デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年2月のデボーション
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2004年2月1日(主日) 聖書の箇所:サムエル記上 20章1〜42節
年間通読:詩篇135、136篇
「あなたとわたしとで話しあった事については、主が常にあなたとわたしとの間におられます。」(23節)
 ダビデが次の王になるように、神に油注がれたものだ、と確信したヨナタンは王朝が変わると前王朝に仕えていた者ら皆、殺害することが常であったが、ダビデが王となる時はそうではなく、ヨナタンとその子孫をことごとく守り、祝す、という主にある、新しい愛の契約をダビデに求め、結んだ。
よりよい人間関係とは主がいつもその間にいてくださるその関係だ。そこには平和と慰め、励まし、愛の叱責、そして“自分の命のように彼を愛”(17節)するという自己犠牲の愛で溢れている。
“主よ、私と周囲の人々の間にいつもあなたがいて、治めてくださいますように。アーメン”
 

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2004年2月2日(月) 聖書の箇所:サムエル記上 21章1〜15節
年間通読:イザヤ52,53章、出エジプト1章
「ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げていった。」(10節)  
  ヨナタンとあつい友情と信仰を交わしたダビデであったが、現実にもどれば必死で逃げなければならなかった。何の恐れも躊躇もなくゴリアテを倒すことのできたダビデであるが、この時は、サウルを恐れ、ガテの王アキシを恐れた。
しかし「恐れ」という感情は必ずしも神様への信頼を失わせるものではない。主もまた、信頼するダビデを敵王の前で、死の一歩手前で守られた。神様は、恐れや苦しみにまさるお方である。キリストも私たちのために十字架の苦難をも耐え忍ばれた。
“神様。恐れの中にあっても、わたしを守り、お支え下さい。アーメン”
 

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2004年2月3日(火) 聖書の箇所:サムエル記上22章1〜23節
年間通読:出エジプト2〜5章
 「また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。」(2節)
  どうしてほら穴に人々が集まったのか。私たちが遣わされる場所は、世間的には、必ずしも居心地のいい場所ではないかもしれない。自分の意志に反する所かもしれない。
しかし王宮であろうが、ほら穴であろうが、主の霊を持ち続けるならば、平安が内にある。そこに人々が集まってくる。
一方、王の陣営では、ねたみと怒りに満たされたサウル王によって、敵でない者までも滅ぼされてしまった。怒りをやめ、憤りを捨てて、主の前にひざまずこう。
“神様。私を怒りから解き放ち、平安で満たして下さい。アーメン”
 

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2004年2月4日(水) 聖書の箇所:サムエル記上23章1〜29節
年間通読:出エジプト6〜9章
「サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。」(14節)
 サウルはしつこくダビデの命を求めて追いかけてきた。ダビデの心も追いつめられたにちがいない。そのような中でも主は、大きな慰めを備えて下さっていた。
その一つが、ヨナタンの来訪である。ヨナタンは、「神によって彼を力づけた」(16)。信仰による友情。命がけの来訪は、どんなに励ましになったであろうか。
もう一つは「のがれの岩」である。間一髪で、命拾いした。それは、人の励まし、知恵や幸運ではなく、神様の守り、助けである。
主は、私たちをも強く、しつこく、恐ろしいものから守って下さるお方である。 
”主よ。あなたの守りと助けを感謝します。アーメン”
 

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2004年2月5日(木) 聖書の箇所:サムエル記上24章1〜22節
年間通読:出エジプト10〜12章
「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。」(6節)
 荒野での放浪は、ダビデにとって大きな試練の時であった。しかしこの試練は、多くの主の救いを経験させ、ダビデを目先にとらわれない信仰の勇者へと成長させた。
この時代ダビデの信仰はもっとも輝いていると言われる。ほら穴の奥にいたダビデ達は、絶体絶命であった。それが主にあって逆転した。この時、ダビデは主に信頼し、主の立てたサウル王に手を出さなかった。
私たちは、思い通りに行かないときは、すぐに神様に不平を言い、都合のいいことには、御心と言って飛びつきやすい。
”主よ。み旨を深く思い、全く信頼する信仰へ成長させて下さい。アーメン”
 

