デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年10月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
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2005年10月3日(月) 聖書の箇所:エゼキエル44章1〜31節
年間通読:イザヤ37〜39章
「しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、、、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。」(28節)
  この章の中でザドクの子孫のレビ人だけが祭司として立てられ、他のレビ人は不忠実な者として仕え人とされている。主の聖なる努めは特別な者しか与れないものであった。
ところで主イエスは、十字架の前に弟子たちのために祈り、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。」(ヨハネ17:16)と祈っている。神の子とされた私たちも、ふさわしくない者であるが、完全に赦されたきよい者として、この世と区別され主のものとされている。だから主のものとして喜んで仕えるのである。
“主よ。私も主のものとして下さり感謝します。アーメン”
 

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2005年10月4日(火) 聖書の箇所:エゼキエル45章1〜27節/ 年間通読:イザヤ40,41章
「イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。」(9節)
  聖なる地所についての言及と供え物についての言及の間にこれらの言葉がある。聖所が立派でも、忠実に供え物を献げたとしても、主から心が離れ、普段の生活が主から離れていては、主は喜ばれない。
むしろ、私たちの罪のために、命に代えて赦された方を心に留めるべきである。当然、生活の中心に主をおけば、軽々しく罪を犯したり、主の御心に適わないことを行うことはできない。
あなたの生活の座に主がおられるだろうか。不正や罪から離れているだろうか。人々に良い証になる生活をしているだろうか。
“主よ。心の中心に主をおいて生活します。アーメン”
 

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2005年10月5日(水) 聖書の箇所:エゼキエル46章1〜24節/ 年間通読:イザヤ42,43章
「そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。」(9節)
  この箇所は、祭りの規定が記されているが、出入りの方法にまで及んでいる。実際的には、大勢の出入りの混乱を防ぐ方法であるが、主のご性質をもあらわしている。ケルビムもまっすぐに進んでいき、回らなかった(1:12)。
私たちの信仰の歩みも、主を仰ぎ見て、主に向かって、まっすぐに進むべきである。左右に振れるべきではなく、回る必要もない。この世のことを思い、後ろを振り返るとき、主の道を見失いかねない。大丈夫かと足元を見ていると方向を失う。顔を主に向けまっすぐ進もう。
 “神様。もう迷いません、主を見て進みます。アーメン”
 

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2005年10月6日(木) 聖書の箇所:エゼキエル47章1〜23節 / 年間通読:イザヤ44,45章
「この川の流れる所では、すべてのものが生きている。」(9節)
  宮から流れ出る川の啓示である。あっという間に大川となって南へと流れていく。この川の流れるところでは、魚も木もすべてのものが生きる。
荒野が多く死海のある南部において、清い水の重要さはだれもが知るものであった。都からの流れは、主の霊の恵みを表わしている。
霊において死んでいた私たちも、キリストからの命の水によって生かされた。そればかりではなく、この命の水の流れは、私たちが「死んでいる」と思っているものも生かす力を持っている。今日も主からの命の水をしっかりいただこう。
“主よ。あなたからの霊の泉によって生かされ感謝です。アーメン”
 

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2005年10月7日(金) 聖書の箇所:エゼキエル48章1〜35節
年間通読:イザヤ46〜48章
「この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる。」(35節)
  前章に続きイスラエルの土地分配について記しており、最後に聖なる献納地について神様から示されている。
この町はイスラエル12部族皆が分け合うものであるが、何よりもすばらしいことは、「主そこにいます」ということである。捕囚の最中、聖都エルサレムでは、神様がないがしろにされていた。聖都を聖都たらしめるものは、主ご自身の臨在である。
私たちクリスチャンには、天の都が啓示されており(黙示録21,22章)、主なる神と神の小羊キリストが聖所である。私達は主の臨在あふれた天の都を目ざしている。
“主よ。主のいます天の都の望み見て感謝します。アーメン”
 

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2005年10月8日(土) 聖書の箇所:ダニエル1章1〜21節
年間通読:イザヤ49〜51章
「神はダニエルをして、宦官の長の前に、恵みとあわれみとを得させられた」(9節)
  この頃は、ユダ王国の民が捕囚となり、神の宮の物も奪われてしまって、創造主なる神様はどこにいるのかと思うような状況であった。だが神様は、捕囚の地にあっても、信じる者と共に働いて、ご自身の栄光を現されている。「自分を汚すまいと心に思い定めた」(8節)ダニエルたちと主が共にいて、偶像に捧げられた酒や肉を食べないように宦官の長をも動かされた。
主はさらに彼らに知恵を与え、王の前に仕える者とされた。主は今も同じように働いて下さる。また主に信頼する者を求めておられる。
“主よ。信頼します。共にいてご自身の栄光を現して下さい。アーメン”
 

