デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年3月のデボーション
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2004年3月1日(月) 聖書の箇所:サムエル下 18章1〜33節
年間通読:レビ17〜18章
「あなたがたの最も良いと思うことをわしはしましょう」(4節)
  これは息子アブサロムと戦っていた時のダビデの言葉である。
彼が自分も必ず戦いに出ると言った時、民が制して「しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」という言葉に対して言われたのである。
危機の中で自分の事を真に心配してくれる民に耳を傾けることは大切である。
民の声は必ずしも神の声ではないが民の声に耳を傾けることは王としては不可欠である。
“主よ、ひとりよがりではなく、人の声も良く聞く者として下さい。アーメン”
 

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2004年3月2日(火) 聖書の箇所:サムエル下 19章1〜43節
年間通読:レビ19〜21章
「こうしてダビデはユダのすべての人の心を、ひとりのように自分に傾けさせた」(14節)
   ダビデを導きかえる思いがイスラエルの民の中に起こり、それを知ったダビデはザドクとアビヤタルに人をつかわして、アブサロムに味方した長老たちに自分を迎えに来るように、また、アブサロムの軍の長であったアマサをダビデの軍の長にすることを言わせた。
このように、敵対したものたちを、赦し、もう一度味方にすることを告げることによって彼らの心を捉えたのであった。 
”主よ、どうか私たちに、敵対した人たちの心を、赦すキリストの愛をお与え下さい。アーメン”
 

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2004年3月3日(水) 聖書の箇所:サムエル下20章1〜26節
年間通読:レビ22〜24章
「ひとりの賢い女が町から呼ばわった」(16節)
 今度は、ビクリの子、ベミヤミンびとでシバというよこしまなものが反旗をひるがえし、それにイスラエルの人々は皆従っていった。
シバはアベルという町に逃げ込んでしまった。ヨアブはその町の城壁を崩そうとして撃った。
その時、町を守ろうとして、勇気を出して、ヨアブと話したのがこの女性であった。彼女は知恵をもって、その町の民の所に行ったので、彼らはシバの首をヨアブの前に投げ出したのである(22節)。ひとりの賢い女の勇気と知恵が町を救ったのであった。
“主よ、私たちに神の知恵をあたえて下さい。アーメン”
 

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2004年3月4日(木) 聖書の箇所:サムエル下21章1〜22節
年間通読:レビ25〜26章
 「この後、その地のために、神は祈りを聞かれた。」(14節)
 ここでは「サウルとその家に血を流した罪がある」と言われている通り、地がのろわれ、3年ききんがあったとある。その解決には、罪を犯したサウルの家のものが7人殺されるということになり、それが実行された時に、のろいから解かれて、ききんからも解放されたのである。
これは、因縁ということで他の宗教で、よく取り上げることである。しかしイエスキリストの十字架の死はそのようなのろいからも完全に私たちを解放し(ガラテヤ3:13)、義として下さったのである。 
“主よ、キリストの十字架を感謝します。アーメン”
 

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2004年3月5日(金) 聖書の箇所:サムエル下22章1〜51節
年間通読:レビ27章、マルコ1〜2章
「主は生きておられる。
 わが岩はほむべきかな。わが神、わが救いの岩はあがむべきかな。」(47節)
  この歌は詩篇第18篇と殆ど同じである。主が、岩、城、救う者、盾、救いの角、高きやぐら、避け所、救主などにたとえられている。
幾多の死の危険に遭遇したダビデにとっては、これはただ単にたとえ以上の実際的体験であったと言える。そして、終わりの部分で、「主が生きておられる」と歌い、主を賛美しているのである。
主は生きていて、見守っておられ、共にいて下さり、祈りに耳を傾けて下さり、救いの御業をなし給うお方なのである。
 “主よ、あなたが生きておられ、何よりも信頼できるお方であることを感謝します。アーメン”
 

