デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年4月のデボーション
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2005年4月1日(金) 聖書の箇所:伝道の書 2章1〜26節/ 年間通読:申命記 12〜15章
「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。」(2,3節)
  著者は王として、飲食、大事業、財、歌、そばめなどあらゆる快楽を尽くしたが、すべての人に訪れる死を思うとすべてはむなしく、「空」となった。古今東西多くの人々が生きる意味を考え、快楽主義や禁欲主義を唱えたりした。
しかしクリスチャンは神の国の法則に生きている。だから、主から与えられたものとして、様々な事を楽しむことができる。
また主にあってこの世の喜びを捨て、あらゆる苦しみにも耐えることができる。ハレルヤ!
“神様。神の子とされ、死も意味をなさず、喜べることを感謝します。アーメン”
 

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2005年4月2日(土) 聖書の箇所:伝道の書 3章1〜22節/ 年間通読:申命記 16〜19章
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(12節)
  様々な業と労することは、骨折りで益がなく思われる、なぜなら神は絶対的な存在で変らない、また人は獣と同じくちりに帰る。こう考えると、運命論者となり、生きることをいとうか、刹那的な喜びを求めるばかりである。
しかし人は運命に生きるのではなく獣とも違う。神様と同じように永遠を思う心が特別に与えられているからだ。主の十字架での苦しみ、復活を思う時、すべての労苦も意味を見出す。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」 神の業を私への最善のものとして喜んで受け入れることができる。
“神様。私に最善をして下さることを信じます。アーメン”
 

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2005年4月3日(主日) 聖書の箇所:伝道の書 4章1〜16節/ 年間通読:申命記 20〜23章
「すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。」(10節)
  ここにはしえたげられるむなしさ、助けるもののないむなしさが記されている。私たちは一般的なしえたげも、信仰的なしえたげも経験する。
神の民の特色の一つは、愛の交わりである。互いに人を喜びもてなすことである。神様から来る命の喜びを人にも分かち与えるのである。
信仰の友人を多く持っている人は、信仰につまずきにくいと言われている。疲れている時、倒れる時にその友の信仰に支えられるからである。
何よりも私たちを死から救い友となって下さったのは主イエス・キリストである。
“父よ。御子が友となって下さいましたから、私も人々の友のとなります。アーメン”
 

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2005年4月4日(月) 聖書の箇所:伝道の書 5章1〜20節/ 年間通読:申命記24〜27章
「夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ」。 (7節)
  あれもこれもしたいという時には、言う言葉も誠実さがなくなってくる。
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)とあるように、神の御旨だけが堅く立つことを覚える必要がある。そして神の御旨を知るためには神を畏れ敬うことが大切である。
“あなたは”とあるように、人に気を取られることなく、自分自身は神を恐れ、神に従うことが大切なのである。
“主よ、あなたを恐れ、あなたの御旨のみに従わせて下さい。アーメン”
 

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2005年4月5日(火) 聖書の箇所:伝道の書 6章1〜12節/ 年間通読:申命記28〜29章
「今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない」。(10節)
  富と財産(財宝)と誉とを与えられても、他人にそれらが渡ってしまって、その本人はそれを少しも楽しむこともしない人がいる。
また、どんなに長生きしても心に満足が得られず、幸せを感じない人がいる。それはその人が神の定めを知らないからである。神が定めたことを最高のこと、最善のこととして、喜んで受け入れることが大切なのである。
“主よ、与えられたものや環境において幸せを感じさせて下さい。アーメン”
 

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2005年4月6日(水) 聖書の箇所:伝道の書 7章1〜29節/ 年間通読:申命記30〜32章
「知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。しかし、知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である」。(12節)
  資産や金銭の有用性を認めつつも、知恵や知識の優越性を述べる。金銭はやがては尽き、また、それにより頼んでいたら、命も尽きてしまう。
しかし、知恵は使っても尽きることがない。その知恵が与えられるためには、私たちは知恵のもとである神に立ち返る必要がある。
“主よ、あなたの知恵をお与え下さり、それによって生かして下さい。アーメン”
 

