デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2005年12月のデボーション
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2005年12月1日(木) 聖書の箇所ハバクク2章1〜20節:/ 年間通読:ダニエル11〜12章
「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(4節)
  なぜ罪深いカルデヤ民族が神の選民をさばく器に?という消えない疑問を神にぶつけ、納得できる回答を待つうちに、力強い、信仰の中心、真髄とも言うべき真理がハバククの前に啓示された。ルターよりも、主イエスの時代よりもはるか以前に、信仰の真髄ともいうべき真理が力強く、再確認されていた。
どのような状況であれ、神の前にしっかりと踏みとどまり、真実に歩む者は、すなわち神にまず寄りかかり、どんなものよりも神に信頼を置く者ではないか。それ以上でもそれ以下でもない。今日も我らの主、キリストに錨をおろせ!
“信仰によりあなたの命に生かしてください。アーメン”
 

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2005年12月2日(金) 聖書の箇所:ゼパニヤ1章1〜18節/ 年間通読:第1ペテロ1〜4章
「主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。」(5節)
ゼパニヤの時代は宗教的混合、無関心、腐敗がはびこり、緊迫した国外情勢ともあいまって重苦しく、不穏な雰囲気に包まれていた。その中で主の日の到来が語られていく。だが、ゼパニヤにとっての主の日は恐ろしく、厳しい、神による罪の清算が主の民らになされるものだった。
 私たちにとっての究極の主の日はキリストが再び来られ、われらを主の喜びと勝利を心行くまで、とこしえに味わわせてくださる日となる。感謝とともに、主の日にさばきではなく、この喜びを分かち合える仲間が増えるよう、救いのために祈るものでありたい。 
“主よ、あなたの再臨を心して待ち望む者とし給え。アーメン”
 

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2005年12月3日(土) 聖書の箇所:ゼパニヤ2章1〜15節
年間通読:第1ペテロ5章、ホセア1〜3章
「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。」(3節)
  主の怒りの日は避けがたい。神の真摯なメッセージは堕落の神の民だけでなく、周辺諸国にまで及び、さらに残されたごくわずかな敬虔な信仰を守る者たちにも語られる。それは苦難の日だからこそさらに主を求め、公義を行い、へりくだりにへりくだりを重ね主の前にいつくしみを求め続けることだ。
混沌としたこの時代、神の究極的なさばきがいつなされてもおかしくないこの時代だからこそ、召されている神の民としてより一層、主を求めていくへりくだりの民とさせていただこう。
“主よ、さらに私たちをきよめ、主の聖徒とし給え。アーメン”
 

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2005年12月4日(主日) 聖書の箇所:ゼパニヤ3章1〜20節/ 年間通読:ホセア4〜7章
「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。」(17節) 
  主の日は心かたくなな者には恐ろしい裁きの日でしかないが、主の恵みを慕い求める者には大いなる救いの日となる。
 キリストを受け入れた日から、主は私たちのうちにおられ、苦難に負けない心を与え、主の愛によって新しく造られ続けていく。その主とのいのちの、喜びの交わりの日々は今から後に至るまで続き、究極の主の日、キリストの戻られる日を経てさらに、深く、広く私たちにとっての喜びの主の日は続いていく。ハレルヤ!
“主よ、あなたが共なる喜びの日々を感謝します。アーメン”
 

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2005年12月5日(月) 聖書の箇所:ゼパニヤ3章1〜20節/ 年間通読:ホセア8〜11章
「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。」(17節)
  主の日は心かたくなな者には恐ろしい裁きの日でしかないが、主の恵みを慕い求める者には大いなる救いの日となる。
キリストを受け入れた日から、主は私たちのうちにおられ、苦難に負けない心を与え、主の愛によって新しく造られ続けていく。その主とのいのちの、喜びの交わりの日々は今から後に至るまで続き、究極の主の日、キリストの戻られる日を経てさらに、深く、広く私たちにとっての喜びの主の日は続いていく。ハレルヤ!
“主よ、あなたが共なる喜びの日々を感謝します。アーメン”
 

