デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年7月のデボーション
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2005年7月1日(金) 聖書の箇所:エレミヤ7章1〜34節/ 年間通読:歴代下11〜14章
「もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく・・・わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる」。(5〜7節)   
  神殿にきて主を礼拝し、わたしは救われたと言っても、偶像礼拝をし続けるなら、滅ぼされるのである。
更に、主は「あなたはこの民のために祈ってはならない」(16)とまでエレミヤに言われている。しかし、それでも、悔い改めたら救って下さると言うのである。
“神さま、あなたの憐れみを感謝します。アーメン”
 

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2005年7月2日(土) 聖書の箇所:エレミヤ8章1〜22節/ 年間通読:歴代下15〜18章
「あなたは彼らに言わなければならない。主はこう仰せられる、人は倒れたならば、また起きあがらないであろうか。離れていったならば、帰ってこないであろうかと」。(4節)。
  この8章も民のすべてが神にそむき偶像礼拝をしていて、手の施しようが無いことが言われている。彼らは恥ずかしいことも恥ずかしいと思わなくなってしまったのである。このように救いようが無い、癒されようが無い神の民が記されている。
この中でエレミヤは「わが心は痛む」(21)とここでも言っているのであるが、彼はそむく神の民を痛みをもって愛しているのである。
“主よ、罪にある人々を痛みをもって愛する者として下さい。アーメン”
 

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2005年7月3日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ9章1〜26節 / 年間通読:歴代下19〜22章
「それゆえ万軍の主はこう言われる、「見よ、わたしは彼らを溶かし、試みる。このほか、わが民をどうすることができよう」(7節)
  神はその民の罪の故に、その民に審きを来たらせるが、これは当たり前のことである。
しかし、ここでは、「彼らを溶かし試みる」と言っている。この審きは神の民にとっては試練なのである。神に従う為の訓練なのである。しかしこれは耐え難い、厳しい訓練なのである。
もし私たちも、神の前に、罪の生活をしているとすれば、厳しい審きと訓練とが待っていることを覚悟しなければならないのである。
“主よ、あなたに従順な者として、献げ切った歩みをなさせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月4日(月) 聖書の箇所:エレミヤ10章1〜25節/ 年間通読:歴代下23〜25章
「しかし主はまことの神である。生きた神であり、永遠の王である。」(10節)
  偶像崇拝の空しさ、はかなさ、愚かさと共に、真の神の力強さ、真実さ、その力と恵の永続性を対比させつつ語られている。
われらの主は躍動する神だ。そこにはいつも信頼する者の期待を裏切らない主の真実な愛があり、折にかなった適切で、十分ないきいきとした主のくすしき御業がある。
このお方からいのちが溢れ流れてくる。このお方から私たちの未来が開けていく。このお方にこそ、私たちの存在をかけてよりかかれるとこしえの真実な愛がある。今日も生ける真の神を喜び、ほめたたえよう!
“生ける神の生きた恵みをわが心に注ぎたまえ。アーメン”
 

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2005年7月5日(火) 聖書の箇所:エレミヤ11章1〜23節/ 年間通読:歴代下26〜29章
「そして、わたしがあなたがたの先祖に、乳と蜜との流れる地を与えると誓ったことを、なし遂げると。」(5節)
  凋落の神の民たちにエレミヤを通して、神は神の契約の言葉に立ち返れ、聞き従え、と叫ぶ。
神の民に対する従順、傾聴の聖なるご命令の目的は、神の自己満足のためでなく、神の契約の民たちに乳と蜜との流れる地、すなわち神の溢れる恵みと祝福を与えるためであった。
 私たちの神への傾聴と従順には神の豊かな恵みと祝福が伴う。だから従う、だから傾聴する、ということではないが、主に聞き、従う生涯のうちに極上の人生、永遠に通じるこの上ない充実の、満腹の歩みがある。
“主よ、謙りを持ってあなたに聞き従うことができますように。アーメン”
 