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2005年4月7日(木) 聖書の箇所:伝道の書 8章1〜17節
年間通読:申命記33、34章、使徒1章
「罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている」。(12節)
  この世の中には不条理が満ちている。罪人や悪い者がすぐに滅ぼされないで、のさばり、長生きをするということである。そのような時に、私たちは、不平を言ったりする場合がある。
しかし、彼らは、決して幸福でないのである。神をかしこみ、恐れ敬う者にこそ幸福があるのである。
“主よ、あなたの御前に歩む人生にこそ真の幸福があることを示して下さい。アーメン”
 

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2005年4月8日(金) 聖書の箇所:伝道の書 9章1〜18節/ 年間通読:使徒2〜4章
「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」。(10節)
  死んだ先にはわざも計略も、知識も、知恵もないから生きている間に、なしうることを力をつくして、なすように、伝道者は勧めている。確かに一理あることであるが、まず私たちが求むべきことは、神の国と神の義である(マタイ6:33)。
そして、キリストによってこの神の国と神の義が与えられるのである。
“主よ、まず、私たちが求むべきことを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2005年4月9日(土) 聖書の箇所:伝道の書 10章1〜20節/ 年間通読:使徒5〜7章
「つかさたる者があなたに向かって立腹しても、あなたの所を離れてはならない。温順は大いなるとがを和らげるからである」。(4節)
  自分の上司や上に立つ者が例え怒っても、自分のおるべき所を離れてはならないと言うのである。温順(新改訳:冷静)はその怒りを和らげるのである。
私たちは、このことにおいて、イエスさまを見習うべきである。主は黙々として、自分を正しく裁いてくださる方にすべてを委ねたのであった。そこに救いの道が開かれたのであった。
“主よ、相手がどんなに怒っても冷静に対応できるようにして下さい。アーメン”
 

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2005年4月10日(主日) 聖書の箇所:伝道の書 11章1〜10節/ 年間通読:使徒8〜10章
「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」。(1節)
  無駄のようなことであっても、それが実を結ぶようになるのである。特別伝道会のチラシを配っていて、それが捨てられ雨にぬれたが、そのチラシを見て、集会に来た方がいたということである。又、ゴミとして捨てられた聖書を拾ってそれを読んで救われた方もいます。私たちが配るトラクトやチラシなどは決してむだにならないのである。
“主よ、あなたが私たちの働きも実を結ばせてくださることを感謝します。アーメン”
 

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2005年4月11日(月) 聖書の箇所:伝道の書12章1〜14節
年間通読:使徒行伝11〜13章
「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(13節)
神のいない人生、神が中心でない人生はまさに「空の空、いっさいは空である」(8節)。
  神を恐れ、敬い、その指し示される道を歩む時、はじめて人は真に、人間として存在しえる。この中心からずれると“的外れ”(罪を意味するギリシャ語の元々の意味)となり、“的外れ”な思い、“的外れ”な性質に捕らわれ、その人生も誠に“的外れ”な、空しいものとなってしまう。
神をまず求め、第一としていく、という的を外さない、満ち足りる歩みを徹底して貫いていこうではないか。
“主よ、今日もあなたを何よりも大切にできますように。アーメン”
 

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2005年4月12日(火) 聖書の箇所:雅歌 1章1〜17節/ 年間通読:使徒行伝 14〜16章
「わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ。」(15節)
  花婿と花嫁が互いに対する愛を語る歌である。単なる愛の歌ではなく、この背後にある王なる神の私達に対する愛が、どのようなものかを悟ることができる。
どのような、極悪人であっても、偽善な者であっても神はこよなく人を愛すお方だ。その愛の極点が十字架だ。それは私達を、人類を罪の呪縛から解放させるために、御自分の1人子、イエスを死に至らしめたほどの強烈な私達への愛の具体的な表れだ。
“わが愛する者よ”と語る神の愛は、今日も十字架から私達の心に迫る。
“あなたの愛を心から感謝します。あなたの御愛に応答させて下さい。アーメン”
 

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2005年4月13日(水) 聖書の箇所:雅歌 2章1〜17節/ 年間通読:使徒行伝 17〜19章
「われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」(15節)
  2人の間の愛を妨げるいかなるものも取り除いて欲しいという願いが語られている。
神の愛はいつも熱く、どこまでも純真で、聖で、私達に迫るものだ。その愛には一点の傷もシミない。問題なのはその愛の受け手である私達だ。神の愛の受け取りを遮断させてしまうような子ぎつねが私達の心を荒し、信仰をゆがめてしまうことがある。
私達にとっての子ぎつねは何であろうか?お金か?自己保身の心か?不安か?悩みか?神の愛を遮断させる私達にとっての子ぎつねを捕らえよ!
“余計なもの私の心から除き、あなたの愛で満たしてください。アーメン”
 

