デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年2月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
 1  2  3  4  5  6
 7  8  9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            
【今月のディボーションへ】 【ホームページへ】


  
 
2005年2月1日(火) 聖書の箇所:詩篇124篇1〜7節/ 年間通読:詩篇 135、136篇
「われらは野鳥を捕えるわなをのがれる鳥のようにのがれた。わなは破れてわれらはのがれた」。(7節)
  神がわたくしたちの味方であると言う事を確信させるうたである。“もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか“(ローマ 8:31)とあるように、全知全能にして、絶対なる神が味方であるなら、敵は敗北に至るのである。
例え、敵がいかに過酷で、破壊的であっても。また、絶体絶命のような中に追い込まれようとも、神は、はるかに力を持たれるお方なのである。このお方を信頼していこうではないか。
“主よ、どのような中でも神が味方である事を信じさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月2日(水) 聖書の箇所:詩篇125篇1〜5節
年間通読:イザヤ52章、53章、出エジプト1章
「山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる」。(2節)
  主に信頼する者は、とこしえにあるシオンの山のような者であり、また、主は、山々がエルサレムを囲んでいるように、今からとこしえに至るまで私たちを、しっかりと守って下さるというのである。
それは悪しき者から守り、正しい者が不義から守られるためなのである。更に、著者は善良な人、心の正しい人のために、さいわいを祈り、イスラエルの上に平安を祈っている。
“主よ、自分が守られるだけでなく、正しい人や神の民のためにさいわいと平安とを祈らせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月3日(木) 聖書の箇所:詩篇126篇1〜6節/ 年間通読:出エジプト 2〜5章
「種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(6節)
  捕囚民の帰還を喜び、なお完全な帰還を求める祈りである。イスラエルの民はその正しさの故でなく、主御自身の御栄えの故に捕囚から帰還したのである。
種をまくことは、草を取り、耕し、気候不順の中でしたりしたので、大変つらい者であった。しかし、正しい、誠実な苦労は主が報いを与えて下さるのである。
又、辛い中での、真剣な祈りに主は答えて下さるのである。
“主よ、あなたに信頼をもって福音の種を播かせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月4日(金) 聖書の箇所:詩篇127篇1〜5節/ 年間通読:出エジプト 6〜9章
「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。(2節) 
  前の126篇が正しい、誠実な苦労への報いをうたっているが、ここでは人の努力にまさる神の恵みと配慮、そして賜物としての子供がうたわれている。
さて、上記には主はその愛する者になくてならぬものを与えられるとある。親はどんな苦労をしてでも、その愛する赤ちゃんや子供を、養い、育て、正に、なくてならぬものを与えて下さるのである。神さまは、人間の親に勝って、その民(子)にして下さるのである。
“主よ、あなたに愛せられる者としてまずイエスさまを求めさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月5日(土) 聖書の箇所:詩篇128篇1〜6節/ 年間通読:出エジプト 10〜12章
「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである」。(1節)
  祝福された家庭が歌われている。その秘訣が上記のことである。“主をおそれ”とは主をおそれ敬う事であり、信じる事である。また、“主の道に歩む”とは主に従うことであり、御旨に生きる事である。ここにこそ真の幸福と繁栄があるのである。
私たちは、神の御前に、第一とすべき事を第一とし、中心に置くべきものを中心に置くとき、その勤労も、その家庭も、その教会も、実を結び、祝福を見るのである。
“主よ、あなたを愛し、あなたの御旨に従う者として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月6日(主日) 聖書の箇所:詩篇129篇1〜8節/ 年間通読:出エジプト 13〜15章
「主は正しくいらせられ、悪しき者のなわを断ち切られた」。(4節)
  神の民に敵対する人への審きがいわれている。主は正しいお方なのである。であるから、悪しき者に対しては審きをなされるのである。
“なわ“とは神の民が捕われていて、拘束されている事を意味しているといって良い。それを断ち切るとは、その捕われの身から、解放されることである。そして、その解放とともに、捕えていた悪しき者には審きが与えられる事がいわれている。彼らに対して祝福の祈りすらなされないのである。
“主よ、あわれみよって、キリストの犠牲の故に不義なる私を義として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月14日(月) 聖書の箇所:詩篇137篇1〜9節/ 年間通読:出エジプト 38〜40章
「われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。」(1節)  
  悲しみの言葉が敵への呪いへと移っていく激しい歌である。シオンでの歌、それは神様への礼拝の賛美であった。捕囚の地では慰めの歌であった。その賛美を余興のために歌うように言われた。この歌人の心はどんなに涙でぬれたことであろうか。
この異教の日本で私たちにも賛美や信仰が余興のために使われることがある。だが主はその涙をもそのままに受け止めて下さる。主イエスは、人々の嘲笑を十字架の上で忍ばれたのである。この主を通してもう一度主に賛美できることを信じよう。
