デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年1月のデボーション
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2005年1月1日(土) 聖書の箇所:詩篇113篇1〜9節/ 年間通読:創世記1〜3章
「今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。」(2、3節)
  日常の生活の中にどっぷりと浸かっていると心の目線が限りなく下がってくる。そうなると神様の栄光、威厳、力、美しさを見失ってしまうことになる。
私達のうちに神はとてもちっぽけな存在となってしまう。折々に目を、心の目線を上げて月、星、太陽を造り、自然を、私たちを造り、それを支配し、治め、守られる主の栄光を、そのほまれを見て、賛美をささげていくことが大切なことだ。賛美を通し霊的な視界が広げられていく。
”主よ、あなたの栄光と誉れ、美しさを見させてください。アーメン”
 

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2005年1月2日(主日) 聖書の箇所:詩篇114篇1〜8節/ 年間通読:創世記4〜6章
「主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。」(8節)
  出エジプトの奇跡と神の救いを称える歌である。神は荒野での歩みを不思議なる奇跡と日々の養いをもって、支えた。そこには出エジプト、紅海横断、シナイ山での律法授与、ヨルダン渡河という不可能を可能にして導いてくださった神が私達においても、その業をなして、守り、支え、前進させてくださるという確かな詩人の確信がある。
歴史を通し、選民たちに御業をなされてきた神はキリストを通し、選民とされた私達の“どうしようもない”状況のうちにも働き、水なきところに泉を沸かせるような業を持って介入し、救われる。
“主よ。我らのための、あなたの生ける御業を感謝します。アーメン”
 

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2005年1月3日(月) 聖書の箇所:詩篇115篇1〜18節/ 年間通読:創世記7〜9章
「また、小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる。」(25節)
  主は、私たちにその栄光の中から恵みを注いでくださるお方である。主の栄光の前では、人が強いとか弱いということは本当に小さな差にすぎない。
私たちは自分の姿やこれまでの成果をみて、主の恵みを小さなものと考えていないだろうか。また失敗を恐れて、一歩踏み出さないでいることはないだろうか。
主は、小さい者を通しても恵みを表すことのできるお方である。ただ主を恐れることこそが重要である。主よりも恐れているものはないか。主よりも大切なものはないか。偶像は処理されたか。主は主を恐れる者を恵まれる。
“主よ。栄光の恵み注ぎを感謝します。アーメン”
 

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2005年1月4日(火) 聖書の箇所:詩篇116篇1〜19節/ 年間通読:創世記10〜12章
「主よ、わたしはあなたのしもべです。あなたはわたしのなわめを解かれました。」(16節)
  この著者が私は主の僕ですと言っていることは、心のそこからの言葉である。死の一歩手前で、主に呼ばわって助け出されたからである。
私たちの中にも実際に死の淵より助け出されたものもいる。また主は私たちを霊的な、永遠の死から解放して下さった。
著者は、死から解かれた喜びを歌い、喜んで主のしもべとなっている。私たちもキリストの死という大きな犠牲によって死から解放された。だから喜んでこの自由を主にささげ、主の僕となり、歩みの一つ一つ、生涯のすべてを主に明け渡して歩むのである。
“主よ。私は解放者であるあなたの僕です。アーメン”
 

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2005年1月5日(水) 聖書の箇所:詩篇117篇1〜2節/ 年間通読:創世記13〜16章
「もろもろの国よ、主をほめたたえよ。もろもろの民よ、主をたたえまつれ。」(1節)
  イスラエルの歩みを見ると、自分たちと他を区別して神様の祝福は自分たちだけにあるものと考えることが多かった。しかし、アブラハムの選びに立ち返っても、主は彼らを通してすべての民の祝福を告げている(創世記12:3)。これは新約にいたって聖霊によって証されている。
私たちが多くの人々への祝福を、内にとどめていることはないだろうか。主の恵みを信仰をもって外へあふれ出させていく時に、私たちも家族や隣人、多くの人々が主をほめたたえる姿を見て、さらに主を喜ぶことができる。
“父よ。主の恵み を人々に証し、皆で主をたたえられますように。アーメン”
 

