デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年11月のデボーション
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2005年11月1日(火) 聖書の箇所:ホセア13章1〜16節/ 年間通読:エレミヤ49,50章
「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った」。(5節)
  わたしとはもちろん神であり、あなたとはイスラエルのことであり、私たちのことでもある。「知った」とはよくよく知ること、実際的に体験的に人格的に知ることであり、神が知るとは選ぶことでもある。
主は頼るところのない生きることが困難な荒野で、弱い、罪深いイスラエルを愛して、選んでくださり、契約を結び、神の民として下さったことなのである。それゆえ主は、彼らを導き、養い、守って下さったのである。
“主よ、あなたがこの罪深い者を、愛して、選んで下さり、
  あなたの民として下さったことを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月2日(水) 聖書の箇所:ホセア14章1〜9節
年間通読:エレミヤ51章,ルカ22章
「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである」(4節)
  ここにホセアの預言のすばらしさがある。やがて、アッスリヤによって、滅ぼされて、捕囚となる北イスラエル(エフライムとも言う)であるが、主の測り知ることの出来ない愛による赦しによって、“彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲く” (7)ようになるのである。
 赦しと繁栄が約束されているのである。ここで大切なことは主の陰に住むことである。
“主よ、この者もあなたに信頼し、あなたの陰に住む者として下さい。アーメン”
 

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2005年11月3日(木) 聖書の箇所:ヨエル1章1〜20節
年間通読:エレミヤ52章、ピレモン
「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。」(14節)
  ヨエルは南ユダのヨアシ王(BC837〜800年)の治世下で活躍したと推測するものが多い。
ヨエルとは「ヤーウェは神である」という意味である。イナゴの来襲は実際のことと取ることが出来る。しかし、これは比喩でもある。侵略軍の来襲のことである。
さらに、世の終わりの審きの預言でもある。悲しみと悔い改めをもって断食し、聖会を開いて、主を求めるべきことが命令されている。
“主よ、悔い改めをもってあなたを求めさせて下さい。アーメン”
 

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2005年11月4日(金) 聖書の箇所:ヨエル2章1〜32節/ 年間通読:哀歌1、2章
「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る」(28節)
  “主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」”とあるが、“ねたみを起し、その民をあわれまれた”(18)とあり、また“わたしはあなたがたに償う”(25)ともある。
そして、神の霊がすべての人に注がれると言う大いなる恵みが預言されたのである。
 “主よ、あなたの赦しとあなたの霊が注がれるという祝福とを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月5日(土) 聖書の箇所:ヨエル 3章1〜21節/ 年間通読:哀歌 3〜5章
「その日もろもろの山にうまい酒がしたたり、もろもろの丘は乳を流し、ユダのすべての川は水を流す。泉は主の家から出て、シッテムの谷を潤す」(18節)
  ユダとエルサレムとが主によって幸福を元に返される日に万国の民が審かれるのである。
イスラエルに対してどうであったかで審かれるのである。“日も月も暗くなり、星もその光を失う”(16)とあり、また“天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである”とあるごとく、天変地異が来る中でも主の民は主を頼みとすることが出来るのである。
“主よ、あなたにより頼みます。アーメン”
 

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2005年11月6日(主日) 聖書の箇所:アモス1章1〜15節/ 年間通読:へブル1〜4章
「彼は言った、『主はシオンからほえ、エルサレムから声を出される。牧者の牧場は嘆き、カルメルの頂は枯れる』」(2節)
  アモスはBC8世紀前半から半ばにかけての預言者であった。
内容は、諸国民への審判(1,2章)、イスラエルへの審判(3〜6章)、イスラエルに対する計画(7〜9章)の3つに分けることが出来る。
この1章で周りの国々への罰が言われている。アモスは牧者(羊飼い)であったが、神の御言葉を語るものとして立てられたのである。新約においては私たち一人一人が神の御言葉を預けられているのである。
“父よ、聖霊に満たされ、あなたの御言葉を語らせて下さい。アーメン”
 

