デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年4月のデボーション
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2004年4月1日(木) 聖書の箇所:列王記下3章1〜27節/ 年間通読:申命記12〜15章
「これは主の目には小さい事である。主はモアブびとをも、あなたがたの手に渡される。」(18節)
 イスラエル、ユダ、エドムの王は結託してモアブ討伐をもくろむ。しかし、連合軍は遠回りを余儀なくされた上、大切な水をも浪費してしまった(9節)。
困り果ててエリシャにあって主に伺いを立てた王たちに、主は枯れた谷に水を流れさせ、同時に戦いにも勝利を与えることを約束された。奇跡と思えることが、主にあっては小さいことなのだ。
私達の周りには解決策の見出されないような難問がいっぱいだ。しかし、われらの主はその難問・奇問に解決の道を備えられないほど、小さなお方ではないことを強く覚えたい。
“不可能を可能にしてくださる主よ、感謝します。アーメン”
 

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2004年4月2日(金) 聖書の箇所:列王記下4章1〜44節/ 年間通読:申命記16〜19章
「そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。」(34節)
  エリシャを神の聖なる者として敬い、心遣っていたシュネムの女の子供が突如、死んだ。エリシャは神に復活の奇跡の業を祈り、死んだ子供と体を合せるようにすると、子供は息を吹き返した。
キリストも受肉という驚くべき事実を通じて、私達、人間存在と究極的な合一をなしてくださったと言える。体と体、手と手、心と心を合せることで、私達のあらゆる部分に神の命と霊を吹き込み、私達をまるごと再生してくださる。
“主よ、あなたの命を注ぎ、ますますわれらを回復させたまえ。アーメン”
 

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2004年4月3日(土) 聖書の箇所:列王記下5章1〜27節/ 年間通読:申命記20〜23章
「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう。」(10節)
 らい病にかかり、苦しんでいた敵国の名将、ナアマンにエリシャはヨルダンで7度、身を洗え、と語る。もちろんナアマンは憤慨する〈11〜12節〉。
彼のプライド、人間的な常識、自我というものがエリシャを通して示された“神の救い”の“受け取り”を妨げたのであった。
私達の常識が、自信が、神による問題解決の業を妨げることがある。私達の思いに神を近づけさせるのではなく、神の御思い、ご計画に身を委ね、信頼するものでなければならない。
その多くの場合において、神の問題解決方法は私達のそれとは全く違うものであることをしっかりと認識しつつ・・・。
“主がいつもわれらの内外に、御業をなせる開かれた信仰を持たせてください。アーメン”
 

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2004年4月4日(主日) 聖書の箇所:列王記下6章1〜33節/ 年間通読:申命記24〜27章
「そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。」(17節)
 エリシャによって策略を見抜き、なかなか罠に陥らないこう着状態に業を煮やした敵国アラムの王は、エリシャのいるドタンの町を軍隊に包囲させた。恐れるエリシャの召使らだが、神は彼らの目を開き、大いなる天の軍勢の守りを見させた。
心の目が霞むと神の臨在、力、愛、慈しみを感じ取れなくなる。心の目がいつも開かれて、神の臨在の勝利に酔いしれるものでありたい。
そのためには心の目薬、聖書、祈り、教会生活が不可欠だ。
“主よ、いつも心の目を開いてあなたを見させてください。アーメン”
 

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2004年4月5日(月) 聖書の箇所:列王記下 7章1〜20節/ 年間通読:申命記28〜29章
「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、、」(9節)
 今週は受難週である。主の苦しみと十字架が私たちのためであったこと、そして死を打ち破りよみがえられたことをいつにも増して覚えよう。
主はエルサレムを包囲している軍隊を散らされた。それを最初に知ったのが、重い皮膚病の4人であった。4人は勇気を出して伝えたが、簡単には信じてもらえなかった。しかし事実は確かに明らかになった。
私たちは今神の国の福音を受けている。これを伝えないことはよくない。なかなか信じてもらえなくてもやがて真実は明らかになる。 
“主よ。喜びと忍耐をもって福音を伝えさせて下さい。アーメン”
 

