デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2004年11月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
 1  2  3  4  5  6  7
 8  9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
【今月のディボーションへ】 【ホームページへ】


  
 
 
2004年11月1日(月) 聖書の箇所:詩篇52篇1〜9節/ 年間通読:エレミヤ49〜50章
「しかし、わたしは神の家にある緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。」(8節)
 表題からするとダビデがドエグによって多くの災いと悲しみを受けたときの歌である。私たちが主の道を歩むことは、この世から憎まれる道でもある(ヨハネ17:14)。
 悪いからではなく正しいから憎まれるのである。
 つらく苦しいところもある。
 多くの害を受けることもある。
 行き詰まることもある。
ダビデは不思議なことに、その困難の中で神様の御手にある恵みといつくしみを歌っている。
信仰をもって立ち上がる者を主は守って下さる。どんなに行き詰まっても絶望しない。
“父よ。災いの中でも信頼させて下さい。平安を感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月2日(火) 聖書の箇所:詩篇53篇1〜6節/ 年間通読:エレミヤ51章
「善を行う者はない、ひとりもない。」(3節)
 ここで記されている「善を行う者」とは、神様を求め、呼ぶ人のことを表わしている。人にとって善いこと、正しいこととは、神様を求め、聴くことである。
神様が人を見られるときに、だれも神様を呼び求める人はいなかったと語られている。この中には著者も「私」も含まれている。
だが私たちはいつの間にか、自分には少しは良い面があると考えている。しかし主の前にはだれも善なる人はいないのである。だが6節に示されるように、神様はキリストによって神様に立ち返る道を開いて下さった。ハレルヤ!
“父よ。この愚かな者に開かれた救いを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月3日(水) 聖書の箇所:詩篇54篇1〜7節/ 年間通読:エレミヤ52章、ピレモン
「あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。」(7節)
 2節には「神よ、わたしの祈りをきき、わが口の言葉に耳を傾けて下さい。」とある。苦難の中での祈りの言葉である。
私たちも苦しみの中で、悩みの中で祈るのであるが、この祈りの最後の言葉はなんとすばらしいことか。主が祈りを聞いて下さった、主が祈りに答えて下さったという確信になんと満ちあふれていることか。
主イエスも「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。」(マルコ11:24)と言われている。祈りながら、あきらめていることはないだろうか。信じて祈ろう。特に家族を覚えて。
“神様。答えられる主を信じて祈ります。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月4日(木) 聖書の箇所:詩篇55篇1〜23節/ 年間通読:哀歌1,2章
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(22節)
  聖書を読むと、不思議なことに私たちの間に起こってくるあらゆる問題が記されていることを発見する。この著者もまさかと思われる身近な者の裏切りに心を震わせている。
だが聖書に記されているということは、主は私たちのあらゆる問題をご存知でいて下さるということである(17節)。
私たちは決して一人で苦しむのではない。むしろ、主に重荷を委ねることができる。全ての人の罪を負い、十字架の苦しみを忍びとおされた主は、私たちの荷をも負って下さっている。
“主よ。全てご存知の主に重荷も委ねます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月5日(金) 聖書の箇所:詩篇56篇1〜13節/ 年間通読:哀歌3〜5章
「肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。」(4節)
  表題を見るとダビデがペリシテ人に捕らわれて、絶対絶命のピンチを通らされた時の歌であることがわかる(サムエル上21)。
まさしく死と紙一重のところである。この危機の中にあるのは、人がどんなに自分を害そうとしても何もできない、というはっきりした信仰である。
天地を造り、人を造られたすべての支配者の許しなくしては、人にはなんの力もないのである。人を恐れやすい私たちであるが復活の主を見上げ、聖霊からの確証により、全てを支配したもう神様に堅く信頼しよう。
“神様。全能であるあなたに信頼します。人を恐れる必要のないことを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月6日(土) 聖書の箇所:詩篇57篇1〜11節/ 年間通読:ヘブル1〜4章
「わたしの魂はうなだれました。」(6節)
 この詩篇を含めほとんどの詩篇の中に神様への信頼を表わす言葉がある。
私たちは、自分の姿よりも神様に目を留め、賛美する大切さを知っている。しかしそれは現実逃避することではない。自分の置かれた状況、苦難をしっかりと見つめ、自分の思いをはっきり認識するときでもある。
