礼拝説教宣教要旨 2007年9月度
9月 2日  「わが霊による」
9日  「神の陰に宿る人」
16日  「勝利の歌声」
23日  「祝福の結実」
30日  「傷のある御手」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年9月2日 教会礼拝
  題  : 「わが霊による」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ゼカリヤ  4章6節〜14節

   昨年は創立60周年ということで創立当時を振り返るときが与えられました。1946年11月3日に本田弘慈先生を中心に、現在の湊川伝道館のある空き地に天幕伝道が開始されて、4年後の1950年9月3日、第一回目の会堂が建築されました。
さらに、1980年9月7日には四階建ての現在の教会堂献堂式が挙行され、今日に至っています。こうして、過去61年間の神戸中央教会の歩みを振り返る時、神様の驚くべき導きと干渉のあったことに感謝の思いが溢れてくるのを禁じえません。

 教団の諸教会と共に神戸中央教会が創立当初から、拠って立ってきた聖書の言葉が本日のゼカリヤ4:6と、出エジプト33:14のふたつです。
「わが霊によって」(ゼカリヤ)は、わたしたちの教団、教会は「武力」すなわち人間的、社会的な「権力、権勢」に頼らない。また、「能力」という個人的な才能や知恵にも頼らないで、ただ神様の霊によって導かれ、成長、前進してきたのです。
あの、焼野原にテントが張られてから4年で、200名以上が礼拝できる会堂建築がなされたことは、神様のお働きであるとしか言いようがありません。
 「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)とあります。61年前に神戸中央教会を興し、導き、リバイバル的に成長させてくださった神様は今日もお変わりになることなく働いておられます。

 神は61年前も今日も変わりはありません。イエス・キリストの十字架の御血潮は効力を失っていません。今日もキリストの十字架と復活を信じ、罪を悔い改める者を救い、新しい命と生涯が与えられます。しかし、今日のわたしたちは「わたしの霊による」と言われるお方に対する信仰が希薄になっていないでしょうか。社会の常識に惑わされ、全知全能の神、聖霊なるお方により頼む信仰が不足していないでしょうか。
 創立時代の先輩たちをはじめ、歴代の聖徒たちが依り頼んで来られた「わたしの霊による」「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われるみ言葉に対する信頼、すなわち、この教団が拠って立ち、この教会が守ってきた聖霊による聖潔の信仰と、神の臨在信仰をもう一度再確認し、点検し、悔い改めて立ち上がるところから、創立当時の燃えるような信仰と伝道に対する情熱が与えられるのです。
* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年9月9日 教会礼拝
  題  : 「神の陰に宿る人」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : 詩篇  91篇 1節〜16節

   今日は人生の先輩であり、教会の宝である愛する方々の祝福を祈る長寿祝福礼拝です。わたしたちはこの日を、長寿を迎えられた先輩方と、先輩方を守り祝福してこられた神様に心から感謝を捧げる日にしたいものです。
学者によれば、本編はダビデの作であるとする人、あるいは90篇からの続きで、モーセの作であるとする人がいます。いずれにしても非常に清く、深い信仰者の作であることには変わりありません。

1.神への信頼   1,2
 日本語の「陰」は、消極面を指しているように見えます。しかしパレスチナでは直射日光から守り、急激に冷え込む夜の空気から守る隠れ場所なのです。
 「翼の下にかばってくださる」「安心して夜を過ごすことができる場所」という意味を含んだ言葉です。この神様を避けどころとすれば、何も恐れる事はない。そして、現代の砦、依り頼む神とは、イエス・キリストご自身です。

2.神の保護   3〜13
 「仕掛けられた罠」とは、人間関係の苦しみや悩みからも、その他どんな苦難からも、まるで親鳥がひな鳥を翼の下に守るように保護してくださるということです。しかも、この保護は四六時中絶えることはありません。また、目に見えない天使たちによって守ってくださるというすばらしい約束もあるのです。

3.神の祝福
 神様を慕う者を神は災いから守り、祝福を与えると約束してくださいます。ここで言う「慕う」は、「恋い慕う」の意味が含まれています。つまり、この言葉からも、神は裁きの神ではなく愛の神であることが分かります。さらに、「呼び求める」とき答えてくださり、「苦難の襲う時」一人ぼっちにすることなく、「共にいて助けて」くださるとの約束をしてくださっています。
年を重ね、信仰生活を重ね、長寿祝福を受けられる方も、若い者たちも共々にこの愛のお方に身を寄せる信仰者でありましょう。まして現代のわたしたちには、わたしたちのために十字架にかかり、よみがえられたお方が共にいてくださるのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年9月16日 教会礼拝
  題  : 「勝利の歌声」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ  26章1節〜6節

   アンサンブル・シオン創立40周年定期演奏会では、多くの方々が神を賛美する演奏を聞き、聖書のお話しも聞いてくださいました。わたしたちはこの方々が、神様の祝福に与かられるように続いてお祈りしましょう。

さて、本題に入りますが、ここでイザヤは本当に強い民、強い人とはどのような人なのかを語っています。

1.勝利の歌声
 心から勝利の歌を歌い、確信ある生活を送れるのは、神に従い、信仰を守り、心に平和をいただき、揺るがない信頼を神に寄せる時であり、神はわたしたちに完全な勝利を与えてくださいます。そこには絶対的な勝利があります。つまり、罪赦された喜びから来る勝利。与えられた人生において困難があっても、それを乗り越えることの出来る勝利。そしてやがて迎えられる永遠の命の喜びに満たされて入る、神のみ国の勝利があります。

