デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年6月のデボーション
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2005年6月1日(水) 聖書の箇所:イザヤ43章1〜28節/ 年間通読:列王上3〜6章
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、」(19節) 
  主は、背き続けるイスラエルの民に、これでもかというほどにあがなう者として道を示しておられる。
この「新しい事」は「いにしえのこと」(18節)と対比されている。つまり過去の事を思い出すな、考えるなと言っておられる。一つは、過去の罪や失敗、結果としての苦しみである。主が「あなたのとがを消す者」(25節)だからである。もう一つは、過去の主のくすしいみわざである。これまで以上の新しい事が起こるからである。
主にあがなわれた事を確信し、やがて与えられる恵みに目を向けて歩もう。
“主よ。過去への囚われを忘れます、やがて起こる事に目をとめます。アーメン”
 

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2005年6月2日(木) 聖書の箇所:イザヤ44章1〜28節/ 年間通読:列王上7〜8章
「あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主」(2節)
  主は、私たちを胎内に造られたお方である。ここでは特に偶像との係わりで言われている。
偶像は、人が刻み、人が作り、見ることも聞くこともできないのに、それを拝んでいる。一方、まことの神は世界の始まる前からおられ、世界を創造し、今も一人一人を形作り、生かしておられる。
この主が私たちを呼んでおられる。「エシュルン」とは、イスラエルを幼児とみなした親しみをこめた呼び方である。何ができなくても、どんなに手間がかかっても愛される幼児のように、私たちを造られたお方は私たちを愛し呼んでおられる。
“父よ。惜しみなく愛されていることを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月3日(金) 聖書の箇所:イザヤ45章1〜25節/ 年間通読:列王上9〜11章
「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」(5節)
  創造主なるまことの神様を信じていない人も世の中には多くいる。また様々な偶像があり、占いがある。しかし神はただ一人である。主は偶像を拝む者をも知り、その人が主を知らなくても、主の民のために用いてこられた。
教会内もそうだが教会の外がどんなに異教の地であろうと、創造主なる主の支配の中にある。かつてペルシャのクロス王を用いイスラエルの民を帰還させた神は、今も私たちの生きる世界で働いておられる。
“神様。主がすべて治め、働いておられる世界ですから、すべてが最善と信じます。アーメン”
 

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2005年6月4日(土) 聖書の箇所:イザヤ46章1〜13節/ 年間通読:列王上12〜14章
「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(4節)
  私たちを胎の中で形造られた主は、私たちの生涯の最後まで私たちを負い、持ち運び、救って下さるお方である。
今日の長寿社会に生きる中で、肉体や脳の老化によって、自分自身さえ不覚に陥らない保証はない。まして信仰などおぼつかないように見える。
私たちを造られた主はそれらの事もご存知で、かつての信仰告白を確かなものとして、最期の時まで負い、持ち運んで下さる。
“主よ。若い時も老いた時も、主が私を負って下さるから感謝します。アーメン”
 

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2005年6月5日(主日) 聖書の箇所:イザヤ47章1〜15節/ 年間通読:列王上15〜17章
「その名を万軍の主といい、イスラエルの聖者である。」(4節)
  バビロンの破滅の預言が記されている。
なぜ破滅なのか。一つは、主が罰してバビロンに渡したイスラエルにあわれみを施さないからである(6節)。もう一つは、楽しみにふけり、終りの事を思わないからである(7,8節)。
そしてバビロンを救う神はいない、人もいないと語られている。全地の統治者、全くきよい聖なるお方。終りの時に私たちは、この主の前に立つのである。誰が立ちうるだろうか。
だがキリストによって新しく生まれた者は「われわれをあがなう者」(4節)と呼ぶことができる。ハレルヤ!
“主よ。全く汚れた者が「主」にあがなわれたことを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月6日(月) 聖書の箇所:イザヤ48章1〜22節/ 年間通読:列王上18章〜19章
「あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる
「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる」。 (17節)
  11節では神ご自身の栄光のためにこれ(捕囚と解放の両方をさす)を行うとあるが、これは
同時にイスラエルの民の利益のためである。その利益とは彼らの平安(繁栄)と義及び子孫の繁栄ことである。
ここで神の栄光をあらわすことは私達の益なのであることを覚えたい。
“主よ、あなたの栄光のために生きる者とさせて下さい。アーメン”
 