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2005年12月6日(火) 聖書の箇所:ハガイ1章1〜15節
年間通読:ホセア12〜14章、第2ペテロ1章
「万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。」(9節)
  この預言の背景はエズラ記に記されている。捕囚から帰還した人々は、主の宮を建て始めたが、執拗な妨害に建設を中断し16年もそのままにしていた。その時ハガイは「主の家を建てよ。」(8節)との主の言葉を語り民を励ました。
 私たちが主の救いを受け喜んで始めた奉仕、それが難しさを覚えたり、妨害によって中断していないだろうか。惰性になっていないだろうか。その分自分のことに忙しくなっていないか。「共にいる」主を見上げ、「作業」にとりかかろう。
“父よ。感謝をもって、今主に仕えます。アーメン”
 

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2005年12月7日(水) 聖書の箇所:ハガイ2章1〜23節
年間通読:第2ペテロ2,3章、ヨエル1章
「今、あなたがたはこの日から、後の事を思うがよい。」(15節)
  工事が再開され3か月たった。工事は順調ではなかったようだ。また信仰面においても不十分であったようだ。しかし主が語られていることは、これから後のことを考えなさい、「わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える。」(19節)ということである。
人は今が思うようにいかないとき、あるいは、過去に失敗があると感じるとき、それらのものにとらわれて、将来にビジョンを持つことが難しくなる。だが主はこれを変えて下さる。主が恵み注がれるならだれが止めることができるだろうか。
“主よ。今の苦しみでなくあなたが私に注ぐ今からの恵みに目を留めさせて下さい。アーメン”
 

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2005年12月8日(木) 聖書の箇所:ゼカリヤ1章1〜21節
年間通読:ヨエル2,3章、第1ヨハネ1章
「万軍の主よ、あなたは、いつまでエルサレムとユダの町々とを、あわれんで下さらないのですか。」(12節)
  ゼカリヤはハガイと同じように主の宮の再建の時期に活躍した預言者である。特に幻を通して、その時代を超えて、メシア到来と全世界の救済にまで及んでいる。
上記の言葉は幻の中で主の使いが主に哀願した言葉である。人々が平穏だと言っている中で苦しんでいるユダヤの民、けれども同時になお先祖の歩みに教訓を悟らず神の愛に気づかないで悪い道を離れない民。だがその矛盾だらけの民へのとりなしに主は答え、主の使いにねんごろに語られた。「慰めの言葉」(13節)を持つ人は幸である。
“主よ。私をあわれんで下さい。アーメン”
 

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2005年12月9日(金) 聖書の箇所ゼカリヤ2章1〜13節:/ 年間通読:第1ヨハネ2〜5章
「主は言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。」(10節)
  エルサレムの町が城壁を越えて広がっていくことの啓示から、散らされたイスラエルの民が再び集められ、「多くの国民が主に連なって」主の民となり、主が「あなたの中に住む」と言われている。目の前の主の宮の再建も民族の帰還も重要であるが、神の民の喜びの源は、主がその中に共に住んで下さることである。
 主は自分勝手に散り散りに歩む私たち人間の中に御子をお送りくださり、神が私たちと共におられることを示して下さった。それがインマヌエルである。
“神様。私たちのうちに御子が来て下さって感謝します。喜びでいっぱいです。アーメン”
 

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2005年12月10日(土) 聖書の箇所:ゼカリヤ3章1〜10節/ 年間通読:アモス1〜4章
「彼の汚れた衣を脱がせなさい」(4節)
  ゼカリヤの幻の中で、み使いが大祭司について語った言葉である。見ると人々を執り成すはずの大祭司ヨシュアがサタンに訴えられていた。しかし主はヨシュアを責めず、裁かずサタンを責められた。そして大祭司をきよめ「よいしるしとなるべき人々」(8節)として再び立たせられた。
 私たちはサタンの訴えに何の弁明もできない。しかし神さまは、私たちを責めるのではなく、罪を取り除き(4,9節)きよめるために、御子を十字架につけて下さった。さらに私たちを救いの「よいしるし」として下さる。
“主よ。何の弁明もできません。ただ十字架の赦しを受け取り感謝です。アーメン”
 

