礼拝説教宣教要旨 2007年10月度
10月 7日  「神の計画の神秘」
14日  「回復の恵み」
21日  「輝かしい勝利」
28日  「我ここに立つ」
 
礼拝説教宣教要旨 2007年10月7日 教会礼拝
  題  : 「神の計画の神秘」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  28章1〜6節

   イザヤは13章から27章にかけて「その日」つまり神の最後の裁きの日には、世界の民は一つの民となり、一つの神を知り、神のみを礼拝するようになる、と語ってきました。しかし多くの人々には、これはイザヤの単なる希望であり、思い込みにすぎないのかそれとも現実になることなのかとの疑問がありました。28章〜37章はイザヤが、「神は歴史を支配されるお方である」を示しつつ、このような問いに対する答えを出している箇所です。

1.酔いどれの誇る冠  1〜4
 酒に酔い、見せかけの平和に酔い、自分の力に酔っているような者は、しぼんでゆく花に過ぎないと主は言われます。
 見せかけの栄誉、栄華の冠は神の裁きの前には無残に踏みにじられ、しぼんでいく花だ、と言われます。
 確かに現代社会にあっても、様々な事件を通してこの種の雛形を見せられるように思います。

2.神ご自身が冠となってくださる  5、6
 人間の手による冠は、主の手によって滅ぼされ、裁かれます。しかし民の残りの者にとっては、神ご自身が冠となってくださり、花輪となってくださると言うのです。

3.貴い隅の石  16〜18
 「一つの石をシオンに据える」は、主ご自身を指しているといわれます。さらに、この主ご自身こそ、イエス・キリストです。ここでのシオンはダビデの王座であり、祝福の源、救いの場所です。
 神ご自身が、わたしたちのためにイエス・キリストを救いの源として十字架に付け、救いを完成してくださいました。
このお方を信じる人は、慌てることがないと言われます。礎石とも言うべき信仰の源を拠り所にするなら、最後の審判が近づいても恐れる必要はありませんし、慌てる必要もないのです。すべて、全能の父なる神様が主導で救いを提供し、備えてくださる祝福の信仰生活を安心し、喜びをもって歩ませていただきましょう。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年10月14日 教会礼拝
  題  : 「回復の恵み」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : イザヤ書  29章17〜24節

   15〜16節に「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」と言う者に対して、神は言われます。「造られた者が造った者に言いうるのか。『彼がわたしを造ったのではない』と。」と記してあります。この姿勢は神を信じようとしない人、神から離れようとする人の心の状態です。
このような人間の心の状態があたりまえになったような現代社会にも、神は回復の恵みを与えてくださいました。

1.創造時の回復  17、18
 「しばらくの時がたてば」とは何時のことを指すのでしょう。これは、神の主権による時です(2ペトロ3:8、9)。その時、すなわち新天新地が新創造される時、神がこの世界をはじめに創造された時に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と言われた状態に回復されるというのです。

2.人間関係の回復  19〜21
 わたしたち人間は、人と人との関係で悩むことが多くあります。しかし、神が回復を与えてくださる時にこの人間関係においても回復を与えてくださるのです。
 苦しんでいた人も、貧しい人も、神様の回復の恵みによって喜びが与えられます。また横暴な者、不遜な者、災いを画策しようとするような者から自由にされます。そして、無実の人が罪に定められたり、公正なはずの法廷が汚されたりすることは無くなると言います。

3.心の回復   22〜24
 神との関係が崩れている時は、心の状態が正しくない時です。しかし、アブラハムを一方的に選び、導き、祝福されたように、わたしたちが一方的に神に愛され祝福されていることが分かった時、神様のみ業を正しく評価することができるようになるのです。
神がわたしたちを愛し、御子を世に降し、十字架に付け、よみがえらされた深い慈愛のみ業が、わたしのためであったと心から理解できるようになります。これこそ最高の回復の恵みなのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年10月21日 教会礼拝
  題  : 「輝かしい勝利」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ローマの信徒への手紙  8章31〜39節