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2005年10月9日(主日) 聖書の箇所:ダニエル2章1〜49節/ 年間通読:イザヤ52〜55章
「ついに夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(19節)
  信仰の歩みは、一度うまくいけば、すべてがうまくいくのではない。しかし主は一つ一つ道を開いて下さる。
「わたしの見た夢を示せ」という王の命令はとても厳しいものであった。ダニエルは信仰の友である同僚達と、どれ程熱心にまた時間をかけて祈ったことであろうか。そしてついに神様はその夢とその意味を解き明かされた。ダニエルは主をほめたたえた。
示されたことの一つは、永遠に至る神の国が建てられるという壮大な救いのご計画であった。
“父よ。私の祈りに答えて下さり感謝します。人の思いを超えた救いの幻を感謝します。アーメン”
 

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2005年10月10日(月) 聖書の箇所:ダニエル3章1〜25節/ 年間通読:イザヤ56〜58章
「たといそうでなくて、王よ、ご承知ください。
わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。 (18節)
  ここに信仰の真髄が告白されている。神が救い出して下さるという確信と共にたといそうでなくても、偶像は拝まないということである。命を賭けて信じるということである。
ここには全くご利益的なものは含まれていない。神がまことの神であるが故に、たとい殺されようとも、その神だけを信じて礼拝し、偶像は礼拝しないということなのである。
“主よ、私たちもこの3人の信仰に見習わせて下さい。アーメン”
 

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2005年10月11日(火) 聖書の箇所:ダニエル4章1〜37節 / 年間通読:イザヤ59〜61章
「われネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。
 そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる」。(37節)
  この章の中心は“いと高き者が人間の国を治めて、これを、意のままにこれを人に与えられる”(17、25、32)ということである。これをネブカデネザル王は、夢の解き明かしが自分にそのようになることによって、悟ったのである。そして自らこの神をほめたたえているのである。
“主よ、私たちも神の世界の歴史支配を認め、へりくだらせて下さい。アーメン”
 

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2005年10月12日(水) 聖書の箇所:ダニエル5章1〜31節/ 年間通読:イザヤ62〜64章
「あなたの命をその手ににぎり、あなたのすべての道をつかさどられる神」。(23節)
  これはネブカデネザルの子ベルシャザルにダニエルによって言われた言葉である。同時にこれは私たちに対する言葉でもある。国を支配される神は私たちの命と人生を支配される神なのである。私たちはこの神に対して、へりくだって従順に従うことが求められているのである。
“主よ、あなたに全く明け渡して、へりくだりをもって従わせて下さい。アーメン”
 

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2005年10月13日(木) 聖書の箇所ダニエル6章1〜28節:/ 年間通読:イザヤ65〜66章
「ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。
これは彼が自分の神を頼みとしていたからである」。(23節) 
  妬みをかって陥れられたダニエルであったが、神に祈り感謝することはやめなかった。このことが罠であったのである。その結果、とうとう獅子の穴に投げいれられたのであった。
彼はそのような中でも神により頼んだのであった。すると、神のみ使いが獅子の口を閉ざされたのであった。
“主よ、どんなときにもあなたを敬い、より頼まさせて下さい。アーメン”
 

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2005年10月14日(金) 聖書の箇所:ダニエル7章1〜28節
年間通読:テトス1〜3章、エレミヤ1章
「しかし、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く」。(18節)
  獣のうち第1のものはバビロンであり、第2のものはメド・ペルシャであり、第3のものはギリシャ、第4のものはローマである。しかし、本当の国は神の国であり、その神の国を神の民であるキリスト者が受け継ぎ、永遠にいたるのである。
私たちはこの国にいながら、同時にすでに神の国の市民なのである。この神の国は滅びることがなく、永遠に続くのである。
“主よ、この神の国をキリストの贖いの故に受け継ぐものとされていることを感謝いたします。
 アーメン”
 