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2005年1月6日(木) 聖書の箇所:詩篇118篇1〜29節/ 年間通読:創世記17〜20章
「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」(22節)
  この詩篇は感謝に満ちあふれている。なぜなら、多くの敵に囲まれ、主に懲らされたが、主が味方となって勝利を助けられたからである。人々から捨てられた著者を主は高く上げられたからである。
この22節のお言葉は、キリストを指している(第1ペテロ2:7)。人々に捨てられ、辱めを受け、十字架の死を遂げられたこのキリストを、神は救いの基、教会の基として下さった。死を打ち破られた主が味方であるなら、私たちは何を恐れるのであろうか(6節)。恐れは主と共によみがえらされる希望を前に消えてしまうのである。
“主よ。主の愛の大きさを覚え感謝します。アーメン”
 

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2005年1月7日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇1〜8節/ 年間通読:創世記21〜23章
「わたしは、あなたのもろもろの戒めに目をとめる時、恥じることはありません。」(3節)
  恥じることがないとはどういうことだろうか。神様の前にでても心がきよくとがめられることがないから恥じることがないのである。もし子が親の前に出る時に、いつも恥やとがめを感じていたら正しい関係とは言いえない。むしろ子は、親の前で何かしら安心するものである。
私たちが父なる神の前に出る時にいつも引け目や、とがめを感じ恥じているとすれば正しい関係ではない。どんなに未熟でも、愛が注がれていることを覚え、罪を悔い改め、主のご計画に心を委ね、全き平安の中を歩ませていただこう。
“父よ。心の内を探り、きよめて下さい。平安を感謝します。アーメン”
 

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2005年1月8日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇9〜16節/ 年間通読:創世記24〜27章
「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(11節)
  み言葉を内にたくわえると、そのみ言葉は不思議に必要な時に思い出されて、正しい方向を示し、私たちを御心に従って導いていく。それは神のみ言葉が生きて働いているからである。
神様はそのみ言葉を事実として保証しておられる。そして主イエスもみ言葉の成就のために十字架に向かわれた(マタイ26:53)。まさにみ言葉は、キリストの命に裏打ちされた事実である。何の根拠もなく消えるこの世の言葉と全く違っている。だからみ言葉には私たちを導く力がある。
“神様。み言葉をたくわえます。み言葉によって養い、罪よりお守りください。アーメン”
 

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2005年1月9日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇17〜24節/ 年間通読:創世記28〜31章
「わが魂はつねにあなたのおきてを慕って、絶えいるばかりです。」(20節)
  この詩人は、主のおきてを恋い慕って、息が絶えて死ぬばかりになっていると言っている。とても激しい言葉である。主のおきてをどんなに慕っていることであろうか。
ところで神様は、私たちが滅びから救い出されるために御子を遣わし、文字通り命に代えて私たちを愛して下さった。私たちが主を慕う以上に、主が私たちを愛し慕って下さっている。
また主のおきてを慕い求める時に「目を開いて」「くすしき事」(18節)見させて下さる。ますます離れてはいられない、慕わずにはいられない主のおきてである。
“父よ。主のおきてを慕います。くすしき事を感謝します。アーメン”
 

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2005年1月10日(月) 聖書の箇所:詩篇119篇 25〜32節/ 年間通読:創世記32〜35章
「わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください」。(25節)
  「魂がちりにつく」とは、悲しみと逆境の中で、心が打ちひしがれて、全く生きる力もなくなってしまった状態である。
ダビデもサウルから逃げて、敵のペリシテの町チクラグにいた時、民と自分の妻子がアマレクの捕虜になり、民が心を痛め、ダビデを石で撃とうとした時、「神によって自分を力づけた」とある(サムエル記上30:6)。
そのように、神が、即ち、神の御言葉こそがわたくしたちを生かし、勇気づけて下さるのである。
“主よ、あなたの御言葉によって打ちひしがれた時、このわたくしを生き返らせて下さい。アーメン”
 