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2004年3月6日(土) 聖書の箇所:サムエル下23章1〜39節
年間通読:マルコ3〜5章
「どうして彼はわたしの救と願いを、皆なしとげられぬことがあろうか。」(5c節)           
 ダビデの最後の歌の一節である。神が必ず救い、願いを聞いて下さるという絶対的な確信
が言われている。これは勿論、彼の小さい時から死にいたるまでの体験に基づくものである。
私たちの信仰の歩みにおいても同じである。否、それ以上なのである。
イエス・キリストのとりなしの故に、また、彼の名の故に、彼の十字架と復活の故に、聖霊のとりなしの故に、われらの祈りと願いは、確実に聞かれるのである。 ハレルヤ!
“主よ、私たちの祈りと願いとをお聞き下さるが故にあなたを賛美します。アーメン”
 

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2004年3月7日(主日) 聖書の箇所:サムエル下24章1〜25節
年間通読:マルコ6〜8章
「わたしは費用をかけずに燔祭をわたしの神、主にささげることはしません」。(24節)
 主に燔祭をささげる時のダビデの姿勢が言われている。燔祭は献身をあらわす大切な献げ物であるが、献身は痛みと犠牲をともなうものであることを教えるものである。
軽々しく献身はなすべきものではない。十分に祈り、御心と信じたなら、大胆に、すべてを捨てて、献げるべきなのである。
献金においても同じである。私たちは余った、極わずかのものを献げるのでなく、思い切った、痛みを覚えるものを献げることが大切である。
“主よ、イエスさまの愛に応えて、犠牲をともなった献身や献金をさせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月8日(月) 聖書の箇所:列王記上1章1〜53節/ 年間通読:マルコ9〜10章
「彼はきて、わたしの位に座し、わたしに代って王となるであろう。」(35節)
  年老いたダビデに代わり、王位を継承しようと考えたのが、四男のアドニヤであった。妻でありソロモンの母であるバテ・シバの切実なる訴えに、ソロモンを王にすると誓ったことを思い出したダビデはギホンで祭司ツァドク、預言者ナタンにより油をそそがせ、新たな王としての就任式を執り行わせた。
私達の人生における王としてのキリストの就任式はいつだったか。
もしまだ自分の人生の主が、自分であるならキリストは生きない、輝かない。
キリストが私達の人生の、心の王位に座られるよう、お迎えしようではないか。
“主よ、今日もあなたが私のすべての主であられますように。アーメン”
 

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2004年3月9日(火) 聖書の箇所:列王記上2章1〜46節(/ 年間通読:マルコ11〜13章
「こうして国はソロモンの手に堅く立った。」(46節)
  ダビデに代わり新しい王として就任したソロモンであるが、王位を脅かす可能性のある氾濫分子も抱えていた。王位転覆を狙うアドニヤ、霊的に盲目な祭司アビヤタル、アドニヤに組する軍団長ヨアブ、シメイらであった。主にあってこれらを討伐、罷免し、新体制作りを行った。
私たちの心の中の氾濫分子は何か?
我々の王、キリスト様を憂えさせる悪しき思い、不信仰、偶像、悪習慣、不品行はないだろうか。キリストの王位がより確かなものとされ、神の国が私達の内外に大きく拡大していくよう、よけいなものは神の霊によりそり落としていただこう。
“主よ、私達の心を刷新し、堅く信仰に立たせてください。アーメン”
 

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2004年3月10日(水) 聖書の箇所:列王記上3章1〜28節/ 年間通読:マルコ14〜16章
「それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。」(9節)
  主はソロモンに夢のうちに現れ、願いを申し述べよと、迫った。ソロモンは神の民たちを裁き、治める英知を求めた。御心にかなったこの願いは主の前に聞き入れられ、ソロモンに比べうる王は他になし、というほどに英知に溢れた。
私達は主に何を求めているだろうか。
自分自身のためというのではなしに、キリストの体、徳が建て上げられ、主の栄光が現されることのために大いに用いられるよう、賜物、能力、そしてそれらにまさって主にある愛の満たしを求めていこう。
“主よ、福音宣教のために私達に賜物と、あなたの品性を備えさせてください。アーメン”
 

