デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年8月のデボーション
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2005年8月1日(月) 聖書の箇所:エレミヤ38章1〜28節/ 年間通読:ヨブ37〜39章
「しかし出てカルデヤびとにくだる者は死を免れる。すなわちその命を自分のぶんどり物として生きることができる。」(2節)
  エレミヤがユダヤについて神様から与えられた言葉はカルデヤ人(バビロン王国)に降伏することであった。「降伏する」とは、相手に生死を任せることであり、生かされても奴隷として売られることが多かった。
だが主は降伏すれば生きると語られた。ここに信仰の決断が必要であった。
今日主は私たちに「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」と命じておられる。敵ではなく、あなたを愛しておられる主が私に委ねよと語っておられる。そこに罪と己からの自由と霊の命がある。
“主よ。私をあなたに委ねます。アーメン”
 

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2005年8月2日(火) 聖書の箇所:エレミヤ39章1〜18節
年間通読:ヨブ40〜42章,第2テサロニケ1章
「あなたの命はあなたのぶんどり物となる。あなたがわたしに寄り頼んだからである」(18節)
  ここに主にあって、自分の命を得た人がいる。エベデメレクである。
38章で命を狙われているエレミヤを助けたことによる。エレミヤは神の言葉を語って捕らえられ井戸に投げ込まれた。このエレミヤを助けることは自分も命を狙われることであった。
 私たちが、イエスを主と告白する(公に言う)こと、善を善、悪を悪と言うことは、主に信頼してできることである。主は私たちにも、主に従った報酬として「主キリスト・イエスにおける永遠の命」(ローマ6:23)を約束して下さっている。
“父よ。この世に流されるのでなく、主に信頼して命を得ることができますように。アーメン”
 

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2005年8月3日(水) 聖書の箇所:エレミヤ40章1〜16節
年間通読:第2テサロニケ2〜3章、詩篇1,2章
「主はこれを下し、自ら言われたとおりに行われた。」(3節)
  敵軍の侍衛長の言葉であるが、事実である。主の民であるはずのユダヤ人は「み声に従わなかったから」捕囚という災いにあった。
今日も主は自ら言われたとおりに、全世界で業をなしておられる。聖書に書いてあるとおりに、主イエスは死に復活された。世界に福音が伝えられている。そして今、このエレミヤ書にあるように、イスラエル内にも主イエスをキリストと信じる者が起こされている。
やがて、主は再臨し新天新地が来る。不従順や形式的な信仰は裁かれるが、悔い改め信じた者には、聞いて行うように勧められている。
“神様。大きな業に驚くばかりです。アーメン”
 

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2005年8月4日(木) 聖書の箇所:エレミヤ41章1〜18節/ 年間通読:詩篇3〜7篇
「八十人の人々がそのひげをそり、衣服をさき、、主の宮にささげようとした。」(5節)
  亡国と捕囚に大いなる嘆きを表わし、主を礼拝しようとした人々が暴虐によって殺されてしまった。悲しい現実がある。
この世紀も多くの殉教者が出ている。真実であっても弱い者は不幸にあい、不真実であっても強い者が勝利者に見える。
だが霊の目を開いてみると、主が共におられないならば、勝利者であっても恐れに満ちていて(9,15,18節)平安がない。そして滅びが定まっている。
一方主と共にある者は弱く見えても平安がある。「小羊の婚宴に招かれた者はさいわいである」(黙19:9)。
“主よ。生も死も司るお方にしっかりと根を張り、平安がありますように。アーメン”
 

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2005年8月5日(金) 聖書の箇所:エレミヤ42章1〜22節/ 年間通読:詩篇8〜12篇
「あなたがたの神、主に祈りましょう。」(4節)
  捕囚にならずにエルサレムに残された民は、エレミヤのところに来て、今後どうすべきか「主に祈って下さい」と頼んだ。それに対してエレミヤは上記のように答えた。
聖霊が注がれている新約の今日、だれでも主に祈ることができるし、主はその祈りに答えて下さる。
特に主の救いに与った者は主が祈りを聞かれたことを知っている。だからますます祈ることができる。また周りの人のためにもとりなして祈ることができる。私たちは特に家族のために祈ろう。また、隣人のために、そしてこの世のためにとりなして祈ろう。
“父よ。隣人のためにとりなして祈ります。アーメン”
 

