信仰何でもQ&A 質問No.021
「福音の光」2001年10月号掲載 
  質問左足を骨折してまいました。
頭では神様を信じているのですが、私が骨折をしたのは、私の信仰が足りなかったからなのでしょうか。
 

回答  確かに頭で神様を信じているからといって、必ずしも信仰があるとはいえません。
もちろん知的に神様を信じることは大切なことですが、信仰はそれだけではありません。心でも神様を知り、交わりを深め、全面的に信頼をよせること、そして、神様に従うことが私たちの信仰なのです。その上で、骨折と信仰の有無とは関係がないといえると思います。
このことは他の出来事にもあてはまります。信仰がどれほど深くても様々な被害を被ることはあります。
では、私たちは、なぜ骨折したりするのでしようか?
 第一に、私たちの不注意が考えられます。まず、安全確認の怠り、気の緩みなどが挙げられます。
それは必ずしも私たち自身の問題でなく、周囲の人々の問題ということもあるでしょう。また私たちの不注意は、骨折したその時の問題に限られません。栄養の過不足や運動不足などで、骨が弱り、骨折しやすくなっていることもあるでしょう。また歩き方などに問題があったかもしれません。
 神様は、私たちに、あらゆる面において注意力や管理能力を与えて下さっています。
しかし、私たちは、それらを忘れたり、軽んじたりしてしまいます。それゆえの骨折であるとしたら、そのことを悔い改める必要があるでしょう。
そして、神様の恵みのうちに、健全な心身を回復・維持できるよう、また、日々の生活において充分な注意を払うよう心がけることをお勧めします。
しかし、それにもかかわらず避けられないハプニングということも考えられます。
 第二に、サタンや悪しき力の仕業も無視はできません。サタンは、時として、私たちの行く手に傷害をもたらします。
それは、物理的要素であるかもしれませんし、他者を通してであるかもしれません。
また間接的に、私たちの注意力を散漫にさせたりするかもしれません。さらには、私たちの心を、また頭を撹乱し、私たちの管理能力を奪ったり、低下させるよう働くかもしれません。
 ともかく、私たちが傷害にあう理由としては、ここで挙げたものの他にも様々な要因が考えられます。それらが複雑に絡み合っていることもしばしばでしょう。あるいは、これといった理由なしにということもあるかもしれません。
 しかし、私たちに与えられ、また求められる信仰は、たとえ苦しみにあった時にも、神様を見上げ、置かれた状況をはるかに超える神様の慰めと励ましをいただくこと、そして上からの知恵と力をもって現状に立ち向うことではないでしょうか。
たとえ、それがなぜか分からなかったとしても。
そして、神様は骨折したことも、今はどのようにかは分からなくても、必ずや益となして下さることを信じていくのです。
 
 

ホームへ信仰何でも質問コーナー表紙へ戻る


Copy right (C) 1999 Kinpouden. All Rights Reserved..