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2005年11月7日(月) 聖書の箇所:アモス2章1〜16節/ 年間通読:ヘブル5〜8章
「見よ。」(13節)
  1章に続き、国々への裁きが語られている。国は富んだが「貧しい者をくつ一足のために売る」あるいは「父子ともにひとりの女のところへ」という義のない社会になっていた。さらには「預言者に命じて『預言するな』」(12節)と言うほど神様を愚弄する有様だった。
しかし神様が「見よ」と言われる時、その言葉は何と力強く重いことか。自分を王とする人の思い、言葉、行動を全くはねのけている。続く言葉は彼らが自らの罪の重さに圧せられことを示している。この重い罪を主イエスは私たちの代わりに負って下さった。
“父よ。あなたの義、恵みの前にただひれ伏します。アーメン”
 

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2005年11月8日(火) 聖書の箇所:アモス 3章1〜15節/ 年間通読:ヘブル9〜11章
「わたしがエジプトの地から導き上った全家に向かって言ったこの言葉を聞け。」(1節)
  3〜6章はイスラエルに対する裁きの預言である。ヤラベアム王の時代、国はこれまでにないほどに領土を拡大し、貿易も盛んになり富に潤った。しかし一方で礼拝が軽んじられ、不正と貧者への差別が混乱をも引き起こしていた。
主は、この民に災いが起こるのは、罪の罰であり、滅びへの警告であると語っている(2,6節)。主は、何と忍耐強く、罪を警告し、奴隷の地から解放した「わたし」に聞きなさいと語っておられるだろうか。
私たちも主の警告を聞き、悔い改めて、十字架による救いを信じ、赦されて生きよう。
“父よ。あなたの赦しを信じ、不正と罪を離れます。アーメン”
 

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2005年11月9日(水) 聖書の箇所:アモス 4章1〜13節
年間通読:ヘブル12,13章、エゼキエル1章
「見よ、彼は山を造り、風を創造し、人にその思いのいかなるかを示し、、」(13節)
  主は、災いをもって、人々が主に立ち帰るように警告したが、「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と言われる。
人が立ち帰るべきところはどこか?自分が帰っていくべきところはどこか?
帰属すべきところを見失っているところに社会の混乱、自己喪失が起こっている。人の帰るべきところは山を造り、風を創造し、人にその思いを示される主のふところである。
命の息を吹きいれ人を創造された主は、ただの被造物としてでなく、その思いのわかる存在として創造された。
“主よ。あなたに立ち帰り、あなたのみ思いを知り、同じ目的に生きる者として下さい。アーメン”
 

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2005年11月10日(木) 聖書の箇所:アモス5章1〜27節/ 年間通読:エゼキエル2〜5章
「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ。」(4節)
  ここには、形式的に礼拝し、表面では主を敬っているが、主を知らず偶像をも拝む者、富と贈り物、力ある者に頼っている人々の姿がある。
私たちが真に求めているものが何か問われている。日曜には神様を礼拝しつつ、占いを見たり、財産に基盤をおいたり、世の楽しみに神様を二の次にするようなことがあってはならない。また「わたしを求めよ」とは、よい動機であったとしてもあれこれと主に様々な願い事することでもない。主の何かではなく、主ご自身を求め、その存在、聖であり愛と栄光に満ちたご性質を知り、拝することである。
“主よ。主を求め、賛美します。アーメン”
 

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2005年11月11日(金) 聖書の箇所:アモス6章1〜14節/ 年間通読:エゼキエル6〜9章
「いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。」(6節)
  ここに御殿を建て贅沢の限りを尽くし安逸に過ごしている富者の姿を描いている。ヨセフの破滅とは、その兄弟たちが、よってたかってヨセフを穴に投げ入れ、その傍らで座ってパンを食べ、挙げ句の果てに隊商に売り渡したことである。人を犠牲にし、何喰わぬ顔で着飾っている姿である。
  今も私たちは、社会の競争に目を奪われると平気で同じことをしてしまう。主イエスと同じあわれみに富んだ目をもちたい。主が十字架を通し罪と死と苦しみを負って下さったことを覚え、助けを必要としている人に届いてゆきたい。
“神様。憐れみに富んだ目で見られますように。アーメン”
 