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2005年8月6日(土) 聖書の箇所:エレミヤ43章1〜13節/ 年間通読:詩篇13〜17篇
「彼らは主の声にしたがわなかったのである。」(7節)
  エレミヤに執り成しの祈りを頼んだ人々は、自分たちの意に反する「祈りの答え」を聞いた時、それに従わずエジプトへ行った。「祈る」ということまた「み言葉を求める」ということは自分の思い通りの答えを導き出すことではない。
 彼らが最初に言っていたように(4節)どんな答えであっても主の真実を信じて従う姿勢が必要である。自分の思いと違っても、全知全能の主が自分の思いも及ばないみ業をなさることを信じ従うことである。
己に頼るのをやめよう。むなしい偶像や占い、人の言葉を捨て主にのみ信頼しよう。
“神様。自分の思いではなく主に従う者として下さい。アーメン”
 

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2005年8月7日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ44章1〜30節/ 年間通読:詩篇18〜21篇
「わたしは自分のしもべであるすべての預言者たちを、しきりにあなたがたにつかわして、」(4節)
  イスラエルの民は祝福すると言われる主の言葉に背いてばかりいて、ついに国を失った。
主はこの背く民にしきりに預言者を遣わし主に帰るように諭された。国が滅びても預言者を遣わしたが、背くばかりであった。そしてついに独り子であるイエス・キリストを遣わされた。この御子も暴虐によって殺された。
しかし神は御子の真実によって身代わりによる罪の赦しと救いの道を開かれた。人の思いもしない愛の業である。そして今、主は私たちを、主の復活の証人として、この世に遣わしておられる。
“主よ。土くれの内を主の栄光で満たしお遣わし下さい。アーメン”
 

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2005年8月8日(月) 聖書の箇所:エレミヤ45章1〜5節/ 年間通読:詩篇 22〜26篇
「見よ、わたしはすべての人に災を下そうとしている。しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与えると主は言われる」。 (5節)
  この後半の表現は21:9、38:2、39:18にも出て来る。この箇所はエレミヤの口述筆記者であったバルクに対するものである。
共通して言えることは神の御言葉に従うものに対する神の助けと神の守りとして言われている。災いと審きの中で、神に従うものに対する神の特別な顧みがあるのである。
“主よ、あなたに従う者に対して、特別な守りをお与え下さることを感謝します。アーメン”
 

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2005年8月9日(火) 聖書の箇所:エレミヤ46章1〜28節/ 年間通読:詩篇 27〜31篇
「主は言われる、わたしのしもべヤコブよ、恐れることはない、わたしが共にいるからだ。わたしはあなたを追いやった国々をことごとく滅ぼし尽す。しかしあなたを滅ぼし尽すことはしない」。(28節)
  この46章から51章64節まで諸国に対する主の言葉が記され、この46章はエジプトに対するものである。
“エジプトをバビロンの王ネブカデレザルの手とその家来たちの手に渡す“(26)とある。そして、イスラエルを追いやった国々を滅ぼし尽くすが、イスラエルについてはそうしないことが言われている。
“主よ、あなたの憐れみを感謝します。アーメン”
 

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2005年8月10日(水) 聖書の箇所:エレミヤ47章1〜7節/ 年間通読:詩篇 32〜35篇
「主がこれに命を下されたのだ」。(7節)
  ペリシテびとについてエレミヤに臨んだ主の審きの言葉が記されている。
“ペリシテびとを滅ぼし尽くし、ツロとシドンに残って助けをなすものをことごとく絶やす日が来る”(4)とある。神の審きによる滅亡を主が命令されたのである。
主の命令は誰もとどめることが出来ない絶対的なものである。同時に、私たちは、主イエスがその審判を受けて下さったが故に今生かされていることを深く覚えたいと思う。
“主よ、あなたの命令による厳しい審きを主イエスが受けてくださったことを心から感謝します。アーメン”
 