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2004年3月11日(木) 聖書の箇所:列王記上 4章1〜34節/ 年間通読:民数記1〜3章
「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。」(29節)
 英知に溢れたソロモンによって王国がより強固なものとして建て上げられ、他国との貿易を通じ、かつてない巨大な富を有する大国となっていった。
神の祝福は凄まじい。しかしその人知をはるかに越えた祝福も、神の御業、恵み、愛を信仰持って、割引なしに受け止められる“広い心”がなければ現実化していかない。
たとえ知恵と悟りに長けていても、神の恵みを受け止め、あらゆる状況を信仰を持って受容できる“広い心”がなければ成長はない。
主の業が確実になされるような“広い心”を求めていこう。
“あなたの恵みが内外に溢れるよう、豊かな心にしてください。アーメン”
 

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2004年3月12日(金) 聖書の箇所:列王記上 5章1〜18節/ 年間通読:民数記4〜6章
「主は約束されたようにソロモンに知恵を賜わった。
 またヒラムとソロモンの間は平和であって、彼らふたりは条約を結んだ。」(12節)
  ソロモンは地中海に面した港町の王であったヒラムとの友好関係の故に神殿建築に欠かせない良質の木材を手に入れることができた。
神の知恵は対人関係にも及ぶ。人との交流においては神の愛とともに、信仰に基づく知恵が不可欠である。
蛇のような賢さと鳩のような素直さが私達にも備わり、真の意味での平和が自らのうちに、取り巻く人々との間に築かれ、双方共に、神の豊かな恵みを享受できるよう、祈り求めて行こうではないか。
“主よ、あなたの恵みにより、平和を築く者とし、神の愛が内外に注がれてますように。アーメン”
 

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2004年3月13日(土) 聖書の箇所:列王記上 6章1〜38節/ 年間通読:民数記7〜9章
「第十一年のブルの月すなわち八月に、宮のすべての部分が設計どおりに完成した。ソロモンはこれを建てるのに七年を要した。」(38節)
 7年もの歳月をかけ、荘厳であでやかな神殿をソロモンは完成させた。神殿は、まさに神の栄光、聖、力、愛、慈しみを象徴し、イスラエルの民たちの、神との“命の交流”の場となった。
神はこの大事業を祝し、必要な材料、人材の全てを満たし、設計した通りに仕上がらせた。
私達は自分たちの人生の設計図を主にあって持っているだろうか。
主に基づき、主の御栄えのために人生の設計を立てていくなら、必ず主はそれを完成させてくださる。
完成させてくださるのは主である。さあ私達の将来の設計図を作成しよう。
“私達の人生を御栄えのために用いてください。アーメン”
 

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2004年3月14日(主日) 聖書の箇所:列王記上 7章1〜51節
年間通読:民数記10〜13章
「またソロモンはみずから審判をするために玉座の広間、すなわち審判の広間を造った。」
(7節)
 ソロモンの宮殿建設についての詳細が記されている。宮殿には人々を王が直接、裁きを下す特別な部屋が設けられていた。
私達、作られしものは皆死後、究極の王である神のさばきの前に立ち、私達がなしてきたこと、心に思い描いてきたことに対して申し開きをしなければならない (聖書 マタイ25:31〜34、ヘブル9:7)。
しかし、その時私達の傍らに立って、十字架の贖いの故に、王なる神に対して究極の弁明をしてくださるのがキリスト・イエスである。
まさに自分の命を懸けた弁明である。このキリストの側に立ち続けよう。
“主よ、あなたの命がけの弁護と、そこから与えられる永遠の命の祝福を感謝します。アーメン”
 

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2004年3月15日(月) 聖書の箇所:列王記上8章1〜66節/ 年間通読:民数記14〜16章
「主の栄光が主の宮に満ちた。」(11節)
 ソロモンが神殿奉献式を行い、契約の箱を本殿の至聖所に移したときに雲が満ちて主の栄光が主の宮に満ちあふれた。
この契約の箱の中には、十戒が書かれた石の板が入っていた。私たちが、神様の言葉である聖書を私たちの心の中心にすえるとき、神様は、私たちのうちに臨在し、私たちを主の栄光で満たして下さる。
聖書の言葉もソロモンの祈りも、キリストの十字架と復活によって完成した。どんな罪も失敗も赦される。そして主が、私たちをよみがえりの主の栄光で満たして下さるのである。
“主よ。み言葉を中心にすえます。主の栄光で満たして下さい。アーメン”
 