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2005年11月12日(土) 聖書の箇所:アモス7章1〜17節/ 年間通読:エゼキエル10〜13章
「主はこのことについて思いかえされ、「このこともまた起さない」と主なる神は言われた」(6節)
  この章主は裁きの幻を二度アモスに示されたが、アモスの執り成しによって裁きを思い返された。しかし次に幻が示されたとき、その時は待ったなしの神の裁きを示されたのであった。
主は、人の罪について長く忍耐しておられる。けれどもこの世が裁かれるときが必ず来ることも間違いのないことである。今こそ主に悔い改めるべき時である。そして恐れながらでなく、赦された喜びと救いの完成への期待をもって主の来臨を待ち望もう。またアモスのように執り成し祈る者でありたい。
“主よ。主の忍耐を感謝します。素直にみ言葉に従う者として下さい。アーメン”
 

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2005年11月13日(主日) 聖書の箇所:アモス8章1〜14節/ 年間通読:エレミヤ14〜16章
「主の言葉を聞くことのききん」(11節)
  恐ろしい言葉である。主の言葉を聞こうと尋ね回っても得ることができない時が来る、必ず終りの時が来ると、主はイスラエルの民に語られた。
民は繁栄の中で食物も満ち足り、金、商売のことで頭がいっぱいの時であった。今の時代、み言葉を自由にどこででも聞くことができる。しかし自分の暮らし向きに心を傾けて、み言葉をないがしろにしていないだろうか。必ず終りの時は来る。遅すぎたと言うことのないように、今、私たちは、永遠に変ることのない主の言葉に聞き、従い、蓄えるべきである。
“父よ。み言葉を聞く耳を与えて下さい。主の日を、備えて待ちます。アーメン”
 

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2005年11月14日(月) 聖書の箇所:アモス 9章1〜15節
年間通読:エゼキエル17〜19章
『わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から再び抜きとられることはない』とあなたの神、主は言われる。(15節)
  厳しい裁きの託宣の中で、最後は回復の予言でこのアモスは閉じられている。他でもないあなたを大切にする、あなたの神、主が愛を込めて、主権を持って力強く回復の宣言をなさる。
私たちは罪深い。しかし、私たちの神はそのどこまでも深い愛のゆえに、キリストにあって罪の滅び行く地の上ではなく、神のゆるしといのちにあふれた恵みの世界に生きるよう、人生の根をはるように主権を持って、救いの道を開き、主権をもってあなたの主がその恵みの大庭に、あなたを住まわせる。徹頭徹尾、主がなしてくださる救いの業だ。
“あなたの臨在に憩わせてくださり感謝!アーメン”
 

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2005年11月15日(火) 聖書の箇所:オバデヤ1章1〜21節
年間通読:エゼキエル20,21章
「こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める。そして王国は主のものとなる。」(21節)
  エドム人はヤコブと双生児の兄エサウの子孫であり、歴史の中で見ると、いつも神の民、イスラエル民族に対して反目的な態度をとり続けてきた民族であった。そこに神のエドムに対する厳粛な裁きの予言が、オバデヤを通して語られたのだ。エドムへのさばきとは逆に、ここでも最後は神の民の回復と救い、神の国の確立という勝利の予言で閉じられている。
キリストは武力ではなく、経済でもなく、政治の力でもなく、私たちの罪からの救いのために、いのちを惜しまず、投げ出すほどの愛の力を持って、すべてをすべ治める。今日もこの真の世界の統治者キリストが私たちと共にいる。
“主よ、すべての上におられるあなたが、今日も私とともにいてくださり感謝!アーメン”
 