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2005年8月11日(木) 聖書の箇所:エレミヤ48章1〜47節/ 年間通読:詩篇 36〜39篇
「しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせると主は言われる」。(47節)
  モアブもバビロン軍によって徹底して滅ぼされ、モアブの守護神ケモシも共に滅ぼされるのである。むしろそのような偶像に寄り頼んだが故に滅ぼされるのである。しかし、そのモアブが末の日に再び栄えさせられるというのである。
まさに主は倒した者を再び起こしたもうお方でもある。私たちも、自分が審かれたり、他人が審かれたりしたとしても、終末にはもう一度立ちあがらせて下さる希望を持ち続けようではないか。
“主よ、最後には栄えさせて下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2005年8月12日(金) 聖書の箇所:エレミヤ49章1〜39節/ 年間通読:詩篇 40〜44篇
「そのときイスラエルは自分を追い出した者どもを追い出すと主は言われる」。(2節)
  新改訳では“イスラエルがその跡を継ぐ”となっている。49章にはアンモン、エドム、ダマスコ、ケダル、ハツォル、エラムの滅亡についての預言である。そして、アンモンとエラムの終末における繁栄の回復が言われている(6、39)。
当時の国々のすべてが主に握られており、主は滅ぼすことも出来るし、繁栄を回復することが出来るお方なのである。更に、滅びも回復もイスラエルとの関係でなれるのである。
“主よ、あなたの全世界的支配と、自分に対する愛を信じさせて下さい。アーメン”
 

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2005年8月13日(土) 聖書の箇所:エレミヤ50章1〜46節/ 年間通読:詩篇 45〜49篇
「主は言われる、その日その時、イスラエルの民とユダの民は共に帰ってくる。彼らは嘆きながら帰ってくる。そしてその神、主を求める」。(4節)。
  バビロンの滅亡が言われている。ペルシャの王クロスによって滅ぼされるのであった。しかしそれは、イスラエルとユダとの解放であり、イスラエルへの帰還でもあったのである。
“嘆きながら”は悔い改めつつ帰ってくるのである。偶像礼拝を悔い改めて、主を求めて、祈るのである。
“主よ、あなたの約束の如く、回復して下さる事を感謝します。アーメン”
 

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2005年8月14日(主日) 聖書の箇所:エレミヤ51章1〜64節/ 年間通読:詩篇 50〜54篇
「わたしはバビロンとカルデヤに住むすべての者とに、彼らがシオンで行ったもろもろの悪しき事のために、あなたがたの目の前で報いをすると、主は言われる」。(24節)
  ここでもバビロンへの審きについて言われている。
かつては神の僕として、鎚として、又、戦いの武器として、万国を滅ぼすために用いられたのであるが、その偶像の故に、又、その高ぶりの故に、更に、イスラエルを滅ぼしたが故に滅ぼされるのである。
“主よ、あなた対して、あなたの僕に対して、愛と真実を尽くさせて下さい。アーメン”
 

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2005年8月15日(月) 聖書の箇所:エレミヤ52章1〜34節/ 年間通読:詩篇55〜59篇
「彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王
から給与を賜わった。」(34節)
  ユダの王、エホヤキンがなぜ、捕囚の中で、敵の王の恩赦を受けて、特別な、しかも破格の待遇を受けることが許されたのかはここだけではよく分からない。
ただ、将来のクロス王による解放、回復という、絶望の中にも希望を匂わせるようなエホヤキ
ンの特赦でエレミヤは閉じられている。
どんな絶望の中にも、苦しみの中にも、常に主のあわれみと慰めはそこにある。キリストによって究極の“特赦”をいただいている私達にはなおさらのこと、その恵みは大きい。
“あなたの変わらない支えの恵みを感謝します。アーメン”
 