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2005年12月11日(主日) 聖書の箇所:ゼカリヤ4章1〜14節 / 年間通読:アモス5〜7章
「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(4節)
  これも幻の一つである。燭台の上の七つのともしび皿は、二本のオリブの木から絶えず油を供給されていた。端的には主の宮の完成を示している。油は聖霊を表わしている。主の宮の完成は、人の権力や才能ではなく、全く上からの霊の恵みによる。そこに人の力や計算の入り込む余地はない。
 ともすれば私たちは、他の組織や人の才能を見て、私(たち)にもあれがあればと思う。それは間違いだ。権勢や能力によっては何もなされない。主の霊によるのだ。聖霊が自由に働くよう、主に自らを委ねよう。
“主よ。足らない者ですが、全てを委ねます。アーメン”
 

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2005年12月12日(月) 聖書の箇所:ゼカリヤ5章1〜11節
年間通読:アモス8,9章 オバデヤ
「これは全地のおもてに出て行く、のろいの言葉です。すべて盗む者はこれに照して除き去られ、すべて偽り誓う者は、これに照して除き去られるのです」(3節)
  第6の幻「飛んでいる巻物」と第7の幻「エパ枡」とがある。“すべて盗む者”と“すべて偽り誓う者”とに対するのろいと審き、“全世界の罪”と“その罪が計られて重い”こと、及び、エパ枡がシナル(バビロンの地)に運ばれて行くことが言われている。
このように罪は神によって審かれ、そして、重い罪は神によって取り除かれるのである。
“主よ、イエスさまの十字架にこそ、罪の審きと解決があることを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月13日(火) 聖書の箇所:ゼカリヤ6章1〜15節/ 年間通読:ヨナ1〜4章
「万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる」。(12節)
  第8の幻は4両の戦車とそれを引く馬(複数形)である。赤い馬は戦いと流血のバビロンを、黒い馬は飢餓と疫病と荒廃のペルシャを、白い馬は慰めと繁栄のギリシャを、まだらの馬は災いと繁栄のローマをあらわすと言われる。
神が臨在を表す青銅の山からこれらが審きのために、世界に遣わされるのである。そして本当に神殿(神の国)を建てるのはダビデの若枝であり、祭司であり王であるイエス・キリストである。
“イエスさま、あなたが真の神の国を樹立されたことを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月14日(水) 聖書の箇所:ゼカリヤ7章1〜14節
年間通読:第2ヨハネ,ミカ1〜3章
「真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、“もめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない」。(9,10節)  
  第4の月にはエルサレムが破壊された(6月17日)こと、第5の月には神殿が焼けた(7月4日)こと、第7の月にはゲダルヤが殺された(9月3日)こと、第10の月にはエルサレムがバビロン軍に包囲され始めた(12月10日)時をそれぞれ記念して、断食がされていた。このようなことになったことを真に悔い改めて、上記の御言葉を実行するが大切ある。
“真の悔い改めを教えて下さい。アーメン”
 

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2005年12月15日(木) 聖書の箇所:ゼカリヤ8章1〜23節/ 年間通読:ミカ4〜7章
「万軍の主は、こう仰せられる、『わたしはシオンのために、大いなるねたみを起し、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ』」(2節)
  ゼカリヤ自身の言葉でなく千々万々の御使いを従えておられる万軍の主の言葉であることが特に強調されている。シオンとはエルサレムのことであるが、このエルサレムがバビロン軍によって滅ぼされたが、“激しい憤りを持ってねたむ”といわれたほどに、契約の民の中心の町エルサレムを熱心に全力を尽くして愛するということである。だからこそ審に勝って、恵みと祝福を限りなく与えてくださるのである。
“主よ、教会をもシオンのように愛してくださることを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月16日(金) 聖書の箇所:ゼカリヤ9章1〜17節
年間通読:第3ヨハネ,ナホム1〜3章
「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(9節)
  ゼカリや書は1〜8章(第2神殿完成以前、それまでの預言)、9〜14章(神殿の完成後の預言)の2つにわけられる。イスラエルを悩ましてきた敵が、主によって攻め取られ、誇りを断ち、神に帰するようになる。これはイスラエルを主が憐れんで、その敵から救出して下されるからである。そして、やがて来たる王なるメシヤは平和をもたらす王なのである。
“主よ、あなたこそ平和であることを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月17日(土) 聖書の箇所:ゼカリヤ10章1〜12節/ 年間通読:ハバクク1〜3章
「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる」(1節)
  雨には、種まきの時の秋の雨と穀物に穂をもたらす春の雨(後の雨とも言う)とがある。穂が実るときの春の雨が降らなければ、枯れてしまい、穀物が採れなくなり、餓死してしまうのである。
これは新約で言えばペンテコステの聖霊である。人々が救われるためには聖霊が働かなければならないのである。聖霊が大雨のように降り、豊かな実りを得るように切に求めようではないか。
“主よ、聖霊の著しい働きを、教会に起こして、豊かな実を実らせて下さい。アーメン”
 