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2005年11月16日(水) 聖書の箇所:ヨナ1章1節〜17節
 年間通読:エゼキエル22〜24章
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。」(1節)
  ニネベはメソポタミヤの地にある最古の町のひとつで、アッシリヤ王国の主要都市として繁栄を極めていたところであった。おそらく「彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」(1節)とあるように、その町の人々の不道徳、悪、罪は主の前にも到達するほどの凄まじいものだったのだろう。
裕福な、物質的に繁栄を極めている日本とニネベは類似点がある。ヨナがそうであったように、状況がどうであれ、私たちの立場がどうであれ、私たちはこの現代のニネベである日本の人々に神のメッセージを携え、手渡す使命を受けている。厳しい使命だが、キリストにあってヨナのようではなく、従順に“はい、主よ”と出で行く者でありたい。そこに大いなる祝福があることを信じて・・。
“福音を語る勇気をください!アーメン”
 

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2005年11月17日(木) 聖書の箇所:ヨナ2章1〜10節
年間通読:エゼキエル:25〜27章
「わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。」(7節)
  主の召しに逆らったヨナは三日三夜、主が用意された魚の腹の中で、深い謙りと、再献身に導かれた。暗闇、苦しみの中で主と出会い、新鮮な、力強い信仰を取り戻したのだ。
私たちもヨナのごとくに、苦難という大きな魚の腹の中に閉じ込められてしまうような時がある。しかし、そこでこそ真に神と出会い、深い、人生が変えられるような、その存在そのものが新しくされるような信仰の深みへ導かれるのだ。さらに私たちのうちに、外に良きものを作り出し、生み出すために私たちにとっての“三日三夜”をも主は用いられる。
“困難の中に、主の臨在の勝利を得させてください。アーメン”
 

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2005年11月18日(金) 聖書の箇所:ヨナ3章1〜10節/ 年間通読:エゼキエル28〜30章
「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」(10節)
  ヨナの必死の宣教により、なんとニネベの人々は神の言葉を真剣に受け止め、神を信じ、悔い改め始めたのだ。神は彼らの悔い改めの行動を、動機を目に、心にとめられ、下すべき裁きの災いをやめられた。神はさばきの神ではなく、民の悔い改めを待ち、いつでもその悔い改めをけ入れる寛容な心を持ち最後の瞬間まで、その裁きを思いとどめ、裁きの回避の道を模索される真実な、愛なる神である。
キリストにあって、究極の裁き、災い“永遠の滅び”から開放された私たちだが、神の前に悔い改めの実を結ぶ真実な歩みをさせていただきたい。
“主よ、悔い改めの実が、実生活の中で結ばれますよう、助けてください。アーメン”
 

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2005年11月19日(土) 聖書の箇所:ヨナ4章1〜11節/ 年間通読:エゼキエル31〜33章
「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(11節)
  神が災いを下すのをやめられた時、なんとヨナはそれでは、“災いが来る”と語ってきた私の立場がなくなるではないか、と言わんばかりに主に対して不満をぶちまけた。ヨナは自分の立場を気にして、主の思いを理解できずにいた。
主の燃える思いは、裁かれるべき大罪を犯し続ける12万の反逆の民にも向けられていた。神の愛は無限で、反逆の者、罪人に対しても、初めに裁きあり、ではなくアガペーの愛が向けられる。問題はその愛を感じ、応答できるかにある。あなたを惜しまずにいられない愛のゆえに、キリストを送り、滅びから救い上げてくださった神の愛を今日も感じ、応答する歩みをしよう。
“あなたの大いなる愛を感謝!アーメン”
 