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2005年8月16日(火) 聖書の箇所哀歌1章1〜22節:/ 年間通読:詩篇60〜64篇
「主よ、顧みてください、わたしは悩み、わがはらわたはわきかえり、わが心臓はわたしの内に転倒しています。」(20節)
  捕囚の憂き目に会い、エルサレムは荒廃し、見捨てられたような状態になっているその中で、歌人はその悲惨なてん末のゆえに嘆き悲しむ。主がその嘆きを、訴えを聞いてくださる方だからこそ、この悲惨な状態からの回復、具体的な慰めの業が、将来、不思議な導きの中でなされていく。
 主はそのいつくしみと私達への燃えるような愛のゆえに、私たちの嘆き、悲しみを認識し、顧み、具体的な救済の業をいつもなしてくださる。主は確かに聞いてくださる!
“主よ、今日も我等を顧みたまえ!アーメン”
 

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2005年8月17日(水) 聖書の箇所:哀歌2章1〜22節/ 年間通読:詩篇65〜68篇
「夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。」(19節)
  絶望の神の都、エルサレムの中で、心を注ぎだして主のあわれみを求める祈りを必死に呼びかけている。
可能性の見えない絶望的な状況の中で、将来への道を開き、希望を見出し、主の救いの業、回復、癒し、刷新の起点となっていくのはやはり、心を注ぎだすような信仰の祈りだろう。
 忙殺、理性の社会の中にあって、しかし主にある真実な祈りを通して働く主の絶大な力をいつも信じて祈る私達でありたい。
“主よ、祈る力を我に与えたまえ。アーメン”
 

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2005年8月18日(木) 聖書の箇所:哀歌3章1〜66節/ 年間通読:詩篇69〜72篇
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」(22〜23節)
  どんな状態になったとしても、どんな崩壊に落ちいったとしても、主の民は立て直される。どんな悲しみ、死の陰の谷を歩もうともそこにはいつも、慰めと復活がある。なぜなら主の民に対する主の真実、いつくしみ、あわれみはとてつもなく大きく、豊かで、溢れているからだ。今日も主の真実な愛のゆえに、あなたは支えられる。朝ごとに新しい、主の限りないいつくしみとあわれみのゆえに、新しくつくられ続けて行く。今日も明日もそしてとこしえに・・・。
“主よ、あなたの絶大な恵みを感謝します。アーメン”
 

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2005年8月19日(金) 聖書の箇所:哀歌4章1〜22節/ 年間通読:詩篇73〜77篇
「わが民の君たちは雪よりも清らかに、乳よりも白く、そのからだは、さんごよりも赤く、その姿の美しさはサファイヤのようであった。」(7節)
  エルサレム崩壊の嘆きが続く。神の恵みにあって内、外に美しさが溢れていた、神の貴人ら、若者らであったが、町の崩壊という神のさばきにあった今はその美しさも失われてしまったという嘆きである。
 神に似せて造られた私達も、罪によってその主にある麗しさ、美しさが失われてしまっていた者であった。しかしキリストの絶大な恵みは、罪から私達を救出するだけでなく、罪によって私達の内に壊された神の美しさ、麗しさを回復させ、再び我等を輝かせる。
“麗しい存在に造り変えて下さる主の恵みを感謝!アーメン”
 

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2005年8月20日(土) 聖書の箇所:哀歌5章1〜22節/ 年間通読:詩篇78〜80篇
「主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください。」(21節)
  神の町の崩壊、それに伴う数々の悲劇を顧みつつ、新たな信仰の決断と、回復を求める切なる祈りを歌人は、神の民らと共に捧げる。
 私達にも失敗はいくらでもある。しかし問題はその後だ。主から離れたと思うとき、主の悲しまれると思われることがあったとき、速やかに悔い改めとともに主の元に帰還することだ。主のもとにこそ私たちの罪、不義を赦し、新しい心をつくり、再出発させてくださる豊かな恵みがある。
主に帰り、主の元から再出発する、これが信仰の鉄則だ。
“主よ、いつもあなたに帰れる柔らかい心を与え給え。アーメン”
 