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2005年12月18日(主日) 聖書の箇所:ゼカリヤ11章1〜17節/ 年間通読:ゼパ1〜3章
「わたしは羊の商人のために、ほふらるべき羊の群れの牧者となった。わたしは二本のつえを取り、その一本を恵みと名づけ、一本を結びと名づけて、その羊を牧した」(7節)
  この当時、牧者は2本の杖を持っていた。1本は外敵から守るまっすぐな杖ともう1本は羊を安全に導く先の曲がった杖である。
前者は個人を救いの恵み、即ち、罪と悪魔から解放してくださるキリストの恵みを、後者は群れ、集団としての神の民をしっかりと結びつけるキリストの愛を表している。
“主よ、キリストの恵みと愛によって育まれる一人一人、及び教会の群れとして下さい。アーメン”
 

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2005年12月19日(月) 聖書の箇所:ゼカリヤ12章1〜14節/ 年間通読:ユダ、ハガイ1,2章
「彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになる。」(8節)
  「その日」とは、神の救いと裁きの行われる終末の時のことである。ある特定の時を指している場合もある。しかしこの救いは、救い主イエス・キリストがこの世界に来て下さったときから始まって完成を目指して進んでいる。
ここでは、エルサレムの弱い者がゴリアテを倒したダビデのように強くなることが言われている。しかしこの強さは、決して力による強さではない。主から注がれた「恵みと祈りの霊」(10節)によるものであり、彼らがそして私たちが刺し貫いたキリストを見て嘆き悔い改めるところから来る強さである。
“主よ。キリストの十字架を仰ぎ、救いを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月20日(火) 聖書の箇所:ゼカリヤ13章1〜9節/ 年間通読:ゼカリヤ1〜4章
「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。」(1節)
  この「泉」とは、唯一私たちの罪と汚れをきよめることのできる御子の十字架と復活を指している(7節-マタイ26:31参照)。
それにしても「きよめる」ということは生やさしいことではない。この箇所の数字は必ずしも厳密に取る必要はないが「全地の人の三分の二は断たれて死に、、」(8節) さらに「銀をふき分けるように、、」(9節)とある。
誰が残れるであろうか。だからこそ主の泉に感謝である。主は私たちの心の金かすも徹底的に取り除くことができる。だがそこには痛みも伴う。
“父よ。汚れた者を全く取り除き、きよめて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月21日(水) 聖書の箇所:ゼカリヤ14章1〜21節/ 年間通読:ゼカリヤ5〜8章
「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。」(9節)
  1節にある「主の日」とは、主が来られ、そのご支配が全地に及ぶ日のことである。主イエスは再び来られることを約束しておられる(ヨハネ14:3)。
ユダヤの国は隣国や時代の大国に打ち負かされ、弱く、貧しく、傷だらけで多くの日々を過ごした。けれども救い主が来るという希望を持ち続け、ついに御子イエスが来られた。
今日も主は同じように、また来ると約束しておられる。その時は、神の御心が行われる時であり、暮れることのない光、生ける水(6,7節)が与えられるときである。
“主よ。クリスマスを待ち望んでいる以上に、王なる主の来臨を待ち望みます。アーメン”
 