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2005年10月15日(土) 聖書の箇所:ダニエル8章1〜27節/ 年間通読:エレミヤ2〜3章
「また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、つい彼は人手によらずに滅ぼされるでしょう」。(25節)
  “ひとりの王が起こる”(23)とあるが、これはアンテオコス・エピファネス或いは反キリストといわれている。悪知恵をもって偽りを行い、高ぶって、不意に多くの人を滅ぼし、君の君、即ち、神に逆らうというのです。
しかし、悪がどんなに強くはびこっていても、必ず人手によらず、即ち、神によって滅ぼされるのである。
“主よ、悪に負けることなく、主がすでに勝利を得ていることを確信させて下さい。アーメン”
 

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2005年10月16日(主日) 聖書の箇所:ダニエル9章1〜27節/ 年間通読:エレミヤ4〜5章
「われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めとおきてを離れました」。(5節)
  エレミヤによる70年の預言が成就して、エルサレムの回復がやがて来るということを信じる中で、そのことを待ち望んでいたのであった。
しかし、ダニエルはただ待っていたのでなく、悔い改めの祈りをしたのであった。そして、それは、先祖の罪を私の罪として、嘆き悲しんで、真剣に祈ったのであった。
“主よ、ダニエルのようなとりなしの祈りが、この日本のために出来るようにして下さい。アーメン”
 

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2005年10月17日(月) 聖書の箇所:ダニエル10章1〜21節/ 年間通読:エレミヤ6〜7章
「大いに愛せられる人ダニエルよ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。」(11節)
  <大いなる戦い>(1節)についての啓示をダニエルは受ける。
イスラエルの罪を悲しんで、断食をしていたダニエル、その厳しい現実に心身ともに疲れを覚えていたダニエルに神は天使を通し、起きよ、と語る。
神のしもべであるダニエルでさえも苦しみ、悲しみに落ち込むときがあるのだから、厳しい状況の中で、私たちはなおさら落ち込み、苦しむときがある。
しかし、ダニエルがそうであったように、キリストにあって我等も誰よりも、何よりも神に愛されている存在だ。だからこそ、私たちが落ち込むとき、主は必死に働き、励まし、慰め、具体的な助けを与えようといつも働くのだ。
“主よ、困難の中に、あなたの言葉を聞き、立ち上がらせてください。アーメン”
 

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2005年10月18日(火) 聖書の箇所:ダニエル11章1〜45節/ 年間通読:エレミヤ8〜10章
「彼はまた計略をめぐらして、堅固な城を攻めるが、ただし、それは時の至るまでです。」(24節)
  天使はやがて起こるペルシャとギリシャとの戦いについて語る。ギリシャは4分され、その中の南、北の王が対立して戦うというのだ。しかし世的な国、王がどんなに勢力を誇ったとしても、権力をほしいままにしてもそれは神が時を定めたその時までなのだ。
人生の中においても、困難、苦難という、とてつもなく、強大な敵国が容赦なく私たちを襲い、苦しめる時がある。たとえ、その圧力に押され、敗北感を味わおうとも、その苦難、困難の勢いも神の定めた時が至るまでだ。
必ず、解放、勝利の時が、真の支配者なる主によってもたらされることを覚えたい。
“真の王なる主よ!あなたの守り、支えを感謝します。アーメン”
 

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2005年10月19日(水) 聖書の箇所:ダニエル12章1〜13節
年間通読:エレミヤ11〜13章
「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。」(2節)
  終りの時のことが、新約聖書のテサロニケ、黙示録のごとくに記されている。特に永遠の生命についての表記は、旧約聖書の中ではここが初めてだ。
イエスの時代よりもはるか昔に、民を守る大いなる君(1節)、黙示録にある「いのちの書」(黙20:15)のごとくにその名の記されている者の救い、そして永遠の生命の授与のことが、具体的に示されているのは本当に驚きだ。この大いなる恵みの、いのちの預言の延長上に私たちが存在し、キリストにある永遠の生命が、我等のうちに確かに宿っている。ハレルヤ!
“あなたが遠い昔に示された永遠の生命を、私の内に与えて下さり、感謝します。アーメン”
 

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2005年10月20日(木) 聖書の箇所:ホセア1章1〜11節/ 年間通読:エレミヤ14〜16章
「さきに彼らが「あなたがたは、わたしの民ではない」と言われたその所で、「あなたがたは生ける神の子である」と言われるようになる。」(10節)
  預言者ホセアは北王国イスラエルに生まれ育ったが、南北の両王国へ神の警告を与えた。霊的な淫行というはなはだしい罪に陥り、主から離れていた神の民に対する厳しい非難と刑罰の宣告がなされるが、一転して10節では祝福の預言が示される。なんという大きな恵みの転換だろうか!
キリストのゆえに、神の民ではないどころか、神に敵対していたような私たちが、神の子として絶対的な神の愛を受けるようなものにされ、死からいのちへ招かれ、暗闇から光へ救い出され・・・。
なんとも数え上げればきりがない、恵みの大逆転、交換を主は私たちに与えて下さっていることだろうか!主の愛は計り知れない。
“恵みの転換を感謝!アーメン”
 