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2004年2月6日(金) 聖書の箇所:サムエル記上25章1〜44節
年間通読:出エジプト13〜15章
 「主は、あなたがきて血を流し、また手ずから、あだを報いるのをとどめられました。」(26節)
  当時と現代と風習や習慣が違うところがあるが、ダビデが日頃から、親切以上にしていたナバルから、大きな侮辱を受け、復讐しようとするところである。
私たちも誰かから不当に扱われたり、プライドを傷つけられると、復讐の思いが起こって、怒りに燃え、いつの間にか意地悪をしている。
「父よ、彼らをおゆるしください」と十字架上で叫ばれた主となんとかけ離れていることか。
”主よ。罪人のかしらである私が赦されていることの意味を、わからせて下さい。
私を変えて下さい。そして、アビガイルのようにとりなす者として下さい。アーメン”
 

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2004年2月7日(土) 聖書の箇所:サムエル記上26章1〜25節
年間通読:出エジプト16〜19章
「その時、サウルは言った、『わたしは罪を犯した。』」(21節)
 サウルは、ダビデから命を取られなかったことを知ったとき、率直に謝罪している。素直に受け入れるべきものである。だが、以前にも同じことがあった(24章)。
悔い改めても同じ過ちを繰り返す。それは許し難いが、そのような自分にも気づかされる。
きよめの恵みに立とうとするとき、徹底した罪の悔い改めは、重要である。だがそれをなして下さるのは、人の意志や努力ではなく、主の血と聖霊によるのである(聖書 ヘブル9:14)。
サウルにとって、その後ダビデを追うことはなく、ダビデへの最後の謝罪の時となった。
 “主よ。主の血と聖霊によって、罪より全くきよめて下さい。アーメン”
 

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2004年2月8日(主日) 聖書の箇所:サムエル記上27章1〜12節
年間通読:出エジプト20〜22章
 「アキシはその日チグラグを彼に与えた。」(6節)
 ダビデにとって、イスラエル国内に留まることはもはや難しいことと思われた。やむを得ず宿敵ペリシテ人の地に下った。サウルの追撃は止まった。イスラエルの内紛を利用しようとしたのか、不思議なことに、敵であるガテ王アキシは、ダビデをその支配下に住まわせた。しかし、これもサウルを深く眠らせた主(26:2)が、敵王アキシの思考をもさえぎり、ダビデを守られたのであった。
天地の創造主なるお方は、私たちを敵の中においても、不思議な業(敵の手)によって、守ることができるお方である。
”全能の神様。私を敵の中でもお守り下さることを感謝します。アーメン”
 

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2004年2月9日(月) 聖書の箇所:サムエル上 28章1〜25節
年間通読:出エジプト 23〜25章
「サウルはペリシテびとの軍勢を見て恐れ、その心はいたくおののいた」(5節) 
 これはサウルの不信仰をあらわしている。彼は二重、三重の罪を犯してしまったのである。
その最初はアマレクびとをことごとくほろぼさなかったことから始まるのである。もっと突き詰めれば、主の言われた言葉に従わないで、自分の思いと判断でことをしてしまったことであった。
そこから、彼の罪が始まり、不信仰に陥り、神が憎まれる口寄せ(申命18:9,10)に頼るまでになってしまったのである。
御言葉への従順がどれ程大切かを知るべきである。
“主よ、どうか、御言葉に従う者として下さい。アーメン”
 

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2004年2月10日(火) 聖書の箇所:サムエル上 29章1〜11節
年間通読:出エジプト 26:〜28章
「わたしは見て、あなたが神の使のようにりっぱ人であることを知っている」。(9節)
  これはイスラエルの敵でるペリシテ人ガテの王アキシのダビデに対する言葉である。彼はやむを得ず、敵陣であるペリシテ人に下り、アキシのもとで護衛の長になった(サムエル上28:2)。
ダビデは神の使のようにりっぱな人と言われる程、敵のもとにおいても信頼できるような言動であったのである。
私たちも、どんな立場に陥ってもキリスト者としての品位を失わないことが大切である。
”主よ、救われるものにも、滅びるものにもキリストの香りを放つものとして下さい。アーメン”
 