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2004年4月6日(火) 聖書の箇所列王記下 8章1〜29節:/ 年間通読:申命記30〜32章
「神の人がひとみを定めて彼の恥じるまでに見つめ、やがて泣き出した」(11節)
 ハザエルがなぜ泣くのか聞くとエリシャは、「あなたがイスラエルの人々にしようとする害悪を知っているからです。」と答えた。
神の預言者は、神の厳しい裁きの言葉も告げるのであるが、イスラエルを深く愛し、その苦しみを共に感じる人であった。
その思いは神様から出ている。主の十字架も神様の愛から出たものである。
私たちも主の愛を受けたのだから、主と同じ思いとなって、家族・子供を、同僚を、隣人を愛し、苦しみを共にし、神様の峻厳と憐れみを伝えさせていただきたい。
“主よ。十字架の愛の深さを知って、主と同じ愛で人を愛する者として下さい。アーメン”
 

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2004年4月7日(水) 聖書の箇所:列王記下 9章1〜37節
年間通読:申命記33、34章 使徒1章
 「そして彼は戸をあけて逃げ去った。」(10節)
 エリシャから神様の言葉を託されたこの若い預言者は、最初から最後まで言われたとおりに実行した。
聖書を見ると、神様のお言葉を聞きながら、その一部には従うが、自分の思いで全部は従わない人が多く出てくる。
イエス・キリストは「この杯をわたしから取りのけて下さい」と祈りつつ、「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにして下さい」と祈り十字架に向かい、神様の御心を全うして、救いの道を開いて下さった。
み言葉に従う道は、楽な道ではない。しかし救い主に仕える喜びがある。
“神様。主イエスの御足の跡を歩み、全く主に従う者として下さい。アーメン”
 

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2004年4月8日(木) 聖書の箇所:列王記下 10章1〜36節/ 年間通読:使徒2〜4章
「あなたの子孫は四代までイスラエルの位に座するであろう。」(30節)
 エヒウ王は、神様から油を注がれたとき、前王朝の者と偶像バアルに仕える者を一掃し、神様の御心にかなうことを行った。しかし金の子牛に仕えることをやめなかった(29節)。
神様が私たちに与えようとしておられる祝福は、四代で終わりではなく、代々に及ぶものであり、永遠の命に至るものである。
神様への姿勢が中途半端であるために、祝福を受け損なってはならない。全能の神様から私たちを引き離すもの一切から離れよう。偶像、占い、自我、憎しみ、悪い習慣、罪を捨て去り主に仕えよう。
”神様。中途半端な信仰ではなく、恵みの深みへ導いて下さい。アーメン”
 

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2004年4月9日(金) 聖書の箇所:列王記下 11章1〜21節/ 年間通読:使徒5〜7章
 「そこでエホヤダは王の子をつれ出して、冠をいただかせ、律法の書を渡し、彼を王と宣言して油を注いだ」(12節)
  今日は受難日である。
アタリヤは王の一族を滅ぼして自らが王となって、偶像礼拝をし、勝手な政治をした。悪が大手を振るい、多くの正しい人が苦しむ時代となった。
主イエスが十字架につけられ死んだときも、弟子達をはじめ、みんなの者が、絶望した。悪が勝利を収めたように見えた。しかし神様はアタリヤを退け、新しい王に油注がれた。
主イエスもよみがえり、この世を治めておられる。主は私たちが顧みて下さらないと思う時にも、顧みていて下さるお方である。
”神様。主にあって苦しみで終わりでないことを信じます。アーメン”
 

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2004年4月10日(土) 聖書の箇所:列王記下 12章1〜21節/ 年間通読:使徒8〜10章
「それで主の宮を繕わせた。」(14節)
 主の宮に入るはずの銀を祭司達が自分のものとしていて、宮の修繕が放置されていた。その銀を宮の修理に充てたときに、宮の修理が進んだ。
私たちは、私たちのすべてをご存じで最善のご計画をもっておられる神様から離れていると、身も心も荒れてどうにもならなくなる。しかし自分の握っているものを主に委ねる時、神様に立ち返る時に真の平安を得ることができる。
キリストが十字架で罪を身に受け、神様と私たちの関係を繕って下さった。それによって私たちに神様との平和と和解の道が開かれた。 
“神様。主の十字架によって平安があることを感謝します。アーメン”
 

