デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年6月のデボーション
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2004年6月1日(火) 聖書の箇所:歴代下10章1〜19節/ 年間通読:列王上3〜6章
「レハベアム王は父ソロモンの存命中ソロモンに仕えた長老たちに相談して言った、「あなたがたはこの民にどう返答すればよいと思いますか。」(6節)
 ヤラベアムとその民たちの労役の軽減を求める訴えにレハベアム王は、ソロモン時代の長老たちに助言を求めた。長老はこぞって軽減を勧めたが、王は自分と同意見をもつ同年代の若者の助言を受け、逆に労役を厳しくしてしまった。これが北方部族の叛乱の原因となる。
神の前に誠実な歩みをなしてきた信仰者には、相応の霊的風格と洞察力が備えられていくものだ。その信仰の“先輩”の助言を決してないがしろにしてはならない。
ここにも深いへりくだりと受け止める柔らかい心が必要となる。
“聖徒らの助言を真摯に受け止める柔和な心を下さい。アーメン”
 

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2004年6月2日(水) 聖書の箇所:歴代下11章1〜23節/ 年間通読:列王上7,8章
「それで人々は主の言葉を聞き、ヤラベアムを攻めに行くのをやめて帰った。」(4節)
 南ユダの兵士を集めて北方のヤラベアム討伐へ行こうとした王レハべアムに、主は預言者シマヤを通して、戦ってはならないことを告げた。血気盛んになり、いざ討伐へ乗り出している軍隊を引き返させることは余程でなければできないことだ。
主が語るそのことを真剣に受け止める信仰が生きている証拠だ。かくして神の民たちによる南北紛争という最悪のシナリオは避けられた。私達もいつでも主が“やめよ”と言われることをやめ、“せよ”と言われることを行う信仰に基づく勇気と行動力を持ちたいものだ。
“主の訴えを聞き、行う信仰をください。アーメン”
 

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2004年6月3日(木) 聖書の箇所歴代下12章1〜16節:/ 年間通読:列王上9〜11章
「そこでイスラエルのつかさたち、および王はへりくだって、「主は正しい」と言った。」(6節)
 ユダの王レハベアムはやがて主から離れ、エジプト、シシャク王による侵略を通しての神の裁きを招くことになる。しかし、預言者シマヤを通しての裁きの宣言をイスラエルの重鎮たち、及び王は真摯に受け止め、自分たちの失敗、罪を悔い改めていく。故に主はユダへのエジプトによる完全なる裁きの実行をとどめられた(7節)。
自分を客観的に見つめ、その咎を主にあって認め、悔い改めることができるのも主の大きな恵みだ。認罪と告白、ここから主の回復の業が始まっていく。
“主へのへりくだりの心を、いつも持たせてください。アーメン”
 

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2004年6月4日(金) 聖書の箇所:歴代下13章1〜22節/ 年間通読:列王上12〜14章
「ユダはうしろを見ると、敵が前とうしろにあったので、主に向かって呼ばわり、祭司たちはラッパを吹いた。」(14節)
  ついに南北間の本格的な総力戦が始まってしまった。偶像に染まっていった北王国(8節)に比べ、まだ南王国においては神への信仰が生きづいていたと言える(10〜13節)。北王国の挟み撃ちの窮地に、南は祭司らとともに主に助けを叫び、主に信頼してラッパとともに進撃し、北王国を打ち破った。
窮地に陥るとき私たちはどんな声をあげるだろうか、不平か、落胆か、又は恐れによる沈黙か・・。
まずは飾り気のない助けを求める声を主に向かってあげよう。
主の実際的なる助けを信じて・・。
“あなたの助けと守りを感謝とともに信じます。アーメン”
 

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2004年6月5日(土) 聖書の箇所:歴代下14章1〜15節/ 年間通読:列王上15〜17章
「われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当たります。主よ、あなたは
われわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください。」(11節)
 主にある平和に包まれていた南ユダに突如、エチオピア軍、歩兵100万、戦車300という大軍が押し寄せてきた。かたや南王国は約半分の58万ばかりだ。しかし、主に信頼する南王国は完膚なきまでにエチオピア軍を叩きのめした。
大きな問題や困難は突然に私たちを襲ってくるものだ。
しかしどんなに無敵と思える“敵の大軍”のような困難であっても、主に信頼し、主の名によって当たっていく信仰から来る“冷静さ”を持ちたい。
“今日も主の名によって歩ませて下さい。アーメン”
 

