デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年9月のデボーション
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2004年9月1日(水) 聖書の箇所:ヨブ記33章1〜33節/ 年間通読:詩篇119篇
「彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、わたしはすでにあがないしろを得た。」(24節) 
 エリフは「神は人よりも大いなる方」(12節)で、ひとりの「仲保」(23節)によって、死と滅びを免れる道、救いの道が与えられることを示している。
この「仲保」はヨブが言う「あがなう者」(19:25)と通じているとは言い難いが、神の前の唯一の仲保者がイエス・キリストである(1テモテ2:5)。
私たちはこのキリストの仲介により、キリストの十字架の死によって、命の身代金を支払われ、救われた。だから私たちには「報復」がない。
逆に「わたしの命は光を見ることができる」(28節)。ハレルヤ!!
“父よ。主イエスによるあがないを感謝します。今日も命の光の中を歩めますように。アーメン”
 

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2004年9月2日(木) 聖書の箇所:ヨブ記34章1〜37節/ 年間通読:詩篇120〜131篇
「まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。」(12節)
  エリフの2回目の答え。この箇所には、神様の絶対的な正しさ、義、主権、そして人間のはかなさ、弱さが示されている。
エリフは、ヨブの神様への言葉に対し、力強く反論している。そしてこの言葉は、三人の友人の因果応報的な言葉になってきている。エリフは「ヨブが自分の罪に、とがを加え」と言って、ヨブを罪ある者として扱っている。ここにもヨブへの同情もヨブの問題を解決しようとする愛も欠けている。
“主よ。本当に愛をもって問題の本質を見極めさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月3日(金) 聖書の箇所:ヨブ記35章1〜16節/ 年間通読:詩篇132〜139章
 「今彼(神)が怒りをもって罰せず、罪とがを深く心にとめられないゆえにヨブは口を開いてむなしい事を述べ、無知の言葉をしげくする」。」(15、16節)
  この言葉はヨブには全く当てはまらない。しかし私たちはこのようなことをよく経験する。
主は、人が悔い改めて、神様に立ち返るのを忍耐をもって待っておられるのである(第2ペテロ3:9)。もし罪がすぐに裁かれれば、私たちもすでに滅びていたはずだ。
主の深い愛を受けた私たちであるから、私たちも苦難を耐え忍び、とりなしていこう。必ず主の豊かな慈愛とあわれみとが現される(ヤコブ5:10,11)。
“慈愛の神様。御心がもっとわかり、忍耐をもってとりなせますように。アーメン”
 

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2004年9月4日(土) 聖書の箇所:ヨブ記36章1〜33節/ 年間通読:詩篇140〜143章
「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。」(15節)
 エリフの最後の答弁。「苦しみによって救い」とは、とても不可解な言葉である。
私たちは、信仰を持つことによって、平安と祝福とが与えられることを願う。しかし聖書を見ると、主の前に正しく歩んでいる人が苦しみにあうことがある。しかしその苦しみを通して、それまで知り得なかった神様の深い愛や御旨を悟ることができるとは限らない。
この苦しみは神からのものであり、神の許しのもとにあることを信仰をもって受けとめるとき、また必ず主が共にいて下さることを信じるとき、神の深い愛やご自身を悟ることができるのである。
“主よ。苦しみの中にあなたが共にいて下さることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月5日(主日) 聖書の箇所:ヨブ記37章1〜24節/ 年間通読:詩篇144〜147章
「ヨブよ、これを聞け、立って神のくすしきみわざを考えよ。」(14節)
 エリフの答弁の最後の言葉。エリフは、主の創造の御業、また自然界の中にあるいは自然界を超えて現されている神の御業を語り、全能の創造主と被造物である人とが全く違った存在であることを示している。
この大自然は、神の命令を行い、私たちを懲らしめ、いつくしむためである(12,13節)。エリフの言葉は神の言葉を聞く備えをさせた面もあると言われている。
しかしエリフの言葉もヨブの「私はどうしてこんな苦難に会わなければならないのか」という問いの答えではないのである。
“神様。創造の御業、救いの御業を考え、主の目的に生きる者として下さい。アーメン”
 