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2004年4月11日(主日) 聖書の箇所:列王記下 13章1〜25節/ 年間通読:使徒11〜13章
 「その人はエリシャの骨に触れるとすぐ生きかえって立ちあがった。」(21節)
 今日はイースターである。
スリヤの略奪隊を見て、あわてて死体をエリシャの墓に投げ入れるとその人が生きかえった。エリシャは、エリヤの2倍の奇跡をした。それは神の人エリヤの後継者のしるしであった。
この死人が生きかえったことは、私たちへのよみがえりのしるしである。つまり、罪と死とを打ち破ってよみがえられた主によって、私たちも死に勝利し、朽ちることのない永遠の命に与ることができる。
キリストと共に神の国を受け継ぐ者とされているのである。ハレルヤ。
”父なる神様。主が罪と死とを打ち破って下さったこと、復活されたこと感謝します。アーメン”
 

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2004年4月12日(月) 聖書の箇所:列王下14章1〜29節 / 年間通読:使徒14〜16章
「主はイスラエルの悩みの非常に激しいのを見られた」(26節) 
 イスラエルの民は何故そのように、悩みが激しかったのであろうか。それはヨアシの子ヤラベムがイスラエルの民に罪を犯させたためである。
しかし神は悪までもイスラエルの民が悔い改める事を目的として、悩みの中におかれたのであるから、同時に、彼らを救い出すことをもなさるのである。
聖書に「わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす」(申命記32:39)とある通りである。神は義なるが故に、神の民を罰しなさり、その愛と真実の故に生かし、救って下さるのである。
“主よ、あなたのはかり知ることのない真実な愛を心から感謝します。アーメン”
 

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2004年4月13日(火) 聖書の箇所:列王下15章1〜38節/ 年間通読:使徒17〜19章
「彼は主の目にかなう事を行い、すべて父ウジヤの行ったようにおこなった」。(34節)
 この言葉は、「主の目の前に悪を行い」(9、18、24)と対称的につかわれている。同じような言葉が3節にもある。何故、このように「主の目の前にかなう」ようになったかであるが、勿論、本人の自覚が第一であるが、同時に、親(この場合は父)の影響が大きかったといえる。
また、逆に主の目の前に悪を行う」ようになる事に対しても、親の影響は大きいのである。私たちは自分だけでなく、周りへの影響を心して、事を行うべきなのである。 
”主よ、私たちも良き事において先輩や親を見習う者として下さい。アーメン”
 

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2004年4月14日(水) 聖書の箇所:列王下16章1〜20節/ 年間通読:使徒20〜22章
「スリアの王レヂンおよびレマリアの子であるイスラエルの王ペカがエルサレムに攻め上って、アハズを囲んだが、勝つことができなかった」。(5節)
アハズはユダの王であったが、「主の目にかなう事を先祖ダビデのようには行わなかった」(1)とある。このようなアハズ王が敗れなかったのは、ただ神の憐れれみ以外なかったと言える。
そしてアッシリアの王に頼り、また、異教の祭壇を真似て作ったことも主の喜ばれない事であったといえる。そのことの故にユダは略奪者の手に渡されたのである(列王下17:19,20)。 
“主よ、主の目にかなう事を行わせて下さい。アーメン”
 

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2004年4月15日(木) 聖書の箇所:列王下17章1〜41節/ 年間通読:使徒23〜25章
 「ただ大きな力と伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から導き上った主をのみ敬い、これを拝み、これに犠牲をささげなければならない」。(36節)
 
 救ってくださった主のみを敬い、礼拝するようにと言うことは、繰り返し、語られたが、イスラエルの民はそれに従い切れないで、他の神々を敬い、礼拝してしまったのである。
そのために北イスラエルも、ユダも共にさばかれたのである。これは、人間の弱さと罪深さを教えるのである。
“主よ、罪深い私たちに救い主イエスさまを与えて下さったことを感謝致します。アーメン”
 