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2005年7月6日(水) 聖書の箇所:エレミヤ12章1〜17節/ 年間通読:歴代下30〜32章
「もし彼らがわたしの民の道を学び、わたしの名によって、『主は生きておられる』と言って誓う・・・。」(16節) 
  「異邦人の道」との対比で、真の神を礼拝する生き方が描かれている。
真の礼拝、真の信仰告白とは日毎に、この私たちの信じている「主は生きておられる」ということを実感し、体験し、告白し、この土台に立って生きていくことではないか。
私達はどれだけ雑多な生活の中において、さまざまなことが沸き起こる中になお“生きておられる主”を認め、あきらめではなく希望を持ち、不安ではなく主の平安と確信を持ち、生き生きとした歩みをしているだろうか?あなたの主は生きていますか?
“主よ、あなたは生きて働かれるお方ゆえ、感謝します。アーメン”
 

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2005年7月7日(木) 聖書の箇所:エレミヤ13章1〜27節/ 年間通読:歴代下33〜36章
「耳を傾けて聞け、高ぶってはならない、主がお語りになるからである。主がまだやみを起されないうちに、またあなたがたの足が薄暗がりの山につまずかないうちに、あなたがたの神、主に栄光を帰せよ。」(15〜16節)
  神に選ばれた、ということに安住し、いつしか真実な神への愛と忠誠を忘れ、偶像崇拝と不真実に染まっていく民たちへの断罪の言葉が続く。
すべてのことにおいて、その恵みに対し、感謝し、栄光を主に帰していかないといつしか私たちの心に“高ぶり”という恐ろしい霊的病が心に巣を作り、神とのいのちの関係を台無しにしてしまう。傾聴し、すべてのことに栄光を主に帰していく霊的習慣を身につけよう!
“あなたにすべての栄光を帰します。アーメン”
 

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2005年7月8日(金) 聖書の箇所:エレミヤ14章1〜22節/ 年間通読:エペソ1〜4章
「イスラエルの望みなる主よ、悩みの時の救主よ、・・。」(8節)
  民に代わってのエレミヤの悔い改めと救いを求める切なる祈りがささげられている。
八方塞りの状況に、光が見出せない暗やみの中に閉じ込められてしまっているような状況の中になお、主にある希望があることを私達は忘れてはいけない。
 人は希望を持たずに生きてはいけない。この望みの主から来る希望とは将来において必ず救出の業がさまざまなことを経て全うされていくという、確かな、溢れる望みだ。
今日、あなたはどんな八方塞りの悩みの中にいるか?信仰の目を望みの源である主に向かって、上げよう!
“主よ、溢れる望みと確かな救いはあなたから来ますゆえ、感謝します。アーメン”
 

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2005年7月9日(土) 聖書の箇所:エレミヤ15章1〜21節
年間通読:エペソ5〜6章、エズラ1〜2章
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(16節)
  エレミヤの民たちのための必死のとりなしにもかかわらず、人々の心はエレミヤとその神のさばきのメッセージ対して益々、硬くなるばかりであった。
人々の拒絶、陰謀という憂き目に逢いながらも民たちにさばきのメッセージを語らなければならないエレミヤの苦悩が伺える。
 神の言葉は力があり、たとえどのような状況に陥ろうとも、苦しい状況が何ら変わらなくとも、聞く者の心に計り知れない神の喜びと希望を生み出し、勇気づけ、励ます。いのちのみ言葉を今日も食べよう!
“主よ、み言葉により我らを励まし、勇気を与えたまえ。アーメン”
 

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2005年7月10日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ16章1〜21節 / 年間通読:エズラ3〜6章
「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせよう。すなわち、この際わたしの力と、わたしの勢いとを知らせよう。彼らはわたしの名が、主であることを知るようになる」(21節)
  バビロン捕囚という厳しい神のさばきにおいても、真実な主はその捕囚から愛する民たちを解放させ、神の民だけでなく、諸国の民がその力と勢いを目の当たりにし、イスラエルの神が真の神であるということを知らせるという宣言だ。
 私達においてはバビロン捕囚どころではない罪の奴隷とされていた異邦の民である私達をも、イエスの十字架の全きあがないによって解放してくださった。
このお方の凄まじい力と勢いによってあなたは人生のあらゆる捕縛から解放される!この力ある方を見よ!
“主よ、我がうちに働く解放の力、勢いを感謝します! アーメン”
 