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2004年6月6日(主日) 聖書の箇所:歴代下15章1〜19節/ 年間通読:列王上18〜19章
「しかし、あなたがたは勇気を出しなさい。手を弱くしてはならない。あなたがたのわざには報いがあるからです。」(7節)
 エチオピア軍を打ち破り戦勝気分に酔っていたであろうアサとその民たちのもとに神は預言者アザリヤを遣わし、警告と励ましを伝えた。ある意味で信仰の落とし穴は試練の中というより、ほっとするその瞬間にある。
“勝って兜の緒をしめよ”、というわけではないが、万事順調の時こそ、霊的堕落という目に見えない落とし穴を警戒し、主にある平和を感謝し、引き続き、いやより一層、忠実に、誠実に神の前に歩むものでありたい。
“主よ、困難な時も、平和なる時も、あなたを心から礼拝し感謝を献げる者として下さい。アーメン”
 

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2004年6月7日(月) 聖書の箇所歴代志下16章1〜14節:
年間通読:列王記上20〜21章
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」(9節)
 アサ王は、主に信頼してエチオピアの大軍隊に勝利を得た。しかし晩年、主により頼まなかった時、それより弱い相手にも当たることができなかった。
私たちは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰により救われている。今になって、この世の知恵や力に頼るのではなく、どこまでも主に信頼して、どうにもならない問題も様々な悩みも主に祈って解決していただこう。
また主は、すべてを委ねて信頼するものに、力をあらわされるお方である。
“神様。かつてあなたが助けて下さったことを思い起こします。今も主たけを信じます。アーメン”
 

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2004年6月8日(火) 聖書の箇所:歴代志下17章1〜19節
年間通読:列王上22、列王下1章
「またユダの町々をことごとく巡回して、民の間に教をなした。」(9節)
  ヨシャパテ王は、王位に就いたとき、主の道に心を傾けた。神を求めて、戒めすなわち聖書の言葉に歩んだ。偶像を取り除いた。そして人々に教えをなした。その結果、「主が国を彼の手に堅く立てられ」た。また戦いが起こらなかった。
人はいつの時代も、自分さえよければいいと考える。だがキリストは、私たちのために命までも捨てて下さり、私たちを生かして下さった。
私たちは、この主を言い広め、主にならって生きるのである。言い換えれば、家族や隣人を愛し、同じ救いにあずかってほしいと願い生きるのである。
“主よ。隣人にも福音を語らせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月9日(水) 聖書の箇所:歴代志下18章1〜34節
年間通読:列王記下2〜3章
「主は生きておられる。わが神の言われることをわたしは申します。」(13節)
 400人もの偽預言者がいて、王の喜ぶことだけを言っている。その中で主の預言者ミカヤは、神の言葉を語った。それは、王の耳に痛い言葉であった。
神の言葉を語るのは命がけである。私たちの周りでも、創造主やキリストや聖書を否定する話が起こってくる。その時私たちはどうするだろうか。本当に主への信仰に立っているかが問われる。
主が言われることを語ろう。人を恐れるのではなく主を恐れよう。真実を語らないのは苦しいことである。主から賜ったものは、「たとい死んでも生きる」命である。
“主よ。生きている神の言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月10日(木) 聖書の箇所:歴代志下19章1〜11節/ 年間通読: 列王記下4〜5章
「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛してよいのですか。」(2節) 
 ヨシャパテ王は神様を求め、偶像を取り除き、祭司やレビ人を支え、人々を教え多くの良いことをした王であった。
残念ながら、その功績を台無しにしてしまったことがある。それは善と悪を峻別できなかったことである。悪人を助け、縁を結んだことが、やがて王国を神なき国の大混乱に陥らせてしまった。
善に見える悪もある、少しの譲歩が悪への王道を開くこともある。私たちは霊的な鋭い感覚が養われなければならない。何が重要かを判別できる必要がある(ピリピ1:9〜10)。
“神様。私にあなたの心を教え、純真で責められるところのないものとして下さい。アーメン”
 