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2004年4月16日(金) 聖書の箇所:列王下18章1〜37節/ 年間通読:使徒26〜28章
 「主が彼と共におられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした」。(7節)
  ヒゼキヤ王はイスラエルの神、主に信頼した故に「彼の後にも先にもユダのすべての王のうちに彼に及ぶものはなかった」とある。そして、そのように信頼した故に主が共にいて下さり、戦いに勝つことができたのである。
主に全く信頼し、主にのみ従うときに主が共にいて下さるのである。
インマヌエル、即ち、主が共にいて下さるということほどすばらしい事はないのである。そこにこそ救いと勝利があるのである。
“主よ、あなたにのみ全く信頼しますから、あなたが私と共にいて下さい。アーメン”
 

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2004年4月17日(土) 聖書の箇所列王下19章1〜37節:/ 年間通読:ヨシュア1〜4章
「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください」(16節)
 ヒゼキヤの危機における祈りであるが、彼は生きておられる神の前に出て、アッスリヤの王セナケリブからの手紙をひろげ、そして、熱心に、真剣に祈ったのである。正にそれは目と耳を持っておられるお方が目の前におられる如くであった。
それに対して、イザヤを通して、主は「わしに祈ったことは聞いた」と言われたのである。そしてその如くくに神は奇跡的にヒゼキヤに勝利を与えて下さったのである。
“主よ、私たちもあなたに聞かれる祈りを祈らせて下さい。アーメン”
 

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2004年4月18日(主日) 聖書の箇所:列王下20章1〜21節/ 年間通読:ヨシュア5〜8章
「わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう」。(5節)
 ここでもヒゼキヤは病気にかかった時、涙の祈りをささげている。これに対して言われた主の言葉がこれである。
主は私たちに目をとめておられ、私たちを顧みていて下さるのである。だから、必ず、私たちの叫びを聞いて下さり、御業をなして下さるのである。
この時も、神さまは死ぬべきヒゼキヤの病をいやして、宮に上るようにして下さったのである。
“主よ、私たちの祈りをお聞きくださることを感謝致します。アーメン”
 

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2004年4月19日(月) 聖書の箇所:列王記下21章1〜26節/ 年間通読:ヨシュア9〜11章
「もし、彼らがわたしが命じたすべての事、およびわたしのしもべモーセが命じたすべての律法を守り行うならば、イスラエルの足を、わたしが彼らの先祖たちに与えた地から、重ねて迷い出させないであろう。」(8節)
  宗教改革を行い、偶像を神殿から一掃し、祭壇を立て直したヒゼキヤの子、マナセは悪の限りを尽くし、父、ヒゼキヤの宗教改革を台無しにしただけでなく、将来の、神による南王国への徹底的なさばきをも引き起こしてしまう。
神が民たちにひたすら求めていたのは、律法の堅守であったが、民たちにはそれができなかった。
究極的な意味における律法の堅守、勤行はキリストの内住による心の刷新であるとは、新約の普遍のメッセージである。この恵みに生きよう!
“主よ、わが内に生き、あなたに忠実、誠実なものに変えてください。アーメン”
 

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2004年4月20日(火) 聖書の箇所列王記下22章1〜20節:/ 年間通読:ヨシュア12〜15章
「あなたは、わたしがこの所と、ここに住んでいる民にむかって、これは荒れ地となり、のろいとなるであろうと言うのを聞いた時、心に悔い、主の前にへりくだり、衣を裂いてわたしの前に泣いたゆえ、わたしもまたあなたの言うことを聞いたのであると主は言われる。」(19節)
南王国ユダの末期の王の一人あるヨシヤの懸命なる悔い改めにより、主はヨシヤの時代におけるさばきをとどめた。
私達の祈り、信仰は絶えず、形骸化の流れとの戦いを強いられている。“形”は大事であるが、心の伴わない“形”ほど、恐ろしいものはない。
主は生けるお方であるから、生きた、新鮮な、心からの告白、求め、傾聴、謙りを持っての礼拝が不可欠だ。
“あなたの前に真実な礼拝をいつもささげさせてください。アーメン”
 