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2005年10月21日(金) 聖書の箇所:ホセア2章1〜23節/ 年間通読:エレミヤ17〜19章
「わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。」(20節)
  イスラエルの背信の故の崩壊、裁きの宣告から、一転してあわれみの回復が語られている。さらにそれだけではなく、神と神の民のなんとも言えない親密な、恵みの新しい関係までも示されている。
 自ら主より離れ、崩壊を身に背負ってしまうのはイスラエルの民だ。しかし、神の真実な愛は決して、そこで終わらせない。神のちぎりは神、人の責任が半々という、私たちが契約ということで、定義するような意味合いとは違うものがある。
このちぎりの全責任を負って下さるのはあくまでも揺るぎのない忠実な、真実な愛を持って私たちに迫る主だ。ただ私たちは神の呼びかけに応答して、この恵みのちぎりに参加しようとする、主にある決断が大切となる。
“主よ、あなたの愛に応答させて下さい。アーメン”
 

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2005年10月22日(土) 聖書の箇所:ホセア3章1〜5節/ 年間通読:エレミヤ20〜22章
「イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、・・・。」(1節)
  不品行の女とされるゴメルと結婚したホセアだが、その生活は苦悩に溢れたものであった。ホセアはその妻に裏切られ、愛人のもとへ行き、ついにはその奴隷となってしまった。しかし、神の命のもと再び、ゴメルを買い戻し、自分の妻としたのだった。
一連の苦難を通し、ホセアは自分の妻と同様に、主から離れ、他の神々に行き、霊的な姦淫という罪を犯していた最悪のイスラエルの民であっても、なおかつ愛する、底なしで、無双の主の愛を発見していく。主は愛の故に、かけがえのないいのちの代価を払って、私たちを罪の奴隷から買い戻してくださった。感謝!
“主の大きな愛に感謝!アーメン”
 

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2005年10月23日(主日) 聖書の箇所:ホセア4章1〜19節/ 年間通読:エレミヤ23〜25章
「イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。」(1節)
  ここからイスラエルの罪に対する激しい神の告発がなされていく。真実さ、誠実さ、神の知識の欠如(1節)が大きな、多種多様の罪につながっていくことを見る。
主の言葉を真摯に、へりくだりを持って受け止めていかなければ、真実さ、誠実さ、神の知識は消えてゆき、代わりに自己中心、欲情、怒り、ねたみといった罪の思いに捕らわれていくことになる。
派手な何かを見せ、行うというのではなく、目立たないが、最も大切な、主に愛されるその品格(真実さ、誠実さ、神の知識)を心に刻み込んでいただくことが、信仰者にとって重要なことだ。そのためにも神の語ることを、心の耳を研ぎ澄まして聞くという訓練を私たちはしていかなければならない。
“主よ、心を静めて、主の語りかけを、全身全霊で聞ける心を与えてください。アーメン”
 

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2005年10月24日(月) 聖書の箇所:ホセア 5章1〜15節/ 年間通読:エレミヤ26〜28章
「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。」(15節)
  ここでも神様は裁きへの警告をしている。神に愛せられるイスラエルの人々だが、イスラエルの人々は祭司や王から始まって「主にむかって貞操を守らず」(7節)他国の偶像を拝みまた罪を犯していた。
主は「わが怒りを水のように彼らに注ぐ。」(10節)と警告している。
私たちにはこの世の習慣や偶像礼拝が残っていないだろうか。けれどもこの不貞の民にもその罪を認める時、主の顔を尋ね求める時を待ち望んでおられた主は、今も私たちが罪を認め悔い改める時を今か今かと待っておられる。
“父よ。わたしの罪を認めます。そのゆるしを信じます。アーメン”
 