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2004年9月6日(月) 聖書の箇所:ヨブ 38章1〜41節 / 年間通読:詩篇148〜150篇、箴言1章
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」。(2節) 
 38章1節から42章6節までに神の弁論とヨブの答えがそれぞれ2回ずつ出て来る。
ヨブの苦難は自己に固執する事に問題の中心があった。しかし神はかえって、自己から離れて、神の前に立つことによって、問題の解決を可能にするのである。
われわれの人生における不可解な事は神の世界支配ということに対する信仰以外ないのである。世界は人知を超えた神の知恵によって創造され、そこには神の義が貫かれ、われわれは十字架にあらわれた神の義によって保証されているのである。
“主よ、神の知恵と知識の深さを悟らせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月7日(火) 聖書の箇所:ヨブ39章1〜30節/ 年間通読:箴言2〜5章
「あなたは馬にその力を与えることができるか。力をもってその首を装うことができるか」。(19節)
  ここでは動物の世界に見られる不思議を述べ、神の思いが、ヨブの思いを超えるものである事を示そうとする。
家で飼われている動物でなく、自由が与えられ、神に養われている野生の動物に、注意を促し、人間本位のヨブの考えに反省の機会を与えようとしている。動物の愚かさも、神がそうさせたのである。 また、人に用いられる動物でもその力は、人からでなく、神からのものである。
”主よ,神が造られた動物に目をやり、神の支配を認めさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月8日(水) 聖書の箇所:ヨブ40章1〜44節/ 年間通読:箴言6〜9章
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」。(4節)
 ここでヨブは神のあまりにも、自分を超えた、知恵と支配の故に、自分の卑しさに気が付き、何も言えなくなってしまったのである。信仰を告白する事も、神を賛美する事すらできなくなってしまったのである。続いて、神の第2回目の弁論がなされる。
ここではヨブに「神のような腕を持っているのか」と問いかける。神の全能と威厳と尊厳とが言われている。
“主よ、神の前に無に等しい事を悟らせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月9日(木) 聖書の箇所:ヨブ41章1〜34節 / 年間通読:箴言10章〜13章
「あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか」(10節) 
 ヨブはかばやわにと戦って勝つ望みはないし、これを被造物として自分の支配のもとにおくことはできない。 
しかし神はそれができるのである。それと同じく、人間ではどうしようもなく大きな問題も、神によってそれに勝利し、神の支配のもとにおかれるのである。
このような深い愛から出る神の語りかけにより、ヨブは目覚めたのであった。
“主よ、神大いなる力と愛を知って、目覚めさせて下さい下さい。アーメン”
 

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2004年9月10日(金) 聖書の箇所ヨブ42章1〜17節:/ 年間通読:箴言14〜17章
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(5節)
  神について知っていたヨブは教義ではなく、生ける神ご自身を知ったのである。ヨブは自己から解放され、神の救いに入れられる事によって初めて、神への賛美がでてきたのであった。
それからヨブは友人たちの為に、とりなしの祈りし、それが受け入れられ、彼らの愚かさを罰せられないですんだのであった。そして、神はヨブの繁栄をもとに戻しただけでなく、終わりを初めよりも多く恵まれたのであった。
“主よ、本当に生ける神御自身を知る者として下さい。アーメン”
 

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2004年9月11日(土) 聖書の箇所:詩篇1篇1〜6節/ 年間通読:箴言18〜21章
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」。(3節)
 このような人とはまえの1節と2節で言われている所の者である。
誰でもがそのなすところがみな栄えるのではないのであるが、一つ一つ「皆」栄えるのである。全部が祝されるのである。しかし、直ぐとは限らないで、「時が来ると」そのようになるのである。
イエス・キリストに結びついた私たちもそのように皆栄える者されているのである。 
“主よ、キリストにしっかりと結びつく事によって、皆栄えさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月12日(主日) 聖書の箇所:詩篇2篇1〜12節/ 年間通読:箴言22〜25章
「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」。(6節)  
 これはイエス・キリストが復活した後、「わたしは、天において地においてもいっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)という言葉によって、実現したのである。
イエス・キリストは救い主であると同時に、主であり、王であられるのである。しかも、神に立てられた、忠実なる王の王、主の主なのである。聖書の王は支配者であり、僕であり、牧者なのである(エゼキエル34:23,24、37:24)。
“主よ、イエスさまが愛と公平とを持って、支配される、力と権威ある王である事を感謝します。アーメン”
 

