デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年1月のデボーション
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2006年1月1日(主日) 聖書の箇所:マタイ7章1〜28節/ 年間通読:創世記1〜3章
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」(26節)
  岩の上に家を建てるような確かな人生を送る人と、砂の上に家を建てるような不安定であいまいな人生を送る人の違いは神の言葉を聞いて、行うか行わないかにある。
聞いたことを、実際に行うには神のメッセージをだだ道徳的に優れた話ということではなく、直接的に私に語られた主のメッセージとして謙りと柔らかな心をもって、真摯に受け止めなければ、決して聞いたことが行動には現れてこない。聞き方にもいろいろある。真実な正しい聞き方をする時、聖霊の助けの中で、確かに聞いたことが必ず、私たちの実生活に現れてくるのだ。
“聞いて行えるものとし給え。アーメン”
 

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2006年1月2日(月) 聖書の箇所:マタイ8章1〜34節/ 年間通読:創世記4〜6章
「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。(8節)。
  マタイの8章には “重い皮膚病のきよめ”“百卒長の僕の中風の癒し”“ペテロのしゅうとめの熱病の癒し”“死人は死人に任せよ”“暴風の鎮静”“悪霊の追い出し”とたくさんのことが記されている。
イエスが主であり、神の子であるということをいずれも示すものである。その中でも上記の御言葉はイエスとその御言葉の権威を最も良く表すものである。同時にイエス様への信仰はその御言葉への信頼と一つであることを教えるものである。
“主よ、あなたの御言葉に本当に信頼を置くものとさせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月3日(火) 聖書の箇所マタイ9章1〜38節:/ 年間通読:創世記7〜9章
「収穫は多いが、働き人が少ない」。(37節)。
  イエス様の当時も今も変わらないことが言われている。
今も牧師が足りないでいる。献身して神学校で訓練と学びをする者が求められている。このことは教会の奉仕者についても同様である。主に仕え、働きに携わるものが足りないのである。
しかし、“彼らを深くあわれまれた”(36)とあるのが大切である。このあわれみとは「はらわた」と言う言葉から来ていることから体中で深い同情を感じることなのである。奉仕の前にこのイエスのあわれみの心を持つものとされたいものである。
“主よ、あなたのあわれみの心を与えて下さい。アーメン”
 

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2006年1月4日(水) 聖書の箇所:マタイ10章1〜42節/ 年間通読:創世記10〜12章
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」。(29節)。
  一アサリオンとは今で言えば、五百円から六百円であるが(1アサリオン=1デナリの16分の1)そんなに高いものではないと言う意味であると思われる。
その一羽も父の守りの中にあり、その御支配の下にあると言うことなのである。まして私たち人間は神の御前にそれよりはるかに勝った価値ある存在なのだから、神は私たちを顧み、守りの中においていて下さっているのである。
“主よ、あなたの守りと養いの中におかれていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年1月5日(木) 聖書の箇所:マタイ11章1〜30節/ 年間通読:創世記13〜16章
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。(29節)。
  魂に休みを得るには、
第一に、私たちが、キリストに学んで柔和とへりくだりを持つことであり、
第二に、キリストのくびきを負うようにということである。これは己に死んでキリストの救いの御業に参加することを意味している。
そして、このことは、信仰により聖霊によって私たちのうちになされるのである。
“主よ、あなたと共に死に、共に生きることによって、真の休みを与えて下さい。アーメン”
 

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2006年1月6日(金) 聖書の箇所:マタイ12章1〜50節/ 年間通読:創世記17〜20章
「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。(50節)。
  父母、兄妹の新しい考え方が言われている。それは、イエス様の父のみこころを行うものが誰でも、家族だというのである。
これは新しい革命的なことである。またここに、新しい神の家族、神の世界、神の国が実現するのである。キリストの贖いによって、これが実現したのである。キリストの血により、その命により、なされたのである。
“主よ、この日本に、そして世界にこのような家族を多く与えて下さい。アーメン”
 

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2006年1月7日(土) 聖書の箇所:マタイ13章1〜58節/ 年間通読:創世記21〜23章
「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。(23節)。
  豊かな実を結ぶためになにが大切か言うと御言葉を聞いて悟ると言うことである。
食物はよく消化され、吸収されるときにその人の血となり肉となっていくのであるように、御言葉が素直に、信仰によって、受け止められて、その人のものになり、その人の生活そのものになることが、悟ると言うことである。そのとき豊かな実を結ぶのである。
“主よ、あなたの御言葉を真に悟り、豊かな実を結ぶ者とさせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月8日(主日) 聖書の箇所:マタイ14章1〜36節/ 年間通読:創世記24〜27章
「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。(18節)。
  “それ”とは五つのパンと二つの魚のことである。それでは、男だけで五千人を養うことは不可能であったが、イエス様のところに持っていき、イエス様が祝福されると、それが増えていったのである。
これはイエス様自身にも当てはまるのである。彼は多くの人の救いとなり、本当に満ち足りた人生を人々に与えて下さるのである。
同時に、これは私たち自身にも当てはまるのである。小さな私たち自身をイエス様に献げる時多くの人の救いために用いられるのである。
“主よ、まずあなたのところに持っていかせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月9日(月) 聖書の箇所:マタイ15章1〜39節/ 年間通読:創世記28〜31章
『女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。』(25節)
  悪霊につかれた娘を持つ異邦人の母親の唯一の救いの希望はイエス・キリストであった。
彼女の救いの祈りの対象、またその関心は悪霊につかれた娘だけでなく、まず悲しみ、苦しみの状態にある母親自身であった。“あの人でもなく、この人でもなく、まずこのわたしを救ってください!”この祈りが私達とイエス様の力強い交わり、大いなるキリストにある救いの実現の土台となっていく。そのままで、しかし信仰をもって救いの源、イエスにすがりつくことからすべては始まる。
“主よ、まずわたしをお助けください。アーメン”
 