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2005年1月11日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇 33〜40節/ 年間通読:創世記36:〜39章
「わたしをあなたの戒めの道に導いてください。わたしはそれを喜ぶからです」。(35節)
  神を喜ぶ時に、私たちはその御言葉と戒めとを喜ぶ事が出来るのである。神が恐ろしい存在となっている時には、その御言葉は、避けたいものとなり、強制されるものとなるのである。
神が愛するお方、また、喜ぶお方となるためには、まず神と和解し、神との平和が与えられることが必要である。そのためには、イエスさまの十字架による罪の赦しと、よみがえりによって義とされること(ローマ4:25)が、不可欠なのである。
”主よ、あなたを喜ぶ者として下さい。アーメン”
 

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2005年1月12日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇 41〜48節/ 年間通読:創世記40〜42章
「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」。(45節)
  「もしわたしの言葉にうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31,32)とイエスさまは言われた。神の御言葉に生きる時に、真理を知り、真理は私たちを自由にして下さるのである。
人は本来、神の御旨に従うものとして造られたから、魚が水の中にいる時最も自由な如くに、御旨に生きる時、一番自由なのである。 
“主よ、あなたの御言葉にとどまらせて下さい。アーメン”
 

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2005年1月13日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇 49〜56節/ 年間通読:創世記43〜46章
「わたしはあなたのさとしを守ったことによって、この祝福がわたしに臨みました」。(56節)
  「キリスト教はご利益宗教ではない」と言われる。確かにそうである。しかし、ご利益がないのかというと大いにあるのである。大きな違いは、ご利益は目的でなく、あくまでも結果としてあるというのである。
「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 必ずその百倍を受ける」(マルコ10:29,30)とイエスさまは言われた。まず捨てることささげる事からなのである。
“主よ、まず献げ、従わせて下さい。アーメン”
 

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2005年1月14日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇57〜64節/ 年間通読:創世記47〜49章
「主よ、地はあなたのいつくしみで満ちています。あなたの定めをわたしに教えてください」。(64節)
  いつくしみとはヘセドという言葉で神の真実な変らない愛のことである。ここでは地が神の真実な、変らない愛と恵で満ちているというのである。自
然は、弱肉強食の世界であり、昨年の台風や中越地震またインド洋スマトラ沖の地震と津波のように、恐ろしいものであるというようにしか思えないが、ここにも神のいつくしみがあるというのである。人々が真に救われるための警告なのかも知れないのである。
“主よ、災いや審きのような中にも、あなたのいつくしみを見いださせて下さい。アーメン”
 

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2005年1月15日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇 65〜72節
年間通読:創世記50章、ヨハネ1〜3章
「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」(68節)
  最悪と思われる時も、また、神が罰を与えているとしか思われない時でも、神は善にして、善をなしておられるのである。この時に、注意しなければならない事は盲信や思い込みでないようにということである。
偶像や偽りの神や偽のキリストを信じてはいないかをよく検討する事は大切である。真の神に従い続けている限り、善にして善を行われるのである。
“主よ、あなたが善にして善を行なわれることを心から信じられるようにして下さい。アーメン”
 

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2005年1月16日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇 73〜80節/ 年間通読:申命記1〜2章
「あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました。わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください」。(73節)
  神さまのみ手によって、人間であるこの自分が形造られたのである。自動的に、型にはめてするように、造られたのでなく、ねんごろに神自らによって、手造りされたのである。
だから、一人一人違うのである。あなたと私は両方とも世界にただひとりしかいない神の手造りの作品なのである。神と愛の交わりをするものとして、神の性質をも持ったものとして、神の子として造られたのである。
“主よ、子として造られていることを感謝します。アーメン”
 

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2005年1月17日(月) 聖書の箇所:詩篇 119篇 81〜88節 / 年間通読:ルカ 1〜2章
「わが魂はあなたの救を慕って絶えいるばかりです。わたしはみ言葉によって望みをいだきます。」(81節)
  神の救いの遅延に、現状が変わらないそのことに、苛立ちを覚える時が誰でもある。世の人はこの世の基準に従って、自分の正しいとするところに従って安易な、不確かな、一時的な”望み”を得ようとし、作り出そうとする。その”望み“は人間的な”夢”や”期待“の域を脱しない。
しかし、クリスチャンはこの世の人間くさい”望み”ではなく、神の崇高な、確かな”望み“をみ言葉を媒介にして得る道が開かれている。み言葉によって、将来において必ず全うされる、神にある確かな”望み”を確信するのだ。
”主よ、あなたにある確かな望みをみ言葉を通しえさせてください。アーメン”
 