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2005年11月20日(主日) 聖書の箇所:ミカ書 1章1〜16節
年間通読:エゼキエル34〜36章
「あなたがたすべての民よ、聞け。地とその中に満てる者よ、耳を傾けよ。主なる神はあなたがたにむかって証言し、主はその聖なる宮から証言される。」(2節)
  ミカはイザヤと同時期に、北イスラエル、南ユダの両方の国に神の審判を語り伝えた預言者として用いられた。北王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダもその脅威にさらされていくのを目の当たりにしていく中で、ミカは神の民のあらゆる面での堕落に対する主の厳正な審判の現実というものを肌身で感じたのだった。
キリストの赦しと恵みの世界の中に生かされている私達だが、主の前に襟をただし、恐れ敬い、へりくだりの思いを持って、主の前に出て、主の語られることを傾聴する心はいつの時代も大切にしなければならない。
“主よ、あなたの語りかけをへりくだりを持って、聞けますように。アーメン”
 

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2005年11月21日(月) 聖書の箇所:ミカ 2章1〜13節/ 年間通読:エゼキエル37〜39章
「ヤコブよ、わたしは必ずあなたをことごとく集め、イスラエルの残れる者を集める。わたしはこれをおりの羊のように、牧場の中の群れのように共におく。これは人の多きによって騒がしくなる」(13節)
  神の民の回復の預言である。“イスラエルの残れる者”とは、特に神に忠実な民を意味している。補囚からの回復であり、選ばれた民の救いを意味している。新約においても、やがて救われる神の民がおり、かれらは、霊のイスラエルが集う教会に必ず、集められるのである。受け入れの準備が必要である。
ア“主よ、罪に囚われている民を救われるために教会に集わせて下さい。ーメン”
 

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2005年11月22日(火) 聖書の箇所:ミカ3章1〜16節/ 年間通読:エゼキエル40〜42章
「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すことができる。」(8節)
  ここで“わたし”とはミカ自身のことを指している。ミカは偽りの預言者と違って“主の御霊”によって力に満たされ、公義と勇気に満たされる真の預言者なのである。聖なる、義なるものこそ罪を示すことが出来るのである。
私たちも、聖霊に満たされて、正しい歩みをすることが大切である。同時に、十字架の赦しを示すことも大切である。
“主よ、御霊の働きによって、人々が罪を示され、十字架を仰いで救われるようにして下さい。アーメン”
 

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2005年11月23日(水) 聖書の箇所:ミカ 4章1〜13節/ 年間通読:エゼキエル43〜45章
「彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない」(3節)
  終末における平和の到来の預言である。
“彼”とは主のことである。主がさばき、仲裁されることによって、本当の平和が、民と民の間に、国と国の間に訪れるのである。そしてそれは永遠的な平和なのである。そこには、敵の攻撃を恐れる必要もない真の平和と繁栄があるのである。
“主よ、このような平和の約束を感謝します。これを待ち望ませて下さい。アーメン”
 

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2005年11月24日(木) 聖書の箇所:ミカ5章1〜15節/ 年間通読:エゼキエル46〜48章
「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(2節) 
  イスラエルを治める者、即ち、メシヤ、キリストの誕生の預言である。ユダでエフラタと呼ばれていたベツレヘムに生まれると言うのである。
これが実現するおよそBC700年前に預言されていたとは、驚きである。神の計り知ることの出来ない御計画によってキリストが降誕し、救いが実現したのであった。なんという重い救いなのであろうか。
“主よ、すばらしい救いを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月25日(金) 聖書の箇所:ミカ6章1〜16節/ 年間通読:ヤコブ1〜4章
「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(8節)
真に神を拝することは、物を供えるのでなく、大きな犠牲をもってでもない。その心とおこないが、神の御心にかなうことである。即ち、“ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと”なのである。 
“主よ、心と行いがあなたの御心にかなうものとさせて下さい。アーメン”
 