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2004年3月16日(火) 聖書の箇所:列王記上9章1〜28節/ 年間通読:民数記17〜20章
「わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。」(3節)
  主はソロモン王の祈りと願いに答えて下さった。神の御名とはどんなものであろうか。
神様は、ステパノの言葉のように決して人の造ったものの内に閉じこめられるお方ではない(使徒7章)。天を王座、地を足台とされるお方である。
私たちがイエスの御名によって祈る祈りはすべて聞かれると書いてある。また弟子たちは、イエスの御名によって悪霊を追い出し、病をいやし、人々を救いに導いたのである。
私たちは主なる神と小羊なるキリストとが聖所である神の都を目指しているのである。
“神様。その偉大さ、救いのゆえにあなたの御名を讃えます。アーメン”
 

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2004年3月17日(水) 聖書の箇所:列王記上10章1〜29節/ 年間通読:民数記21〜23章
「今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。」(7節)
 シバ(今のエチオピア)の女王は、ソロモンの名声や知恵を聞いて、試みようとしてやってきた。しかしソロモンの知恵の知恵、食卓、伺候、服装、献け物、あらゆるものに心を奪われてしまった。
私たちが目指している神の国もそんな感じであろう。私たちは、想像をはるかに超えた栄光の姿、よみがえりのキリストと同じ永遠に朽ちない霊のからだに変えられる。死も恐れも苦しみもなく、今にも増して主の愛と平安と喜びに満ちあふれると約束されている。神の国を目指そう。 
“父よ。神の子とされた喜びの中で、栄光の姿に変えられる約束を待ち望みます。アーメン”
 

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2004年3月18日(木) 聖書の箇所列王記上11章1〜43節:/ 年間通読:民数記24〜26章
「他の神々に従ってはならないと命じられた」(10節)
  ソロモン王は多くの外国の妻を持った。そのことが、彼を主なる神から離れさせた。この出来事がやがて王国の分裂、滅亡に至ることを思うとき厳粛な思いにさせられる。
若者にとって、どのような結婚を望むのか、信仰を共有できるのか、これは重要なポイントである。また私たちがこの信仰をどのように家族に伝え継承するかは、大きな祈りの課題である。
しかしまず私たちが、偶像や占いを離れあらゆる罪を離れ、また時と場所を聖別し御言葉に心を傾けることである。今この時を逃してはならない。
”主よ。わたしの心を探り、あらゆる偶像と罪から聖別して下さい。アーメン”
 

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2004年3月19日(金) 聖書の箇所:列王記上12章1〜33節/ 年間通読:民数記27〜30章
 「きょう、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答えるとき、」(7節)
  新しく王になったレハベアム王の質問に対する、老人たちの応答の言葉である。彼らはレハベアム王に対して民に仕えなさいとすすめた。
私たちの主イエスは、神の御子であられたにもかかわらず、人となり、十字架の死に至るまで従順であられた。それ故に神は万物の上に彼の名を置かれた。
この主の愛を覚えるときに、私たちは、神様にも他の人にも、へりくだって仕えるのである。キリストに仕えるように仕えるのである。そこに主は共に働いて下さって、伝道の実、愛の業の実を結ばせて下さる。
”神様。主の十字架を覚えつつ、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2004年3月20日(土) 聖書の箇所列王記上13章1〜34節:/ 年間通読:民数記31〜33章
「こうして彼はほかの道を行き、ベテルに来た道からは帰らなかった。」(10節)
  一人の預言者が主の命によって、ユダからベテルに遣わされてきた。そしてヤラベアム王が作った祭壇が裂けた。
主は彼に、来た道と別の道から帰るように言われた。残念ながら彼は主の言葉を守らず災難にあった。ヤラベアム王も主の預言によって始められた王朝であるのに偶像にそれてしまった。
私たちの救いは、主の尊い血潮によって始められた。主は私たちを罪の世から聖別し、神の子供として下さった。もはや罪の世界に戻る道はあり得ない。むしろ信仰を完成して下さる主にすがり、主の証しを続けよう。 
“神様。主の道を進みます。もう戻りません。アーメン”
 