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2005年10月25日(火) 聖書の箇所:ホセア 6章1〜11節/ 年間通読:エレミヤ29,30章
「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(6節)
  神様はイスラエルの人々について「あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである。」(4節)と言っている。神様への礼拝や賛美、信仰告白がほんの一時の感情的なものであったり、あるいは見せかけのものであると嘆いておられる。主はその形式よりも、主ご自身をよく知って礼拝することを望んでおられる。遙かに優れた創造主の栄光!!。尽きることのない愛。主イエスが私の罪の赦しのためにどんなに苦しまれたことか、与えられている命が何と尊いか。
“主よ。主の栄光と救いのみ業に感謝し、礼拝します。アーメン”
 

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2005年10月26日(水) 聖書の箇所:ホセア7章1〜16節/ 年間通読:エレミヤ31,32章
「わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義と、サマリヤの悪しきわざとは現れる。」(1節)
  この章、次の章に示されているのもイスラエルへの裁きである。この裁きは、歴史的には亡国と捕囚として現れるが、その時にも主は、民の繁栄の回復の時、いやされる時が来ると告げている。だがここには彼らの罪と神への無知、神様を求めない姿が如実に表わされている。自らの醜さを見つめることは耐え難いことであるが、このこと無くしては神様の前に自らの罪深さを認めることはあり得ないし、十字架の恵みがどんなに大きいものであるかもわからない。主の恵み深きことをもっと味わい知ろう。
“神様。卑しい者への限りない愛を感謝します。アーメン”
 

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2005年10月27日(木) 聖書の箇所:ホセア8章1〜14節/ 年間通読:エレミヤ33〜35章
「イスラエルはのまれた。彼らは諸国民の間にあって、すでに無用な器のようになった。」(8節)
  主がイスラエルを選びの民とされたのは、諸国に神の栄光を表わし、全世界が祝福されるためであった。神を忘れその使命を忘れたイスラエルは、何の意味も価値もなくなってしまった。
 今も多くの人が神を知らず生きる意味を探し求めている。先に救われたクリスチャンは多くの人々に神の救いを宣べ、来るべき主の栄光を表わすという大切な使命がある。世にのまれて光を失なってはならない、塩気を失ってはならない。この世を愛し通された主を思い、また主との再会を待ち望みつつ主を証しよう。
“主よ。あなたの愛を思いつつ、証できますように。アーメン”
 

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2005年10月28日(金) 聖書の箇所:ホセア9章1〜17節/ 年間通読:エレミヤ36〜38章
「わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見(た)、」(10節)
  荒野のぶどうとは非常に珍しいもので貴重なものを表わしている。神様は私たちをもそのように貴重で大切なものと見て下さっている。
しかしイスラエルがそのすばらしさを失ったように、私たちの中にも大切なものを失っている者が少なくない。荒野の植物を生かしているものは、深い深い根である。何十メートルも下に伸び、地下の水脈にたどりついている。
 私たちは「祝いの日、主の祭りの日」(5節)である主日の礼拝に、また日毎のデボーションの中に深い根を伸ばし、活き活きとした命を保つことができる。
“主よ。あなたにしっかりと繋がって生かされますように。アーメン”
 

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2005年10月29日(土) 聖書の箇所:ホセア10章1〜15節/ 年間通読:エレミヤ39〜42章
「正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。」(12節)
  この章も全体として神の裁きを表わしている。イスラエルは悪と偽りの実を刈り取っていたが、主は慈しみの実を刈り取るべきことを示している。
悪と偽りの実とは何であろうか。不義や不正、この世の快楽である。だがその元は、自分の力やこの世のものにたよって、神様にまったき信頼をおかないことである。
主は何を喜ばれるだろうか、主は何をなさるだろうかと己を無にして主を信頼する者を主は求めておられる。
「今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。」 
“主よ。全く信頼します。あなたの恵みを注いで下さい。アーメン”
 

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2005年10月30日(主日) 聖書の箇所:ホセア11章1〜12節
年間通読:エレミヤ43〜46章
「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。」(8節)
  神様は、イスラエルの人々を我が子を愛しいとおしむ父親のように愛してきた。それでもイスラエルは神様を知らず、背き続けている。神様はこのイスラエルに怒りをあらわにされたが、それでも彼らを捨て、滅ぼすことができないお方である。善人を愛し、悪人を憎むところには痛みはない。
主は、背き続ける者を惜しみ、その罪の負債を自らが負って下さった。ここに神の愛がある。人間的な知恵や感情でははかり知ることのできないあわれみを表わし、御子を十字架の死のために遣わして下さった。
“父よ。あなたの愛がわからず背いてきたことをお赦し下さい。アーメン”
 