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2005年7月11日(月) 聖書の箇所:エレミヤ17章1〜27節/ 年間通読:エズラ7〜9章
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。」(10節)
  聖書の中でたびたび語られていることが、主が人の心を試すということである。
心の何を試すのか。本当に主を頼みにしているのか、それとも主よりも人や人に属するもの、自分の腕を頼みとしているのかである(5〜8節)。
 私たちは、主に試みられる時、自分でも思わぬ本性が出てくる。また私たちは、アブラハムのように、主の無限の約束を、自分の小さな存在によってどれほどねじまげ勘違いしていることであろうか。主はそれを悟らせ、主に信頼する祝福を教え、得させようとしておられるのである。
“主よ。私の心を探り、約束をそのままに受け止める者として下さい。アーメン”
 

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2005年7月12日(火) 聖書の箇所:エレミヤ18章1〜23節
年間通読:エズラ10章、ピリピ1〜2章
「彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。」(4節)
  主はエレミヤに、陶器師が作り損なった粘土で別の気に入った器を作るところを見せられた。
神様が陶器師である。私たちは粘土である。神様の前に私たちはただの土くれで無価値な者にすぎない。だがもし私たちが神様の意のままに委ねるならば、主は私たちを作り替えて、主の栄光を満たす器へと変えることができる。
器は無価値である。だがその中に主の栄光が満ちている。ペテロやパウロを作り替えられた主は、私たちをも絶大な価値を持つ主の栄光を入れる器に変えることができる。
“父よ。無価値な者を栄光の富で満たして下さって感謝します。アーメン”
 

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2005年7月13日(水) 聖書の箇所:エレミヤ19章1〜15節
年間通読:ピリピ3,4章、ネヘミヤ1,2章
「陶器師の器をひとたび砕くならば、もはやもとのようにすることはできない。」(11節)
  エレミヤが人々の前で陶器を砕き、主が聖なる町としたエルサレムとその住民が砕かれて、捨てられると預言したところである。
恵みに富み、あわれみに富む創造主は、人を滅ぼすことのできるお方でもある。だが決して、ご自分の権威を表わすためや一時の気まぐれで怒りを表わすお方ではない。何度預言者を遣わしても強情で主の言葉に聞き従わないからである(15節)。
 この強情な私のためにキリストを遣わし、私の代わりに砕いて下さったと信じるところに救いがある。今は恵みの時である。心砕いて主に立ち返ろう。
“父よ。キリストが砕かれ、私は赦されました。アーメン”
 

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2005年7月14日(木) 聖書の箇所:エレミヤ20章1〜18節/ 年間通読:ネヘミヤ3〜5章
「主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。」(9節)
  エレミヤにとって主の言葉を語ることは辛いことであった。人々が彼を辱め、あざけり、謀略を巡らしたからである。
しかしもっと辛いことがあった。主の言葉を語らないことである。一人でも滅びることを惜しまれる主の愛に迫られていたに違いない。
 イエス様は主の御心がなるようにと茨の道を通り、救いの道を開かれた。パウロは涙を流して「彼らの最後は滅びである」(ピリピ3:18)と語っている。
主は今も「だれを遣わそうか」と応える者を待っておられる。
“主よ。私をお遣わし下さい。アーメン”
 