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2005年8月21日(主日) 聖書の箇所:エゼキエル1章1〜28節/ 年間通読:詩篇81〜85篇
「第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。」(1節)
  エゼキエルはバビロンの捕囚地で、神に召され、バビロンに居住してその預言者としての働きをしていたであろうと言われている。夢も希望も尽き果て、失望のどん底の中で、彼は神の幻を見た。
 主は私たちの絶望の中で、確かな臨在を示し、直接的な語りをもって迫る時がある。
私たちの悩みが、私たちの困難の時が、主と出会い、確かな、熱い語りかけを聞く絶好の時となる。苦しみの中に謙りと、深い静まりをもって主を待ち望もうではないか。
“主の臨在の中で、あなたの御心を知る我らとし給え。アーメン”
 

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2005年8月22日(月) 聖書の箇所:エゼキエル2章1〜10節/ 年間通読:詩篇86〜89篇
「そして彼のわたしに語られるのを聞いた。」(2節)
  エゼキエルは、主の霊がうちに入って、語るのを聞いた。エゼキエルは様々な霊の幻を見るが、古今の占い等の霊術と混同してはならない。新約の教会において主は、聖書のみ言葉を通して語られる。聖書を逸脱することはない。
そして私たちが神様の語りかけを聞こうとするなら、自分の思いを脇へおいて、語りかけに聞くことである。だれでも耳を傾けて聴くならば、聴くことができる。
主は私たちに、み言葉を聞いて成長し、主と同じ思いとなるように願っておられる。
“主よ。主が語って下さっているのですから、素直に聞き、成長させて下さい。アーメン”
 

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2005年8月23日(火) 聖書の箇所:エゼキエル 3章1〜27節/ 年間通読:詩篇90〜94篇
「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。」(2節)
  エゼキエルは、民が聞いても拒んでも、主の言葉を語るようにと命じられた。何を語るのか、主の言葉である。
主の言葉を語るにはどうしたらよいか。まず主の言葉を聞くことである。自分が聞いた主の言葉を語るのである。自分に示され自分を変えた主の言葉を語ればよい、それが証である。
また聖書に基づいて福音を示すことができたらなお感謝である。
み言葉を聞くことには、語る責任もでてくる(16〜21節)。責任もあるが喜びもある。一人でも救われるならば天において大きな喜びがある。
“父よ。祈りつつみ言葉に聞きます。み言葉を語ります。アーメン”
 

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2005年8月24日(水) 聖書の箇所:エゼキエル 4章1〜17節/ 年間通読:詩篇95〜99篇
「わたしはあなたの上にイスラエルの家の罰を置く。」(4節)
  エゼキエルはエルサレム陥落の幻を神様から与えられ、同時にその罰を彼自身の生活の中で負うように示された。主は、彼に罰を負った不自由な生活を命じられた。しかしここでの罰は象徴的な描写であって、預言者であっても彼が真の意味で罰を負うことはできなかった。そしてこの預言が事実となり、後にエルサレムは陥落してしまった。
 しかし私たちに与えられた主イエス・キリストは、あの十字架で真の意味で、私たちの罪の罰を負って下さった。だから私たちは罪の罰とその恐れから全く解放されている。
“神様。私の罪の罰を負われたイエス様を感謝します。アーメン”
 

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2005年8月25日(木) 聖書の箇所:エゼキエル5章1〜17節/ 年間通読:詩篇100〜104篇
「わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。」(5節)
  この言葉は、エルサレムとそれに象徴されるイスラエルの民を自分の民としてとても重要視していることを表わしている。それにもかかわらず、神様からはなれ、神様を悲しませるばかりのイスラエルの民であった。
 イスラエルの民同様に、私たちも、ありのままの自分の姿を見ると、主の愛に気付かずに、自分勝手な生き方になっている。しかし、今は主イエスによる救いを信じ受け入れたことによって、神の国の後継者とされている。
主に信頼し、助けぬしなる聖霊の導きによって、周りの人々にも良き証し人となることができる。
“主よ。主の目的に適った証人として下さい。アーメン”
 

