デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年8月のデボーション
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2004年8月1日(主日) 聖書の箇所:ヨブ2章1〜13節/ 年間通読:ヨブ37〜39章
「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(10節)
 サタンは神に逆らい神に訴えるものであるが、神のみ手の中にあるのである。だから、どんな試みも神の許しを飛び越えることはない。
ここにおいてもサタンは神の許可の範囲でヨブを撃ち、足の裏から頭の頂きまで、いやな腫物をもって、悩ましたのであった。その中でヨブが語ったのが上の御言葉である。
ここでも唇をもっては罪を犯さなかったのである。そこに三人の友だちが慰めようと思って、はるばるやって来たのである。
“主よ、災いを受けても、罪を犯さないようにして下さい。アーメン”
 

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2004年8月2日(月) 聖書の箇所:ヨブ記3章1〜26節
年間通読:ヨブ40〜42章,第2テサロニケ1章
「なにゆえ、悩む者に光を賜い、心の苦しむ者に命を賜わったのか。」(20節)
 七日七夜の沈黙の後、苦しみのあまりヨブは自分の生まれた日を呪った。生まれてこない方が良かった、死んだ方がどれほど楽かと思われる苦しみであった。しかしサタンは、神に許された範囲を越えては手を出すことができない(2章6節)。ここにサタンの限界がある。
そして救われた者つまり主の弟子達は、信仰が様々な試練で試されるが、それによって不純物(不信仰)が取り除かれ、火で精錬される金よりもはるかに尊いものとされるのである(第一ペテロ1:6,7参照)。ヨブはなお神を呪わなかった。
“父よ。試練の中で死を打ち破られた主を仰がせて下さい。アーメン”
 

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2004年8月3日(火) 聖書の箇所:ヨブ記4章1〜21節
年間通読:第2テサロニケ2,3章、詩篇1,2篇
「あなたが神を恐れていることは、あなたのよりどころではないか。」(6節)
 ヨブの友人エリパズの答え。なぜ神様はヨブがサタンの災いに遭うことを許されたのか、本当の信仰をもっているかどうかを試すことを許したからである(ヨブ1:9〜11)。
また私たちも災いに遭うことがある。それでも私たちが神様を信じ恐れていることは、私たちの生きる根拠である。主イエスは、この世は私たちを憎む前に、主を憎んだ(ヨハネ15:18)と言われる。
聖書は、私たちがこの世にあって主のものとして生きるとき、苦しみに会うことは、必然のこととしている。それと同時に、私たちが持っている主にある喜びと平安は誰も奪うことのできないものである(ヨハネ16:22,33)。
“主よ。いつも共に歩ませて下さい。アーメン”
 

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2004年8月4日(水) 聖書の箇所:ヨブ記5章1〜27節/ 年間通読:詩篇3〜7篇
「彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、その不思議なみわざは数えがたい。」(9節) 
 エリパズの答えの続きである。神様は大いなるお方である。私たちが、空の大きさ、夜の星を見るとき、また多くの自然の中にはぐくまれる生命を見るときに、その不思議さに心を奪われる。その偉大なお方がなぜこのように小さな私に目を注いでいるのかと思うと、主の思いの測りがたさに気の遠くなるような感じがする。しかしこの友人エリパズの言葉は間違いではないが、苦しみ悶えているヨブを納得させるものではないのである。
“父よ。あなたの大いなること、不思議、永遠、無限なることに心を留めると同時に、
 この世の現実を正しく見させて下さい。アーメン”
 

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2004年8月5日(木) 聖書の箇所:ヨブ記6章1〜30節/ 年間通読:詩篇8〜12篇
「わたしにどんな終りがあるので、なお耐え忍ばねばならないのか。」(11節)
ヨブは「わたしは聖なる者の言葉を否んだことがない」(10節)と言い切るほどに神を恐れ、正しく歩み、またそうしようとしていた人であった。それはヨブの確信であった。
それなのにどうしてこんな苦しみにあわなければならないのかというのが、ヨブの悩みであった。しかし友人エリパズは、慰め励ますために来たのに、ヨブに対しては何の慰めも希望も与えるものではなかった。
“神様。絶望の底にある人に慰めと望みを与えるものとして下さい。アーメン”
 