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2005年12月22日(木) 聖書の箇所:マラキ1章1〜14節/ 年間通読:ゼカリヤ9〜12章
「主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか。」(2節)
  ハガイ、ゼカリヤによって士気を高められ神殿を完成させた民であったが、思うような結果をもたらさず、再び失望し、無気力の泥沼の中に落ち込んでいった。信仰的な荒廃状態の中でマラキは神と民との仲保者的役割を果たした。
神に「どんなふうに、われわれを愛されたか」と盾突く民に神は主イエスにあって「そのひとり子を賜わったほどに」(ヨハネ3:16)と答え、愛を明示して下さった。この計り知れない愛に決して盾突いてはならない。
“あなたの私に対する大いなる愛を感謝!アーメン”
 

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2005年12月23日(金) 聖書の箇所:マラキ2章1〜17節
年間通読:ゼカリヤ13,14、黙示録1,2章
「彼と結んだわが契約は、生命と平安との契約であって、」(5節)
  祭司の堕落に対する避難、信仰の共同体としてのまとまりを失いつつあった民たちへの避難が神によってなされている。特に祭司との神の契約は恵みと祝福の約束であった。
主イエスにある私たちに対して主が立てて下さった契約も生命と平安の約束ではないか。神との葛藤のない状態から必然的に与えられる祝福、生きていることの喜びと感動、すなわち“いのちの充実”の恵みを私たちに約束して下さっていることを感謝!この恵みの契約に生きよ!
“主よ。いのちの契約を感謝します!アーメン”
 

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2005年12月24日(土) 聖書の箇所:マラキ3章1〜18節/ 年間通読:黙示録3〜6章
「彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(17節)
  占い、姦淫、偽り、賃金の未払い、やもめ孤児への虐げ、外国人への押しのけなどもうたくさんと思うほど罪が列挙されている。さらには、主に捧げる十分の一を主から盗んでいる。帰還した民は、善悪も礼拝もわからないほどに鈍ってしまった。
行為の回復に先立つのは、主に立ち帰る心の回復である。主は私たちを「宝」とみなし「あわれむ」お方である。主は「わたしに帰れ」(7節)と呼んでおられる。
“主よ。あなたをうとんじていました。お赦し下さい。あなたに帰ります。アーメン”
 

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2005年12月25日(主日) 聖書の箇所:マラキ4章1〜6節/ 年間通読:黙示録7〜10章
「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」(2節)
  旧約の最後は新しい契約(=「新約」)への備えである。神の前に「道を備え」(1)た「エリヤ」(5)はバプテスマのヨハネのことである。旧約の人々はアブラハム、イザヤをはじめ主イエスの栄光を待ち望んで喜んだ(ヨハネ8:56、12:41)。
バプテスマのヨハネも主イエスに会い「大いに喜」んだ。今や「義の太陽」のぼった。主は来られ、罪と死とは打ち破られた。
彼ら以上に、最初のクリスマス以上に喜ぼう!大いに主を喜ぼう!!
“主よ。心いっぱい体いっぱい主を喜びます。アーメン”
 

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2005年12月26日(月) 聖書の箇所:マタイ1章1〜25節/ 年間通読:黙示11〜14章
「『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(23節)
  神がどのようなお方で、どのような名を持っているかは信じる私たちにとって重要なことだ。
名は体をあらわす、とあるがインマヌエルほど神の存在、あり方をあらわしている名はない。神は超越者、裁き主、きよめ主、聖なるお方であるが、それにも増して、“私たち共にいてくださる”神なのだ。苦しみ、戦い、悲しみ、不安、落ち込みは容赦なく私たちを襲う。だが、私たちにとっての最上の知らせは主がどのような時においても共なってくださるということだ。
 たとえ状況はかわらなくとも“神われらと共にいます”ということ自体に神が定義する勝利の本質がある。
“主よ、臨在の勝利をお与えください。アーメン”
 