今日、自分の真の姿を誰にも見せることができずに悩んでいる多くの人がいる。
主は苦難も危機も意気消沈もそのままに受け入れて下さる。そこに賛美と平安が生まれる。「わたしは歌い、かつほめたたえます。」(7節)
“主よ。打ち明ける全てを受け入れて下さり感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月7日(主日) 聖書の箇所:詩篇58篇1〜11節/ 年間通読:ヘブル5〜8章
「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある。」(11節)
 悪しき者に対するさばきと正しい者に対する顧みをうたう詩篇である。ここに記されている悪しき者へのさばきの願いは大変厳しい言葉である。
新約の恵みに与る私たちは、「迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)と主から命じられている。さばきを主に委ね祈る者である。
だが主の十字架をないがしろにする者へのさばきは、ここに記されている以上に厳しいものである。本来、神様から離れていた私たちもこのさばきを受けるはずであった。しかし今は義とされて、主と同じ復活の命を待ち望んでいる。
“神様。再臨と主の顧みを待ち望む者に変えられて感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月8日(月) 聖書の箇所:詩篇 59篇1〜17節/ 年間通読:ヘブル9〜11章
「わが神はそのいつくしみをもってわたしを迎えられる。わが神はわたしに敵の敗北を見させられる」。10(節)
  「わが神」とはわたしの信じている神ということであるが、契約に基づいて、わたしを愛し、わたしを恵み、わたしを導き、いつも私と共にいて下さる神と言うことである。であるから、神をわたくしたちが信じ従っているなら、いつくしみ(ヘブル語でへセドと言って、契約に基づいた、変わらない、真実な愛を意味する)をもって迎えて下さるのである。
そして、敵に対する勝利を見させて下さるのである。
“主よ、あなたがわたしの神であり、いつくしみをもって迎えて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月9日(火) 聖書の箇所:詩篇60篇1〜12節
年間通読:ヘブル12、13章、エゼキエル1章
「われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからで
す」。(12節)
  「神によって」とあるが、これは神の主権と導きのもとに、神の力によってという事である。
わたくしたちには、信仰と、従順と、献身と、明け渡しとへりくだりに基づいた、勇敢な働き、即ち、戦いが求められるのである。そのような時に、神の力と働きが、現わされるのである。
これは人間が、一生懸命に頑張って、その後で、神さまの助けを待つという事とは全く逆の事である。何故なら、敵に対して、わたくしたちの力では全く勝ち目がないからである。それ故、神が働く以外に勝利はないのである。
“主よ、まずあなたに全き明け渡しをなさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月10日(水) 聖書の箇所:詩篇61篇1〜8節/ 年間通読:エゼキエル2〜5章
「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いてわたしの及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください」。(2節)
 「わが心のくずおれるとき」とは、心に元気がなく、衰えてしまっているときという事である。又、「地の果てから」とは必ずしも、地理的でなく、神が遠く離れてしまっているような状況とも取れる。
心が弱り果て、神から遠く離れてしまったと思えるときに、神に目を向け、真剣に大きな目標の実現の為に求めているのである。これは、この著者に神が働きかけたが故にそうなったとしか言えない。
“主よ、私が弱り果てている時こそ、あなたを求めさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月11日(木) 聖書の箇所:詩篇62篇1〜12節/ 年間通読:エゼキエル6〜9章
「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(8節)
  「いかなる時」とは、絶望の時であり、悩みの時であり、また、すばらしい時でもあるが、特にここでは、絶体絶命のピンチの時である。
そのような時、まず、神への信頼が言われ、次に「心を注ぎだす」ことが命じられている。神を信頼して、真剣に熱心に神に祈る事が大切なのである。
“主よ、あなたを信頼して、熱心に祈らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月12日(金) 聖書の箇所:詩篇63篇1〜11節/ 年間通読:エゼキエル10〜13章
「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもってもてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもってあなたをほめたたえる」。(5、6節)
  夜寝る時に、静かに、時間をかけて、心を集中して、神を深く思う時は最高の楽しい、また、満ち足りた時である。心は喜びに溢れ、神をほめたたえる賛美が沸き出て来るのである。
何と素晴らしい神との交わりであろうか。
