます。神は、神を否定し神の愛を拒む、高慢な者に対して身分のいかんを問わず裁きを行われるのです。

2.神による回復
 世界的な裁きの預言が語られた後に、世界の人々、イスラエル以外の民の中から神を賛美する人々が起こることを預言しています。
「地の果てから、歌声が聞こえる。『主に従う人に誉れあれ』と。」これは、現代の世界を指しているように思えます。十字架と復活によるあがないの完成、それに続く聖霊降臨のペンテコステの日以来、福音は全世界に宣べ伝えられ、信じる者が起こされるようになることの壮大な預言です。

3.神の最終的勝利
 ここでの裁きは、単に神に背いた者に対する裁きだけではなく、神に敵対させる勢力「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」(エフェソ6:12)と言っています。すなわちサタンの裁きです。
そして、最終的には神の大勝利が預言されています。「主の栄光が現されるとき」とは、あの黙示録20:14,15、21:1〜4の実現の時です。
わたしたちは、最後の最後に勝利をお取りくださるお方様を信じて、どのような困難の中にも信じ続けていきたいものです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年8月12日 教会礼拝
  題  : 「揺るぎない真実」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  25章1節〜5節

   8月というと62年前の8月15日に敗戦を迎えた太平洋戦争を思い起こされる方々も多くおられます。高齢になられた戦争体験者の方々だけではなく、若い人たちも、戦争がどれほど悲惨で無益なものであるかを学んでいただきたいと思います 。

1.揺るぎない真実  1〜5
 人間の世界は、不信があり、裏切りがあり、憎しみがあります。しかし、神は真実そのものであって、偽りや、間違いの一点も無いお方です。ですから、このお方が約束されたことは必ず実現するのです。多くの国々が神に信頼せずに、自らの力と富を誇って築いた堅固な街、建物、名声は、神が裁きの業を始められるとたちまち滅ぼされ、跡形もなくなってしまいます。
 現代社会においては、不公平、不平等なことが見えて、「神を試みても罰を免れている」(マラキ3:15)。と言いたくなります。しかし、神は必ず主に従う者には永遠の命を、反抗するものには裁きを与えられます。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラテヤ6:7)。

2.涙をぬぐってくださるお方 6〜8
 エルサレムの王であり万軍の主が自ら祝宴を開いて、全世界に住むわたしたちを楽しませてくださいます。なぜなら、わたしたちに永遠の命が与えられるからです。
 ルカによる福音書12章に登場する金持ちの話はこのことを良く教えてくれます。
この地上の世界でどんなに宝を豊かに蓄えても、永遠の神から与えられる永遠の命を持っていないと、富は何の役にも立たないのです。しかし、この地上の生涯がどんなに貧しく、孤独であっても、真実な神はやさしい御手で涙をぬぐってくださいます。

3.最後まで反抗する者の末路  9〜12
神が揺るぎない真実をもってわたしたちを救い、わたしたちの目から涙をぬぐってくださるとしたら、その逆にも神は真実をもって行動されます。
もう一度、パウロがガラテヤの信徒たちに語った言葉を心に留めましょう。「神は人から侮られることはない」のです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年8月19日 教会礼拝
  題  : 「恵みの測り縄」  宣教: 木村 勝志 牧師
 聖書 : 詩篇  16篇1節〜11節

   詩人は、「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを」(1節)と歌いますが、なぜそのように歌うのでしょうか。それは、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」(2節)、主ご自身こそ「わたしの幸い」そのものだからです。
そして、この主の恵みは具体的にどのように詩人の人生に現れたかを歌ったのが5〜6節です。「測り縄」とは、土地を測量するための道具のこと、「嗣業」とは、神から分与された相続財産・土地のことです。その測り縄が一人ひとりの人生の上に落ち、それぞれにふさわしい人生が測り与えられるのです。詩人は自分の生涯を振り返り、「わたしは輝かしい嗣業を受けました」、主は私のために選びに選んで最も良い人生を備えて下さった、と信仰と感謝をもって受け止めています。
だからこそ、「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います…わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」と歌うのです(9、11b節)。

 測り縄をもって十二部族に嗣業を割り当てられた主は(ヨシュア14:1〜5)、同様に私たち一人ひとりにも嗣業=ご計画を割り当てておられます。
顔かたちが一人ひとり違うように、人生も十人十色です。一見分が悪い、貧乏くじを引いたように思うことがあるかもしれませんが、私を創造された主はこの私のことを最もよくご存じで、しかも御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡すほどこの私を愛しておられるお方です。この主の愛の測り縄による嗣業が、どうして私にとって最善でないことがあるでしょうか。
ヨハネと自分とを比較したペトロが復活のイエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねると、イエスは「あなたは、わたしに従いなさい」とピシャリといさめられました(ヨハネ21:21〜22)。人と比較せず、すべては主の愛の嗣業として信仰と感謝をもって受け止め、この主に信頼し、お従いしていくならば、人生は必ず恵みの旅路となります。今はわからなくても、後になるときっと、「測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました」と告白、賛美できるようになることでしょう。