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2004年9月13日(月) 聖書の箇所:詩篇 3篇1〜8節 / 年間通読:箴言26〜29章
「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。」(3節)
 人生にはさまざまな試練や困難が起こるものだ。私達には解決不能な、出口の見えない現実に囲まれる時がある。
しかしクリスチャンである私達は厳しい現実に閉口しておしまい、ということには決してならない。希望が消えかけた中に確かな希望がある。私達を囲み、盾となり、またその大きな愛といつくしみによって、落ち込む私達を引き上げて下さる主がともにいてくださるからだ。
信仰の目を上げ、信仰のレンズを通し、いかなる状況においてもこの主を認め、信頼を置き、前進しようではないか。
“主の絶え間ない守り、支えを心から感謝します。このあなたに絶対的な信頼を置けますように。アーメン”
 

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2004年9月14日(火) 聖書の箇所:詩篇 4篇1〜8節 / 年間通読:箴言30,31章,伝道1章
「しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。主はわたしが呼ばわる時におききくださる。」(17節)
 神を愛する者を主は聖別してくださる。聖別はこの世の悪から分離させるということもそうだが、何よりも神との深い、人格的な愛の交わりの中に置かれていくことではないか。その関係は親子のきずなよりも深くて、強い。神の無条件の愛がその根底にあるからだ。
この交わりの中に置かれる時、信仰者は祈りを聞かれ、答えてくださる父なる神を体験し、その確信の中に生きてゆく。キリスト・イエスを通し、主は私達を聖別し、豊かなこの神の愛の交わりの中に入れて下さった。ハレルヤ! 
“あなたとの交わりの中で尚、私を聖別してください。アーメン”
 

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2004年9月15日(水) 聖書の箇所:詩篇 5篇1〜12節/ 年間通読:伝道2〜5章
「しかし、わたしはあなたの豊かないつくしみによって、あなたの家に入り、聖なる宮にむかって、かしこみ伏し拝みます。」(7節)
 ダビデは危機的状況に面する時、例外なく、神の前に出て静まる。これが彼の信仰の、恵みの鉄則であった。
困難に遭遇する時、私達はどうそれらの問題に対応するであろうか。神を知るもの、神のその豊かないつくしみを知る者の危機に対する対処方は、そうでない者のそれとは違うものでなければならない。
なにはともあれ、キリストの体なる聖なる教会を通して、それぞれの密室において神の前にひれ伏し、拝み、助けと導きを祈り、その状況の全てを主に委ねていくのだ。
“主よ、あなたの前にへりくだりを持って、あなたの助けと御心を待ち望ませてください。アーメン”
 

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2004年9月16日(木) 聖書の箇所:詩篇 6篇1〜10節/ 年間通読:伝道6〜9章
「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。」(2節)
 ダビデがそうであったように、危機的状況、想像を越える困難に遭遇する時、私たちの存在そのものが衰え、苦しみのあまり心が病に冒されたような痛みを覚え、気力を失う時がある。心と身体が恐れで悲鳴を上げるような時がある。しかし同じくダビデがそうであったように、神にいのり、ひれ伏し、助けを求める時、神の総合的ないやしの恵みが、私たちの痛める存在そのものを覆って私たちを引き上げてくださる。私たちには魂の癒し主、その復活の力で私たちを引き上げてくださるイエス・キリストがいてくださる。感謝!
“主よ、恵みにより、私を再生し、新しい気力に満たし、引き上げてください。アーメン”
 

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2004年9月17日(金) 聖書の箇所:詩篇 7篇1〜17節
年間通読:伝道10〜12章、第1テモテ1章
「主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。」(8節)
  ここでいうさばくという動詞には神を愛する者を攻撃する敵に対しては徹底的なさばきが与えられ、神を愛する者に対しては敵の批判、攻撃からの徹底した守りと弁護が与えられるという2重の意味がある。
私たちは主イエスにより神の目に義とされ、きよいとされている存在である。その神の義は私たちの力では決して獲得し得ない。また神の前に義とされるその条件を満たしえない。ただ主イエスの贖いの十字架により、その信じる信仰により神の前に正しい者とされている。
そして神はこのキリストにある私たちを徹底して守り、弁護してくださる。ハレルヤ!! 
”キリストの故の徹底したあなたの守りと弁護を感謝します。アーメン”
 

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2004年9月18日(土) 聖書の箇所:詩篇 8篇1〜9節/ 年間通読:第1テモテ2〜5章
「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」(1節) 
花、星、月、自然が美しいのはデザイナーである神が美しいからだ。太陽の力強い輝き、地震、雷、強い風は神の力強さを想起させる。
自然を通じて語る神は私たちの罪のために死んでくださったイエス・キリストのあの十字架を通して私たちに対する神の愛の凄まじさを語る。被造物すべてのものを通し、何より人となった神の子イエスに神の意図と支配、そして究極の、計り知れない愛を感じずにはおれない。
私たちの主は愛によってすべてのものを治める。この全能の、力強い、愛なる主が私たちの永遠の導き手である。感謝しよう。
“私たちと共なる全能の主の恵みを心から感謝いたします。アーメン”
 