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2005年8月26日(金) 聖書の箇所:エゼキエル6勝1〜14節/ 年間通読:詩篇105〜106篇
「そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。」(9節)
  私たちは本当に自分を好きで愛しているだろうか。自分の目標や楽しみのために自分を注ぎ込めたとしても、心から自分を好きになれるであろうか。
ともすれば自分のみにくい部分から目をそむけたり自分の嫌いな部分にとらわれたりするのではないだろうか。
みにくい部分がさらけ出されることはつらいことであるが、真の自己を見つめ主の前にそれをさらけ出すとき、主がそのような私をも 愛し、赦し、受け入れて下さったことに気付かされる。そして心から自分を愛することができる。(10節参照)
“父よ。こんな者への愛を感謝します。アーメン”
 

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2005年8月27日(土) 聖書の箇所:エゼキエル7章1〜27節/ 年間通読:詩篇107〜110篇
「これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」(4節)
  「これによって」とはその前に書かれているイスラエルへの裁きと滅亡のことである。主はそれぞれの行いに従って裁かれるお方である(27節)。上記の残りの言葉は、この書に多く出てくるが、主の公平な裁きや恩寵を通して、主がこの世の主権者で主が世界をまたその歴史を支配しておられることを認めることを表わしている。
私たちはこの世界が軍事力や経済力など動いているように見やすいが、神の側に立って見たい。世界は御子の到来によって全く変えられた。更に裁きと救いの日へと向かっている。
“神様。あなたを主権者と認め救いの完成を待ち望みます。アーメン”
 

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2005年8月28日(主日) 聖書の箇所:エゼキエル8章1〜18節
年間通読:詩篇111〜115篇
「これらの憎むべきわざは軽いことであるか。」(17節)
  イスラエルが神様の憤りと裁きを引き起こしたものは何か。それは創造主に変えて、様々な偶像、這うものや獣の像や絵、太陽などを拝んでいたことであった。特に「主の宮」つまり主を礼拝すべきところで他のものを拝んでいたことである。
 創造主なる神を崇めるということは、神を第一とし、他のものに換えないということである。個人でも教会でも、他の偶像があってはならない。生きる基準を神と聖書に置くことである。自分の理性や感情、好き嫌い、金銭、効率、好人物すべて偶像になりうる。偶像を捨てよ。
“主よ。偶像を捨てます。主に基準をおいて生活します。アーメン”
 

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2005年8月29日(月) 聖書の箇所:エゼキエル9章1〜11節
年間通読:詩篇116篇〜118篇
「彼に言われた、『町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ』」(4節) 
  憎むべき偶像礼拝に対して“嘆き悲しむ人々”とは救われる人たちである。そしてこのしるしとはヘブル語のアルファベットの最後の文字タウのことである。
古代へブル語では×または+と書いた。意味は律法を最後まで守る者であり、十字架によって救われるということであり、あるいは「あなたは生きる」ことであると言われている。罪に満ちている中でも救われるものを残していて下さるのである。
“主よ、最後まで耐え忍ぶ者とさせて下さい。アーメン”
 

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2005年8月30日(火) 聖書の箇所:エゼキエル10章1〜22節 / 年間通読:詩篇119篇
「するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった」。(19節)
  この10章ではエルサレムの審きと主の栄光が宮から出て行くことが言われている。
審きの中心は主が去っていくことなのである。エゼキエルが第1章で見た幻はこのエルサレムでの幻と同じであった。エルサレムに居られる主はバビロンに居られ、世界中どこにでも居られるのである。
“主よ、あなたがどこにおいても共に居て下さい。アーメン”
 

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2005年8月31日(水) 聖書の箇所:エゼキエル11章1〜25節
年間通読:詩篇121篇〜123編
「そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」。(19節)  
  イスラエルの回復が、捕囚の民の帰還(17節)、悪を取り除く(18節)、そして、肉の心の授与(18節)と言うように、段階的に与えられるのである。
これはBC539年に始まったクロス王によるバビロンからの回復によって完全には実現しないで、新約において、終末において実現していく預言である。罪に捉えられた者に対する赦しときよめによる完全な回復へとつながるのである。
“主よ、このような従順な心をお与え下さい。アーメン”
 

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