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2004年4月21日(水) 聖書の箇所:列王記下23章1〜37節/ 年間通読:ヨシュア16〜19章
「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。」(25節)
 ヨシヤの宗教改革は徹底的であった。律法の書に従って、主の忌み嫌う偶像、霊媒、口寄せ、性的堕落等々の“悪”を神殿から、国から取り除いていった。勿論、キリストにある私達も“悪”から離れ、聖別されていかなければならない。
しかし、キリストにある計り知れない恵みはこの内外における“聖別”だけにとどまらない。むしろそれを越えた、神の愛に押し出された伝道であり、奉仕であり、社会的実践だ。
キリストの愛は私達の関心をいつも他人へ向かわせる。
“主よ、私達を聖別すると共に、隣人愛に満たしてください。アーメン”
 

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2004年4月22日(木) 聖書の箇所:列王記下24章1〜20節/ 年間通読:ヨシュア20、22章
「彼はまたエルサレムのすべての市民、およびすべてのつかさとすべての勇士、ならびにすべての木工と鍛冶一万人を捕えて行った。残った者は国の民の貧しい者のみであった。」(16節) 
 主の前に性懲りもなく悪を行った王、エホヤキンの時代についにバビロニアの侵攻を通し、南王国ユダの上に神のさばきが下されていく。バビロン捕囚の始まりである。
しかし、捕囚地において、エゼキエル、国内においてエレミヤら、預言者を通じ、民に対する励まし、養い、導きは変わらずに与えられ、そこで民たちは再度、生ける神と出会い、真の意味での神への傾聴がなされるように、徹底した配慮が与えられ続けた。
計り知れない神のこの愛はキリストにあって今を生きる私達に向けられている。感謝しよう!
“いかなる時においても変わらないあなたの顧みを感謝します。アーメン”
 

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2004年4月23日(金) 聖書の箇所:列王記下25章1〜30節
年間通読:ヨシュア23、24章、ローマ1章
「すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出てねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。」(27、28節)
  なぜ悪王エホヤキンが生かされ、バビロン王の好遇を得たのか。確かなことは神のエホヤキン個人に対する愛の守り、というよりはむしろダビデの子孫から救い主は生まれなければならない、とする神の全人類への救いの計画の堅守の故だと理解できる。
その時代を支配したバビロンも、その時代に翻弄されたかのようなエホヤキンも神の御手の支配の中にあった。
人類の、私達の救いのための支配である。スケールの大きい我等の主に感謝!
“あなたの御手の守りを心から感謝します。アーメン”
 

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2004年4月24日(土) 聖書の箇所:歴代誌1章1〜53節/ 年間通読:ローマ2〜5章
「アブラムすなわちアブラハムである。 アブラハムの子らはイサクとイシマエルである。 彼らの子孫は次のとおりである。」(27〜29節)
 歴代誌はバビロン捕囚解放の後に故国再建に向けて、ユダヤ人らを励まし、選民としての自覚と純潔な信仰を回復させる目的で編纂された。
その意味で1〜9章では、徹底して、系図にこだわり、ユダヤ人がいかに神にある契約の民であるかを示している。
私達は全くの異邦人、“地上の人”であったが、イエスにより、契約の民、“天上人”となり、この祝福の系図に組み込まれたお互いである。
私達を通じ、さらに祝福の系図は永遠に続く。ハレルヤ!
“主よ、我等を通じ、更に祝福の系図が拡大されていきますように、アーメン”
 

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2004年4月25日(主日) 聖書の箇所:歴代誌2章1〜55節/ 年間通読:ローマ6〜8章
「イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル。」(1節)
 イスラエルの12人の子の名前がまず、列挙されている。
聖なる系図、選ばれた種族ではあるが、彼らも時には失敗し、その子孫も主の目の前に悪を行い、聖絶される者がでたりとすっきりとしない過去をたどってきた。
良きも悪しきも事実をそのまま語るこの神の系図は、罪びとである私達のような者も、イエスにあって祝福の系図に入れられ、かつ今度はイエスにあって聖なる系図に組み込まれるにふさわしい者にと整えられていくのだという、新約時代の豊かな恵みを沈思させる。
“主よ、我等を天国人としてふさわしくますます、清く整えてください。アーメン”
 