   多くの人は、愛に満ち、生きる確信と喜びのある人生を求めています。しかし、現実の社会は、愛に破れ、悲しみに満ちた敗北の人生を送っている人がいかに多いことでしょう。聖書は「輝かしい勝利の人生」を約束しています。パウロはその生涯の終わりにあたり「今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(2テモ4:8)と言っています。パウロが確信していた「輝かしい勝利」とはどのようなものなのでしょう。

1.罪に対する勝利
 あなたは自分の罪の姿を見て、罪の誘惑に勝ちたいと思いつつ敗北の生涯を送っていませんか。イエス・キリストは「はっきり言っておく、罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)と言っておられます。
 わたしたちは、自分の罪が見えたときは心が苦しくなります。あなたはあなたの心の内側から出てくる罪の力に常に勝利したいとは思いませんか。

2.環境に対する勝利
あなたは、自分の弱さを、親や周囲の人の責任、社会の責任、政治の責任などに転嫁していませんか。イエス・キリストを信じるときに「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」と言う宣言があなたのものになるのです。すなわち問題の只中にある内に勝利を味わうことができるのです。

3.死に対する勝利
 死は誰にでも来る問題です。そこには富みも力も、弱さも貧しさも関係ありません。生れた者は必ず死を迎えるのです。聖書にも「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9:27)とあります。
 しかし、イエス・キリストの十字架がわたしの罪の身代わりであり、この十字架を信じるときに罪が赦され、永遠の命が与えられたと信じるとき、死は恐怖ではなくなり、むしろ天国への希望の入口になるのです。
 神は、あなたにも罪の誘惑や環境の苦しみ、さらに死の恐怖に対して、圧倒的な勝利、すなわち輝かしい勝利者としての喜びと平安、そして確信のある人生を与えてくださるのです。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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礼拝説教宣教要旨 2007年10月28日 教会礼拝
  題  : 「我ここに立つ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
 聖書 : ローマの信徒への手紙  3章21〜26節

   1517年10月31日夕方マルチン・ルターが、ドイツのヴィッテンベルグ城教会の扉に「95箇条の提題」を貼り付けたことから、ルターは当時の教会に反抗する異端者として裁かれることになります。
1521年、ルターはヴォルムス帝国議会に召喚され、皇帝カール5世から、「この書物は君のものか、そしてこの中に含まっている誤りを否認するのかしないのか」と詰め寄られた時、ルターは「この書物は確かにわたしの書いたものです。しかし、わたしの良心は神のみことばに捕われているのです。わたしは何も取り消すことはできないし、取り消そうとも思わない。『我ここに立つ。神よわたしを守りたまえ。アーメン』」と言ったといわれています。

1.信仰によって生きる
 パウロは、「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4)を拠り所として信仰生涯を全うしました。マルチン・ルターも苦しい修業を積んでも自分の心が清くならない現実に触れて悩んでいたとき、このロマ1:17の「正しい者は信仰によって生きる」のお言葉に目覚めさせられ、宗教改革の基礎となる信仰をもったのです。

2.無償の賜物
 パウロが信じ、ルターが依って立ってきた「ただ信じるのみ」という信仰の基本は、キリストの十字架のあがないです。わたしたちは元々罪人です。しかしキリストは十字架で死んでくださいました。このお方を信じるときにわたしたちは無償で、罪赦され、清められ、永遠の命をいただいて生活をすることがゆるされるのです。

3.神の義
 神は旧約聖書において、選民イスラエルが背きの罪のゆえに神から離れていくのを悲しみの目で見つめつつ過ごしてこられましたが、神のご計画の一番良い時にイエス・キリストをこの地上に送ってくださり、救いの道を開いてくださいました。このお方を信じるときにわたしたちは、神から義と認めていただくことが出来るのです。
 わたしたちは「ここに立つ」以外に救いはありません。 
 

* 当教会の礼拝は、新共同訳聖書、讃美歌21を使用しています。
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