デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年9月のデボーション
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2005年9月1日(木) 聖書の箇所:エゼキエル12章1〜28節
年間通読:詩篇127篇〜129篇
「しかし主なるわたしは、わが語るべきことを語り、それは必ず成就する。決して延びることはない。ああ、反逆の家よ、あなたの日にわたしはこれを語り、これを成就すると、主なる神は言われる」。(25節)
  エゼキエルはBC597年の第2次バビロン捕囚(第1次はBC608年のエホヤキムの時)の時にエホヤキン王と共にバビロンに連れて行かれたのであった。その時、むなしい幻、偽りの占い(24節)がされていた。
しかし、必ずエルサレムは滅ぼされることをバビロンに捕囚となった民の前で行動で現したのであった。
“主よ、このように救いの御言葉も成就する事を感謝します。アーメン”
 

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2005年9月2日(金) 聖書の箇所:エゼキエル13章1〜23節
年間通読:詩篇132篇〜134篇
「それゆえ、あなたがたは重ねてむなしい幻を見ることができず、占いをすることができないようになる。わたしはわが民を、あなたがたの手から救い出す。そのとき、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。(23節)
  これは偽りの預言者に対する預言である。今も偽の預言者や偽のキリストがいる。彼らは罰せられ、救われることはないのである(8、9節)。
しかし、彼らに騙されていた神の民は救い出されるのである。
そのことによってエゼキエルの信じていた神が本当の神であり、審きと救いを行われるお方である主であることを悟るのである。
“主よ、惑われている者をお救い下さい。アーメン”
 

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2005年9月3日(土) 聖書の箇所:エゼキエル14章1〜23節
年間通読:詩篇137篇〜139篇
「すなわち、あなたがたが、その行いと、わざとを見る時、彼らはあなたがたを慰め、あなたがたはわたしがこれに行った事は、すべてゆえなくしたのではないことを知るようになると、主なる神は言われる」。(23節)
  エルサレムの民は偶像崇拝の故に神の審きを受けるのであるが、その審きの中で「むすこ娘たちを助け出す者」(22節)がいるのである。これは偶像崇拝に対する徹底した神の審きと共にその罪を悔い改める者に対する神の救いと回復とを示すものである。
“主よ、あなたが審かれると共に救うお方であることを感謝します。アーメン”
 

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2005年9月4日(主日) 聖書の箇所:エゼキエル15章1〜8節
年間通読:詩篇140篇〜143篇
「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか」。(1節)
  イスラエルは神のぶどう園に植えられ、ぶどうの実を求められ、期待されていたが、実を結ばないで、又、結んだとしてもすっぱい実であった。野生のぶどうと同じになってしまったのである。
それだけでなく、北イスラエルは滅ぼされ、王も指導者も中心的な者が捕囚になってしまったのである。残っていても神に対して良き実を結ばないエレサレムは徹底して審かれるのである。
“主よ、あなたに対して実を結び、お役に立つものとなして下さい。アーメン”
 

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2005年9月5日(月) 聖書の箇所:エゼキエル16章1〜63節/ 年間通読:詩篇144〜147篇
「こうしてすべてあなたの行ったことにつき、わたしがあなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥のゆえに重ねて口を開くことがない」(63節) 
  イスラエルの民が不貞の女として譬えられている。そして不貞の当然の報いを受ける。にもかかわらず主は赦し「永遠の契約をあなたと立てる」(60)と言われる。
人間では到底考えられない並はずれた愛が示されている。私たちがどんなに汚れていても主は私たちを愛して下さる。主の愛を知りながら主から離れてしまったとしても愛して、回復し、永遠の契約を結ばれる。キリストが恥と罪の報いを受けて下さった。
“主よ。おゆるし下さい。永遠の契約を感謝します。アーメン”
 

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2005年9月6日(火) 聖書の箇所:エゼキエル17章1〜24節
年間通読:詩篇147〜150篇、箴言1章
「わたしは生きている、彼がわたしの誓いを軽んじ、わたしの契約を破ったことを、必ず彼のこうべに報いる。」(19節) 
  この箇所のたとえは、二またをかけて最初の契約を破ったゼデキヤ王をさしている。この世、また戦国時代を通ってきた日本において、どちらが自分に損か得かが一つの生きる基準になっている。
だが主が言われていることは、やがて滅びるこの世の強者に頼ったり、損得で動くのではなく、契約に真実で、人や国を生かし或いは抜き滅ぼすことのできる主を敬い、主に信頼せよということである(22〜24節)。この世の力と全能の主とどちらに重きを置いているだろうか。  
“主よ。私を生かすことのできるあなたに全く信頼します。アーメン”
 