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2004年8月6日(金) 聖書の箇所:ヨブ記7章1〜21節/ 年間通読:詩篇13〜17章
 「朝ごとに、これを尋ね、絶え間なく、これを試みられるのか。」(18節) 
 アダムとエバが神様の命令を破り、善悪を知る木の実を食べたとき、神の顔を避ける者となった(創世記3:8)。これは神に逆らい、罪ある者となったので、義なる神様の前に立てなくなったことを意味している。
ヨブは正しく歩み、自分の義を主張していた。それにもかかわらず、少しでも神様が自分から顔をそむけ、苦しみが和らぐことを求めた。それほどに、神様の訪れと顧みは、ヨブには、苦しみを増すことであった。ここにヨブの苦しみの大きさを伺い知ることができる。 
“神様。いつまで苦しみが続くかわかりません。その中で主の解決に気づかせて下さい。アーメン”
 

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2004年8月7日(土) 聖書の箇所:ヨブ記8章1〜22節/ 年間通読:詩篇18〜21章
「見よ、神は全き人を捨てられない。」(20節)
 ヨブの友人ビルダデの言葉が記されている。神は正しいお方であるから、ヨブが家族を失い、財産を失い、健康を失って災いに遭うのは、ヨブか家族に罪があるからにちがいないと主張している。
私たちも神様に、公平と正義を求める。正しく生きようとする。しかし苦しみや災いに遭う。矛盾を感じる。同時に、正しくあり得ない自分の姿に気づく。全き人ではなり得ない。しかし私たちの主キリストにより、全き人と見なされ、災いが「神のみわざ」(ヨハネ9:3)に変えられている。
“主よ。こんな汚れた者に、キリストによって神のみわざ現されることを感謝します。アーメン”
 

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2004年8月8日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記9章1〜35節/ 年間通読:詩篇22〜26章
「たといわたしは正しくても答えることができない。」(15節)
  ヨブは、友人ビルダデに答えている。その主張の一つは、神は、正しいお方であり、絶対的な主権者であるということである。この神様の前に、人は何かを言うことのできる存在ではないということを認めている。もう一つの主張は、自分は、正しい者であって、罪を犯したことはないということである。
その中で、彼は友人から、神に向けて、「あなたが私を罪なき者とされないことを私は知っているからだ」(28b)と語り、仲裁者がいないことを訴えている。
しかしキリストが神と私たちの仲保者となってくださった(第1テモテ2:5)。
“神様。キリストにある神の義を持つ者として下さい。アーメン”
 

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2004年8月9日(月) 聖書の箇所:ヨブ記10章1〜22節/ 年間通読:詩篇27〜31篇
「あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。」(12節)
  ヨブの神への嘆願の祈りである。苦悩の中にあってヨブは神が人を愛と慈しみの御手で創造され、これまでの生涯がこの神の命といつくしみに溢れたものであったことを思い返しつつ、切実な訴えを行う。
いかなる状況においても、神の命の供給が滞るということはありえない。また苦難の過程の中に、いつくしみの神のそのご性質が分離しているかに思わせるような結末は決してない。神の命といつくしみがいつも私達を包んでいる。
“全生涯にわたるイエス様にある神の命といつくしみの注ぎを感謝します。アーメン”
 

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2004年8月10日(火) 聖書の箇所:ヨブ記11章1〜20節/ 年間通読:詩篇32〜35篇
「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。」(7節)
 ヨブの友人、ナアマ人ゾパルの返答である。彼も他の友人と同様、因果応報の神学を持ち出す。苦難の背景には必ず罪があると独善的に決めつけつつ、ヨブの罪を見抜き、確実に裁きの業をなす神の偉大さを語るのだ。
しかし、罪に妥協できない神が私たちの救いのために自らのひとり子を犠牲にして究極の愛を、深遠なる神の恵みをゾパルは知る由もない。ひとり子を犠牲にしてまで私達を救い出そうとした神が苦難の中にも深い配慮と人知を越える愛を持って支え導かれることを信じよう。
“すべてのことに意図と配慮を持って導かれる主に感謝。アーメン”
 

