デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年3月のデボーション
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2005年3月1日(火) 聖書の箇所箴言2章1〜22節:/ 年間通読:レビ15〜18章
「銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。」(4、5節)
  神を知るとは単なる知識上のことではない。あらゆる角度から、あらゆる感性を持って、全存在で神を体験するということだ。理性的な人は理性だけでなく、感性を通して、体験的に神を知り、感受性の豊かな人もまた、感覚的な、主観的な思いだけで神を捉えるのでなく、理性を持って神を捉えるのだ。
この“神を知る”という究極の喜びを得る上で、大切な一つの要素は、私たちの“求める”という恵みへの飽くなき切望だ。他でもない、神への切望は必ず満たされる。
“恵みへの渇望をお与え下さい。アーメン”
 

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2005年3月2日(水) 聖書の箇所:箴言3章1〜35節/ 年間通読:レビ19〜21章
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5,6節)
  自分の知識や、主観的な思いで物事を判断せず、目に見えないものに全存在を任せていくのは簡単のようで、とても難しい。しかし最も恐ろしいのは自分の正しいと思うところに従って歩むことだ。その先にはどんな危険が待ち受けているかわからない。
主は私達のために道をつくられ、また苦難の迷宮に陥る時、その道をまっすぐにし、私達を助け出される。主に信頼し、聞き、歩むべき道を示していただき、その確かな道を歩む。信仰による歩みとはこの繰り返しではないだろうか。
“私を正しく導き給え。アーメン”
 

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2005年3月3日(木) 聖書の箇所:箴言4章1〜27節/ 年間通読:レビ22〜24章
「それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(22,23節)
  私達は一体、この混沌とした時代の中で、どのように自分の心を守るだろうか?
迫り来る不安、恐れ、怒り、憎しみ、あらゆる欲望から自分の心を守れるほど、私達は強くはない。神の言葉を心にとめ、心の内にそれを守り続けていく以外に、大切な心を守るすべはない。神の言葉から溢れ注がれる恵み、愛、慈しみは私達の心を守るだけでなく、心と体を健やかにし、命の泉を心に宿させる。
あなたの大切な心を、存在そのものを御言によって守れ!
“主よ、私の心をお守り下さい。アーメン”
 

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2005年3月4日(金) 聖書の箇所:箴言5章1〜23節/ 年間通読:レビ25〜26章
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。」(1、2節)
  結婚・性の問題について記されている。また旧約においてはしばしば性的不道徳は王、民の神への背信、偶像礼拝として描かれているが、いずれにせよ、たけり狂う諸々の私達の欲望を掻き立てる誘惑から私たちは一体、どのように身を守ることができるだろうか、神のかたちに似せてつくられた者として、神の栄光を表すものとして正しく生きることができるだろうか?
神の語ることを日々に受け、心に蓄えていく以外に健全かつ平和に満ちた歩みはない。
“心を主に向けさせ、私の心を正しくしてください。アーメン”
 

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2005年3月5日(土) 聖書の箇所:箴言6章1〜35節
年間通読:レビ27章,マルコ1〜2章
「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを守り、あなたが目ざめるとき、あなたと語る。戒めはともしびである、教は光である、教訓の懲らしめは命の道である。」(22、23節)
  実生活の中での思慮深さの大切さを語っている。私達の軽率さが、自分を傷つけ、他人をも傷つけてしまうことがある。その軽率さが時には致命的な傷を負わせてしまうこともある。
迷いやすい、騙されやすい、思慮を欠きやすい私達だが、主は神の言葉を通して私達に日ごとに新たな光を与え、時には警告、時には励まし、時にはしかり、健全な道に歩ませてくださる。
思慮深さは神の御言葉を通し、われらに形作られる。
“主よ、思慮深さをわが内に与えたまえ。アーメン”
 