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2004年3月21日(主日) 聖書の箇所:列王記上14章1〜31節
年間通読:民数記34〜36章ヨハネ1章
「彼はイスラエルの神、主にむかって良い思いをいだいていたからです。」(13節)
 
 ヤラベアム王の子が病気になり、王が妻に預言者を訪ねさせた。その子は死に、王族は滅ぼされ、その子だけが墓に葬られると預言者は語った。
何とも切ない箇所である。主が立てられたはずの王が、主を離れ裁かれることは悲しいことである。しかしその一方で、主に背いて滅ぼされる王家の中に「主にむかって良い思い」をいだく者がいたことは、何という希望と慰めであろうか。
誰もが生まれながらに罪人である。が、キリストを通して、神を思う思いが与えられ、神の子と変えられている。
”主よ。罪の中に生まれた私が、救われて御心を思えることを感謝します。アーメン”
 

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2004年3月22日(月) 聖書の箇所:列王記上 15章1〜34節/ 年間通読:ヨハネ3、4章
「アサはその父ダビデがしたように主の目にかなう事をし、神殿男娼を国から追い出し、先祖たちの造ったもろもろの偶像を除いた」(12節) 
 「主の目にかなう事をする」ということは王にとって、すべての民にとって、神の民としての基本であり、また大切な事である。その具体的な事が、神殿男娼(男の同性愛者)を追い出し、偶像を除去した事であった。偶像とは、悪霊なのである(第1コリント10:20)。そして、その偶像礼拝は倒錯した性関係が必ずと言ってよいほど伴うのである。
私たちは今も働く悪霊の働きを警戒し、偶像を捨て、性的罪から聖別される必要がある。 
“主よ、悪霊の働きから解放して下さい。アーメン”
 

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2004年3月23日(火) 聖書の箇所:列王記上 16章1〜34節 / 年間通読:ヨハネ5:〜6章
「そこで主の言葉がハナニの子エヒウに臨み、バアシャを責めて言った」。(1節)
 預言者エヒウによってバアシャに対する神のさばきが宣告される。
この章にはイスラエルの王、バアシャ、ジムリ、オムリ、そしてアハブが出て来るが、みな悪王であった。しかし、そのような中に、主の預言者が遣わされていたのである。
私たちは、ユダからベテルに神の人が遣わされたのを見た(列王記上13章)。
預言者は相手が王であっても、自分の命をも顧みず、大胆に主の言葉を語ったのである。
”主よ、どのような中にも大胆にあなた御言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月24日(水) 聖書の箇所:列王記上 17章1〜24節/ 年間通読:ヨハネ7〜8章
「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」。(16節) 
 まず、私たちは、霊的な暗黒の中に神の預言者が遣わされていたと言うことに、神の働きを見る事ができる。
また、その預言者を神がからすを通し、また、シドンのザレパテのやもめ女によって養わせて守ったと言うことである。同時に、エリヤの従順さをも見る事ができる。
しかし、何といっても預言者によって語られる主の言葉の真実性を見るのである。必ず御言葉のとおりになって行くのである。 
“主よ、あなたの御言葉の真実さを知り、従順に従わせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月25日(木) 聖書の箇所:列王記上 18章1〜46節/ 年間通読:ヨハネ9〜11章
 「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」。(15節)
 バアルの預言者450人とエリヤ一人との戦いである。しかし、これは悪霊であるバアルと万軍の主との戦いである。
万軍の主とは千々万々のみ使いを従えた主ということであるから、相手の数に脅かされる事はないのである。正に、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいるものよりも、多いのだから」(下列王6:16)とある通りである。
またこの中で、「わたしの仕える」とあるがエリヤは本当に仕えていたからこそこう言えたのである。
“主よ、あなたが生ける万軍の主であることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月26日(金) 聖書の箇所:列王記上 19章1〜21節/ 年間通読:ヨハネ12〜14章
 「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしないものである」。(17節)
  七千人は非常に多くと言う意味である。
エリヤは自分が一人残されたと思っていたが、神はそんなお方ではなく、主を信じ、偶像を拝まないものを多く残していて下さるのである。
私たちも、自分の味方は誰もいないと思ったりする時があるが、主は主を信じる兄弟姉妹を数え切れないほど多く、私たちの周りにおいていて下さっていることに目が開かれたいものである。
“主よ、あなたを信じているものが大勢いることに目を留めさせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月27日(土) 聖書の箇所:列王記上 20章1〜43節/ 年間通読:ヨハネ15〜19章
「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」(13節)
 アハブは偶像礼拝をしていた者で、民にもそうさせていたものであったが、スリヤの王べネハダテの軍隊とのた戦いにおいて、預言者を通して、主の勝利の約束が告げられた。
しかし、それは、アハブの祈りガ聞かれたり、信仰が素晴らしかったからではなく、「わたしが主であることを知る」ようになるためであり、このお方だけに仕えさせるためであった。
“主よ、あなたが主であることを知ってあなたにだけに仕える者にして下さい。アーメン”
 