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2006年1月10日(火) 聖書の箇所:マタイ16章1〜28節/ 年間通読:創世記32〜35章
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」。(24節)
  この現代社会の中においては“犠牲”という言葉は耳障りな、最も聞きたくない言葉として考えられている概念なのではないか。人々は安全を、安心を求めて、財政的な犠牲を惜しまないが、無条件の、痛みの伴う犠牲は好まない。しかし、キリストは私たちに痛みの伴う犠牲を求める。いや、キリストを信じることはある意味で犠牲の伴うことなのかもしれない。主は私たちのためにすべてを投げ出されて貧しくなられた。私たちはその愛に応えるべく、私たちにとっての十字架を負うように招かれている。そこには必ず主の大いなる恵みの報酬と祝福が伴う。主への無条件降伏と、犠牲を伴う、痛みを伴うあなたの献身を主は大きな祝福の源としてくださる。
“自分が負うべき十字架を教え、負う力を与えたまえ。アーメン”
 

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2006年1月11日(水) 聖書の箇所:マタイ17章1〜27節/ 年間通読:創世記36〜39章
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。」。(20節)
  からし種は1ミリにも満たない小さな、小さな種である。しかし、成長すると大きくなり全長3〜4メートルほどのものになるのだ。
本物のいのちが種にあれば、それがどんなに小さい種であろうが、必ず芽を出し、成長し、豊かな実を結ぶ。私たちの信仰もどんなに小さなものであっても、“キリストが我を赦し、救いを得させ、恵みで満たす”という信仰のいのちがあれば必ず、大きく成長し、主の大いなる御業の基点となるようなものとなる。
“主よ、本物の、いのちのある信仰を与えたまえ。アーメン”
 

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2006年1月12日(木) 聖書の箇所:マタイ18章1〜35節/ 年間通読:創世記40〜42章
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(3節)
  天国にはいるということは、キリストの血の贖いを受け、新しい神の命を受け、新しくつくられた者となるということと同じであると思う。そのためには心をいれかえて、しかも子供のようにならなければならない。
それはある意味で子供のようになり最初から、初めの一歩よりすべてのことをキリストから学び直すようなこととも言える。但し、それは過去に一度学んだからそれで終わりということではない。
 今日も、明日も子供のようになってすべてをキリストから学び直すような歩みこそ、キリストが招いておられる天国に直結した恵みの生き方ではないか。
“主よ、幼子のような素直な心をお与え下さい。アーメン”
 

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2006年1月13日(金) 聖書の箇所:マタイ19章1〜30節/ 年間通読:創世記43〜46章
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」(21節)
  イエスはこの世の富がよくないと語られているのではない。ただこの金持ちの青年にとって神よりも大切だったものが“富”であった。
主が信仰者にいつも求められることは神のことを人生の優先順位の一番目に置くということだ。ここに大きな葛藤とチャレンジがある。神と私達を隔てているものに対して主は鋭く反応される。この青年にとっての“壁”はこの世の富であったが私達にとっての壁、神よりも大切と思えるものはなんだろうか。そうしたものが主に委ねられ、主を優先順位の第1位とする歩みをさせていただこうではないか。
“あなたをまず崇めます。アーメン”
 

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2006年1月14日(土) 聖書の箇所:マタイ20章1〜34節/ 年間通読:創世記47〜49章
『「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。』(32、33節)
  主は私達のすべての必要や、願い、問題をことごとく把握しておられるお方だ。その全能のお方が私達に望んでおられることは“信仰による求め”を言葉にして口で言い表すことだ。しかし、言葉にして口にだすということは案外難しいことであると言える。そのお方が本当にそのことに対して対処してくださるという信仰がなければ、口にはでないからだ。今日も主イエスは私達にも“何をしてほしいのか”と問いかけなさる。私達はただ信じて、していただきたいことを具体的に、言葉にして言い表してゆきたい。
“主よ、今日も我らをお助けください。アーメン”
 