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2004年2月11日(水) 聖書の箇所:サムエル上 30章1〜31節
年間通読:出エジプト 29〜31章
「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた」。(6節)
 ダビデがアキシから与えられたチクラグという町に帰ってきたら、その町は火を放って焼かれ、小さい者から、大きい者に至るまで、ひとり残らず、引かれていった後であった。
ダビデとその従者たちの妻とその息子、娘たちも引かれていってしまっていた。彼らは泣き疲れ、とうとう指導者であるダビデに矛先を向け、彼を石で撃とうとしたのである。
その時、主によって自分を力づけたのであった。 
“主よ、絶望のどん底の中で、神によって自分を励ます者とさせて下さい。アーメン”
 

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2004年2月12日(木) 聖書の箇所:サムエル上 31章1〜13節
年間通読:出エジプト 32〜34章
 「こうしてサウルとその三人の子たち、およびサウルの武器を執る者、ならびにその従者たちは皆、この日共に死んだ」。(6節)
 サウルの神への不従順の故に、彼は神に捨てられ、イスラエルはペリシテ人に撃ち破られた。
自分だけが滅びただけでなく、イスラエルもまた、あの素晴らしいヨナタンさえもその巻き添えを被って、殺されてしまったのであった。
一人の人、それが王であったり、長であったりしたら、特にその影響力は大きいのである。
“主よ、自分が、自分だけでなく、多くの人に影響を与えるものであることを悟らせて下さい。アーメン”
 

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2004年2月13日(金) 聖書の箇所:サムエル下 1章1〜27節
年間通読:出エジプト 35〜37章
 「女の愛にもまさっていた」。(26b節)
 これはヨナタンがダビデを愛した愛のことを指して歌ったのである。
「ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた」(サムエル上20:17)とあり、また「主が常にあなたとわたしとの間におられます」(サムエル上20:23)ともある。
彼は父につく立場からは敵とすべきダビデを愛したのであった。彼はまた、自分がその父の後をを継いで王となるべきはずであったが、その王の地位をあたかも横取りすると思えるダビデを愛したのである。彼は何の損得もなく、純粋に、神にあって、ダビデを愛したのであった。 
“主よ、どうぞ私たちにもヨナタンのような愛をお与え下さい。アーメン”
 

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2004年2月14日(土) 聖書の箇所:サムエル 下2章1〜32節
年間通読:出エジプト 38〜40章
「時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした」(4節)
 “サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油を注いだ。この日からのち、主
の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ”(サムエル上14:13)とある。
その上に、民によって、油が注がれたことは、今度は、民によって王として正式に受け入れられ、信任されたことをあらわすのである。
神が立て、それを民が受け入れる王こそ本当の王である。神に立てられると共に、人々にも新任されるものとされることも大切である。
“主よ、あなたに救われて洗礼を受けて、聖霊に満たされ、人々がそれを認めるようなキリス者として下さい。アーメン”
 

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2004年2月15日(主日) 聖書の箇所:サムエル下 3章1〜39節/ 年間通読:マタイ1〜4章
「民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させた」(36節)
  ダビデ王のアブネルが殺されたことに対する悲しみは大変な物であった。墓の前で、声を上げて泣き、断食もした。このように、敵の軍の長の死を嘆き悲しんだので、ユダヤの民は満足したのであった。
同時に、サウルについていたイスラエルの民もダビデの意志でなくアブネルが殺されたことを知った。それだけでなく、サウルについていたイスラエルの民がやがてダビデを彼らの王とすることにもつながったのであった。
“主よ、敵をも愛し、敵の死をも悲しみ、涙す本当の愛を与えて下さい。アーメン”
 