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2005年6月7日(火) 聖書の箇所:イザヤ49篇1〜26節/ 年間通読:列王上20章〜21章
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」。(15節)。
  母親がその乳の子を忘れることがないように、神はまだ育てきっていないイスラエルを忘れることがない。たとい母親が忘れることがあっても、主は決して忘れないというのである。
それ故、神に期待し、主を待ち望み続けよう。
“主よ、あなたの真実な愛を信じ続けさせて下さい。アーメン”
 

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2005年6月8日(水) 聖書の箇所:イザヤ50章1〜11節
年間通読:列王上22章〜列王下1章
「あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか」。(10節)
  4節〜9節は第3の「僕の歌」と言われる。
僕なるメシヤ、苦しみ辱められるメシヤのことである。この僕に聞きしたがうことが言われているが、それは主を恐れる者でもある。
しかも、“暗い中を歩いても光を得ない”とあるように、苦しみと痛みがいつ果てるか分からないような、その中において、なお主に信頼する者を求めておられるのが主である。
“主よ、絶望と暗闇の中で、あなたに信頼させて下さい。アーメン”
 

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2005年6月9日(木) 聖書の箇所:イザヤ51章1〜23節/ 年間通読:列王下2章〜3章
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。(1節)
  イスラエルの民にその救いの原点、どのような中からから救われたかを思い出すように語っている。
私たちも、いつも救いの原点を知る必要があるのである。罪と汚れの中にあったのが、取るに足りないものであったのが、主の民、主の宝の民とされたのである。
ここに再び、イスラエルが神の大いなる力によって、救い出される時が来たである。
“主よ、あなたが義の故に審くが、又、愛の故に弁護されることを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月10日(金) 聖書の箇所:イザヤ52章1〜15節/ 年間通読:列王下4章〜5章
「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て」。(11節)
  イスラエルの民がいよいよ解放されて再び、エルサレムに帰ってくることが言われる。これは救いにおける主の力強さの顕われであり、地の果ての人々もそれを見るのである。
又これは主がエルサレムの王であることを再びあらわすことであり、更に、イスラエルの民にとっては、喜びなのである。
“主よ、あなたが私たちの王であることを感謝します。あなたの支配を顕して下さい。アーメン”
 

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2005年6月11日(土) 聖書の箇所:イザヤ53章1〜12節/ 年間通読:列王下6章〜8章
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。(5節)
  52章13節〜53章12節は第4の“僕の歌”と言われているものである。これはイエスの生涯と十字架の預言である。
正にあの十字架の死はわれわれの罪ととがのためのものであったのである。私たちはその打たれた傷によって、肉体の病も心の傷も癒されるのである。
“主よ、メシヤが預言の通りに私たちの罪のために死なれたことを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月12日(主日) 聖書の箇所:イザヤ54章1〜17節/ 年間通読:列王下9章〜10章
「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」。(2節)
  主がご自身の民を増やされるので、その民が住むことができるように、住まいを広げ、それが倒れないように、しっかりと建てるようにということである。
捕囚からの解放後、神の民が増え、外国にまで及ぶことも言われている。また、十字架の赦しに与かる者が多くおこされ、それが全世界に及ぶことをも予言したものでもある。
“主よ、救われた多くの人を入れることが出来るために、会堂を広げさせて下さい。アーメン”
 