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2004年8月11日(水) 聖書の箇所:ヨブ記12章1〜25節/ 年間通読:詩篇36〜39篇
「すべての生き物の命、およびすべての人の息は彼の手のうちにある。」(13節)
 3人の友人らが一通り語ったところで今度はヨブの反論が14章まで続く。因果応報の思想の中でしか語らない友人らの短絡的な批判に対して痛烈な批判をもって論破していく。
この世の思想のうちに神を閉じ込めることはできないし、ましてや神を捉えることはできない。すべてのことにおける主権は主の手にある。その主権の領域は私達が理解できないさまざまな現象、出来事を含む文字通り、すべてである。
私達の知覚できる領域は実に狭い。だからこそ信仰の目を通してすべてを司る神を見つめ、さまざまに起こる現象を捉え続ける歩みが不可欠となる。
“主権在神、ハレルヤ!”
 

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2004年8月12日(木) 聖書の箇所:ヨブ記13章1〜28節 / 年間通読:詩篇40〜44篇
「なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。」(24節)
ヨブの飾りのない本心からの神への訴えである。神の前に真実に、誠実に、力いっぱい歩んできたからこその訴えである。
私達はどうだろうか。神と私達においてその関係が中途半端なものであるなら不遇の身となろうとも喜びに包まれても神への心からの訴えも出てこなければ、溢れる感謝も賛美も出てこない。神に力一杯、訴えることができるほど、自らの思いを吐露できるほど、日々全力で仕え、交わり、神の前に誠実で清い歩みをさせていただきたい。
“主よ、真実なあなたと真実な関係を築かせてください。アーメン”
 

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2004年8月13日(金) 聖書の箇所ヨブ記14章1〜21節:/ 年間通読:詩篇45〜49篇
「あなたがお呼びになるとき、わたしは答えるでしょう。あなたはみ手のわざを顧みられるでしょう。」(15節)
  人のはかなさについてヨブは語る。よみでもいいから逃避して神の怒りが収まるまで隠れていたいとヨブは本心を打ち明ける(13〜14節)。
そんな切羽詰った状態の中においてもヨブにとって神は厳しい、無慈悲な裁き主ではなく呼べは答えるという深いきずなでつなぎ合わされ、手の業(創造されたもの)をこよなく愛し慕っておられる愛の神なのだ。
いかなる状況においても一環として創られたものを、私達を愛し、慕ってやまない我らの主の愛を忘れてはいけない。
“あなたの守り、支え、配慮、導きを感謝!アーメン”
 

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2004年8月14日(土) 聖書の箇所:ヨブ記15章1〜35節/ 年間通読:詩篇50〜54篇
「神の慰めおよびあなたに対するやさしい言葉も、あなたにとって、あまりに小さいというのか。」(11節)
 ヨブに対するエリパズの第2回目の反論である。第1回目の時よりも激しく厳しい口調でヨブを攻め立てる。苦しむ中にも神に信頼をおく、ヨブの言葉の裏にある真の信仰をエリパズは見抜けない。苦難の中においては聖霊なる神が私達を慰め、励まし、勇気を与えてくださる。将来のビジョンを示し、心のうちに希望を示し、苦難に負けない、力強い歩みをさせてくださる。この聖霊に満たされ続けていく生活が苦難に、誘惑に負けない勝利ある人生の鍵である。
“聖霊様、あなたの励ましと慰めにより私を引き上げてください。アーメン”
 

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2004年8月15日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記16章1〜22節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。」(19節)
 友人の非難に、あざけりの中でヨブは自分の潔白を証明し、保障してくれる神に期待し、改めて信頼を置いていく。
サタンは鋭く私達の罪を責め立てる。過去の罪を思い返させ、しつこく私達を攻撃する。
しかしキリストこそは私達の最良の弁護人となり、“この者は私の血潮で贖われたものです。”と神に向かって宣言し、私達のキリストの血潮による贖いの保証に自らなってくださる。
そして私達のうちには“赦されたんだ!”という確証を与えて、心を守ってくださるのだ。
“主にある全き贖いとその保証を感謝!!アーメン”
 