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2005年10月31日(月) 聖書の箇所:ホセア12章1〜14節/ 年間通読:エレミヤ47〜48章
「それゆえ、あなたはあなたの神に帰り、いつくしみと正しきとを守り、つねにあなたの神を待ち望め」(6節)
  先祖ヤコブのように悔い改めて神に帰るようにということである。ヤコブは“天の使(創世記32:28には神と人)と争って勝ち”とあるが、“主は万軍の神”(5)であり、また、主という名であるから、独立自存の絶対者なるお方である。
それゆえ、もものつがいをはずされた(創世記32:25)。すなわち、自我が砕かれたのであった。そして“泣いてこれにあわれみを求めた(4)”ので、祝福を得たのであった。
“主よ、あなたに帰り、真剣に求めさせて下さい。アーメン”
 

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2005年11月1日(火) 聖書の箇所:ホセア13章1〜16節/ 年間通読:エレミヤ49,50章
「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った」。(5節)
  わたしとはもちろん神であり、あなたとはイスラエルのことであり、私たちのことでもある。「知った」とはよくよく知ること、実際的に体験的に人格的に知ることであり、神が知るとは選ぶことでもある。
主は頼るところのない生きることが困難な荒野で、弱い、罪深いイスラエルを愛して、選んでくださり、契約を結び、神の民として下さったことなのである。それゆえ主は、彼らを導き、養い、守って下さったのである。
“主よ、あなたがこの罪深い者を、愛して、選んで下さり、
  あなたの民として下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月2日(水) 聖書の箇所:ホセア14章1〜9節
年間通読:エレミヤ51章,ルカ22章
「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである」(4節)
  ここにホセアの預言のすばらしさがある。やがて、アッスリヤによって、滅ぼされて、捕囚となる北イスラエル(エフライムとも言う)であるが、主の測り知ることの出来ない愛による赦しによって、“彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲く” (7)ようになるのである。
 赦しと繁栄が約束されているのである。ここで大切なことは主の陰に住むことである。
“主よ、この者もあなたに信頼し、あなたの陰に住む者として下さい。アーメン”
 

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2005年11月3日(木) 聖書の箇所:ヨエル1章1〜20節
年間通読:エレミヤ52章、ピレモン
「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。」(14節)
  ヨエルは南ユダのヨアシ王(BC837〜800年)の治世下で活躍したと推測するものが多い。
ヨエルとは「ヤーウェは神である」という意味である。イナゴの来襲は実際のことと取ることが出来る。しかし、これは比喩でもある。侵略軍の来襲のことである。
さらに、世の終わりの審きの預言でもある。悲しみと悔い改めをもって断食し、聖会を開いて、主を求めるべきことが命令されている。
“主よ、悔い改めをもってあなたを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2005年11月4日(金) 聖書の箇所:ヨエル2章1〜32節/ 年間通読:哀歌1、2章
「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る」(28節)
  “主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」”とあるが、“ねたみを起し、その民をあわれまれた”(18)とあり、また“わたしはあなたがたに償う”(25)ともある。
そして、神の霊がすべての人に注がれると言う大いなる恵みが預言されたのである。
 “主よ、あなたの赦しとあなたの霊が注がれるという祝福とを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月5日(土) 聖書の箇所:ヨエル 3章1〜21節/ 年間通読:哀歌 3〜5章
「その日もろもろの山にうまい酒がしたたり、もろもろの丘は乳を流し、ユダのすべての川は水を流す。泉は主の家から出て、シッテムの谷を潤す」(18節)
  ユダとエルサレムとが主によって幸福を元に返される日に万国の民が審かれるのである。
イスラエルに対してどうであったかで審かれるのである。“日も月も暗くなり、星もその光を失う”(16)とあり、また“天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである”とあるごとく、天変地異が来る中でも主の民は主を頼みとすることが出来るのである。
“主よ、あなたにより頼みます。アーメン”
 

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2005年11月6日(主日) 聖書の箇所:アモス1章1〜15節/ 年間通読:へブル1〜4章
「彼は言った、『主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる』」(2節)
  アモスはBC8世紀前半から半ばにかけての預言者であった。
内容は、諸国民への審判(1,2章)、イスラエルへの審判(3〜6章)、イスラエルに対する計画(7〜9章)の3つに分けることが出来る。
この1章で周りの国々への罰が言われている。アモスは牧者(羊飼い)であったが、神の御言葉を語るものとして立てられたのである。新約においては私たち一人一人が神の御言葉を預けられているのである。
“父よ、聖霊に満たされ、あなたの御言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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