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2005年4月14日(木) 聖書の箇所:雅歌 3章1〜11節/ 年間通読:使徒行伝 20〜22章
「シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見よ。」(11節)
  ソロモンの婚礼の日にその行列を歌ったものであろう(11節)。婚礼の行列を眺めるエルサレムの住民たちの感嘆の声が聞こえてきそうだ。美しく荘厳な乗物に乗ったきれいに着飾ったソロモン王の姿は息を飲む光景だったに違いない。
しかしここにソロモンよりもはるかに勝った真の王、イエス・キリストがおられる。この方は内側から現れる“聖なる美しさ”で溢れている。その自己犠牲の愛がわれらの主の王冠である。
信仰とはこの真の王なるキリストを見上げ続けていくことに他ならない。日々、信仰の目を上げてこの王なるキリストを見るのだ。
“主よ、苦しみの時こそあなたを見上げさせ給え。アーメン”
 

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2005年4月15日(金) 聖書の箇所:雅歌 4章1〜16節/ 年間通読:使徒行伝 23〜25章
「わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない。」(7節)
  花婿の美しい花嫁に対する言葉である。愛なる私達の主は、罪によってきずつき、汚れに汚れた私達を、ご自分の血潮によってきよめ、洗い流し、さらに新しいキリストの輝くいのちを与えることで、私達の存在を刷新し、神の義をまとい、その愛を内に宿す者にしてくださるお方だ。
傷ついた存在を美しい、うるわしい存在に変えてくださるのが、私達の主だ。
“わが愛する者よ”と語ってくださる主、私達のうちに、主にある真の美しさを形作って下さる主を今日も覚え、心にお迎えしよう。
“主よ、ますます私達を美しい存在に変えてください。アーメン”
 

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2005年4月16日(土) 聖書の箇所:雅歌 5章1〜16節/ 年間通読:使徒行伝 26〜28章
「その言葉は、はなはだ美しく、彼はことごとく麗しい。エルサレムの娘たちよ、これがわが愛する者、これがわが友なのです。」(16節)
  花婿を捜し、花嫁はエルサレムの娘たちに尋ねるが、逆に花婿の特徴を聞かれ、その花婿の素晴らしさを説明する場面である。
私達の主ほど麗しいお方はいない。主の語る一つ一つの言葉は実に美しく、人を生かす力がある。人の人生は誰と、また、何と共に歩むかで決まる。
世の欲、この世の価値観、自身の思い込みと共に歩む人生の終焉は実に空しい。しかしこの麗しい、至上の友、イエスと共に日々を歩む時、私達の存在も麗しくされ、人生も麗しさで満つものとなる。
“私の永遠の友となってくださる主よ、この特権を感謝!アーメン”
 

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2005年4月17日(主日) 聖書の箇所:雅歌 6章1〜13節/ 年間通読:ヨシュア 1〜4章
「わがはと、わが全き者はただひとり、・・・」(9節)
  再び花婿が花嫁を称えている。女性はあまたいるが、汚れがなく、比類のない美しさ、慕わしさを合せ持っているのはこの花嫁以外にないと語る。
私たちはキリストの血潮によって神につなぎ合わされたものだが、神につく者としての比類のない聖なる美しさ、慕わしさを合せ持つ必要がある。もちろんそのような存在にしてくださるのは神であるが、そこにはいつも神につなぎ合わされた者としての自覚と、主のために身を清く保っていこうとする意志が不可欠だ。世の人々とは違うキリストにある気品、内から溢れる聖なる美しさを身につけさせていただこう。
“キリストの香りを放つものとし給え。アーメン”
 

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2005年4月18日(月) 聖書の箇所:雅歌7章1〜13節/ 年間通読:ヨシュア5〜8章
「わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う。」(10節)
  花嫁が花婿に対して語る愛の言葉である。教会は、新約聖書の中でしばしばキリストの花嫁と譬えられている。
クリスチャンは、神様が私たちを愛するがゆえに、罪の代価を払って買い取られた者である。だから、私たちは、喜んで「私は私を愛して下さる主のものです」と言うことができる。
結婚する二人の間に何者も入ることができないし、入れてはならないのと同じように、主と私たちの間にはこの世のものが入る余地はない。また主は、この世における結婚においても主の愛を表わすように望んでおられる。
“父よ。主のものとされたことを感謝します。主を愛します。アーメン”
 