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2005年7月15日(金) 聖書の箇所:エレミヤ21章1〜14節/ 年間通読:ネヘミヤ6〜8章
「見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く。」(8節)
  バビロン軍からの奇跡的な神の救出を期待したゼデキヤ王たちに与えられた神の言葉は、降伏しなければ命を失うという厳しいものであった。恐らくゼデキヤ王たちに主が願っておられたことは、この苦しみにあったのは当然の報いだと神の前に認め、死の覚悟を決めて降伏し、悔い改めることではなかったのか。
 自分の罪を認めずに、都合の良い助けを求めるところに人間のずるさがある。だが真剣に自己と向き合い、罪を認め、神様に悔い改めるところに、全き赦しの十字架、真の命への道が開かれている。
“神様。しっかりと命の道を選ばせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月16日(土) 聖書の箇所:エレミヤ22章1〜30節/ 年間通読:ネヘミヤ9〜11章
「彼は貧しい人と乏しい人の訴えをただして、さいわいを得た。こうすることがわたしを知ることではないかと主は言われる。」(16節)
  この治世において、ユダの王や統治者たちは正義と公平とを行わず、異邦人、孤児、寡婦たちが虐げられ、罪なき者の血が流されていると語られ、それに対する裁きが告げられている。
正義と公平を行うことは、神の言葉に聞くことから始まる(5節)。
 キリストはこの世のあらゆる暴虐を受け、罪なき勝利を取って下さった。故に力のない私たちであるが、主からの光を輝かし、主の義を表わし、弱い者の声を聞き、助けるのである。
“父よ。あなたが弱い者の叫びを聞くのと同じ思いで聞き、愛を表せますように。アーメン”
 

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2005年7月17日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ23章1〜40節
年間通読:ネヘミヤ12〜13章、ルカ1,2章
「主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。」(29節)
  ここには、主が語られていないのに、主の名によって預言する偽預言者のことが記されている。
私たちはどのようにして偽預言者を見分けることができるだろうか。またあたかも真実であるかのようにまことしやかに語られる世の知恵、偽の言葉がある。
 主の言葉には、語られた方の威厳とあふれる栄光、言葉を事実とする力と裏付けがある。
主イエスの十字架も事実となり悪魔の頭を砕いた。本物の宝石にいつも触れていると偽物がわかるという。いつも主のみ言葉に触れていることが鍵である。
“主よ。真のみ言葉に触れ続けさせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月18日(月) 聖書の箇所:エレミヤ24章1〜10節/ 年間通読:コロサイ1章〜4章
「わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる」。 (7節)
  主はエレミヤに幻を示し、その意味を知らせたのであった。バビロンへ連れて行かれた者は、恵によって帰ってくるが、残った者たちとエジプトに行った者たちとは絶えさせられると言うことであった。
そして帰ってくる者たちには“わたしが主であることを知る心を与えよう”というのである。
主を信じて救われるのも、主御自身によるのである。
“主よ、あなたによって信じる心が与えられることを感謝します。アーメン”
 

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2005年7月19日(火) 聖書の箇所:エレミヤ25章1〜38節 / 年間通読:エステル1章〜4章
「主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする」。(12節)
  エレミヤは23年の間、悪の道とその行いから離れるように、語り続けたが、ユダの民はこれに聞かなかった。それ故、ユダの地は滅ぼされて荒地となり、バビロンの王に70年の間仕えるというのである。
ところが、“バビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする”というのである。永遠に罰せられるのである。
“主よ、ユダへの罰が永遠でないことを感謝します。アーメン”
 

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2005年7月20日(水) 聖書の箇所:エレミヤ26章1〜24節/ 年間通読:エステル5章〜8章
「ユダの王ヒゼキヤと、すべてのユダの人は彼を殺そうとしたことがあろうか。
 ヒゼキヤは主を恐れ、主の恵みを求めたので、主は彼らに災を下すとお告げになったのを
 思いなおされたではないか。
 しかし、われわれは、自分の身に大きな災を招こうとしている」。(19節)
  預言者の声に聞き従ったヒゼキヤ王の事が言われている。自分に不利なことを預言するか、有利なことを預言するかではなく、主の御言葉に聞き従うかどうかが、大切なのである。
“主よ、主を畏れて、主の御言葉に従わせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月21日(木) 聖書の箇所:エレミヤ27章1〜22節
年間通読:エステル9、10章、第1テサロニケ1,2章
「これらはバビロンに携え行かれ、わたしが顧みる日までそこにおかれている。その後、わたしはこれらのものを、この所に携え帰らせると主は言われる」。(22節)
  偽預言者と本当の預言者の違いは、まず、神が遣わさないのに神の名によって語るのが、偽預言者である。
彼らが言うことが本当なら、王の宮殿とエルサレムとに残されている器が、バビロンに移されないように万軍の主にとりなすべきであるというのである。彼らには一貫性がなく、言葉と行いが違っているのである。
“主よ、本物と偽者とを見分けさせ、本物の預言者に従わせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月22日(金) 聖書の箇所:エレミヤ28章1〜17節
年間通読:第1テサロニケ3〜5章、ヨブ1章
「わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した」。(8節)
  もう一度偽預言者のことが言われている。平和であることは願わしいことである。
しかし、それが偽りであるなら、その預言者は、殺されなければならないのである。
先に出た真の預言者と同じ事を預言しているかが、ここでは、真の預言者かそうでないかを決める基準として言われている。
“主よ、聖書の言葉を良く知る者として下さり、間違った教えを排除させて下さい。アーメン”
 