“主よ、この様に素晴らしい、あなたとの交わりに入れさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月13日(土) 聖書の箇所:詩篇64篇1〜10節/ 年間通読:エゼキエル14〜16章
「正しい人は主にあって喜び、かつ主に寄り頼む。すべて心の直き者は誇ることができる」。(10節)
 不義を行う敵は、苦い言葉を矢のように放ち、巧みにわなにかけようとする。しかし、神は隠れたこの様な人の心を射られるのである。それ故に、正しい人は主にあって喜ぶ事ができるのである。それは、主に寄り頼んで、真剣に嘆き訴えたからである。
この世の中においては、悪い敵がいることを心に留めるべきである。同時に、主によって、それに必ず勝利を得させて下さることをも覚えるべきである。
“主よ、あなたにあって正しい者とされ、勝利と喜びをお与え下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月14日(主日) 聖書の箇所:詩篇65篇1〜13節
年間通読:エゼキエル17〜19章
「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして彼らに穀物を与えられる」。(9節)
 ここでは地上における神の恵みが言われている。
水がそそがれ、豊にされ、神の川が満たされるのである。この様にして豊な穀物の収穫がなされるのである。
わたしたちは、神によって、豊かな恵みと祝福が与えられる事を是非とも覚えたいものである。
“主よ、あなたこそ豊かな祝福の基である事を覚えさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月15日(月) 聖書の箇所:詩篇66篇1〜20節/ 年間通読:エゼキエル20〜21章
「神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。」(10節)
  主は愛するものを練り、訓練をする。出エジプトを通し、信仰を通して敵を撃破し、嗣業を獲得していくことで、信仰の何たるかを教え、神の愛の如何なるかを神の民たちの心に刻みこませた。
主は日々私達を練られる。考え、思い、悩み、実際のさまざまな問題を通して主は私達の心を練られる。
信仰の目を通して、私達の主、キリスト・イエスを通して現実を捉え、苦難を受けとめ、考え、悩み、解決の糸口を模索していくことを教えて下さるのだ。その時こそ、実際に神の愛、希望、喜び、平安が私達の心のうちに根付き、備わっていく。
“今日も私達の心を練り、きよめ、引き上げて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月16日(火) 聖書の箇所:詩篇67篇1〜7節/ 年間通読:エゼキエル22〜24章
「どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、そのみ顔をわれらの上に照されるように。これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに知られるためです。」(1〜2節)
 キリスト教はご利益宗教ではない。しかし、神様の恵みは霊的な祝福にとどまらず、実際の
生活の上にも豊かである。それは自己満足のための利己的なものではない。いみじくもこの詩篇の著者が高らかに語るごとく、主の栄光が世に現されるために他ならない。
私達は私達の人生のあらゆる面において祝福されなければならない。それは一人でも多くの人々にキリストが知られていくためである。それ以上でもそれ以下でもない。
“主よ、我等を祝福してください。キリストが知らされていくために。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月17日(水) 聖書の箇所:詩篇68篇1〜35節/ 年間通読:エゼキエル25〜27章
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救である。」(19節)
  神の救いは一回きりではない。また限定的でもない。限りなく、豊かに与えられるものだ。それは絶え間なく日ごとに新しく、その支えは永遠のものだ。
私達の神は罪に厳しく、妥協はない。しかし、それと同時に愛するものの荷を、いや私達自身を日々、背負い支え、救われる父のような神なのだ。
あなたは今日、何らかの荷を背負っているだろうか。その荷の重さの故に苦しんでいるだろうか。前進できずに困り果てているだろうか。今日、主キリストはあなたの荷を背負って下さる。そして明日は明日のあなたにとっての重荷を負ってくださる。
“私のこの心の荷をお取りくださり、心をあなたの平安で満たして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月18日(木) 聖書の箇所:詩篇69篇1〜36節/ 年間通読:エゼキエル28〜30章
「主よ、あなたのいつくしみの深きにより、わたしにお答えください。あなたのあわれみの豊かなるにより、わたしを顧みてください。」(16節)
  いつくしみ深い神の愛、神のあわれみの豊かさにより、神の民は支えられ、恵みを享受してきた。裁きの中にも回復の約束があった。真の悔い改めには必ず豊かな赦しが伴った。
その神のいつくしみ、あわれみの極点がキリスト・イエスの十字架の死だ。キリストの生き様を見れば神のいつくしみとあわれみの豊かさがどれほどかが分かる。神が私達のためにいのちを投げ出してくださったのだから・・。
キリストにより、その神のいつくしみは私達の罪、種々の問題を飲みつくし、その恵みの有り余ることの故に、我等を豊かにする。
“あなたのいつくしみの故に感謝!アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月19日(金) 聖書の箇所:詩篇70篇1〜5節/ 年間通読:エゼキエル31〜33章