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2004年3月28日(主日) 聖書の箇所:列王記上 21章1〜29節
年間通読:ヨハネ20章、申命記1、2章
「彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災いを下さない」。(29節)。
 「アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった」(25)とあるように、彼は妻のイゼベルにそそのかされて悪に身をゆだねていたのである。
しかし、エリヤの、イゼベルに対するさばきの言葉を聞いて、悔い改めた(27)のである。それ故、アハブへのさばきはなされなかったのである。
ここで、妻や周りの者によって、悪に引きずり込まれないようにする事、また、悔い改めの故に、赦しが与えられる事を学ぶ事ができる。
“主よ、いつでも悔い改めさせて下さい。アーメン”
 

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2004年3月29日(月) 聖書の箇所:列王記上 22章1〜53節/ 年間通読:申命記3〜4章
「ミカヤは言った、「主は生きておられます。主がわたしに言われる事を申しましょう」。(14節)
 北・南イスラエルの両国王は、目の上のたんこぶであったラモテ・ギレアデに攻め上るべきかを預言者らに尋ねたところ、王たちの機嫌を取りたい400人の偽預言者らは都合の良いことだけを語った。唯一、ミカヤだけは違っていた。主の語られたことをそのまま恐れず語り、攻撃の失敗を暗示した。
信仰者である私達も世の中では当たり前になっていることに対しても時には、神の基準に照らし合わせて、NOと拒絶しなければならない。
世の中の流れに合せるのではなく、神がどう語られているかをいつも問える者でありたい。
“主にある価値観を持たせてください。アーメン”
 

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2004年3月30日(火) 聖書の箇所:列王記下 1章1〜18節/ 年間通読:申命記5〜7章
「あなたがたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか」(3節)
 病気にかかった北王国・イスラエルの王、アハジヤはこともあろうに他国の異教の神、バアル・ゼブブに、癒しを期待し、使者を遣わした。神は預言者・エリヤを通し、その暴挙、神への背信を厳しく断罪した。
 私達は“神不在”の時代に生きている。そんな社会に生きていると、知らず知らずのうちに神様の無限の力と可能性を過少評価し、目に見える世界をすべてとしてしまう霊的な罠に陥りやすい。
私達の神はいつの時代も“大いなるお方”である。割引なしに私達の主を崇めてゆきたい。
“主よ、大いなるあなたをそのまま信じ、崇めてゆけますように。アーメン”
 

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2004年3月31日(水) 聖書の箇所:列王記下 2章1〜25節/ 年間通読:申命記8〜11章
「エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。(9節)
 天に引き上げられる時、イスラエルの大預言者、エリヤは弟子、エリシャに何が欲しいのかを尋ねた。エリシャは明確にエリヤの後継者になるために、彼の2倍の霊力を求めた。
私達は神に召されたクリスチャンとして、それぞれの職務と使命を全うするために、どうしても神の霊の力を日々、頂いていかなくては進み行かない。
神の霊に満たされ、いつも新鮮な信仰と、ビジョンに溢れ、そしてなによりも、神と人とを愛する愛に満たしていただき、それぞれに与えられた使命を全うするという、最善の生涯を送らせていただきたい。 
“今日もあなたの霊に満たして、溢れさせ、生き生きと、信仰者として歩ませてくださいアーメン”
 

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