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2005年3月6日(主日) 聖書の箇所:箴言7章1〜27節/ 年間通読:マルコ3〜5章
「わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。これをあなたの指にむすび、これをあなたの心の碑にしるせ。」(2〜3節) 
  5,6章と同様に性的堕落の危険が物語的に描かれている。なんと私達の社会はこの類の危険が溢れていることか。
多くの人々がこの欲望の罠の中に落ち込んで、自己破滅を招いているのを見る。サタンは実に巧みに私達の弱さを突いてくる。残念ながら吠えたける欲望には私達は勝てない。
しかしもう一つの確かな事実は、神は神の言葉をして完全に私達の心を守り、勝利を与える力があるということだ。キリストとその言葉に寄りすがれ!そこに命がある。
“主よ、欲望を抑え、あなたが生きてください。アーメン”
 

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2005年3月7日(月) 聖書の箇所:箴言 8章1〜36節/ 年間通読:マルコ 6〜8章
「それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。」(35節) 
  この8章は「知恵」からの「呼びかけ」として私たちに語られている。
この知恵は主が世界や私たちを造られる前に造られ(22節)たものであって、主を源としている。
この知恵を得ることによって私たちは命を得、恵みを得る。
一方この知恵を失う者は自分の命をも損なう(36節)。
この知恵が具体的に表わされたものがキリストである。
一見愚かに見えるキリストの十字架の死の中に人を生かす命がある。
自分の知恵に頼るのをやめて、「神の力、神の知恵たるキリスト」(第1コリント1:24)に聞き従い「日々」(34節)命を得よう。
“神様。日々十字架を見上げ、生きる者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月8日(火) 聖書の箇所:箴言 9章1〜18節/ 年間通読:マルコ 9〜10章
「来て、わたしのパンを食べ、わたしの混ぜ合わせた酒をのみ、」(5節)
  知恵が、食卓に思慮のない者を招いている比喩の表現である。知恵の招きに応じる者は命を得る(6節)。
知恵の源である主イエスも私たちを命の食卓に招いておられる。その一つは聖餐式である。十字架の上で裂かれた身体、流された血汐によって、私たちは永遠の命に招かれている。
またよみがえられた主は、夜通し漁をして疲れた弟子達を食卓に招き、つまずいたペテロを立たせられた。主はつまずく私たちをも立たせ、遣わして下さる。そしてなおも天の食卓へと導いておられる。
“父よ。主の食卓に与り、主のみ思いと一つとならせてください。アーメン”
 

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2005年3月9日(水) 聖書の箇所:箴言 10章1〜32節/ 年間通読:マルコ 11〜13章
「そしりを口に出す者は愚かな者である。」(18節)
  「正しい者のくちびるは多くの人を養い」(21節) 「口」や「くちびる」によって私たちが語る言葉について教えている。私たちは自分を制しきれずに悪い言葉が出てくる。それは私たちの心の汚れを表わしている(マルコ7:20)。
私たちの心の汚れが外に出て行く時、その言葉が別の人を傷つけ、あるいは悪い思いを起こさせる。家庭でも職場でも、あるいは教会の中でも気を付けたい。むしろ私たちは人の徳を高め、教会の徳を高め、人々を生かす言葉を語るべきである。
私たちは主に語り、主に聞くことによって、心を清められ、慰められる。
“心の内をご存知の主よ。人を養うものとして下さい。アーメン”
 