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2005年4月19日(火) 聖書の箇所:雅歌8章1〜14節/ 年間通読:ヨシュア9〜11章
「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。」(6節)
  「印」は今の「実印」のようなものであって、首からかけたり、指輪にして肌身離さず持っていたものである。今でも羊などの家畜には所有者を明らかにする「焼き印」が押されている。
私たちは「彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証」(エペソ1章13,14節)である。
聖霊の証印によって、朽ちず、汚れることのない神の国が与えられている。神の国をつぐ「皇太子」として歩むことができる。ハレルヤ!
“神様。神の国をつぐこと、また聖霊による証印があることを感謝します。アーメン”
 

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2005年4月20日(水) 聖書の箇所:イザヤ1章1〜31節/ 年間通読:ヨシュア12〜15章
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(18節)
  イザヤは南ユダの預言者であったが、南ユダだけでなく諸国の、当時だけでなく捕囚から終末に至るまでのさばきと回復を預言している。「緋」「紅」は真っ赤な染料で、普通何度も染めて色が落ちないようにする。
私たちの罪や心の汚れが何度も繰り返され、自分でもいやになるほどであったとしても、主はしみもきずもない全くきよい者にするという一方的な宣言である。罪過は自分で密かに処理はできない。主の前に出す(「論じる」)時処理される。
“主よ。主の宣言によって染みついた罪も赦されたことを感謝します。アーメン”
 

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2005年4月21日(木) 聖書の箇所:イザヤ2章1〜22節/ 年間通読:ヨシュア16〜19章
「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。」(2節)
  終末に多くの民が主を礼拝するという預言である。だがこの時、人々は占い、偶像礼拝、高ぶり、贅沢に目を奪われていた。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、」(22節)と今も主は、私たちに語りかけておられる。
私たちは何に頼っているだろうか。占い、偶像礼拝、高ぶり、金銭や持ち物への執着、人への依存をやめ、「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ」(1章2節)と言われる主の教えにのみ聞き、その道を歩もう。礼拝厳守し、ディボーションで主の言葉に傾聴しよう。
“神様。他のものに頼るのをやめ、あなたに頼り、その教えに歩みます。アーメン”
 

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2005年4月22日(金) 聖書の箇所:イザヤ3章1〜26節/ 年間通読:ヨシュア20〜22章
「主は言い争うために立ちあがり、その民をさばくために立たれる。」(13節)
  神様からはなれ、腐敗した国が混乱に陥った様子が示されている。今も、為政者、上に立つ者たちの腐敗や不正は後を絶たない。また隣人同士の争いも増加している。社会が創造主から離れて混乱している。
しかし神様は、キリストにある永遠の王国を始められた。主ご自身がさばきのために立っておられる。神の国の民である私たちは、一人一人の心が変えられて、また為政者たちも国も主によって変えられるようにと祈る。
また主は、神の国の大使として愛に満ち平和をつくり、正しい裁きを行う者を求めておられる。
“神様。あなたと心を一つにし、祈り働きます。アーメン”
 

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2005年4月23日(土) 聖書の箇所:イザヤ4章1〜6節
年間通読:ヨシュア23,24章、ローマ1章
「シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られる、、」(3節) 
  イザヤは「終りの日」「その日」と繰り返し語り、神様の裁きの時を語っている。その時は誰もが神様から隠れる場所はないかと探す時でもある。
しかし主を信じる者にとっては、その日は救いの日となる。主から隠れる理由は何もない。主がその人の汚れを洗ってぬぐい、罪を取り除いて、聖なる者として下さるからである。これはキリストの十字架による贖いによる。だからむやみに恐れる必要はない。それどころか出エジプトと同様に、聖霊の助けによって、いつもそばにおられることを示し様々な障害をも防いで下さる。
“主よ。救いの日を待ち望み感謝します。アーメン”
 