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2004年6月11日(金) 聖書の箇所:歴代志下20章1〜37節/ 年間通読:列王記下6〜8章
 「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。」(20節) 
  ヨシャパテ王は軍も増強していたはずであった(17:2)。しかしそれだけではいざというとき、役に立たなかった。人の知恵や力では、上には上がいる。私たちのなすべきことは、主に助けを求めることである。
ヨシャパテ王は、自分の誇りを捨て、断食をして、主を求めた。約束の言葉をもって主を求めた。そこに主の言葉が臨んだ。主を信じた。そして大切なことは、主を賛美したことである。
しかも軍勢よりも前で(21節)。私たちの生活に賛美が少なくないだろうか。主を賛美しよう。
“主よ。へりくだる者への助けを感謝します。あなたを賛美します。アーメン”
 

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2004年6月12日(土) 聖書の箇所:歴代志下21章1〜20節
年間通読:列王記下9〜10章
「主はさきにダビデと結ばれた契約のゆえに、、、ダビデの家を滅ぼすことを好まれなかった。」(7節)
 ヨラム王は、「ひとりも彼を惜しむ者がなかった」ほどに神様から離れて悪をおこなっていた。聖書は原因を悪い者を妻としたからであるといっている。そのようなヨラムであったが、神様はダビデとの契約(歴上22章)のゆえに、彼も子孫も滅ぼさなかった。それどころか、この子孫から救い主を生まれさせ、永遠の王国を確立された。
どんなに私たちが罪深くても、どんなに主に従えないとしても、この私たちのために十字架による愛と赦しが備えられている。主の前に素直な心で悔い改めよう。
“主よ。罪をおゆるし下さい。無限の愛を感謝します。アーメン”
 

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2004年6月13日(主日) 聖書の箇所:歴代志下22章1〜12節
年間通読:列王記下11〜14章
「こうしてヨアシは神の宮に隠れて彼らと共におること六年、」(12節)
 なぜ神の国にこのようなことが起こるのかと思わされる。罪のない者が殺され、悪い者が国を治める。皆が苦しんだ。そのような中で、密かに主の回復の計画が進んでいた。
私たちにもなぜと思うことが起こってくる。悪に苦しむ時がある。また耐え忍ぶべき時がある。当時と違うことが一つある。それはすでに主イエスはよみがえられたということだ。
罪と死とは打ち破られたことだ。悪魔は最後の悪あがきをしているにすぎない。
そして私たちは、主が再び来られ、すべてを治めるのを待ち望んでいる。
”神様。最後まで耐え忍べますように。主の来臨を待ち望みます。アーメン”
 

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2004年6月14日(月) 聖書の箇所:歴代下23章1〜21節/ 年間通読:王下15〜17章
「エホヤダは自分とすべての民と王との間に、彼らは皆、主の民になるとの契約を結んだ」(16節) 
 エホヤダは祭司であったが、勇気を出して、百人の長たちに契約を結ばせた。また、ユダのすべての町からレビ人を集め、イスラエルの氏族の長たちを集めた会衆と、神の宮で、王と契約を結ばせた。そして、宗教改革に取り組んだのであった。
このようにして、彼は王がいなかったので王を立てる備えをし、王を立てたのであった。エホヤダは神を中心とした勇気ある、自分をわきまえた良き指導者であった。
“主よ、神のために、勇気を与え、主を中心として歩ませて下さい。アーメン”
 