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2005年7月23日(土) 聖書の箇所:エレミヤ29章1〜32節/ 年間通読:ヨブ2章〜5章
「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」。(10節)
  主が神の民を顧みて下さり、約束に従って、エルサレムに帰すというのである。
しかし、それは70年が満ちたならばということである。この70年については“こうして国はついにその安息をうけた。
すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた”(下歴代36:21)とある。安息の期間として必要であったのである。
“主よ、神の大きなご計画を知って、それに備えさせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月24日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ30章1〜24節/ 年間通読:ヨブ6章〜9章
「だれか自分の命をかけてわたしに近づく者があろうかと主は言われる」。(21b節)
  これは、イエス・キリストにおいて成就したのである。同時に、イエスの如くに、神に近づく者はいないかという私たちへの問いかけである。
“主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである”(第1ヨハネ3:16)の御言葉の如くなすべきである。
“イエスさま、あなたが私たちのために命を賭けて私たちを救って下さったように、私たちも神に近づかせて下さい。アーメン”
 

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2005年7月25日(月) 聖書の箇所:エレミヤ31章1〜40節/ 年間通読:ヨブ10〜13章
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつ
くしてきた。」(3節)
  イスラエルの回復の預言が続く。神の愛はどこまでも真実だ。イスラエルの民がたとえ不真実の塊りであったとしても、回復のためのさばきを、究極的な回復のためのメシアを与え、具体的かつ力強い救いの業をなし続けてくださった。
 主の愛はどこまでも真実だ。あなたを限りない愛をもって愛する主は、あなたの人生の中に起るあらゆる事々の中にも偽りのない、その場しのぎの応急処置的な助けではない、真実を尽くし、真心を尽くし助け、守られる。
“あなたのそのどこまでも真実な愛を感謝します。アーメン”
 

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2005年7月26日(火) 聖書の箇所:エレミヤ32章1〜44節/ 年間通読:ヨブ14〜17章
「わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。」(41節)
  愛する神の民に対する祝福の預言だ。主は罪には妥協を赦さない聖なる神ではあるが、恐ろしいさばきの神ではない。
 われらの主は愛する民たちを恵みで、溢れる祝福でいっぱいに満たしたいと心から願われる主だ。この主は今日、私達をキリストイエスにおいて、朽ち果て、崩壊していくこの世ではなく、キリストにある神のいのち溢れる恵みの世界に私達を植えて、成長させ、いのちの実を豊かに結ばせてくださる。
今日も主の真実の限りを尽くした、愛情たっぷりの養いが続く。
“主の恵み、心を尽くした養いを心から感謝します!アーメン”
 

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2005年7月27日(水) 聖書の箇所:エレミヤ33章1〜26節/ 年間通読:ヨブ18〜21章
「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。」(2,3節) 
  ユダの再建のことが語られている。希望も、いのちの鼓動も聞こえないようなところに回復と、いきいきとしたいのちと共に再建をなすのは主だ。
地を造られた主、形を造って堅く立たせられる主が、あなたの祈りに答えるのだ、と語る。そこには祈りに答えて、語ると同時に、なそうとすることに必ず形を与え、実現に至らしめる神の力強さが明確に示されている。
主は私達に答えるだけではない。形をもって実現に至らせる生ける全能の神だ。ハレルヤ!
“信仰をもって力ある主に呼び求め、祈ることができますように!アーメン”
 