 河野進師の「よかった」と題する詩…家が貧しくてよかった さみしい田舎でよかった お母さんが病気でもよかった いたわってあげてよかった よろこんでくれてよかった 色盲で医者になれなくてよかった 牧師になってよかった なにもかもよかった。
 
* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年8月26日 教会礼拝
  題  : 「神は避けどころ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : 詩篇  46篇1節〜12節

  わたしたちは信仰生活の中で、時には壁にぶつかるような思いになることや、ひとり苦しみに悩むときもあります。
 このような逆境に遭う時、わたしたちはどのような態度を取るでしょう。マルチンルターは宗教改革の運動中、困難なことに出会う度に、同志のフィリップ・メランヒトンに呼びかけて「さて、フィリップよ詩編46編を歌おうではないか」と言ってこの詩を共に読み、神に祈り励みをいただいていたといいます。そしてルターはやがて、この詩をもとにした讃美歌377を作ったと言われています。
 この詩は、このようにわたしたちを励まし、力づけ、逆境にも打ち勝たせてくださる神ご自身を明らかにしています 。

1.そこにある助け
口語訳聖書では「いと近き助け」とあり、新改訳では「そこにある助け」、新共同訳では「そこにいまして助けてくださる」と訳されています。
 わたしたちが困難に遭う時、目に見えるものや、今までの経験に頼ろうとします。しかし、実は最も近くに、最も強力な助け主がおられるのです(列王下6:15〜17)。

2.神の川
 口語訳には「一つの川がある」とありますが、新共同訳では「大河とその流れは」とあります。聖書にはよく川の流れと聖霊の恵みが共通の表現で用いられることがあります。
 旧約の聖徒は「そこにいまして助けてくださる」と表現していますが、新約のわたしたちは、聖霊の恵みに満たされる必要があることを教えられます。聖霊様に心の内に住んでいただいた人、すなわち聖霊に満たされた人は、自ら助けられるだけでなく、周囲に溢れ、流れ、潤すことができるようになるのです(ヨハネ7:38)。

3.神に任せる
「力を捨てよ、知れわたしは神」は口語訳では有名な「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」となっています。静かに祈り心をもって、神に一切を任せつつ生活する時、神がわたしたちの心に驚くほど大きな平安を与えてくださるのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年8月26日 教会礼拝
  題  : 「広がり続ける福音」  宣教: 宇井 英樹 師
 聖書 : コロサイの信徒への手紙  1章6節

  コロサイ教会は、迫害、困難の中にありながら、福音が勢いをもって、実を結び、広がり続けていました。

1.主イエスへの信仰と愛 (ピレモン5節)
 信仰は、積極的な行為で、受身ではありません。みことばの通りに神様がなされることを期待して、神様に任せ神様とともに進むことです。
愛の特質の一つに、相手を優先することがあげられます。イエス様は、私たちへの愛のゆえに、私たちのことを優先し、ご自身を十字架のうえに犠牲にされました。
 自分のすばらしさを示す、自分が認められる、自分が益を受けるためではなく、何をするにもイエス様の栄光が表されることを願う、そのような質の、イエス様への信仰と愛に、コロサイ教会の人々は具体的に生きていたのです。

2.交わりのうちに生きて働く信仰 (ピレモン6節)
 イエス様への信仰と愛は、自分一人とイエス様との間だけにとどまりません。それは、特に、同じイエス様を信じ愛する人々の間、キリストの体である教会の中で表されます。このような信仰があってこそ、迫害の中でも保たれるのです。
互いの交わりのうちに生きて働く信仰と愛とは、イエス様への信仰を土台とした互いの関わり合い、互いの信仰が成長する関わり合い、互いの信仰が生きたものとなる関わり合い、イエス様への愛を互いに実践する関わり合いを持つことです。

3.福音を本当に理解したとき以来
 映画「パッション」を観たときに、改めて、イエス様の経験された苦難の凄まじさを知り、イエス様の私たちを愛する情熱がどれほどのものかと思いました。福音は、イエス様があそこまでして私たちに与えてくださった唯一の救いの道です。その事の重大さ、支払われた犠牲の大きさ、そこに表されている恵みの深さ、それらを単に情報として理解しただけでなく本当に理解し、さらに、福音に生かされる人々、教会を通して、福音は、広がり続けます。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】

ホームページへ