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2004年6月15日(火) 聖書の箇所:歴代下24章1〜27節/ 年間通読:王下18、19章
「ユダの町々へ行って、あなたがたの神の宮を修繕する資金をすべてのイスラエル人から集めなさい。その事を急いでしなさい」。(5節) 
 ヨアシ王は祭司エホヤダが在世中は“主の良しと見られることをなした”(2)のであった。その一つが神殿を修繕することであった。
しかし、始めはこれもうまくは行かなかったが、箱を主の宮の門の外において、宮もうでに来る人から毎日集めたのであった。それが功をそうし、たくさんのお金が集まり、それをもって宮を堅固にすることができたのである。
”主よ、事を行うのに、神の知恵をもって行わせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月16日(水) 聖書の箇所:歴下25章1〜28節/ 年間通読:王下20〜22章
「神にはあなたを助ける力があり、また倒す力があるからです」。(8節)
 アマジヤがの銀百タラントでイスラエルの大勇士十万人を雇って、セイル人と戦おうとしていた時、神の人がアマジヤに言った言葉である。神さまは神の人の言うとおりに従ったならば彼を助ける力をもち、もし従わなかったら、倒してしまう力を持っておられるということである。
正に救う力があり、滅ぼす力のあるお方なのである。決してあなどってはいけないのである。謙りと従順とをもって神に従うべきなのである。
“主よ、神の助けの中にあるように、御言葉に従わせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月17日(木) 聖書の箇所:歴下26章1〜23節/ 年間通読:王下23〜25章
「彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた」(5節)
 ウジヤ王は名君であった。預言者ゼカリヤの指導にしたがっていた時は、「驚くほど神の助けを得て強くなった」(15)のであった。しかし、「彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(16)のであった。
ここに人間の弱さがあるのである。その弱さを悪の力は巧みに突いて来て、罪を犯すようになり、審きとしての滅びがやってくるのである。
主に従い、求めつづける所に、祝福の秘訣があるのである。
“主よ、絶えず、従順であり、あなたを求め続けさせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月18日(金) 聖書の箇所:歴下27章1〜9節/ 年間通読:ガラテヤ1〜3章
「ヨタムはその神、主の前にその行いを堅くしたので力あるものとなった」(6節)
  「その行いを堅くした」とは、主の戒めに従って歩んだことである。右にも左にもまがらないで
まっすぐに従うことである。そこには、疑いや不信仰や迷いがないのである。
「行い」とあるから、思いや考えや思想が主の前に堅かっただけでなく、その行動が堅かったのであった。しかし、「民はなお悪を行った」(2)とあることから、民への影響力、指導力には欠けていたようである。その原因は何であろうか。神のために、いつも神の宮で、神の前に出て民の為に祈ることに欠けていた為と思われるのである。
“主よ、民の為にとりなす者とさせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月19日(土) 聖書の箇所:歴下28章1〜27節/ 年間通読:ガラテヤ4〜6章
「主の激しい怒りがあなたがたの上に臨んでいるからである」(11節)
  これはオデデという主の預言者の言葉である。北イスラエルの民がユダとエルサレムの人々を従わせて、自分の男女の奴隷としようとしていたことに対する主の怒りを語ったのである。
レビ記には「彼らはエジプトの国からわたしが導き出したわたしのしもべであるから、身を売って奴隷となってはならない」(25:42)とあるので、たとえ、ユダが罪を犯して、滅ぼされたとしても、イスラエルはユダの人々を捕虜としてはいけないのであった。
“主よ、相手の悪につけ込んで、罪を犯さないようにして下さい。アーメン”
 

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2004年6月20日(主日) 聖書の箇所:歴下29章1〜36節/ 年間通読:歴上1〜3章
「レビびとよ、聞きなさい。あなたがたは今、身を清めて、あなたがたの先祖の神、主の宮を清め、聖所から汚れを除き去りなさい」 (5節)
 主が良しとされた第一のことは宮清めであった。偶像礼拝につかわれたものなどがたくさんあった。それらのものをことごとく運び出して、捨て、あるいは、捨てた所で焼いたのである。
次に、燔際の壇、パンの机とすべての器ものが清められたのであった。それから罪祭がささげられて、血による清めがなされたのであった。
“主よ、まず罪汚れをみな悔い改め、イエス・キリストの十字架の血によって清めて下さい。アーメン”
 