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2005年6月20日(月) 聖書の箇所:イザヤ62章1〜12節/ 年間通読:歴代上1〜3章
「彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、」(12節)
  イスラエルの人々は、奴隷生活から解放され、喜んで約束の地へ来た。だがその後、主に信頼せず、主の示される正しい道には従わず、悪い行いをしては懲らしめられるという繰り返しである。
それでも主は、あきらめず、見捨てずに、導いて、救いの喜びを返し、正しい者として下さると約束して下さっている。私たちも、主に信頼せず、主に背いて主を悲しませることがどれ程多いかわからない。
主は、私たちを「聖なる民」と呼ばれるにふさわしい者にすると約束して下さっている。
“主よ。主の約束にしたがって、聖なる者として下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月21日(火) 聖書の箇所:イザヤ63章1〜19節/ 年間通読:歴代上4〜6章
「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い」(9節)
  63,64章は神への祈りである。その中で私たちの悩みの時に、主も共に悩んで下さるお方であることが言われている。
主は天におられるお方であるが、私たちの中にまで来て共に悩まれた。そして救いの道を開かれた。キリストの十字架と復活がそれである。
私たちは今も働くサタンによって、時に主を憂えさせるかもしれない。だが主の復活は、サタンの力の源である罪と死を完全に打ち砕いている。
悪魔の働きがどんなに強そうに見えても、すでに勝利はみ主のみ手ある。
“父よ。私の悩みを共に負って下さり、また十字架による勝利を下さって感謝します。アーメン”
 

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2005年6月22日(水) 聖書の箇所:イザヤ64章1〜12節/ 年間通読:歴代上7〜10章
「あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。」(5節)
  主の恐るべき威光、自らの深い罪を見て、とりつく島もない中で、父なる主にあわれみを請うて祈っている。
ここで「記念する」とは特別な出来事を忘れないことである。ディボーションにおいても、どれくらい聖書を読んだか、どれくらいの時間祈ったかということよりも、み言葉を通して、祈りを通して、どのような出来事が、変化が起こったかが大切である。
主にあって起こった出来事がまさに私たちの「記念する」ことである。その出来事は、さらに主と自らの隔たりの大きさを示しつつも、「父」よ(8節)と呼ばせ近づかせる。
“父よ。恐れつつあなたを記念します。アーメン”
 

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2005年6月23日(木) 聖書の箇所:イザヤ65章1〜25節/ 年間通読:歴代上11〜14章
「彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におる、、」(23節)
  65,66章は祈りに対する神様の答である。神様の愛と忍耐の中、厳しい裁きと新天新地の祝福が記されている。驚くほどの祝福が人にわかりやすく記されている。
  喜びに満ちあふれ、泣く声と叫ぶ声はない。
  おおかみと小羊とが共に食している。
  平和と充足があふれている。
私たちはこの祝福に自分の子供、家族と共に与りたいと願う。
「主を求めなかった者」「主を尋ねなかった者」(1節)にさえ与えられたこの福音は、今度は私たちの取りなしを通して、子供や家族、次世代の人々に手渡されていく。
“父よ。この福音の祝福に私の家族も隣人も与りますように。アーメン”
 

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2005年6月24日(金) 聖書の箇所:イザヤ66章1〜24節/ 年間通読:歴代上15〜17章
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」(22節)
  イザヤ書の最後にふさわしく、多くの大切な言葉が記されている。
私たちにとって大切なことは、何に向かって進んでいるかを明確にすることである。その目標に向かうために何が必要で何をすべきか選択しなければならない。
私たちは何でもできるほどの時間を持っていない。茨に落ちた種は、実を結ばなかった(マタイ13:22)。
新しい天地に向かって「へりくだって心悔い」(2節)、主の「栄光をもろもろの国民の中に伝え」(19節)ていこう。
ア“神様。神の国に向かって、大切なもの見極めさせて下さい。ーメン”
 