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2005年12月27日(火) 聖書の箇所:マタイ2章1〜23節/ 年間通読:黙示15〜18章
「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(6節)
  ダビデの父のエッサイの父のオベデを産んだモアブ人の女ルツが姑ナオミと住んだベツレヘム。ダビデの父エッサイの墓があるベツレヘム。モアブの女ダビデが羊を飼い、生活をしていたベツレヘム。ダビデが羊を飼い、生活していた地、ベツレヘム。どこから見ても辺ぴな田舎、しかし信仰的には由緒正しい地、ベツレヘムにイエスは生まれた。
王ダビデはイスラエルの王であるが、このお方はすべての王、王の中の王である。ただし田舎に生まれた、馬小屋に生まれた己をむなしくし、満ち満ちた恵みとまこと共に来てくださったへりくだりの王だ。
“あなたの謙りを感謝します。アーメン”
 

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2005年12月28日(水) 聖書の箇所:マタイ3章17節/ 年間通読::黙示19章〜22章
「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(11節)
  イエス・キリストが私たちにもたらす恵みは半端なものではない。決して形や単なる崇高な道徳観念で終わるものでなく、人を新しい存在に変えてしまう“新生”の恵みだ。
聖霊の注ぎの、火のように私たちの心のごみ、暗闇を焼き尽くす恵みの洗礼を通し、古い肉的な人から、キリストを着、神のいのちによって生かされる霊的な新しい人になり、なり続けていく。
 キリストにある私たちも聖霊と火とによって、新しい人とされ、これからその業はなされ続けていくことを忘れてはならない。躍動する聖霊の働きの中で、純粋な求めの中で、さらに古き人から新しい人へ成長させていただこう。
“新鮮な恵みを今日も与え、我を刷新し給え。アーメン”
 

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2005年12月29日(木) 聖書の箇所:マタイ4章1〜25節/ 年間通読:マラキ1〜2章
「イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。(19節)
  弟子たちに対する主の招きは、現代にいる私たちクリスチャンにも向けられているのではないか。どのような者であれ、キリストにある私たち一人一人を主は人の魂を捕える漁師にしてくださる。
キリストに捕えられ、大いなる恵みを受けた者が、今度は魂を主にあって何らかの宣教の業に携わっていかなければ、恵みの川の流れは滞り、やがて動きのない、生気の感じられないよどみとなってしまう。受けた大いなる救いと愛を他の人々に手渡す営み、宣教の業によりはじめて、食物連鎖ならぬ恵みの連鎖反応が起こり、拡大していく。
“主よ、あなたに従い、人間をとる漁師にしてください。アーメン”
 

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2005年12月30日(金) 聖書の箇所:マタイ5章1〜48節 / 年間通読:マラキ3章
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(48節)
  神の完全は文字通り完全そのものであるが、神が私たちに求める完全はそのようなものとは異質だ。
主が私たちに求める完全はまず神の恵みを乳飲み子のように純真に求め、真実な愛をもって私たちを愛する神の愛になんとか応えていこうとする私たちの神への心の向きではないか。そしてその神との恵みの交わりの中で、はぐくまれる隣人への、横に広がる愛に生きていくことこそが主が求められる神の側の“完全”の定義であろう。
“神の恵みへの渇望”、これが主が意味する完全への第一歩となる。
“主よ、神と人への愛において完全なものとし給え。アーメン”
 

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2005年12月31日(土) 聖書の箇所:マタイ6章1〜34節/ 年間通読:マラキ4章
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(33節)
  世の中には、いや私たちの生活の中には山ほどのしなければならないことで満ち溢れている。さまざまな心配事がある。心にいつも留めている事柄がある。しかし、そんな私たちに主は恵みの黄金律を語り続けておられる。
すべてのことを差し置いて、神を優先順位の第1とし続けることは実に難しいことだ。そこにはいつも葛藤と戦いが起こってくる。しかし、主が約束された通り、葛藤の中に神を選び取り、主の恵みを何よりも大切なものとして求めていく時、そこに主の不思議な祝福と満たしがいつもあることを忘れてはならない。
“なによりもあなたを大切に、あなたの恵みを慕い求める者とし給え。アーメン”
 

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