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2004年8月16日(月) 聖書の箇所ヨブ記17章1〜16節:/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか」。(3節) 
 苦しみの中で、友人たちはヨブをあざけり、また、侮ってしまった。それも神がそうさせたのであると彼は悟った(4)のである。
そのような中で、彼に死ぬ事が間近に迫り、彼は死んで墓穴に葬られ、その死体に群がるうじを家族にする以外にないという全くの絶望の中に追いやられたのである。しかし、神御自身が
保証になって下さるように祈り始めたのである。彼は証人を天に(16:19)求めたのであった。
“主よ、どんな中にも、あなたに目を向けさせて下さい。アーメン”
 

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2004年8月17日(火) 聖書の箇所:ヨブ18章1〜21節/ 年間通読:詩篇65:〜68篇
「まことに、悪しき者のすまいはこのようであり、神を知らない者の所はこのようである」。(21節) 
 ビルダデの2回目の論述である。彼はまず、ヨブが自分が罪人であることを悟るようにと話しかけたのであった。彼は悪しき者は衰えていき、災いが来て、その人の思い出も名前も忘れ去られ、その子孫もいなくなると主張するのであった。このようなビルダデの言葉は、悩み苦しむヨブにとっては、苦しみに苦しみを加えるようなものであった。
私たちも、苦しんでいる人とともに苦しまないで、このような審きをしてしないように、気をつけなければならない。
”主よ,愛によって、苦しむものと共に苦しむものとして下さい。アーメン”
 

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2004年8月18日(水) 聖書の箇所:ヨブ19章1〜29節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」。(25節) 
 ヨブは友人たちに反論をし、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』 (6)と不幸の原因が分からないが、神にあることを主張している。
彼の将来は暗黒で、兄弟たちから離れ、知人たちとは疎遠になり、親類と友人たちから見捨てられ、家にいるものからは他人扱いされ、僕は応えず、息が妻に厭われ、童に侮られ、やせ細ってしまった。その中で、自分を贖って下さるお方(イエス・キリスト)を見いだすのであった。
“主よ、贖うお方を感謝します。アーメン”
 

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2004年8月19日(木) 聖書の箇所:ヨブ20章1〜29節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
 「悪しき人の勝ち誇はしばらくであって、神を信じない者の楽しみはただつかのまであることを」(5節)
 ゾバルの2回目の論述である。彼はヨブを、他の友人と同じく、悪しき者、神を信じない者として、論を進めているのである。
ここで私たちは人を励ますと言うことはどういうことであるかを知るのである。
 上記の言葉は間違いではないが、この時のヨブに対しては、当てはまらない事であった。なぜなら、彼は、罪の故に、苦しみにあっているのではなく、信仰が試されているからである。
“主よ、信仰が試されている方を、真に励ます心をお与え下さり、言葉を教えて下さい。アーメン”
 

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2004年8月20日(金) 聖書の箇所:ヨブ21章1〜34節/ 年間通読:詩篇78〜80篇
「すなわち、災の日に悪人は免れ、激しい怒りの日に彼は救い出される。
だれが彼に向かって、その道を告げ知らせる者があるか、だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。」(30,31節)
  ヨブは友人たちが因果応報説に立って、攻撃して、ヨブを罪ある悪しき者と決めつけていることに対して、悪人でも繁栄の中におかれ、正しい人でも何の幸いを得ないで死んでいく人もあると語っている。
そして、このような虚しい因果応報説でヨブを慰めようとする事の間違いを指摘する。
“主よ、神の前に正しく、問題や課題を捉えさせて下さり、正しく対応させて下さい。アーメン”
 