“主よ。あなたは私の涙をご存知です。何にもまさる慰めです。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月15日(火) 聖書の箇所:詩篇138篇1〜8節 / 年間通読:マタイ1〜4章
「主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。」(8節) 
  このみ言葉は、繰り返し繰り返し語られているみ言葉であるが、本当に大切なみ言葉である。
「いつくしみ」とは神様の一方的でどこまで行っても変らない愛を表している。だが私達は変りやすく、熱しても冷めやすい、不完全で自己中心的な人の愛に置き換えやすい。しかし「いつくしみ」とは私たちが罪人であった時にも愛する愛、私たちが救われてから背いても愛する愛、不信仰な時でも愛する愛である。
人の信仰の状態や感情や何かで変るのではない。たとえ自分で自分を否定してもその人を肯定する愛である。
“父よ。私へのいつくしみを受け取ります。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月16日(水) 聖書の箇所:詩篇139篇1〜24節/ 年間通読:マタイ5〜7章
「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」(24節)
  とても印象深く私達を捕らえる歌である。1節で「わたしを知りつくされました」とある。
全知(何でもご存知)の主、遍在(どこにでもおられる)なる主が、まるで自分の行く道を阻み、自分の自由をうばう煙たい存在のように語られている。
しかしこの主を自分の創造者として捉える時、見方は全く変ってしまった。すべてをご存知の主が私をとらえて放さないのは、私のためであるとわかったのである。その時「わがもろもろの思いを知ってください」(23節)と自ら主の前に喜んで出るのである。
“創造者なる主よ。信頼します。心を探り、命の道へ導いてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月17日(木) 聖書の箇所:詩篇140篇1〜13節/ 年間通読:マタイ8〜10章
「主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、わたしを守って、乱暴な人々からのがれさせてください。」(1節)
  ダビデの歌の中に、悪しき者からまたそのわなから逃れさせて下さいという歌が何と多いことだろうか。神様からイスラエルの王として立てられ、輝かしい功績を残し、主をほめたたえるダビデである。
しかしどれほど多くのわなを逃れてきたことか。主の導きの中にあっても、逃げなければならない時もある。あのパウロも証をする中で命を狙われて、夜、かごに乗せられ城壁の外へ逃れていった。主の栄光があるのに何と惨めに見える姿であるか。しかしそこにも助け出す主が共におられた。
“主よ。共にいて悪しき者と罠よりお守りください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月18日(金) 聖書の箇所:詩篇141篇1〜10節/ 年間通読:マタイ11〜13章
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」(3節)
  4節のお言葉も合わせて心にとめよう。私たちは、自分に悪口を言われたり、いやなことをされる時、心の平穏を失いやすい。それどころかその悪の罠に陥り、怒りや憎しみの感情が起こり、悪口になったり、仕返ししたりする。
世間では当たり前のことであるとしても主の喜ばれることであろうか。アブサロムが反乱を起こした時、逃げるダビデをシメイは呪った。もしシメイを追いかけていれば、反乱軍に捕らえられて命はなかったであろう。ダビデはあらゆる出来事の上に主の支配を認めていた(サムエル下16:11)。
“神様。悪の罠より守ってください。あなたに目を注ぎます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月19日(土) 聖書の箇所:詩篇142篇1〜7節/ 年間通読:マタイ14〜16章
「わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、あなたはわが道を知られます。」(3節)
  この著者は、「わたしに心をとめるものはひとりもありません。」(4節)と叫んでいる。問題が何であるか以上に存在が認められていないと感じることは本当に苦しいことである。またそうでないとしても「私の悩みをだれにも理解してもらえない。」と感じることもとても苦しいことである。
この著者はそのような中で声を出して主に叫んでいる。それは自分の霊が消え失せようとする時も主はわたしの道を知っておられると知っていたからである。
主は私たちを知っておられるお方である。心にとめておられる。
“神様。私を御心にとめてください。叫びを聞いて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月20日(主日) 聖書の箇所:詩篇143篇1〜12節/ 年間通読:マタイ17〜19章
「わが魂は、かわききった地のようにあなたを慕います。」(6節)
  クリスチャンは、イエス・キリストから注がれる命の水によって生かされているのである。植木鉢でも水をやらなければ乾いて植物は枯れてしまう。渇いた時に水をやると音を立てて吸い込んでいく。
クリスチャンにも命の水が必要だ。毎日み言葉によって祈りによって霊的な養いを受けよう。特に問題にぶち当たる時、仕事で、健康で、人間関係で悩む時、その時はいつも以上に霊の水を必要としている。
大切なのは信頼することだ。私は弱っていても主は確かに、命の水を注いで下さると信仰に立つことだ。
“父よ。私は渇いてます。命の水を注ぎ、生かして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月21日(月) 聖書の箇所:詩篇144篇1〜15節/ 年間通読:マタイ20章〜22章
「主はわが岩、わが城、わが高きやぐら、わが救主、わが盾、わが寄り頼む者です。主はもろもろの民をおのれに従わせられます。」 (2節)
  岩とは主が揺るぐ事のないお方であり、城とかやぐらまた盾は敵から守って下さる事を意味している。主は私たちが信頼するに価するお方であり、更に、霊的な又目に見える敵の攻撃から守り、救って下さのである。恐れる事はないのである。