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2005年1月18日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇 89〜96節 / 年間通読:ルカ 3〜4章
「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。」(92節)
  苦しみ、悩みの局地の中で、私達はどのように確かな希望を保ち、自らを健全に保つことができるだろうか?
150日も太平洋を漂流したポール・リッグス船長は、「私は数冊の小説を持ってはいたが、それには触れなかった。(2回通読した)聖書が、私に正気を持ち続けさせてくれた。」と証言している。み言葉によって苦しみの荒野の中に、私達は神の泉を見出す。なにもないはげ山に、沸き出でる神の川を発見する。
神は確かに、いかなる状況においてみ言葉をもって私達を守り、支える。
”主よ、あなたの言葉によって我等を支え、希望を与え給え。アーメン”
 

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2005年1月19日(水) 聖書の箇所:詩篇 119篇97〜104節/ 年間通読:ルカ5〜7章
「わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。それゆえ、わたしは偽りのすべての道を憎みます。」(104節)
  私達は羊のように鈍い生き物だ。究極的な面において善悪を見極め、良いほうをいつも選び取っていくのは私達には不可能だ。
人間の欲望に基づいた価値観を社会は産み出すが、人はそれに捕らわれやすく、その価値観に基づいた人生観を持ってしまいやすい。そこには「神の前にはどうか」、という考察は一切ない。主のみ言葉は神の前に正しきことを悟らせ、偽りを見抜かせ、そしてそこに陥らず、神の前に不真実であるようなことを選択しない力を与える。
神にある洞察力、そして神にある善を選び取る力、これがみ言葉に基づく神の知恵だ。
”主よ、我等にあなたの知恵を与え給え。アーメン”
 

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2005年1月20日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇 105〜112節/ 年間通読:ルカ8〜10章
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(105節)
  私達はどのようにして自分の歩むべき道を悟り、未来を目指していくだろうか。世の中が混沌として暗くなればなるほど、足元は見えにくくなる、将来が見えにくくなる。
主は人生の転機となるような重大な時に確かに、み言葉をもってさとりを与える。その歩むべき道を照らす。決断が迫られる時、人生の岐路に直面する度に「これは道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)という確かな主の語りかけを私達は聞く。
日々の小さな決断にも主の導きがある、み言葉によるさとりがある。こうして私達は間違いのない、神の前に開かれている確かな将来に向かって前進するのだ。
”主よ、私の歩むべき道をなお照らし、確かな歩みをさせてください。アーメン”
 

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2005年1月21日(金) 聖書の箇所:詩篇119篇 113〜120節/ 年間通読:ルカ11〜12章
「わたしは二心の者を憎みます。しかしあなたのおきてを愛します。」(1節)
  二心の者とは心の割れた者、分かれた者を表す。それはまさに「心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛」(申命記6:5)すこととは正反対であるような不真実な心の状態だ。
主の私達への愛はいつも全力で、一点のかげりもなく、真実そのものだ。全存在をかけ、命をかけたどこまでも熱い愛だ。だからこそ私達も全存在をかけて、このどこまでも熱い、純真な、真実なる神の愛に答える必要がある。
私達には神の命がかけられている。むだにはできない生涯だ。真実な神の前に真実に生きたい。
”主よ、あなたの愛に、恵みに全存在をかけて応答する者としてください。アーメン”
 