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2005年3月10日(木) 聖書の箇所:箴言 11章1〜31節/ 年間通読:マルコ 14〜16章
「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」(24、25節)
  人の目には不思議であるが、神の国の法則である。私たちの主キリストは私たちのため命を捨てて下さった、そしてよみがえられた。
主を信じる私たちは、このキリストにあって生かされている。だから私たちも豊かに与えるものでありたい。
この世の富に縛られているべきではない。それを天に携え行くことはできない。
私たちは天の都を目指していることを心にとめよう。主は地上においても惜しみなく私たちを潤して下さる。
“神様。豊かに与える者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月11日(金) 聖書の箇所:箴言 12章1〜28節/ 年間通読:民数記 1〜3章
「人は悪をもって堅く立つことはできない、正しい人の根は動くことはない。」(3節)
  聖書の中で「正しい人」と記されている時、それは自らを正しいとする人のことではない。主によって正しい認められた人である。
その人は、神様の前にへりくだり、自らの罪を認め、神の赦しを信じた人である。
キリスト教で神を信じるとはそういうことである。そこには、信じる前に赦しの道を開いて下さった神様の慈しみ(恵み)がある。
自分が信じたという以上に、赦して下さった神様がおられる。赦しは神の宣言である。自分を見るとゆらぐが、神様の宣言は決して動くことがない。
“神様。救いの道を開いて下さり、罪深い私が正しい者と認められていることを感謝します。アーメン”
 

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2005年3月12日(土) 聖書の箇所:箴言13章1〜25節/ 年間通読:民数記4〜6章
「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。」(24節)
  聖書は繰り返し繰り返し、子供に主を畏れ、聞き従うことを教えるように語っている。懲らしめることである。悪いことを悪いとしっかりと教えなければ、後で取り返しのつかないことになる。
ところで「懲らしめ」は愛されていることがわかってはじめて伝わっていく。愛が伝わらなくては敵意にしか見えない。
私達は誰でも心に傷を持ち、私達の愛は不完全である。だから愛の源であられる主に触れ、いやされながら、子供を愛するほかない。そして子供が自ら主の愛を知り、主を選ぶように祈るのだ。
“神様。主の愛によって、子を愛し、懲らせますように。アーメン”
 

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2005年3月13日(主日) 聖書の箇所:箴言 14章1〜35節/ 年間通読:民数記 7〜9章
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」(12節)
  本当に的確な警告である。死に至る道の一つは、神(の存在)を認めないものである。
人こそが最も優れた者とすることである。神を認めないと、生きる目的、人が造られた目的がわからない。生きる意味がわからない。
もう一つは、まことの神を、他の神々(偶像)に変えることである。人の欲望のために作られた神は勿論だが、人の究極の知恵も、この大自然も、天地創造の神には全く及ばないものであり、永遠の命を与えることはできない。
真の神を認め、神に立ち返り、神の栄光を表わす者とならせていただこう。
“父よ。与えられたこの命を感謝します。アーメン”
 

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2005年3月14日(月) 聖書の箇所:箴言15章1〜33節/ 年間通読:民数記10〜13章
「主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。」 (33節)
  教訓とは訓戒とか警告という意味でもある。主を畏れ敬うことが知恵にいたる訓練ということである。主を畏れ敬うと言う事を訓練することによって、即ち、それを身につけることによって、知恵を得ていくということである。
また、栄誉を得る前に、まず私たちは、謙りが必要であるということである。十字架があって復活があったのである。
“主よ、まず、あなたを畏れ敬い、また、謙らせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月15日(火) 聖書の箇所:箴言 16章1〜33節/ 年間通読:民数記14〜16章
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(3節)
  私たちには多くの成すべきことがある。しかしそれを主の御前に持っていくことによって、即ち、主に任せ、ゆだねることによって、必ずそれが実現していくのである。
実際的には、私たちは、祈りの中で、神に私たちの成すべきことをすべて、申し上げ、祈りの中で、それが、御心にかなっているかを教えられて、神が働く事を信じ続け、自分自身をそこにおくのである。従い続けるのである。
“主よ、私たちの成すべきことを、あなたに任せ、ゆだねさせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月16日(水) 聖書の箇所:箴言17章1〜28節/ 年間通読:民数記17〜20章
「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」(1節)
  このことは、家庭において、また、神の家とも言うべき教会においても、同じである。財政的に豊かであっても、いつももめごとや対立、争いが絶えない家や教会がある。
それよりも、平和であり、思いやりがあり、一致があるほうが、よっぽど良いのである。まずそのためにはきよられる必要があるのである。
“主よ、主の十字架によって、自我に死んだ者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月17日(木) 聖書の箇所:箴言18章1〜24節/ 年間通読:民数記21〜23章
「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」(24節)
  私たちには親子、兄弟、上司、部下、隣人、夫婦、そして友人、師弟などいろいろな人間関係がある。その中でも友人というのは、特別なものということが出来る。縦の関係でなく、横の関係である。
イエスさまは、弟子達に「わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)といわれた。
イエスさまが友となって下さるのである。
“イエスさま、あなたの友といわれるにふさわしい者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月18日(金) 聖書の箇所:箴言19章1〜29節/ 年間通読:民数記24〜26章
「人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる」。(22節)
  これは新改訳では「人の望むもの」とある。また、“いつくしみ深い”とはヘセドという言葉が使われている。
これは神の契約に基づいた真実な愛を意味する。人が望むもの、即ち人の望みが、誠の愛を持つことにあるということである。
私たちはどうしたらこのいつくしみ深いものとされるかというと、己の自我に死にキリストご自身が私たちのうちに住んでくださる以外ないのである。
“主よ、私の望みが、いつしみ深いことであるようにして下さい。アーメン”
 