「しかし、わたしは貧しく、かつ乏しい。神よ、急いでわたしに来てください。あなたはわが助け、わが救主です。主よ、ためらわないでください。」(5節)
  人は自分に何かができると思っているうちはなかなか神に向くことはできない。貧しい、救いようのない人間、自己の様相の深い洞察と顧みがあってはじめて、神の恵み、救いへの渇望が生まれてくる。そしてイエスの山上の垂訓のごとく、この神への渇望こそ祝福への原点ではないか。
日常の生活の中で、弱さを、足りなさを覚えることなどいくらでもある。しかし、この認識から始まる神の救いの渇望こそ、豊かな祝福への出発点であることを覚えつつ、私達の“貧しさ”を神の前に打ち明けよう。
“主よ、貧しい私をあわれみ、恵みを注いで下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月20日(土) 聖書の箇所:詩篇71篇1〜24節/ 年間通読:エゼキエル34〜36章
「しかしわたしは絶えず望みをいだいて、いよいよあなたをほめたたえるでしょう。」(14節)
 どうにもならない状況などいくらでもある。この詩篇の著者のごとく、苦難の袋小路に入り込んでしまうことがある。
日常の生活の中で、目に見える世界だけに目を留めるならば、失望することが多い。しかし心を神に向けるならば、うるわしい私達の主、キリストに目を向ける時、そこに無限に広がる可能性と希望を発見する。道なき所に道を切り開き、荒野に泉を沸かせ、無から有を生ぜしめるのは神である。
“神に不可能なことはない”、これが歴史の中で証明され、キリストの救いにおいて示されてきた真理だ。あなたの“不可能”にもこの恵みの真理が適用される。
“あなたに望みを置けますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月21日(主日) 聖書の箇所:詩篇72篇1〜20節
年間通読:エゼキエル37〜39章
「彼は弱い者と乏しい者とをあわれみ、乏しい者のいのちを救い、彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い。」(13,14節)
  王の詩篇であるが、将来、来り給う究極の主、キリストを予言させるかのような詩篇である。王はその民を守る。しかし、弱いもの、乏しいものに関心を向け、命がけで守ろうとする王はそういない。弱者に価値を見出せないからだ。
しかし我等の王、イエスこそはそのような者の血(=いのち)こそかけがえのないものとして、愛し守りを与えて下さる。この究極の王は私達へのその深い愛の故に、罪のしえたげ、暴力に苦しんでいた我等を、王の命と引き換えに贖い、究極の解放を与えてくださった。
“愛に富む王、イエス様、あなたの救いを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月22日(月) 聖書の箇所:詩篇73篇1〜28節/ 年間通読:エゼキエル40〜42章
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。」(25節)
 私たちの周りで悪い人、ずる賢い人がとくをして豊かであることがある。また神を恐れ正しく歩むことが損に思えることがある。そのことを思いめぐらした詩人の結論がここにある。
悪によってどんなに栄えていても、神様の前に立たされるとき、一瞬にして滅ぼされてしまう。どんな富も栄華も意味をなくしてしまう。主が、今すぐ滅ぼされないのは、悔い改めるのを待っておられるからである。
私たちも愚かな者である(22節)が、主と共に歩くとき、主が私たちを倒れないように支えて下さる。それは富にまさるものである。
“父よ。あなたが支えとなって下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月23日(火) 聖書の箇所:詩篇74篇1〜23節/ 年間通読:エゼキエル43〜45章
「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光と太陽とを設けられた。」(16節)
 この箇所は多くの嘆きの言葉の中で主に目をとめて与えられた光である。
現代でもいろいろな面で、神様の存在も働きも否定するような考え方が幅を利かせている。ではそれで人間は強く幸福になったのだろうか。むしろ逆である。神様から愛されている自覚、生きる目的を失い、かえって利己的な者、不安な者になってしまった。
私たちが御子をも惜しまない神の愛、神の栄光を表わす生き方を知っていることはなんと大きな恵みであろうか。この宇宙も光も造られた主が叫びを聞いて下さる。 
“父よ。創造主なるあなたが嘆きを聞いて下さり感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月24日(水) 聖書の箇所:詩篇75篇1〜10節/ 年間通読:エゼキエル46〜48章
「われらはあなたのみ名を呼び、あなたのくすしきみわざを語ります。」(1節)
 神様への感謝の詩となっているが、多くの虐げを通されて出てきた賛美である。
私たちの悲しみの一つは公平に扱われていない、認められていないということである。本当に私たちを公平に取り扱うことができるのは、全てのことをご存知で私のことも相手のこともご存知の神様だけである。その神様が裁かれるのであるから、私たちは苦しみの中も忍耐することができる。
たださばきのための「定まった時」(2節)を待たなければならない。神は主イエスと共に下げられた者を主イエスと共に引き上げて下さる。 