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2004年2月16日(月) 聖書の箇所:サムエル記下 4章1〜12節/ 年間通マタイ5〜7章読:
「悪人が正しい人をその家の床の上で殺したときは、なおさらのことだ。今わたしが、彼の血を流した罪を報い、あなたがたを、この地から絶ち滅ぼさないでおくであろうか」(11節)
 イシボセテを暗殺したレカブとバアナだが、暗殺がダビデに評価されると思いきや、逆にダビデの怒りを買う結末となってしまった。ここに自らの利得獲得のために、主の名をみだりに、恣意的に使うことの恐ろしさを見る(8節)。
深い謙りと従順、そして祈りがなければ神の御思いを知ることなど到底できない。
自らの行動が先にあり、その後ろに神の名をつけて自身の行いの肯定をするようなことがあってはならない。
“はじめに(神の)ことばありき”、この信仰である。“主よ、あなたの御心をまず求めさせてください。アーメン”
 

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2004年2月17日(火) 聖書の箇所:サムエル記下5章1〜25節/ 年間通読:マタイ8〜10章
「バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは奮い立たなければならない。その時、主があなたの前に出て、ペリシテびとの軍勢を撃たれるからである。」(24節)
 ダビデの命をねらい迫るぺリシテ人をどう攻略すべきかとの問いに対する主の確かな指示である。
なぜ闘いに勝利できるのか?それは主なる神が私達よりも前に出てくださり、先に敵を打って下さるからである。
私達の日常のさまざまな戦いにおいてもそうである。私達はさまざまな困難にも試練にも決して負けない。主が我々のしんがりをつとめ、先に手を打ってくださるからである。
“主よ、あなたが私達の先に行って、勝利を用意してくださっていますから感謝します。アーメン”
 

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2004年2月18日(水) 聖書の箇所:サムエル記下 6章1〜23節
年間通読:マタイ11〜13章
「ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。」(5節)
 ぺリシテ軍撃破の戦勝記念と共に、神の箱をダビデの町に運びいれ、王朝を確立させるための恵みの行進である。
ウザの割り込み(6〜8節)によって一時、その喜びにも冷や水がかかったようになったが、ダビデをはじめ、民たちは力一杯、神への感謝と喜びを表し続けた。
私達はともすれば日常の雑多な生活の中で、神への感謝を忘れてしまいがちになる。
感謝は更なる感謝を呼び起こす。主にある喜びは更なる喜びを生む。
主の配慮の愛は私達の生活の細部に至るまで及んで、私達の存在を支えておられる。
感謝しよう!
“主の愛にいつも感謝できますように。アーメン”
 

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2004年2月19日(木) 聖書の箇所:サムエル記下 7章1〜29節
年間通読:マタイ14〜16章
「主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。」(18節)
  ダビデの王朝の確立、イエスにおいて究極的に成就されることになる王国の恒久的な繁栄と、祝福の神の約束に対するダビデの驚きと感動が表されている。
私達に対する主にある恵みの約束も計り知れない。罪の許し、永遠の命、心の刷新と変容、そして内外に結ばれていく霊的な、永遠に残っていく実の数々と数えればきりがない。
霊の目が閉ざされていると、この恵みの認識が鈍り、不平と不満と惰性の信仰生活に陥る。
大いなる恵みの約束を信じ、求め、我等の生涯を通じて主の御名が大いに崇められるよう、心から祈りたい。
“あなたの顧み、計り知れない主の恵みに感謝します。アーメン”
 

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2004年2月20日(金) 聖書の箇所:サムエル記下 8章1〜18節
年間通読:マタイ17〜19章
「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」(6節)
  ダビデによる王権は敵対する隣国の制圧と領土の拡大とともにますます、強固なものとされていった。この破竹の勢いの背後に前章に記されているように、神の恵みの約束とそれに対するダビデの感謝と、約束された恵みを信じる信仰があることを忘れてはならない。
死にさえも打ち勝ち、永遠の命の授与という形で、究極の勝利を与えてくださる主は、人生のあらゆる困難な局面においても、多様な勝利を与えてくださる。
主が私達の信仰を通じ、確実に勝利を与えることができるように、主の勝利に感謝し、それを日々信ずる者でありたい。
“主よ、人生のあらゆる部分におけるあなたの勝利を信じます。勝利の業がさらになされますように。アーメン”
 