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2005年9月7日(水) 聖書の箇所:エゼキエル18章1〜32節/ 年間通読:箴言2〜5章
「それゆえ、あなたがたは翻って生きよ。」(32節)
  この箇所には、神様の裁きの基準が示されている。たとえ親子であろうと義も罪も人には転嫁されない。各人が責任を問われる。また義人も悪人もその心が変れば、それに応じて報いを受ける。主は「新しい心と新しい霊とを得よ。」(31節)と言われている。
だが私たちはめったに自分で自分を変えることはできない。どうしたら変えられるのか。主は変ることのできない私たちのために罪のない御子を遣わし、罪を負わせて下さった。これを信じるとき罪が除かれ、変えられる。
「わたしは何人の死をも喜ばない。」(32節)
“神様。御子によって変り、生きることを感謝します。アーメン”
 

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2005年9月8日(木) 聖書の箇所:エゼキエル19章1〜14節/ 年間通読:箴言6〜9章
「あなたはイスラエルの君たちのために悲しみの歌をのべて言え、」(1,2節)
  ユダヤ王国末期の王たちが、神様の言葉を聞かず勝手にふるまい、バビロン、エジプトという大国に振り回され、行くべき方向を失い、ついに滅んでしまう様が悲しみの歌として記されている。現代も、この国の将来も世界の進む方向も危ういことを思わされる。
私たちは、神様から悲しみの歌を託されたときには、キリストと共にその悲しみの歌を歌う。しかしこの時代にあって私たちは、もはや悲しみをこれ以上増さないために、確かな救い、揺るがない将来の指針を示される神の言葉に聞き、人に示す者でありたい。
“主よ。悲しみを深く覚え、主に仕え証しします。アーメン”
 

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2005年9月9日(金) 聖書の箇所:エゼキエル20章1〜49節/ 年間通読:箴言10〜13章
「わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、イスラエルの全家はその地で、ことごとくわたしに仕える。」(40節)
  主は、イスラエルの民が主を侮り、安息日を汚し、偶像に仕えたことにより、また主の定めを守らなかったことにより、何度もその憤りを彼らに注ぎ滅ぼされようとした。しかしその度に主は「わが名のために」彼らを滅ぼさず、懲らしめられた。
その彼らが、再び集められ、主を知り、主に仕え、主に喜ばれる者になるとは何と心躍るみ言葉であろうか。
もしや私たちも主からの祝福を素直に受けず、主に懲らしめられ、空しく過ごしていないだろうか。
“父よ。空しく過ごすのでなく、主の御名を仰ぎ、主の栄光を表わさせて下さい。アーメン”
 

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2005年9月10日(土) 聖書の箇所:エゼキエル21章1〜32節/ 年間通読:箴言14〜17章
「もしあなたが、つえをあざけったら、どういうことになろうか」(13節)
  この章では主の「つるぎ」が象徴的に記されている。剣が殺すために研がれ、殺す者に渡される。エルサレムが徹底的に破壊され、生き残る者がないほどに主の怒りが臨むと預言している。その中で「つるぎ」と対照的に「つえ」が出てくる。
つえは人を支えるものであるが、ここでは神様の懲らしめや試練、或いは預言者の言葉を指している。これを侮ったら最後である。今日神様は私たちに救いの「つえ」として、聖書のみ言葉を与え、また罪の赦しのためにキリストによる贖いの道を備えられた。
“神様。あなたの懲らしめを謙虚に受けます。私の罪を赦して下さい。アーメン”
 

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2005年9月11日(主日) 聖書の箇所:エゼキエル22章1〜31節
年間通読:箴言18〜21章
「国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者、、」(30節)
  この22章にも、神様の怒りと刑罰が記されている。だがそれに先だってイスラエルで行われた様々な憎むべきこと、神様への冒涜が列挙されている。
主が怒りをもって徹底的に裁こうとされるとき、主の裁きに耐え得る者はいない。それにも関わらず主が求めておられるのは、人々の罪の破れ口に立って、神の前にとりなす者である。何より主イエスキリストのように。
またモーセやパウロのように。主は隣人のために、家族のために、破れ口に立つように、あなたに求めている。
“父よ。私の家族を、隣人をゆるしあわれんで下さい。アーメン”
 