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2004年8月21日(土) 聖書の箇所:ヨブ22章1〜30節/ 年間通読:詩篇81〜85篇
「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」(21節)
  エリパズの第3回目の論述である。彼は相変らず因果応報説をもって、ヨブを攻めている。その中で、語られたのが上記の言葉である。
これは神から離れ、神を第一としないで、また、神の前に傲慢なものに対してはその通りであると言える。
しかし、ヨブに対しては、全く当てはまらないのである。彼については、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ1:1)とあるからである。
“イエス・キリストによって、神と人とに対して真の和解を得させて下さい。アーメン”
 

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2004年8月22日(主日) 聖書の箇所:ヨブ23章1〜17節/ 年間通読:詩篇86〜89篇
「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう」。(10節)
  ヨブの嘆きと反論が述べられる。また同時に、上記のような彼の確信も語られる。どんなに熱心に、神を求めても会う事ができない。
だから神がおられないのではない。神は必ずおられるのである。神は私に目を留め、知っていて下さるのである。
ヨブは、試みの中で、より純化され、聖められたものとして、神の御前に立つものとなるという確信をもっていたのであった
“主よ、私たちも、キリストの血による全き聖めを得させて下さい。アーメン”
 

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2004年8月23日(月) 聖書の箇所:ヨブ記24章1〜25節/ 年間通読:詩篇91〜93篇
「なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。」(1節)
  神を知る者たちが、なぜ神の正しいさばきが行われるのを見ることができないのか、というのがヨブの訴えである。
確かに悪しき者がかえって長生きをしたり、この世の幸せを謳歌しているように見える。世の中に悪は確かに存在するが、簡単に因果応報思想によって悪は滅び、正は生きるなどとは割り切れない複雑なもので一杯だ。
たしかにさばきはある。しかし神は悪しき者たちへのさばきを留め忍耐し、彼らの悔い改めを待っておられる愛なるお方でもある。
“あなたの忍耐、尽きない愛、不思議な救いの御業を感謝します。アーメン”
 

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2004年8月24日(火) 聖書の箇所:ヨブ25章1〜6節/ 年間通読:詩篇96〜98篇
「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。」(2節)
 ビルダテの3回目の論述である。神の絶対主権を語るが、悪とのかかわりは述べられていない。3人の友人たちの論述はここで終わるが、なぜ悪がはびこり、正しいものが苦しむのか、ということに対し、なんらヨブを納得させるような、思慮深い応答を提示することはできなかった。
イエスにあってすべてのものを造られた(ヨハネ1:1〜2)お方が絶対主権をもってこの世を治め、いかなるなかにあっても主にある者らに対しては最善をなし給うことを信じよう。
“主よあなたの御手の中に私の存在、人生、未来があることを感謝します。アーメン”
 

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2004年8月25日(水) 聖書の箇所:ヨブ26章1〜14節/ 年間通読:詩篇101〜103篇
「見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所はいかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、だれが悟ることができるか」(14節)
 友人の論述に対して27章までヨブの応答が続く。人間の知恵や伝統的な思想により語るビルダテにヨブは人間の知恵のあさはかさ、無益さを語る。
私達の知恵によって神を悟り、この世の事象を捉えようとするなら、私達は神とその事象の実態と本質を知りえないどころか、完全に見失ってしまう場合がある。そこには深い謙りと神に徹底的に聞く、という姿勢が不可欠となる。
“主よ、あなたの御前に深く謙らせ、聞かせてください。アーメン”
 

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2004年8月26日(木) 聖書の箇所:ヨブ27章1〜23節/ 年間通読:詩篇105〜106篇
「彼は全能者を喜ぶであろうか、常に神を呼ぶであろうか。」(10節)
 ヨブの自身の潔白の弁護を行うと同時に、友人たちの因果応報思想に基づく偽善的な信仰を批判する。
人間的な応報説によって物事を理解する限り、いかなる時においても神を喜び、信頼を置いていくという真の信仰は生まれてこない。試練の中にあって、苦悩の中にあってもなお、神の前に静まり、謙り、信頼を置き、苦しみの祈りの中にも神の中に真の希望を主、キリストにあって見出せるものでありたい。
ヨブはこの真実な信仰の姿を教えてくれている。
“主よ、いかなる時にも主に信頼を置く者としてください。アーメン”
 