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2005年6月25日(土) 聖書の箇所:エレミヤ1章1〜19節/ 年間通読:歴代上18〜21章
「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。」(9節)
  エレミヤは預言者としての召命を受けた時「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」(6節)と言っている。正直な気持ちであろう。
私たちもどのように福音を証し、伝えるのか試行錯誤している。だが主が私たちに語っておられることは、キリストの十字架と復活を信じ、受け入れた時、私たちは神様との全く新しい関係に入り、聖霊により、神様からの恵みの言葉をもっているということである。
それは主からの賜物で、事実に裏打ちされた力強い言葉である。
“主よ。私を遣わされた主の「み言葉」を語れることを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月26日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ2章1〜37節/ 年間通読:歴代上22〜25章
「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか。」(21節)
  まずここに言われている大切な事実は、神様が私たちを「まったく良い」ものとして造られたということである。
世界に比べて今の日本人の特色の一つは「劣等感」である。主が良いと言われているのにそれを否定していないだろうか。
人は自分の罪や弱さを離れてから主の下に行こうとするが逆である。主が私を「主のために聖別した」(3節)と信じるところに、主が働いて罪から離れさせ、劣等感からも解放して下さる。
主の下におれば、悪の下にはいない。
“主よ。主のものとされたことを信じます。アーメン”
 

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2005年6月27日(月) 聖書の箇所:エレミヤ3章1〜25節/ 年間通読:歴代上26章〜28章
「まことに、イスラエルの救はわれわれの神、主にあるのです」。(23b節)
  イスラエルはバールを礼拝し、姦淫を行なって離縁状を渡された妻のようであった。そのような場合、妻は再び元の夫のところに帰ることはできない(申命24:1)。
しかしここでは背信をいやすと言われている。そのためには罪を認め、主に不従順であったことを悔い改めることが不可欠である(13)。
しかし、赦されるのは悔い改めと言う行為によるのでなくイエスさまの贖いの血によるのである(ヘブル9:22)。それほどに愛したもう神の愛によるのである。
“主よ、赦すことができない罪を愛の故に、十字架の故に赦してくださることを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月28日(火) 聖書の箇所:エレミヤ4章1〜31節
年間通読:歴代上29章〜歴代下2章
「主はユダの人々とエルサレムに住む人々にこう言われる、「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな」。(3節)
  神の審判の到来(13)とエレミヤの嘆き(19)及びその激しさ(23)が語られている。バビロン軍によってエルサレムが滅ぼされ、荒れ果てていくことのリアルな預言である。
しかしこのような中にも憐れみがあるのである(27)。そのような中で柔らかな心をもって、神は神ご自身に対して従順であって、決して頑なにならないように、命じておられるのである。
“神さま、悔い改めることによって、審きから逃れられることを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月29日(水) 聖書の箇所:エレミヤ5章1〜31節/ 年間通読:歴代下3〜6章
「エルサレムのちまたを行きめぐり、見て、知るがよい。その広場を尋ねて、公平を行い、真実を求める者が、ひとりでもあるか捜してみよ。あれば、わたしはエルサレムをゆるす」。(1節)
  一般の民から、偉いひとまでまた預言者及び祭司までも、神に対して、不従順で悪を行なっているが、もし公平を行い、真実を求めるものがひとりでもあればエルサレムをゆるすというのである。
ここに1人の価値がいかに大きいかを見ることができる。まして、神の御子であり、義と公平と真実と愛のうちに歩まれたひとりのイエスさまの十字架の血はそれ以上の価値が無いであろうか。
“主よ、イエスさまを感謝します。アーメン”
 

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2005年6月30日(木) 聖書の箇所:エレミヤ6章1〜30節/ 年間通読:歴代下7〜10章
「エルサレムよ、戒めを受けいれよ。さもないと、わたしはあなたから離れ、あなたを荒れ地とし、住む人のない地とする」。(8節)
  「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ」(13)とあるように、救いようが無い故、残忍で、憐れみの無いバビロンを攻めこさせて、エルサレムを滅ぼすというのである。
しかし、8節では、最後の最後まで、悔い改めを迫っているのである。神の義と神の愛とが戦っているかのようである。
これはあのイエスさまの十字架の苦しみにつながるものでもあると言える。
“父よ、あなたが最後までも愛して下さることを感謝します。アーメン”
 

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