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2004年4月26日(月) 聖書の箇所:歴代志上3章1〜24節/ 年間通読:ローマ9〜11章
「ヘブロンで生れたダビデの子らは次のとおりである。」(1節)
ダビデ王家の系図である。ユダ王国が滅んだ後にまで系図は続いている。やがてこのダビデの家から救い主が与えられる。
なぜダビデの家からかといえば、羊飼いから王へと引き上げられた一方的な恩寵であるというほかない。だからといって、ダビデに失敗がなかったわけではない。神をあなどり大きな罪を犯してしまった。だがダビデは、その罪を心砕けて悔い改めた。それこそが神様の喜ばれることである。
私たちも神に悔い改めて、どんな罪も失敗も赦される。そして前にも増して、主をほめ讃えることができる。
“神よ。あなたの愛と赦しに、感謝します。アーメン”
 

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2004年4月27日(火) 聖書の箇所:歴代志上4章1〜43節/ 年間通読:ローマ12〜15章
「どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように」。(10節)
 ユダ族とシメオン族の系図を中断するようにヤベヅの祈りがある。ヤベヅははじめは苦しみがあった。しかし、神様に率直に呼ばわった。その時「神は彼の求めるところをゆるされた。」
私たちは、自分の思いを率直に神様に呼ばわっているだろうか。祈りが通り一遍のことで終わっていないだろうか。
心を開いて、主に心の思いを打ち明けよう、願い求めよう。
主は確かにその求めを聞き入れられる。 
“主よ。私の祈りを聞かれる方はあなたです。あなただけです。アーメン”
 

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2004年4月28日(水) 聖書の箇所:歴代志上5章1〜26節
年間通読:ローマ16章、士師記1、2章
 「これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。」(20節)
 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東側に嗣業を得た部族であった。1節を見るとルベンは不品行によって、長子の権を失った。しかしこの2部族半は、神様に寄り頼んで大きな勝利を得ることができた。それなのに彼らは、他の神々を慕い、約束の地から移されてしまった。
私たちは、主のあがないによって、神の御国を継ぐ者とされている。選ばれて、主にあって始められた信仰の歩み、たゆまず主を見上げ、完成させていただこう。イザヤ4:31。 
“父よ。逆境の時も順境の時も主を頼む者として下さい。アーメン”
 

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2004年4月29日(木) 聖書の箇所:歴代志上6章1〜81節/ 年間通読:士師記3〜5章
「コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子」(33節)
 この章にはレビ族の系図が記されている。ここには預言者サムエルの孫が主を賛美する奉仕をしている。
サムエル記上8章1〜3節を見ると、サムエルの子らは、不正な裁きをして、神に喜ばれない者であった。詳しくは記されていないが、孫のヘマンが賛美の奉仕をするに至るまでにどんな紆余曲折があっただろうか。またどれだけの祈りが背後にあったことだろうか。
今の私たちも多くの祈りによって支えられている。私たちも忍耐をもって祈り続けよう。
“私の悩みをご存じの主よ。救って下さい。祈り続けます。信頼します。賛美します。アーメン”
 

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2004年4月30日(金) 聖書の箇所:歴代志上7章1〜40節/ 年間通読:士師記6〜8章
 「イッサカルのすべての氏族のうちの兄弟たちで系図によって数えられた大勇士は合わせて八万七千人あった。」(5節)
  この章には、イッサカル、ベニヤミン、ナフタリ、エフライム、アセルの各部族の系図が記されている。この系図は、ヤコブと共にエジプトに下った時代から、捕囚を経て帰還までの数百年以上の長い期間の中で一人一人数えられている。
主イエスにあって救われた者は、時代を超え地域民族を越えて一人も漏れることなく「いのちの書」に名前が記されている。
その中に私達の名も記されており、主と同じ復活の姿に変えられる時を待ち望んでいる。 
“主よ。この小さき者も天に名が記されていること(ルカ10:20)を感謝します。アーメン”
 

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