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2004年8月27日(金) 聖書の箇所:ヨブ28章1〜28節/ 年間通読:詩篇107〜110篇
「見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである。」(28節)
  真の知恵の真髄を語り、その知恵を慕うヨブの歌である。ヨブの友人たちは確かに先人たちの知恵に満ちていたかもしれない。しかしそれはあくまで人間的なもので真の知恵にはほど遠いものであった。
真の知恵とはなにも難しい概念や哲学ではない。ただ、主を敬い、恐れること、主をすべてのすべてとしていくことである。
私達のまわりにも多様な価値観、現代の知恵が溢れている。しかしいつも真の知恵は何であるかを問い、そこに立ち戻り、真の知恵に踏みとどまる者でなくてはならない。
“真の知恵に基づく人生を送らせてください。アーメン”
 

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2004年8月28日(土) 聖書の箇所:ヨブ29章1〜25節/ 年間通読:詩篇112〜114篇
「あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」(3節)
 ヨブの神の祝福と幸福に満ちていた平和な日々の回顧がなされている。神との関係がこの上なく親密で充実していた様子を伺える。
主イエスはわれらと共に生涯を歩んでくださるお方で、イエスのほうから離れるということはありえない。
私達は苦難に会う時、主が私達のもとから去ってしまったのではないか、と疑い恐れることがある。“何故神を信じているのにこんなことが・・”と・・。しかし、主は変わらず私達を、進むべき路を照らし、ともしびとなって導き、支え続けてくださっていることを忘れてはならない。
“光なる主の導きを感謝します。アーメン”
 

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2004年8月29日(主日) 聖書の箇所:ヨブ30章1〜31節/ 年間通読:詩篇116〜118篇
「わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、公会の中に立って助けを呼び求める。」(28節)
 ヨブの身に起こった悲劇を嘆き、神への叫びが記されている。意気消沈し、希望も力も、何もかも尽き果ててしまったという状況の中で、またさらに悲劇に悲劇が重なっていくその只中で、なおヨブは神に助けを叫び求める。
かっこよさはない。きれいではない。そこには巧みな言葉も神学もない。ただ救いの源に向かって助けを叫び求めるのだ。
しかしここにこそ信仰の真髄があり、真の勝利への第一歩がある。苦難のうちに私達は決してあきらめてはならない。助けを主に向かって叫び求めようではないか。
“主よ、私を哀れみ、助け、導きください。アーメン”
 

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2004年8月30日(月) 聖書の箇所:ヨブ記31章1〜40節/ 年間通読:詩篇90〜99篇
「わたしは、わたしの目と契約を結んだ、どうして、おとめを慕うことができようか。」(1節)
 ヨブの答弁の最後である。ヨブが、神様を恐れ、正しい歩みをしてきた真剣さがうかがわれる。いったい私たちはこれほどまでに神様の前に真剣に歩んできただろうか。私たちにとっても神様の前にも人の前にも正しく歩もうとすることは、当然かつ大切なことでありまた喜びである。しかし人のどんな偉大な歩みも神様の前に義とするものではない。それを忘れる時、私たちの正しい歩みが、自己主張をはじめ、喜びを失い、疲れてしまう。
いつも神の子とされた原点を見つつ(黙2:4)、正しい歩みに真剣に取り組もう。
“父よ。あなたの前に真剣な歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2004年8月31日(火) 聖書の箇所:ヨブ記32章1〜22節/ 年間通読:詩篇100〜115篇
「わたしもまたわたしの分を答え、わたしの意見を述べよう。」(17節)
 第四の友人、エリフの答え。これまで黙っていたエリフが怒りを起こして(2節)ヨブに答えるところである。37章まで続いている。
エリフは、三人の友人達よりもヨブの問題についての見方は深い。彼は、因果応報によってヨブを責め、ヨブを罪ありとした三人の友人とは違う苦難の教育的意義について、また神の絶対的な超越性について語るのである。
勇気をもって語ることは大切である。しかし、このエリフの場合も教義的であって、神と裸でぶつかるヨブとは異なっていた。
“主よ。私たちに神を証する真の言葉を与えて下さい。アーメン”
 

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