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2005年3月19日(土) 聖書の箇所:箴言20章1〜30節/ 年間通読:民数記27〜30章
「計りごとは共に議することによって成る、戦おうとするならば、まずよく議しなければならない。」(18節)
  計画を立てることにおいて、ともに祈り考え意見を戦わせ、違いと一致を知るなかで、最善を求めてなすことが大切であることを教えられる。作戦を練ってから、戦うことが必要なのである。
計画を立てたり、作戦を立てたりすることは、聖書が教えることである。
しかし、その際に、神をお畏れ敬うことから来る誠の知恵によって互いに議すことによって、事が成就し、戦いに勝利するのである。
“主よ、ひとりよがりでなく、人の意見を良く聞くものとさせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月20日(主日) 聖書の箇所:箴言21章1〜30節/ 年間通読:民数記31〜33章
「勤勉な人の計画は、ついにその人を豊かにする、すべて怠るものは貧しくなる。」(5節)
  勤勉とは走るとかすばやいという意味の言葉(ルーツ)が、そして、怠るとは急ぐとか、早いという意味の言葉(ウーツ)が使われている。それ故、ここでの勤勉とはすばやく良く考え機敏に事をなすことであり、怠るとは労を惜しんで慌てて、焦って事をなすことを意味するといって良い。
主にあって、労を惜しまず、敏捷に事を運ぶことが豊かさの秘訣なのである。楽して、慌てて何かしても良い結果は得られないのである。
“主よ、あなたの知恵に基づいて、機敏に行動する者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月21日(月) 聖書の箇所:箴言22章1〜29節/ 年間通読:民数記34〜36章
「あなたの耳を傾けて知恵ある者の言葉を聞き、かつ、わたしの知識にあなたの心を用いよ。」(17節)
  ペットは飼い主に似る”とはよく言われたものだ。それだけ動物は飼い主に全神経を集中させ、その一挙手一動を観察しているからだろう。
私達はどうだろうか?もし私達が謙りと真実をもって知恵の源である主に聞き、心を向け続けていく時、私達は、その心は主の思いや、御性質に似る者とされるのではないか。
主が実に喜ばれるような、心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者(11節)とされ、他者と平和を築く真実な者とさせていただこう。
“いつもあなたに心を向ける者として下さい。アーメン”
 

