主の御手は上からも下からもすべてのところからわたしたちを守ってくださる御手です。その手は「病を癒す手」でもあり「祝福を与える手」でもあり「大いなる力のある手」でもあります。
今日は「主イエスの御傷のある手」を通して語っていきます。
1.その御手はわたしたちの罪を赦す
復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて隠れていたところにイエス様が現れ弟子たちに「手とわき腹とをお見せになった」(20)とあります。その手は十字架で釘によって傷つけられた手でした。
これはわたしたち一人一人の罪のために打たれた傷でした。(イザヤ53:4〜5)旧約の時代には、神の前に出るには牛や羊など高価のものを裂き、犠牲をささげなければならなかったものです。しかし、新約の時代のわたしたちはそのような犠牲を払わなくても、神のご臨在の前に出ることができます。キリストご自身が、犠牲となってくださったからです。
神は「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(コリント二5:21)。
2.その御手は、悲しみや恐れを喜びにかえる(20:20)
わたしたちが悲しみや恐れの中にあったとしても、主イエスの傷のある御手とわき腹を見せて平和があるようにとおっしゃるのです。それだけでなく喜びに満たしてくださるのです。
3.その御手は疑い深いわたしたちを忍耐して待ってくださる(20:24〜29)
復活の日の夕方トマスだけその場所にいませんでした。イエスとお出会いした他の弟子たちがトマスに「わたしたちは主を見た」と喜びをもって告げました。しかしトマスは「イエスの手の傷跡を見、槍で刺されたわき腹の傷跡に触らなければ決して信じられない」と首を振りました。
わたしたちもトマスと同じように疑い深い者です。そのようなわたしたちに対しても、イエスは忍耐強く待ち、「信じる者になりなさい」と言葉をかけてくださいます。
4.共に歩んでくださる(ルカ24:13〜32)
二人の弟子たちがエルサレムからエマオという村に向かって歩いている時「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15)てくださいました。そして「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(27)とあります。
イエス御自身が共に歩んでくださる時にイエスご自身が語りかけて下さり「わたしたちの心が燃えていたではないか」(32)と同じようにわたしたちの心も燃えていくのです。
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