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2004年9月19日(主日) 聖書の箇所:詩篇 9篇1〜20節
年間通読:第1テモテ6章、雅歌4〜7章
「わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。」(1節)
 過去の勝利を思い起こし、改めて感謝していくことで、今置かれている危機的状況においても救済が与えられるように(13節)とのダビデの祈りである。
困難に陥る時、私たちの感謝は消えていきやすい。しかし、ダビデは口先ではなく“心を尽くして”思いを尽くして過去の勝利、祝福を一つ一つ思い起こし、感謝をささげている。
私たちはどうだろうか?危機に陥る時ほど、過去の祝福を感謝し、同じように現在、未来と救い、守り、祝してくださる主の平安と確信を持つべきではないか。
“主よ、過去、現在、未来において私を永久に守り、祝してくださる主を感謝します。アーメン”
 

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2004年9月20日(月) 聖書の箇所:詩篇10篇1〜18節/ 年間通読:雅歌1〜3章
「主はとこしえに王でいらせられる。」(13節) 
  私たち人間は、困難な問題にぶつかるとき、ともすると敵のはげしい攻撃に心が集中したり、苦しみに心をとらわれやすい。また主なる神を否定されて、何の返答ができないようなこともある。だがその時こそ、困難な問題や敵の攻撃、苦しみから目を転じて主を見上げるときだ。
主はこの世界の創造者であり、今も統治者であられる。あらゆる問題、敵、苦しみの上に支配者としておられるお方である。
そして神は、主イエスの十字架と復活により、罪と死を打ち破り、私たちを神の王国に招き入れて下さったのだ。
“父よ。王の王、主に目を向けさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月21日(火) 聖書の箇所:詩篇11篇1〜7節
年間通読:雅歌8章、第2テモテ1〜3章
「主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、その目は人の子らをみそなわし、そのまぶたは人の子らを調べられる。」(4節)
 私たちはこの世において、正しいことをしようとするのに、それを妨げられたり、妨害されたりする。それどころか悪しき者におどされたりもする。主は何をしておられるのだろうかと思うときもある。
しかし主は天にいまして、そのすべてをご覧になるお方である。人の心のうちを良いことも悪いことも調べ、やがて正しい裁きをされるお方である。
このお方の前に、心を調べられて大丈夫か。神の義を得させるものは、ただ主の十字架のみである。 
“全能なる主よ。私を神の義に生かし、正しい裁きをなして下さい。アーメン”
 

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2004年9月22日(水) 聖書の箇所:詩篇12篇1〜8節
年間通読:第2テモテ4章、イザヤ1,2章
「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。」(6節)
 ここでは特に言葉によって、隣人に偽り、あざむくことが記されている。人の偽りに敏感な私たちであるが、振り返って自分の言葉を思うとなんと不真実であろうか(ヤコブ3章)。悔い改めよう。
しかし主の言葉は、どこまでも真実で偽りがない。事実、旧約に約束されたメシアを送り救いの道が開かれた。そしてこの神様はやがて主が再び来られ(使徒1:11)、地を裁くことを語っておられる。この真実な言葉をいたずらに恐れるのでなく、厳粛に受けとめ、正しい言葉を語り、主の再臨を待ち望もう。
“父よ。主の清き言葉をしっかりと受けとめられますように。アーメン”
 

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2004年9月23日(木) 聖書の箇所:詩篇13篇1〜6節/ 年間通読:イザヤ3〜5章
「主よ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。」(1節)
  この著者は、敵によって苦しみ、死に飲み込まれそうなことも告白している。
私たちは、苦しみのさなかにいるときは、その出口も見えず、苦しみがどこまでも続くように思われる。また神様がおられることすらも、わからなくなってしまう時もある。
この著者は、そのような中において、主に信頼し、救いの喜びを確信している。私たちの主は、私たちの苦しみをわからないお方ではない。また忘れたり、永遠に放っておかれるお方でもない。
「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。」(5節)
“主よ。あなたの助けを信じます。アーメン”
 