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2005年4月24日(主日) 聖書の箇所:イザヤ5章1〜30節/ 年間通読:ローマ2〜5章
「しかし万軍の主は公平によってあがめられ、聖なる神は正義によって、おのれを聖なる者として示される。」(16節) 
  南ユダ王国に対する厳しい裁きが示されている。だがその前に示されているのは、ブドウ畑に譬えられた、至れり尽くせりの神様の愛であった。
神様は、預言者を何回も遣わし、悔い改めを勧めたが、ユダの人々は高ぶって、神様のねんごろな導きをことごとく踏みにじってしまった。そこに待っていたのは、聖なる神様の公平なさばきであった。
「わざわいなるかな」と何度も言う前に、どれほど主の愛が示されたことか。主の前にへりくだって、今悔い改め、愛のみ手に飛び込もう。
“父よ。高ぶっていた私をおゆるし下さい。アーメン”
 

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2005年4月25日(月) 聖書の箇所:イザヤ6章1〜13節/ 年間通読:ローマ6〜8章
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。 (8節)
  ウジヤ王の死んだ年(BC742年)のことである。このウジヤ王は52年間治めた偉大な王であったが、高ぶって、祭司たちがする香をたいて主に罪を犯してしまった。
その王が死んだので悲しみと神の審きとを思って神の前に出ていた時に、聖なる神に触れ、自分の汚れと罪を知らされて、「わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ。すると祭壇の上から取ってきた燃えている炭によってきよめられたのであった。その時、神の声を聴きそれに応答したのであった。
“主よ、神の御声に応答させて下さい。アーメン”
 

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2005年4月26日(火) 聖書の箇所:イザヤ7章1〜25節/ 年間通読:ローマ9〜11章
「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」(14節)
  これはメシヤの処女からの降誕の預言である。これはアハズ王に、しかも歴史(BC730年ごろ)の文脈の中で語られたのであるが、これが730年後に成就したのである。
処女降誕はしるし(神の奇跡)であり、直接的に神が介入して、人類の救いのためになされた御業である。それは神が人となると言うことであった。ここに、神の強烈な愛を見ることが出来る。
“主よ、この大きな愛を知る者として下さい。アーメン”
 

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2005年4月27日(水) 聖書の箇所:イザヤ8章1〜22節/ 年間通読:ローマ12〜15章
「あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない」。(13節)
アッスリヤが攻めて来て、サマリアがぶんどられることが主によって語られる。もろもろの民が計っても、それは実現しないのである。それは“神がわれわれと共におられるからである”(10)。
だから、ユダヤの民の陰謀や恐怖に乗っかってはならないと主は命じなさり、あくまでも万軍の主を超越的な絶対的な神として、かしこんで恐れ敬いなさいと命じなさるのである。
“主よ、人の力や、サタン的なものを恐れず、あなたのみを拝み、仕える者として下さい。アーメン”
 

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2005年4月28日(木) 聖書の箇所:イザヤ9章1〜21節
年間通読:ローマ16章、士師1〜2章
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」。(6節)
これはメシヤ預言である。アッスリヤによって滅ぼされた北イスラエルもメシヤによる救いに与かっていくのである。勿論、ユダもである。同時にその方は異邦人の救い主となるのである。
そしてそのお方は人間であり、神なるお方なのである。 
“主よ、あなたが熱心な愛によって私たちのために救い主をお与え下さり感謝します。アーメン”
 

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2005年4月29日(金) 聖書の箇所:イザヤ10章1〜34節/ 年間通読:士師3〜5章
「主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる」。(12節)
  “アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ”(5)とあるように、神はアッスリヤを用いて神の審きを行うのであり、その後でアッスリヤは無礼の言葉と高ぶりの故に滅ぼされるのである。
例え残忍な者で、容赦をしない敵であっても、主のみ手の中にあり、主の為に用いられるのである。そして、それもやがて主の審きにあうのである。
“主よ、どんな者をも神の絶対的な権威のもとにあることを感謝します。アーメン”
 

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2005年4月30日(土) 聖書の箇所:イザヤ11章1〜16節/ 年間通読:士師6〜8章
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。(2節)
  エッサイの子孫からメシヤが出ることが預言される。そのメシヤには聖霊が留まるのである。その霊は知恵の霊、才能の霊であり、主を知り、主を恐れる霊である。
メシヤはこのようにまず何よりも聖霊の油を注がれたお方である。そしてその御霊によって信じる者も満たされるのである。更にその御霊により、キリストと同じ姿に変えられていくのである(第2コリント3:17)。
“主よ、私たちが聖霊に満たされて、主と同じ姿に変えて下さい。アーメン”
 

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