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2004年6月21日(月) 聖書の箇所:歴代誌下30章1〜27節/ 年間通読:歴代誌上4〜6章
「このようにエルサレムに大いなる喜びがあった。イスラエルの王ダビデの子ソロモンの時からこのかた、このような事はエルサレムになかった。」(26節)
 ヒゼキヤ王の宗教改革である。長らく霊的停滞の中にあり、北王国イスラエルがアッスリヤの手に落ち、滅びる(BC721or722)という憂き目に会う中で、生き残った南王国ユダの民たちを中心に信仰復興運動が行われた。
ソロモンの時代から数えて実に約200年ぶりに大いなる喜びの伴った真の礼拝が捧げられたことになる。いわゆる信仰のリバイバルだ。新鮮な食材と同じように信仰も鮮度が命だ。聖霊による信仰の刷新が私達には不可欠となる。
“主よ、いつも新鮮な信仰と命ある礼拝を保たせてください。アーメン”
 

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2004年6月22日(火) 聖書の箇所:歴代誌下31章1〜21節
年間通読:歴代誌上7〜10章
「すなわち朝夕の燔祭および安息日、新月、定めの祭などの燔祭のために出して、主の律法にしるされているとおりにした。」(3節)
 ヒゼキヤ王の信仰復興運動における大きな業績の1つは神殿礼拝を回復させただけでなく、その礼拝を持続させていく確固たる体制を自ら率先してささげものを奉献していくことで、築き上げようとしたことだ。
私たちはとかく目に見える大きな成果や人の気を引く派手な事々を求めやすい。しかしなによりもまず大切なことは地味と思われるような礼拝、祈祷会出席、密室での祈りといった基本的な礼拝の実行・継続である。この先にこそ大いなる霊的な成果がある。
“主よ、基本に忠実な者として下さい。アーメン”
 

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2004年6月23日(水) 聖書の箇所:歴代誌下32章1〜33節
年間通読:歴代誌上11〜14章
「心を強くし、勇みたちなさい。アッスリヤの王をも、彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。」(7節)
 ついに北王国を滅ぼしたアッスリヤがユダに攻めてきた。しかし無敵と思えるアッスリヤ軍を前にしてもヒゼキヤの主に対する信頼は揺るがなかった。
目に見える現実の先に君臨しておられる全能なるお方を認識できるかが、信仰の戦いの勝負の分かれ道となる。アッスリヤに勝るとも劣らない厳しい現実が私達を容赦なく襲う。
しかし、“その現実を支配し、我々を守り給う大いなる方がともにおられる”ということが私達にとっての真の現実であることを忘れてはならない。
“主の守りを感謝します。アーメン”
 

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2004年6月24日(木) 聖書の箇所:歴代誌下33章1〜25節
年間通読:歴代誌上15〜17章
「神はその祈りを受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。」(13節)
  マナセは偶像に、口寄せに、占いに心を奪われ、神の怒りを引き起こしてしまった。神はアッスリヤに攻めさせ、マナセを捕らえ、バビロンに連れ行かせ、裁きを行うが、自分の愚かさに気づいたマナセは謙り、低頭平身、神に助けを祈る。神はこの祈りを聞き入れ、マナセを再びエルサレムに戻す。驚くべき赦しと回復だ。
キリストにあって真実なる悔い改めの祈りを主は受け入れてくださり、全き赦免と回復を与えて下さる。今日も主の前に出て包み隠さず祈り、折にかなった赦免を頂こう。
“赦しの恵みに内に歩ませてください。アーメン”
 

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2004年6月25日(金) 聖書の箇所:歴代誌下34章1〜節/ 年間通読:歴代誌上18〜21章
「王は自分の所に立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし・・・その戒めと、あかしと定めとをまもり、この書にしるされた契約の言葉を行おうと言い・・。」(31節)
  善王ヨシヤは宮きよめと修復を行ったが、その際、本来の場所から移動され、放置されていたモーセの律法の書を、祭司を通して発見した。彼はすべての民に律法の書に記されていることの遵守を再徹底させた。
私達の信仰の基準、生活の基盤は聖書である。この世の価値観を土台に神を捉えるのではなく、聖書を通してこの世の様相を捕らえ、理解するという聖書的な世界観を養っていくことが最も大切なことの1つだ。
“聖書を土台とした歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2004年6月26日(土) 聖書の箇所:歴代誌下35章1〜27節
年間通読:歴代誌上22〜25章
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。」(3節)
 偶像に溺れたマナセ、アモンの時代、神の箱は神殿の外に搬出され、粗雑な取り扱いを受けていたようである。善王ヨシヤは過ぎ越しの祭りの実行と再び神の契約の箱を神殿に据え置くことで、神への献身を聖職者、民たちに徹底させた。
私たちの主、キリストは今どこにおられるだろうか。部屋の片隅、私達の人生の片隅ではなく、私達のすべてのすべてなる御方として、心の中心、人生の中心として日々お迎えし、とこしえに君臨していただこうではないか!
“主よ、今日もあなたが私の中心、生活の柱でありますように。アーメン”
 