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2005年3月22日(火) 聖書の箇所:箴言23章1〜35節/ 年間通読:ヨハネ3,4章
「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。」(26節)
  私達の存在に染み渡り、さまざまな誘惑や悪の道に勝つ恵みの授受のためには主を見つめる“霊的凝視”が不可欠となる。この霊的な凝視を曇らせてしまうのが“自我性”、“自己中心性″であろう。神への“凝視”はある種の痛みと献身が伴う。凄まじい自己中心性とそれに起因するさまざまな欲との戦いだからである。そこには毎瞬、毎瞬の心を主に向け、存在を主に捧げ、神を凝視し続ける決断が必要になるからだ。
今、我等の内にこの霊的凝視を妨げる物、事があるだろうか。それらを横に置き、今、心を主に与えよう。
“あなたを見つめ続けさせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月23日(水) 聖書の箇所:箴言24章1〜34節/ 年間通読:ヨハネ5,6章
「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。」(11節)
  いのちの危険に瀕しているものを救い出すことは神を信ずる者にとって、そのくすしき救いの御業に与った者にとっての義務であり、我らの主からの峻厳なご命令である。それを見て見ない振りをすることは私達にはできない。隣人愛に欠けるような歩みは神を実に悲しませることとなる。
私達の国の人々は見た目には富んでいても心はなんと乏しく、貧しいことか。自殺者、年3万人以上、不登校、年12万人以上・・、先進国の中でも突出している。魂が衰え、限りなく死に向かってよろめく我が同胞をキリストによって救い出せ!
“幾人かをあなたによって死地より救い出す者とし給え。アーメン”
 

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2005年3月24日(木) 聖書の箇所:箴言25章1〜28節/ 年間通読:ヨハネ7,8章
「銀から、かなくそを除け、そうすれば、銀細工人が器を造る材料となる。」(4節)
  銀を精錬する為には時間がかかる。炉の中で高温度にてじっくりと溶かすことで、はじめて不純物、かなかすが銀から離れ、浮遊する。そのかなかすを銀細工人はすくい上げ、純度の高い銀を作り上げる。
神が私達を純度の高いクリスチャンとするとき、本物を私達の内に築こうとする時、困難、苦難、試練という高温度の炉の中に入れられる時がある。私たちは実に苦しい思いをするが、その時こそ、私達のうちにあるかなかすが取り除かれ、純銀ならぬ神への“純愛”が練り上げられるのだ。
“主よ、わが心のうちからかなかすを取り除き給え。アーメン”
 

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2005年3月25日(金) 聖書の箇所:箴言26章1〜28節/ 年間通読:ヨハネ9〜11章
「自分の目に自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか、彼よりもかえって愚かな人に望み
がある。」(12節)
  愚かな者、なまけもの、悪しき心、言葉、陰謀を持つ者の特徴が記されている。愚かな、悟りのない者よりももっと愚かで、望みの無い者は、自己陶酔者、自己満足者であると語られている。
神への恐れと畏敬の念を持って、自らの客観的姿を主によって認識しつつ、主にあわれみと、足りなさの故の神による知恵の満たしを求め続けるものでありたい。謙り傲慢であっても、自己憐憫であってもいけない。素直に、単純に自らを主に委ね、求めるのだ。
“主よ、知恵の足りない私のうちに神の知恵と愛をお与え下さい。アーメン”
 

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2005年3月26日(土) 聖書の箇所:箴言27章1〜27節/ 年間通読:ヨハネ12〜14章
「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。」(10節)
  友、隣人の大切さを主に教えている章だ。キリスト教の一つのエッセンスは“交わり”にある。神との関係の修復が横のつながりの修復につながっていかなくてはならない。また神との健全な交わりが、隣人との健全な交わりにつながっていかなくてはならない。
心から祈り合える信仰の友を持ち、互いに愛し合い、仕えあうという真の信仰者の交わりが形作られていく時、神の愛とまことが世界に向かってさらに広く、大きく示され、横のつながりが拡大されていく。
“主よ、隣人を愛する愛を豊かに与えてください。アーメン”
 