そして又、「もろもろの民を」御自分に従わせられるお方なのである。まさに世界の支配者なのである。
“主よ、あなたがあなたに信頼する者を祝福して下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月22日(火) 聖書の箇所:詩篇145篇1〜21節/ 年間通読:マタイ23章〜25章
「主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。」(14節)
  1節で神が“王”と呼ばれている。王という時に支配権を考えるが、それは大能によるものであり、そのみ業ははかり知ることが出来ないほど大いなるものである。
また“主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります(8、9節)”とあるように、この王は恵とあわれみに富んでおられるのである。
“主よ、あなたは倒れようとする私を支え、弱っている時に立たせて下さることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月23日(水) 聖書の箇所:詩篇146篇1〜10節/ 年間通読:マタイ26章、27章
「しえたげられる者のためにさばきをおこない、飢えた者に食物を与えられる。主は捕われ人を解き放たれる。」(7節)
  ハレルヤで始まりハレルヤで終っている。主こそ信頼に価するお方であり、さげすまれ、しえたげられるもののために公正な裁判をして下さり、飢えた者には食べ物を与え、捕われている人を解放して下さるお方である。
目の見えない方の目を開かれ、弱い人々(寄留の他国人、みなしごとやもめ)を助けるのである。そして悪しき者の道を滅びに至らせるのである。まさに主こそ賛美に価するお方なのである。
“主よ、あなたを魂をもって、賛美させて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月24日(木) 聖書の箇所:詩篇147篇1〜20節 
年間通読:マタイ28章 レビ2章〜3章
「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(3節)
  これもハレルヤ詩篇である。ここには心の癒しが言われている。しえたげや嘲りやいじめによって、痛みつけられ、傷ついている人がおり、また、カルトによって、傷ついている人もいる。
しかし、主はそれをいやし、包んで下さるのである。“その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”(イザヤ53:6b)とあるように主の十字架の傷によって、私たちは癒されるのである。そこには傷の痛みはなくなり、完全ないやしと回復があるのである。
“主よ、心の傷を持っている方が主の十字架の傷により、完全に癒されるように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月25日(金) 聖書の箇所:詩篇148篇1〜14節/ 年間通読:レビ4章〜6章
「彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。」(13節)
 
  この詩篇もハレルヤ詩篇である。何と“ほめたたえよ”が10回もつかわれている。そして、“ほめたたえさせよ”が2回(5、13)出てくる。天使も、日も月も星も天もみな主を“ほめたたえる事と“ほめたたえさせる”事とが言われ、そして、海の獣も淵もあられも雪も霜も嵐もすべての民にも同じ事が言われている。
主は、ほめたたえよと勧めるだけでなく、ほめたたえさせて下さるのである。
“主よ、私たちもキリストによってあなたをほめたたえさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月26日(土) 聖書の箇所:詩篇149篇1〜9節/ 年間通読:レビ7章〜9章
「主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。」(3節)
  これもハレルヤ詩篇である。ここには踊りと鼓と琴をもって主をほめたたえるように言われている。更に、へりくだることの大切さが言われている。そのようなものを勝利をもって飾られるというのである。
その反対に「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」(箴言16:18)のである。主を賛美すことにおいても、へりくだって賛美するべきであることをしっかりと心に留めておきたいものである。
“主よ、へりくだりをもって、あなたをほめたたえさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月27日(主日) 聖書の箇所:詩篇150篇1〜6節/ 年間通読:レビ10章〜12章
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ」。(6節)
  これもハレルヤ詩篇である。僅か6節の中に、“主をほめたたえよ”が12回、そして“主をほめたたえさせよ”が1回出て来る。
さて、“主をほめたたえさせる”ことが出来るためには、その人の中に主を信じる心と主への感謝と喜びとが与えられることが不可欠である。更に、それは福音によって救われることによってなされるのである。そのためには遣わされた者によって福音が伝えられねばならないのである。
“主よ、私たちを福音のために聖別してお遣わし下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2005年2月28日(月) 聖書の箇所:箴言1章1〜33節/ 年間通読:レビ13,14章
「主を恐れることは知識のはじめである、・・・。」(7節)
  永遠不滅の格言だ。この時代は恐れる対象を持つことを嫌う時代だ。そこには“へりくだり”や“敬う”という概念がない。神を恐れない者は、かえってこの世のさまざまな不安、心配、恐れに縛られることとなる。
健康に関する不安、財産、地位、名誉、先行きの見えない将来に対する不安や恐れは際限なく沸き起こる。私たちが、私たちの人生に責任を持って、導き下さる天地の造り主なる神を真の意味で恐れ、敬う時、この世のもろもろの恐れ、不安、心配は消えていく。ここにこそ究極の知識がある。
”主よ、恐るべき方を心から恐れ、敬わせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>


ホームページへ戻る