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2004年6月27日(主日) 聖書の箇所:歴代誌下36章1〜23節
年間通読:歴代誌上26〜28章
「ペルシャの王クロスはこう言う、「天の神、主は・・・主の宮をユダにあるエルサレムに建てることを私に命じられた。・・」(23節)
 ついに超大国バビロンによるバビロン捕囚が南王国ユダに対して起こってしまった。事実上の国の崩壊である。しかし驚くべきことにエレミヤの回復の預言(エレミヤ25:11〜12参照)のごとく、神殿再建を通しての信仰復興、神の民の国の回復への始まりをここに見る。
そのきっかけを作ったのが神の霊によって導かれた(22)異邦の民の王クロスであった。
神を知らない異邦の王にも働き、救いの道を切り開く我等の神の恵みに感謝しよう!
“すべてを支配しておられるあなたの御名を心から崇めます。アーメン”
 

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2004年6月28日(月) 聖書の箇所:エズラ記1章1〜11節
年間通読:歴代誌上29〜2章 歴代誌下2章
「主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、」(1節)
 長い捕囚の期間であったが、時が満ちて、神様にしかできない方法で、イスラエルに帰還することができた。
さらに現代の私たちには、イエス・キリストが来られ、十字架と復活により、神の前に罪の赦しが成就している。そして今、私たちが、成就を待ち望むべき主の言葉は、主がもう一度来られて、私たちを引き上げて下さることである(使徒行伝1:11、テサロニケ4:13〜18)。
捕囚の人々は、どんな苦しみの中でも、主の言葉の成就を信じて帰還の時を待ち望んでいた。私たちも、主の再臨を待ち望んで歩もう。
“神様。主がもう一度来られる約束を信じ、待ち望みます。アーメン”
 

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2004年6月29日(火) 聖書の箇所:エズラ記2章1〜70節/ 年間通読:歴代誌下3〜6章
「神の宮をもとの所に建てるために真心よりの供え物をささげた。」(68節)
 イスラエルの帰還の目的は、「主の宮の再建」であった(1:2〜4)。主が「ペルシャ王クロスの心を感動され」(1:1)、ことが始まったが、それを受け取るには信仰が大切である。
帰還した民の数は、わずか四万人(64)であった。けれどもそれはたいした問題ではない。主は、「力のない者を助けること」(歴代14:11)ができる全能の主であるからだ。
ではなぜ主の民が捕囚に至ったのか。それは、まことの神を離れ偶像を拝み、祭儀も形式ばかりで心が伴っていなかったからであった。「真心」をもって主の前に出よう。 
“主よ。今も働いておられる主を信じ、心から礼拝します。アーメン”
 

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2004年6月30日(水) 聖書の箇所:エズラ記3章1〜13節/ 年間通読:歴代誌下7〜10章
「そして民はみな主をさんびするとき、大声をあげて叫んだ。主の宮の基礎がすえられたからである。」(11節)
 主の宮の再建が始まり、基礎工事が完成した。民は大声を上げて賛美した。
ところで私たちは、主の恵みの中に歩んでいるときは、どんなに大きな恵みが注がれているか気づかなくなってしまうことがある。しかし主から離れてしまって、主を礼拝できなかったり、十分に交わりができなかったりすると、その愛の大きさに気づかされる。
今与えられている恵みを心から感謝しよう。大声で賛美しよう。そして主から離れることがないように、信仰の「基礎」(5つの約束)を固めよう。
“主よ。あなたの愛で生かされていること感謝します。アーメン”
 

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