“神様。公平な裁きに感謝し、人々にみわざを語ります。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月25日(木) 聖書の箇所:詩篇76篇1〜12節/ 年間通読:ヤコブ1〜4章
「神が地のしえたげられた者を救うために、さばきに立たれたとき、地は恐れて、沈黙した。」(8、9節)
  敵に対する勝利の歌である。聖書の中に窮地に立たされた主の民が、神様の大いなるみ業で救い出されたことが何度も出てくる。そのとき敵の武力は何の役にも立たなかった。民は大いに喜んだ。
だが冷静になってみると、私たちがこの主の前に立つということはどういうことであろうか。やがて主が再び来られ、裁かれるとき、そのみ前に誰も立つことができない。けれども主のさばきは、信じる者には、救いの時である。主の光栄と威厳とを覚えつつ、厳かに主を待ち望もう。
“主よ。主の来臨とさばきを喜びと恐れをもって待ち望みます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月26日(金) 聖書の箇所:詩篇77篇1〜20節
年間通読:ヤコブ5章、ダニエル1、2章
「わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。」(12節)
  嘆きのうたである。詩人はいつまで続くかわからない苦しみのなかで、慰められることも拒み、夜、神様のこと、自分のことを深く思っている。現状での苦しみも大きなものであるが、クリスチャンにとって、主がどこにおられるかわからないことほど苦しいことはない。主のほかに頼る者がないのだから。
しかし私たちはそれでも、主にむかって叫ぶのである。この詩人は「深く思う」(3、6、12節)中で、神様への嘆きからかつての神様の力あるみ業へと目を転じられていく。やはり私の救いは神にある!! 
“神様。苦しみの中であなたを深く思うことができますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月27日(土) 聖書の箇所:詩篇78篇1〜72節/ 年間通読:ダニエル3〜4章
 「主はあかしをヤコブのうちにたて、、、その子孫に教うべきことをわれらの先祖たちに命じられた。」(5節)
  主は私たちが子どもたちにも主の救いを証するように命じられている。それは子どもたちも主を恐れ、主の救いに預かり、主の教えを守るためである。
私たちが主の十字架を見上げ、悔い改めて救われた背後にも、多くの人々の祈りと証とがあった。そして私たちも子どもたちのために多くの祈りと証とをもって、救いへと導くことができる。
この箇所を見ると、主を試みることを止め、主に従順になることがポイントである。また子供の救いは、親だけでなく、教会全体の祈りである。
“神様。この尊い救いを子どもたちにも継承させて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月28日(主日) 聖書の箇所:詩篇79篇1〜11節/ 年間通読:ダニエル5〜6章
「あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください。」(11節)
  神の民であるはずのイスラエルが異邦人に踏みにじられ、神様がどこにいるかわからない状況である。
異教の地で信仰をもつ私たちにも「なぜ」と神様に訴えるようなことが起こってくる。あるいは様々な罪が自分を責めてくるかもしれない。そのような私たちは、ただただ主の前に罪の赦しを祈るばかりである。そして自分の潔白や名誉でなく、主の栄光に助けを求めるばかりである。そして主の十字架には、罪を赦す力があり、死人をよみがえらせる力がある。
私たちはこの主に救われ、栄光をほめ讃える。
“神様。あなたは赦し生かすお方です。助けて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月29日(月) 聖書の箇所:詩篇80篇1〜19節/ 年間通読:ダニエル7章、8章
「イスラエルの牧者よ、羊の群のようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けて下さい」。 (1節)
  ここでは主を牧者、羊飼いになぞらえている。羊飼いはまず羊の事を良く知っているのである。
わたしたちの弱さ、足りなさなどを私達が知る以上に、主はご存知なのである。また、私たちの行くべき道をも備えていてくださるのである。更に、私たちを養い、憩わせ、正しい道に導かれるお方でもあるのである。そして、私たちの祈りに耳を傾け給うお方でもあるのである。
“主よ、あなたが私の牧者となって下さることを心から感謝申し上げます。
 従順に従わせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2004年11月30日(火) 聖書の箇所詩篇81篇1〜16節:/ 年間通読:ダニエル9章、10章
「わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む」。(8節)
  「あなたが悩んだとき、呼ばわったのでわたしはあなたを救った」(7)とあるように、イスラエルの民が奴隷の身から救われて、自由にされたにもかかわらず、彼らは、欲に負け、他の神に走っていったのである。そこで神は、ここで改めて、神に聞き従う事を勧めるている。
ここでは「勧告する」、また「望む」と言われている。これも注意すべき事である。その人の主体的な、自由な決断を期待しているのである。
“主よ、あなたの期待に答えて、すすんで従う者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>


ホームページへ戻る