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2004年2月21日(土) 聖書の箇所:サムエル記下 9章1〜13節
年間通読:マタイ20〜22章
「こうしてメピボセテは王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした。」(11b節) 
 当時、王朝が代わる時、前王朝の一族が抹殺されるのが常であった。サウルの血を引くメピボセテも当然殺されても仕方がない境遇にあった。
しかし主にある無二の親友ヨナタンの子であるメピボセテを前に、そんな当時の戦時下の常識はどうでもよかった。サウル家の所有の地とその財産を返還し、自分の子供の一人のように愛し、養った。
父なる神は主イエスにあって、敵対していた私達を自らの懐に招きいれ、ダビデに勝る愛をもって、真の神の子として最上の物に生涯を満ちたらせ、養ってくださるのだ。
“主よ、あなたの親に勝る愛、いつくしみ、実際なる養いを感謝します。アーメン”
 

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2004年2月22日(主日) 聖書の箇所:サムエル記下 10章1〜19節
年間通読:マタイ23〜25章
「勇ましくしてください。われわれの民のため、われわれの神の町々のため、勇ましくしましょう。どうぞ主が良いと思われることをされるように。」(12節)
 誤解からアンモン人とその雇われの軍隊と交戦状態に陥ったイスラエル軍だが、見事に雇われ兵のスリヤ人部隊を撃破した。神を信じ、神の守りを確信する者等と、自らの利潤しか頭にない異教の民では戦いに対する動機と姿勢において天と地ほどの違いがある。
私達の人生においてもこの主にある確信を持って主のための歩みをなすか、そうでないかで大きく変わってくる。
勇ましく人生の中で遭遇するあらゆる局面を迎えたい、主が伴われるということの事実と最善をなしてくださる主の真実なる業を固く信じて..。
“あなたにある勇気を与えてください。アーメン”
 

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2004年2月23日(月) 聖書の箇所サムエル記下 11章1〜26節:
年間通読:マタイ26〜27章
「しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」(27節)
 神様の前に潔く歩んできたダビデであったが、神様の前に姦淫と殺人という大きな罪を犯してしまった。「王」という責任の重い、孤独な戦いをしてきた。緊張の糸がゆるんだのかもしれない。
悪魔はいつもすきをねらっている。また小さな誘惑を野放しにすると重大な罪の結果を招く。
私たちはいつもサタンと命の戦いにある緊張を持っているだろうか。特に今日、クリスチャンに、性的な堕落が入り込み、神の御名を汚していると言われている。
11節の「あなたの魂は生きています。」とは主の招きの声ではなかったか。  
“神様。私の罪を悔い改めます。信じます。アーメン”
 

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2004年2月24日(火) 聖書の箇所:サムエル記下12章1〜31節
年間通読:マタイ28章、レビ1〜3章
「わたしは主に罪をおかしました」「主もまたあなたの罪を除かれました。」(13節)
 ダビデはナタンを通しての『あなたがその人です』、『どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事を行ったのですか』という指摘により、罪を認め告白をした。
人に対する罪とともに、“主”に対して罪を犯したことが大切である。
詩篇51:4にも、『わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪いことを行い』とある。
けれども、すぐさま罪が除かれたことが、宣言されたが、この時は、残念ながら罪ののろいは取り除かれなかった。
しかし、キリストはのろいからもあがないだしてくださったのである(ガラテヤ3:13)。
 “神様。呪いをとり去って下さい。アーメン”
 