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2004年9月24日(金) 聖書の箇所:詩篇14篇1〜7節/ 年間通読:イザヤ6〜9章
 「神は正しい者のやからと共におられるからである。」(5節)
  ここには「善を行う者」の対比として「愚かな者」「悪を行う者」が出てくる。愚かな者とは「神はない」という者である。
これは主の救いを受けない人を指している(ローマ3章)。しかしもし私たちが主を信じていると言いながら、その生活のどこかで、主のおられることを認めないで、主の御心に適わない自分の道、自分の知恵や方法に頼っているとするならば、神を侮る「愚かな者」なのである。
生活のどの部分にも主を認め、主にへりくだって歩むところに主も共にいて下さるのである。
“神様。生活のどこであっても主を認め、御心に従って歩めますように。アーメン”
 

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2004年9月25日(土) 聖書の箇所:詩篇15篇1〜5節/ 年間通読:イザヤ10〜13章
「その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、」(4節)
 冒頭の「幕屋にやどるべき者」「聖なる山に住むべき者」とは、特別な奉仕者を意味するというよりも、主を礼拝しようとして来るすべての人について言われている。その答えをまとめて言えば、神様と同じ判断基準を持ち、隣人を愛する者である。
私たちにとって隣人を愛し、和を尊ぶことは大切なことであるが、神様の基準を超えての和は、信仰の逸脱につながる。御子の命をもってしかあがなわれなかったこの命である。
いつも主にあって聖別された者であることを肝に銘じ、主の救いを証する者でありたい。
“主よ。あなたの思いを知る誠実な者として下さい。アーメン”
 

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2004年9月26日(主日) 聖書の箇所:詩篇16篇1〜11節/ 年間通読:イザヤ22〜25章
「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(10節) 
 神様への信頼と大きな喜びに満ちあふれた詩である。上記のお言葉からも単に平和と繁栄が与えられたという喜びよりも、多くの苦しみを乗り越えさせていただいたという感慨がある。
その秘訣は何か、主なる神様のみに頼ること、他に頼らないこと、そして「主を常にわたしの前に置く」ことである。
主に頼るといいつつ、自分の知恵に頼ったり、状況によって態度を変えることではない。徹底して自己に死に、私の内に主が生きて(ガラテヤ2:19,20)初めてわかる喜びである。使徒2:31。
“神様。私もよみがえりの主の喜びに生きる者として下さい。アーメン”
 

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2004年9月27日(月) 聖書の箇所:詩篇17篇1〜15節/ 年間通読:イザヤ18〜21章
「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に耳を傾けてください」(1節) 
 ダビデの祈りとあるが、祈りのあるべきことを教える御言葉である。
誰に向かって祈るかであるが、それは主である。正しい訴えが聞かれるのである。
祈る者が真実であることが大切である。神の御心に向って、正に、人がそこにいるがごとく、真剣な、熱心な、祈りこそ聞かれるのである。
“主よ、聞かれる、正しい祈りをさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月28日(火) 聖書の箇所詩篇18篇1〜50節:/ 年間通読:イザヤ22〜25章
「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。」(30節)
 神さまの道は完全である。なぜなら、神は完全なるお方であるからである。だからその道を歩む者には欠けたところはないのである。
また、神は真実であられるから、当然そのお言葉も真実であり、頼ることができるのである。
そして、主により頼むものを盾のように、しっかりとお守り下さるのである。
“主よ、あなたに全き信頼を置かせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月29日(水) 聖書の箇所:詩篇19篇1〜14節/ 年間通読:イザヤ26〜28章
「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(14節)
 主は岩のように不動のお方であり、信頼できるお方であり、自分を代価を払って買い取って下さるお方なのである。
この主に、自分の言葉と心が喜ばれるように祈っているのである。なんという崇高な、又純粋な祈りかと思わせられる。自分が信じている神にふさわしく変えられていくようにとの祈りである。
“父よ、私たちにこのような祈りをさせて下さい。アーメン”
 

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2004年9月30日(木) 聖書の箇所:詩篇20篇1〜9節/ 年間通読:イザヤ29〜30章
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(7節)
 なんと信仰深い、ことばであろうか、人間的に見て、戦いにおいては、戦車や馬を誇りがちであるが、主御自身を誇るというのである。
私たちが頼るべきお方は主以外誰もいないのである。われらの勝利は主の勝利である。否、戦いそのものがわれらの戦いでなく、主の戦いなのである。
“主よ、全てにおいて、あなたを誇るものとして下さい。アーメン”
 

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