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2005年7月28日(木) 聖書の箇所:エレミヤ34章1〜22節/ 年間通読:ヨブ22〜25章
「しかしユダの王ゼデキヤよ、主の言葉を聞きなさい。」(4節)
  いよいよネブカデレザル王率いるバビロンの軍隊がユダを攻略するために次々と襲いかかってきた。エルサレムが包囲されていくにつれて、大きな動揺が王をはじめ、ユダの民たちに走ったであろう。
 混沌とした厳しい、希望の見えない状況の中で、主がなによりも求められたのは、“主の言葉を聞け”、ということであった。地が揺れ動き、波が騒ぎ立つような混沌とした私達にとっての“動揺”が起ってくる時、どのように私達は対応するだろうか?
慌てふためき、余計な動きをするのでなく、まず主の言葉を聞こうではないか!
“主よ、いかなる時にも主の言葉を聞き、静まる者としたまえ。アーメン”
 

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2005年7月29日(金) 聖書の箇所:エレミヤ35章1〜19節/ 年間通読:ヨブ26〜29章
「レカブの子ヨナダブの子孫は、その先祖が彼らに命じた命令を守っているのである。」(16節)
  先祖の命令に忠実なレカブ人と比べて、神の命令に不従順、不真実なユダ・イスラエル人を非難しているところである。命令の内容はともかくも、主は頑なまでに先祖の命令を忠実に、心を尽くし、思いを尽くして守り、従おうとする態度を評価している。
 主がなによりも私達に求めておられる大切な事々の中の一つが従順、忠実な心ではないだろうか。合理的に、器用よく物事を行なうことも大切だが、不恰好でも、泥臭くとも、頑なまでに主の前に忠実かつ従順に歩むことこそ主に喜ばれることではないだろうか。
“主よ、何よりまず忠実な者とし給え。アーメン”
 

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2005年7月30日(土) 聖書の箇所:エレミヤ36章1〜32節/ 年間通読:ヨブ30〜32章
「バルクはユダの王エホヤキムが火にくべて焼いた巻物のすべての言葉を、エレミヤの口述にしたがってそれに書きしるし、また同じような言葉を多くそれに加えた。」(32節)
  エレミヤは23年に及ぶ預言活動の総決算をするために、エホヤキムの第4年にバルクをしてエレミヤに与えられた主のメッセージを書物にさせた。王は憤慨し、巻物を処分するが、それでもエレミヤとバルクはもう一度書物を作成して、主のメッセージを伝えようとした。
エレミヤの口を通しての言葉だけでなく、書物に何度も記して何とか民たちにメッセージを伝えようとする主の熱心がエレミヤ、バルクをそうさせた。主の熱き訴えを拒まないように、真摯に主の語りを聞かなくてはならない。
“主よ、あなたの熱き語りをしっかり聞けますように。アーメン”
 

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2005年7月31日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ37章1〜21節/ 年間通読:ヨブ33〜36章
「王なるわが君よ、どうぞ今お聞きください。わたしの願いをお聞きとどけください。」(20節)
  エルサレムを包囲していたバビロン軍は、エジプト軍が動き出すのを見て一時、エルサレムを離れるが、それはあくまで一時的な撤退であった。偽預言者のバビロンは攻めて来ないという、偽りの言葉をゼデキヤは鵜呑みにして、安易な平安を得ようとするが、主はエレミヤをして警告を発し続ける。
 誰に聞き、何を持って安心を得ようとするのか、との切実な主の問いかけが、エレミヤを通し、王ゼデキヤになされるが、それは時代を越えて私達にも問われることだ。甘い、耳障りのいい人間の言葉ではなく、時には心を探られ、厳しく語られる主の聖なる御言葉をしっかりと受けとめる必要がある。
“主に傾聴させて下さい。アーメン”
 

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