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2005年1月22日(土) 聖書の箇所:詩篇119篇 121〜128節/ 年間通読:ルカ13〜14章
「わが目はあなたの救と、あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。」(123節)
  信仰はある意味で神への尽きない期待と、その主にある約束の待ち望みでないか。
待つことにも忍耐がいる。確かな希望の源への継続的な“凝視”がなければ、“堪忍袋の緒が切れ”ることになりかねない。
果たして苦しみの中に、私達は存在が衰え、弱り果ててしまうほどに神の恵みとその救いを待ち望んでいるだろうか?
希望の源であるキリスト・イエスに心の目が向かい、向かい続けているだろうか?
不平、不満、文句を語る前に今一度、私達の神への“待ち望み”度を客観的に吟味してみようではないか。
“主よ、あなたに心を向けさせ、全力で主の恵みとその御業を待ち望ませてください。アーメン”
 

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2005年1月23日(主日) 聖書の箇所:詩篇119篇 129〜136節/ 年間通読:ルカ15〜17章
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(130節)
  一度、神の言葉の心への開示、展開がなされると、私達の心に神の知恵、悟りが与えられていく。み言葉によって主は私達を照らし、我らのうちに新たな可能性を切り開く。
ペテロをはじめイエスの弟子も無学な者で品性に乏しく、短絡的思考者の寄せ集めではなかったか。彼らの一体どこに、キリストの命のメッセージの世界的展開の担い手としての可能性があったろうか。
聖霊の力強い働きの中での、み言葉の啓示、開示は神の深遠なる救い、愛、いつくしみの神秘への悟りを彼らに与え、現代に生きる、私達にも普遍なる神の知恵と悟りを与える。
“主よ、み言葉によって我らに知恵と悟りを与え、あなたの栄光を表す者とし給え。アーメン”
 

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2005年1月24日(月) 聖書の箇所:詩篇119篇145〜152節/ 年間通読:ルカ18〜21章
「わたしは心をつくして呼ばわります。」(145節)
「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。」(147節)
  私たちが聖書のみ言葉を読み、神様の語りかけに聞くことは、何と幸いなことであろうか。
デボーションの時を夜に持つことも祝福であるが、朝、何かを始める前にみ言葉の前に静まる。み言葉によって始める一日は、それなしに過ごす一日とは全く違っている。神様の愛と祝福とを受けとめ、悔改め、み言葉からのチャレンジを実践していく。戦いもあるが、み言葉を成就したもう主の栄光を見る。まず朝、み言葉を聞こう。
“主よ。一日の始めにみ言葉を聞き、み言葉を基準として生活できますように。アーメン”
 

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2005年1月25日(火) 聖書の箇所:詩篇119篇153〜160節/ 年間通読:ルカ22〜24章
「わが訴えを弁護して、わたしをあがない、あなたの約束にしたがって、わたしを生かしてください。」(154節)
  私たちはしえたげる者、あだする者に対峙する時、心が萎えやすい。ここにも繰り返し「わたしを生かして下さい。」とうたわれている。
主は、私たちを敵から守り、生かすことのできるお方である。主は、私たちに「助け主」として「聖霊」を遣わされた(ヨハネ14:26)。
この聖霊は、私たちを弁護して下さるお方である。それは、弁護士が専門の知識を持って、訴える者から守るのに似ている。誰かが私たちを訴える時、聖霊が働いて、敵とその背後にいる悪魔の業を打ち破らせて下さる。
“父よ。聖霊によって訴える者よりお守り下さい。アーメン”
 

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2005年1月26日(水) 聖書の箇所:詩篇119篇161〜168節/ 年間通読:詩篇90〜94篇
「わが魂は、あなたのあかしを守ります。わたしはいたくこれを愛します。」(167節)
  聖書は繰り返し繰り返し、神様の最高の愛が私たちに注がれていることを語っている。その中心がキリストの十字架の死と復活である。だが案外、クリスチャンでさえ、この真剣な愛を中途半端にしか受け取っていない。
主があらゆる罪と死から解放して下さった。永遠の命をくださった。なのに半端に従い、この世に未練を残してはいないか。何かを恐れてはいないか。主の愛があらゆる領域に臨む。だから私たちは、自分のすべてを投げ打って、心から、神様を愛し仕えよう。
“父よ。あなたの愛の深さ広さを知り、あなたを心から愛し、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2005年1月27日(木) 聖書の箇所:詩篇119篇169〜176節/ 年間通読:詩篇95〜99篇
「主よ、どうか、わが叫びをみ前にいたらせ、」(169節)
  主は、私たちの激しい叫び、苦しみをご存知のお方である。どこまで続くかわからない精神的、あるいは肉体的苦痛、また一生負っていかなければならない重荷もご存知である。
それはただ知っておられるというのでなく、主イエスご自身が、人となり、「激しい叫びと涙」(ヘブル5:7)の中に成長し、十字架の死を味わわれたからご存知なのである。
だから私たちはこの神様の前に、ありのままで叫び、訴えることができる。どのような解決かはわからない。だが罪は赦され、叫びが聞かれ、喜びの賛美をうたう時が来る。
“主よ。信頼します。私の叫びを聞いて下さい。アーメン”
 