2.勝者の道
 先の勝利を確信することが出来た人の歩む道は、平らな道でありまっすぐな道だと言っています。詩編84編6,7節にもあるように、神から勝利と勇気をいただいた人の歩みは平です。しかし、時には涙を流すようなこともあるかもしれません。しかし、そこはカラカラに乾き切った砂漠のような道ではなく、泉のわきあふれる、祝福の道なのです。

3.勝利の脱出
本編の2節には「城門を開け」とあって、20節には「戸を硬く閉ざせ」で終っています。これは、ノアの箱舟に入ったノアたちの後ろの戸が神によって閉じられたように、また、出エジプトの時滅ぼす者が過ぎ去るまで、戸を閉じて家の中に閉じこもっていたように、神の怒りが過ぎ去るまで(過ぎ越すまで)隠れていなさいと言うのです。
つまりわたしたちは、イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに神の怒りが過ぎ越し、神様の確かなご臨在のゆえに力強く生きることが出来るのです。なんと感謝で、喜びにあふれた生涯が約束されている事でしょう。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年9月23日 教会礼拝
  題  : 「祝福の結実」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ  27章1節〜6節

   わたしたちの住む現実の世界は、差別があり、不平等があり、罪がはびこり、強い者が弱い者をしいたげ、貧しい者はますます貧しくなり、豊かな者はますます豊かになる世界です。もちろん、豊かな人が皆、いつの間にか豊かになっていたというわけではなく、苦労もあり貧しさを経験した人も多くあるでしょう。多くの人が経験する苦しみには、色々な原因がありますが、多くの場合はサタンの働きがあります 。

1.サタンの裁き
 目に見えないサタンは、わたしたちの心から感謝の心を奪い、不平と不満の心を植え付け、わたしたちから笑顔を消していきます。しかし、神様は終わりの日にこのサタンを完全に滅ぼしてくださるのです(黙12:7〜9)。それゆえに、今苦しみの中にある人も、苦しいことばかりに目を向けないで、神の恵みに目を向けて感謝をしましょう。

2.神との和解
 サタンの手から救い出されたわたしたちは、救い主によって守っていただけます。さらに、常に水が注がれると言います。すなわち神様からの聖霊によって満たされ続けることが出来るのです。その上に、この恵みに満たされた者を、神自ら困難から守ってくださいます。しかも神自ら進み出て敵を焼き払ってくださいます。
 そのような恵みに満たされたわたしたちは、神との和解を日々確認することが大切です。神が自ら御子を地上に送り、わたしたちのために十字架にかけてくださったのです。この十字架のゆえに、わたしたちは神との和解が与えられているのです。

3.祝福の結実
 神様は、イスラエルを守り、助け、祝福してすばらしい実を結ばせられました。その中で最も大きなものは救い主の誕生です。
 そして現在のわたしたちには、罪の赦し、新しい命、この地上での祝福の生涯、そしてやがて来るべき新天新地での永遠の祝福が約束されています。
神様はあなたの歩みのすべてを知っていて、祝福しようとしておられます。まだ神との和解が出来ていない人は、神様にすべてをお任せしましょう。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】
 
礼拝説教宣教要旨 2007年9月30日 教会礼拝
  題  : 「傷のある御手」  宣教: 鎌野 健一兄
 聖書 : ヨハネ  20章19節〜29節

   主の御手は上からも下からもすべてのところからわたしたちを守ってくださる御手です。その手は「病を癒す手」でもあり「祝福を与える手」でもあり「大いなる力のある手」でもあります。
今日は「主イエスの御傷のある手」を通して語っていきます。

1.その御手はわたしたちの罪を赦す
 復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて隠れていたところにイエス様が現れ弟子たちに「手とわき腹とをお見せになった」(20)とあります。その手は十字架で釘によって傷つけられた手でした。
これはわたしたち一人一人の罪のために打たれた傷でした。(イザヤ53:4〜5)旧約の時代には、神の前に出るには牛や羊など高価のものを裂き、犠牲をささげなければならなかったものです。しかし、新約の時代のわたしたちはそのような犠牲を払わなくても、神のご臨在の前に出ることができます。キリストご自身が、犠牲となってくださったからです。
神は「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(コリント二5:21)。

2.その御手は、悲しみや恐れを喜びにかえる(20:20)
わたしたちが悲しみや恐れの中にあったとしても、主イエスの傷のある御手とわき腹を見せて平和があるようにとおっしゃるのです。それだけでなく喜びに満たしてくださるのです。

3.その御手は疑い深いわたしたちを忍耐して待ってくださる(20:24〜29)
 復活の日の夕方トマスだけその場所にいませんでした。イエスとお出会いした他の弟子たちがトマスに「わたしたちは主を見た」と喜びをもって告げました。しかしトマスは「イエスの手の傷跡を見、槍で刺されたわき腹の傷跡に触らなければ決して信じられない」と首を振りました。
わたしたちもトマスと同じように疑い深い者です。そのようなわたしたちに対しても、イエスは忍耐強く待ち、「信じる者になりなさい」と言葉をかけてくださいます。 

4.共に歩んでくださる(ルカ24:13〜32)
二人の弟子たちがエルサレムからエマオという村に向かって歩いている時「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15)てくださいました。そして「聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(27)とあります。
イエス御自身が共に歩んでくださる時にイエスご自身が語りかけて下さり「わたしたちの心が燃えていたではないか」(32)と同じようにわたしたちの心も燃えていくのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
【ページのトップへ】

ホームページへ