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2005年11月26日(土) 聖書の箇所:ミカ 7章1〜20節
年間通読:ヤコブ5章,ダニエル1,2章
「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか」(18節)
  不義ととがを赦されるあわれみと愛に満ちた神が私たちの神である。この愛故に、独り子をも与えて、私たちの代わりに犠牲にして下さったのである。しかも、私たちが敵であり、罪びとであり、不信仰であり、滅ぶべきものであり、弱かった時に愛して下さったのである。
キリストの十字架こそ神の愛そのものなのである。私たちは十字架を拠り所とし、誇りとし、恵みとして受け入れるのである。
“主よ、すべての罪を御子の血の故にきよめて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2005年11月27日(主日) 聖書の箇所:ナホム1章1〜15節/ 年間通読:ダニエル 3,4章
「主は恵み深く、なやみの日の要害である。彼はご自分を避け所とする者を知っておられる」(7節)
  ニネベの裁きの預言の書である。ヨナの宣教によってニネベの町の人々は王様から家畜に至るまで悔い改めたが故に、滅ぼされなかったが、再び傲慢になってしまい、今度は、どうしても滅ぼされるべきものとなってしまったのである。
そのような中においても、主により頼み、避けどころとしている者を主は知っておられ、恵みをもって要害となって守って下さるのである。
“父よ、絶えず、あなたを避けどころとし、あなたにより頼むものとして下さい。アーメン”
 

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2005年11月28日(月) 聖書の箇所:ナホム2章1〜13節/ 年間通読:ダニエル5〜6章
「主はヤコブの栄えを回復して、イスラエルの栄えのようにされる。」(2節)
  多年にわたって神の民に対して圧迫を与え続けたアッスリアとその首都ニネベへの滅亡が、ナホムを通し、神によって語られる。ナホムの冒頭にあるように神はそのあだに報復を与えるお方だ(1:2)。その報復は愛する民を救出し、その栄えを回復させるための報復だ。
 私たちもさまざまな敵と思えるような困難や苦境に、窮地に立たされる時がある。
しかし、他でもない主こそはその状況を見過ごしにされないどころか、具体的な救出の業をもって、私たちを引き上げ、確かな回復をあらゆる面においてなしてくださる恵み深きお方であることを忘れてはならない。
“あなたの回復の業を感謝します!アーメン”
 

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2005年11月29日(火) 聖書の箇所:ナホム3章1〜19節/ 年間通読:ダニエル7〜8章
「万軍の主は言われる、見よ、わたしはあなたに臨む・・・。」(5節)
  神の民を多年にわたって苦しめたアッスリア、その首都ニネベに対して、引き続き徹底的な裁きの宣告がなされていく。どんな強国、大国であってもその栄えはつかの間である。天下を取ったかのような傲慢と神の民を傷つけたその罪は重い。
私たちは真のこの世の支配者である主をへりくだりと厳粛な思いを持って礼拝するとともに、経済のアッスリア、キリスト者を迫害してきた歴史をもつ現代のアッスリア日本と、そこに住む人々のためにとりなしの祈りを捧げていく必要がある。さばきではなく、主の大きな救いがもたらされるように・・・。
“主よ、わが同胞、わが家族に主の救いを来たらせたまえ。アーメン”
 

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2005年11月30日(水) 聖書の箇所:ハバクク1章1〜17節/ 年間通読:ダニエル9〜10章
「わたしはあなたがたの日に一つの事をする。人がこの事を知らせても、あなたがたはとうてい信じまい。」(12節)
  南王国ユダ末期の状況は惨憺たるものであった。堕落の一途をたどり、その落ちぶれ方はひどいものだった。神の民がこのような状態でいいのか、とのハバククの問いに神はこの悪を見過ごしにはしない、カルデヤ人を通してさばきをなすと語る。しかしハバククはカルデヤ人のような罪深い民族が、選民たちをさばく神の器となっていいのか、との新たな疑問を神に投げかける。
時折、主は私たちが全く理解できないようなことをなさる時がある。しかし、確かなことはすべてのことを私たちにとっての“益”に変えてくださるということである。
“主よ、ただあなたの不思議なみ業を仰ぎます。アーメン”
 

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