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2005年9月19日(月) 聖書の箇所:エゼキエル30章1〜26節
年間通読:第1テモテ6章、雅歌1〜3章
「わたしはナイル川をからし、その国を悪しき者の手に売り、異邦人の手によって国とその中のものとを荒す。主なるわたしはこれを言った」。 (12節)
  ナイル川は氾濫を繰りかえし、付近に肥沃な土壌を提供してきた。このナイル川がかれるとはエジプトの命が断たれるに等しい。“異邦人”はこの場合はバビロンである。
バビロンの手によって、エジプトを打つことは、主がなされることであり、そのことが、ここで預言されているのである。
“主よ、例え偶像の国でもあなたのみ手の中にあることを感謝します。アーメン”
 

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2005年9月20日(火) 聖書の箇所:エゼキエル31章1〜18節/ 年間通読:雅歌4〜7章
「その心が高ぶりおごるゆえ、わたしはこれを、もろもろの国民の力ある者の手に渡す。彼はこれに対してその悪のために正しい処置をとる。わたしはこれを追い出した」。(10、11節)
  この章もエジプトのパロとその民衆について、語っている。「レバノンの香柏のようにする。それは麗しき枝と森の陰があり、たけが高くその頂きは雲の中にある」(3節)とあるが、“その心が高ぶりおごるゆえ”力あるバビロンに渡されるのである。
祝され、豊になった時、特に警戒しなければならないのは高慢なのである。
“主よ、絶えず私たちを謙遜にして下さい。アーメン”
 

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2005年9月21日(水) 聖書の箇所:エゼキエル 32章1〜32節
年間通読:雅歌8章、第2テモテ1〜3章
「わたしはもろもろの国民、あなたの知らない国々の中に、あなたを捕え移す時、多くの民の心を痛ませる」。(9節)
  エジプトの国が、バビロンによって滅ぼされ、国々へ、捕囚として連れて行かれるのを知って、その周りの国々の民はエジプトは大国だから滅ぼされないと思っていたにもかかわらず、神の審判にあったことの故に、自国の行く末を案じて、心を痛めたのである。
同じく、良い事においても、悪い事においても、国や人に対する神の取り扱いを知って、なお一層、神を畏れるものとなりたいものである。
“主よ、あなたを畏れ敬う者とさせて下さい。アーメン”
 

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2005年9月22日(木) 聖書の箇所:エゼキエル 33章1〜33節
年間通読:第2テモテ4章、イザヤ1〜2章
「『人の子よ、あなたの民の人々に語って言え、わたしがつるぎを一つの国に臨ませる時、その国の民が彼らのうちからひとりを選んで、これを自分たちの見守る者とする』」。(2節)
  神さまはその国が審かれるとき、一人を選んで、その国を“見守る者”とするというのである。それは、滅びの時が来た事を知らせ、その民を戒めるためである。そして、その責任を果たせないなら、その“見守る者”はその血の責任が問われるのである。これは、どうにかして、罪を悔い改めさせて、救おうとする神の愛の現れである。
“主よ、あなたの御愛を感謝します。アーメン”
 

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2005年9月23日(金) 聖書の箇所:エゼキエル 34章1〜31節/ 年間通読:イザヤ3〜5章
「『あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる』」。(31節)
  この章にはイスラエルの牧者という言葉が出て来るが、これはイスラエルの王、政治的なまた宗教的な指導者を意味している。
彼らは本当に、羊を養い、守り、強くし、癒し、引きかえらせず、尋ねず、手荒で厳しい人たちである。偽の牧者である。
しかし、神ご自身がまことの牧者になって下さり、尋ね、探し出し、救い、導き出し、集めて、養って下さるのである。
“主よ、あなたが牧者となって下さることを感謝します。アーメン”
 

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2005年9月24日(土) 聖書の箇所:エゼキエル 35章1〜15節/ 年間通読:イザヤ6〜9章
「主なる神はこう言われる、全地の喜びのために、わたしはあなたを荒れ地とする」。(14節)
  “セイル山“とは死海南端からアカバ湾に向かって延びる山脈のことであり、そこにエドム人(エサウの子孫)が住んでいた。
彼らは、バビロンに加担して、逃げてきたイスラエル人を殺したりした。それ故、エドム人を滅ぼし、町を荒れはてさせるのである。彼らがイスラエルに対してどう対応したかによって、審判が決まっていく面があるのであるが、全地の喜びの故にエドム人が滅ぼされるのである。
“主よ、あなたの民にふさわしい者として下さい。アーメン”
 

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2005年9月25日(主日) 聖書の箇所:エゼキエル 36章1〜38節
年間通読:イザヤ10〜13章
「わたしは新しい心をあなたイスラエルのがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える」。(26節)
  「イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである」(22節)とあるように、神は神ご自身のために、神のご栄光のために、イスラエルを帰還させ、その民に新しい心、新しい霊を与えるのである。
“主よ、このしもべによって、あなたの御名を崇めさせて下さい。アーメン”
 

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