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2005年3月27日(主日) 聖書の箇所:箴言28章1〜28節 / 年間通読:ヨハネ15〜19章
「忠実な人は多くの祝福を得る、急いで富を得ようとする者は罰を免れない。」(20節)
  信仰者にとってまず大切なことは忠実であるということだ。そこには浮き沈みが少なく、安定した歩みがある。目立たないかもしれないが、華やかさはないかもしれないが、堅実に、着実に謙りと、畏敬の念を持って神の前に歩むことこそ祝福の源となる生き方ではないか。
一時の霊的高揚だけを求める麻薬常習者的、一攫千金的な信仰生活はいけない。どこまでが信仰で、どこまでがそうでないのかわからないほどに主との深い交わりが自然になるまで主の前に忠実に、誠実に、着実に歩み続けるのだ。
“主よ、なによりもあなたの前に忠実な者としてください。アーメン”
 

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2005年3月28日(月) 聖書の箇所:箴言29章1〜27節
年間通読:ヨハネ 20,21章、申命記 1,2章
「預言がなければ民はわがままにふるまう、しかし律法を守る者はさいわいである。」(18節)
  預言とは、神様から預かり、与えられた言葉である。神様を認めない人々はいつも自分を正しいものとしている。だが主を信じていてもわがままであり得る。
弟子達は、最後の晩餐の時にも、誰が一番偉いかと争っていた。自分の存在や立場を他人と比較ばかりしていた。だが争いの絶えない醜い心のままで、御子の命にもまさる存在として認められていることに目が開かれた。
よみがえりの命に触れた時、彼らの生き方は、神に生きる、互いに愛すると方向が定まった。
“父よ。あなたの愛が分かりますように。他人と比較することから解放して下さい。アーメン”
 

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2005年3月29日(火) 聖書の箇所:箴言 30章1〜33節/ 年間通読:申命記3〜4章
「神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。」(5節)
  神の言葉の真実は、ご自身の存在の真実な愛から出ていると言える。人は様々に他の存在よりも優れた者であろうとする。その究極に神様を無視する生き方がある。
この著者は神様の前に謙虚である。主の言葉は真実である。主は創造主である。十字架も復活も当時も誰もが信じられないことであったが事実となった。
そして今、主イエスがもう一度この地上においでになると約束されている。やがてそれも事実となる。死を打ち破られたお方によって私たちは、永遠の希望が与えられている。
“神様。へりくだって神の言葉の真実の前に歩む者とならせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月30日(水) 聖書の箇所:箴言 31章1〜31節/ 年間通読:申命記 5〜7章
「あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。」(8節)
  箴言の結論にあたる部分であるだけに多くの示唆に富んでいる。信仰の継承、異性や酒の危険、正しいさばき、妻(配偶者)や家庭、知恵の重要性等である。
この章は、王への教えの言葉である。箴言全体でも表わされていることであるが、正しいさばきをして、民が喜び、神様の御名が崇められるようにと教えられている。
明治のクリスチャンもこの世の中に神様の栄光を表わそうとして、様々な事業をした。主は私たちを世の光、地の塩としてこの世に遣わしておられる。謙虚な自信を持って大胆に働こう。
“主よ。証人として主の栄光を表わさせて下さい。アーメン”
 

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2005年3月31日(木) 聖書の箇所:伝道の書 1章1〜18節/ 年間通読:申命記 8〜11章
「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」(2節)
  伝道の書は、この世のむなしさ、はかなさに目が向けられている。そして神に帰るべきことが示されている。
私たちは四季毎に喜びを覚えつつも、時の流れに命のはかなさを肌で感じ取っている。時の流れの中で私たちの存在は無に等しいように思える。どんな目新しいものも優れた知恵も心を満たすことはできない。
だが神様が示される時の流れは循環ではなく、直線である。主の創造に始まり、一度は神の恵みから離れたが、キリストによる贖いによって、全世界の救いの完成という目的に向かって進んでいる。
“神様。目的のある時間を感謝します。アーメン”
 

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