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2004年2月25日(水) 聖書の箇所:サムエル記下13章1〜39節
年間通読:レビ4〜6章
「ダビデは日々その子のために悲しんだ。」(37節)
 21節には「ダビデは、、、怒った」とある。敵に対しては、神の力によって百戦錬磨のダビデであったが、子育てとなると感情ばかりで思い通りではなかった。原因の一つは、赦されてはいても、ダビデ自身の姦淫、殺人などの罪を犯したことだ。
どうやって親から子へという罪の連鎖を立ちきることができるだろうか。ただただ主の十字架を仰ぎ見ることだ。そして子供に、時を見て自分の罪の大きさと、それを越えた神の赦ししの大きさを語ってゆくことである。
今もダビデの詩は多くの人を罪の鎖から解いている。
“痛みをご存じの主よ。私の家族もお救い下さい。アーメン”
 

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2004年2月26日(木) 聖書の箇所:サムエル記下 14章1〜33節
年間通読:レビ7〜9章
「わが君には神の使の知恵のような知恵があって、地の上のすべてのことを知っておられます。」(20節)
 ダビデの怒りをかい逃亡したアブサロムだが、ダビデに取り入り、アブサロムを弁護したいヨアブはテコアの女をダビデのもとに遣わしたが、ダビデは見事にその策略、意図、真意を見抜いた。
言わずもがな、神はダビデ以上に全てのすべてを見通されるお方である。私達にとっての祝福は、神の知恵であり、力であり、将来に対する希望であるところのイエスにあって生きる時、私達も神の知恵により、物事を見通し、将来を見通す力によって、近視眼的ではない確かな歩みをなすことができるのだ。
“主よ、物事の本質をあなたにあって見極めさせ、歩ませて下さい。アーメン”
 

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2004年2月27日(金) 聖書の箇所:サムエル記下 15章1〜37節
年間通読:レビ10〜12章
 「もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。」(25節)
 アブサロムの反逆が明らかになったとき、ダビデは瞬時に自分の命が危ういことを悟った。
どうやって逃れられるのか、どうしてこんな目に遭うのかと様々に思いめぐらしたであろう。けれども何よりも心を支配していたことは、「神様が私を喜んでいるか」であった。
もう一度心探られた。それなくしては、どんな成功も、名誉も、財産もむなしい。主の喜ぶ道は、心からの悔い改めとみ言葉への服従だ。主の道は他の全てに優る。全てを益に変える。 
”父よ。私の全てを委ねます。主の喜ぶ者として下さい。アーメン”
 

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2004年2月28日(土) 聖書の箇所:サムエル記下 16章1〜23節
年間通読:レビ13〜14章
「主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」(12節) 
  15章30節「ダビデはオリブ山の坂道を登ったが、登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った。彼と共にいる民もみな頭をおおって登り、泣きながら登った。」
 子に命を狙われ、黙っていた者までが呪いだす。
こんな時私たちは、神様の存在や真実を疑ったりする。自分で何とかしようとする。あきらめる。ダビデの信仰は、たとい主に捨てられても主の他に救いの道はないという信仰であった。
イエス様は、私たちのすべての呪いを十字架で受け、朽ちない命に変えて下さった。 
“神様。私は悩みばかり見ますが、主は呪いの死から復活されたことを感謝します。アーメン”
 

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2004年2月29日(主日) 聖書の箇所:サムエル記下 17章1〜29節
年間通読:レビ15〜16章
 「それは主が…アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。」(14節)
 16章20〜23節参照。
 ダビデの議官でもあったアヒトペルは、大変賢く、戦略にも優れた人であった。この時の戦略も最高のものであった。
だがそれが主に喜ばれるかというと別である。決して主の前に正しいものではなかった。
神様を敬愛し、聖書のみ言葉に聴き従わなければ、どんな優れた知恵も、策略も無駄になり、自分の命を失い、他の人をも苦しめる者となる。
仕事や家庭でも、主に喜ばれない考えや方法はないだろうか。
無力とみえても主の喜ばれる考え、方法を選び取ろう。 
”神様。自分の知恵に頼ることやめて、主に信頼させて下さい。アーメン”
 

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