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2005年1月28日(金) 聖書の箇所:詩篇120篇1〜7節/ 年間通読:詩篇100〜109篇
「わたしは平安を願う、しかし、わたしが物言うとき、彼らは戦いを好む。」(7節)
  表題には「都もうでの歌」とある。祭りなどでエルサレムに巡礼する時に歌われたと言われている。
私たちが「偽りのくちびる」「欺きの舌」「戦いを好む」者の中にいる時、往々にしてその渦中に巻き込まれやすい。そのような環境は避けるのが良い。
だが避けられない時はどうしたらよいだろうか。著者は「主はわたしに答えられる」(1節)と述べている。悩みの中で主に信仰を働かせて呼ばわっている。信仰は芯となる。周りが荒れても、芯は静かである。信仰をもって主に目を注ごう。
“主よ。争いやすい私ですが、信仰をもって主に呼ばわり、平安を保たせて下さい。アーメン”
 

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2005年1月29日(土) 聖書の箇所:詩篇121篇1〜8節/ 年間通読:詩篇120〜124篇
「見よ、イスラエルを守る者は まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節) 
  人の身体や精神には限界がある。そして疲れやちょっとした油断から大きな失敗につながることもある。
だが私たちを救われた神様は、全知全能の神である。どこにも届くことができる。またこの私を愛しておられる。だから私たちが届かないところにも届いて助けて下さる。
仕事のことも、子供のこと、様々な人間関係、他のどんなことも安心して委ねることができる。自分の主導権をこの神様にお渡ししよう。主は将来のことだけでなく、後悔にも過去のしがらみにも届くことができる。その意味を全く変えて下さる。
“全能の神様。あなたの助けを待ちます。守って下さい。アーメン”
 

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2005年1月30日(主日) 聖書の箇所:詩篇122篇1〜9節/ 年間通読:詩篇125〜126篇
「人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」と言ったとき、わたしは喜んだ。」(1節) 
  この詩篇では、エルサレムの平安という形で、神様への賛美と聖徒へ祝福が歌われている。
私たちにとって神様との交わりは何よりも大切であるが、神様との交わりが具体的実際的に表されるのが人との交わりである。神様からの恵みを語る時、語る者はもう一度その恵みを受け、聞く者はその恵みに与り生かされる。
心が通じ、共鳴し、神様への感謝が響きわたる。私たちは神様からの祝福を受けた者として、人を祝福するように召されている。教会に、人々に、世界に主の平安を祈ろう。
“父よ。隣人を主のもとに招き、平安と祝福を祈る者として下さい。アーメン”
 

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2005年1月31日(月) 聖書の箇所:詩篇123篇1〜4節/ 年間通読:詩篇130篇〜131章
「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます」。 (2節)
  これは「思い煩いのない者(新改訳では、“安逸をむさぼる者たち”)のあざけり」と「高ぶる者の侮り」のなかにある詩篇の著者が、必死に神ご自身に目を注いで、そのあわれみを只管(ひたすら)待ち望んでいる姿をうたったものである。わたくしたちも信仰の導き手であるイエスに目を注いで信仰の馳せ場を走りぬこうではないか。
“主よ、私たちにも信仰とへりくだりとを与えて下さい。アーメン”
 

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