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2006年1月15日(主日) 聖書の箇所:マタイ21章1〜46節
年間通読:創世記50章,ヨハネ1〜3章
「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ。」(9節)
  イエス様のエルサレム入城に際して、多くの群衆が集まり、その到来を喜び、褒め称えたが、ほどなくして、イエス様が十字架につけられる時には、その同じ口で、多くがイエス様を馬鹿にし、ののしった。
いつも群衆はいくつかのグループに分けられる。珍しいもの見たさの見物人、自分に益になることばかりを求める御利益的信望者、そして真実な思いを持って心から主を称え、お従いしていこうとする者たち等々。
 大いなる救いを体験した私達だ。真実な、純真な主への愛をもって、栄光の主にホサナと心からの賛美を持ってお従いする人生を全うさせていただこうではないか!
“今日も主に栄光あれ!アーメン”
 

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2006年1月16日(月) 聖書の箇所:マタイ22章1〜46節/ 年間通読:申命記1,2
「このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか。」(45節)
  「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか。」(42節)という問いかけは今も主イエスから私たちになされている。群衆は主イエスを預言者と思い、パリサイ人は、キリストは「ダビデの子です」と答えた。
ダビデは、御霊に感じてキリストを「主」と呼んでいる(詩篇110)。この「主」とは、王の子孫、優れた指導者、預言者、改革者といったものをはるかに超えてすべてを治めたもう「神の子」であることを表わしている。
あなたにとってキリストは、だれなのかと主は問うておられる。
“主よ。あなたこそ神の子であると認め、「主」と仰ぎます。アーメン”
 

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2006年1月17日(火) 聖書の箇所:マタイ23章1〜39節/ 年間通読:ルカ1,2章
「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」(11節)
  この章には、繰り返し「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。」と言われている。まさか彼らは自分たちが偽善者だとは思っていなかっただろう。それどころか神様にだれよりも熱心だと思っていたに違いない。
残念なことに彼らの熱心は、的はずれであり、無駄であった。最も大切なことを見逃していた。それは、義は人の側の行いによるのではなく、天の父とキリストの側にある真実によるということである。人はその真実に応えるのみである。
私たちも十字架の主のへりくだりを見ずに仕える人ではあり得ない。
“父よ。内側をきよめ、父の真実に歩ませて下さい。アーメン”
 

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2006年1月18日(水) 聖書の箇所:マタイ24章1〜51節/ 年間通読:ルカ3,4章
「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(44節)
  この24章には、エルサレムの滅亡のことと主イエスの再臨のこととが絡み合いながら語られている。
一世紀にエルサレムの滅亡は起こった。世の終りも確かに来る、そして主も必ず来る(30節)。その時になって備えようとしても間に合わない。
しかしこの預言は恐怖をあおり立てるためではない。滅びることのない主の言葉(35節)にしっかりと立って備えるのである。いたずらに緊張し疲れるのでもない。
「忠実な思慮深い僕」のように、心備えしつつ、日常の努めを果たしつつ、主を待ち望むのである。
“神様。み言葉に信頼して主の再臨に備えます。アーメン”
 

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2006年1月19日(木) 聖書の箇所:マタイ25章1〜46節/ 年間通読:ルカ5〜7章
「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。、、、」(37節)
  この章は天国についての三つのたとえが語られており、多くの示唆に富んでいる。ここに示された天国への鍵は、最も小さい者への具体的な愛の行動である。
聖書を知っているだけでは天国に入れない。私たちは決して弱い人、魅力のない人のところへは行こうとしない。そしてこの正しい人々は、天国へ行こうとしてあるいは主の業を行おうとして行動したのでもない。ただただキリストと同じ心を持って隣人に届いたのである。
“主よ。ただただあなたと同じ思いで、愛の業をさせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月20日(金) 聖書の箇所:マタイ26章1〜75節/ 年間通読:ルカ8〜10章
「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(39節)
  ゲッセマネの祈り。受難の前の切実な祈りである。十字架を前にして、全人類の救いを思い、またそのために受けるべき裁きの重さを知り、切に祈られた。この祈りの中に父なる神と御子イエスとの深い信頼、切っても切ることのできない愛の交わりが表れている。
罪を負うということは、この神の怒りを値引きなしに受け、この愛の交わりが断絶することである。主は受けるはずのない苦しみをこの小さく卑しい私をも覚えて受けて下さった。
“主よ。ゲッセマネでの切なる祈りを覚え、贖いを感謝します。アーメン”
 

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2006年1月21日(土) 聖書の箇所:マタイ27章1〜66節/ 年間通読:ルカ11〜12章
「百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。」(54節)
  祭司たちのねたみは恐るべき裁きに至った、総督ピラトは義を貫くことができなかった、群衆の叫び、ローマ兵の侮辱、様々な悪意に満ちた人々の姿、そして主イエスの罪人としての惨めな死と葬り。
ここに何の義も希望もない。だが不思議にもこの惨めな死こそが百卒長にイエスを「神の子」と認めさせるものであった。神は人の悪の計画を全き救いへと変えて下さった。罪深い私のために罪のない方が死んで下さった。ここに希望がある。
“神様。救いを受けて感謝です。アーメン”
 

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2006年1月22日(主日) 聖書の箇所:マタイ28章1〜20節/ 年間通読:ルカ13〜14章
「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、、、」(19節)
  よみがえられた主が、弟子たちに残したものは、全世界への大宣教命令である。弟子はその師の心を知っている。
弟子となる「すべての国民」の中にあなたも入っているはずである。主は私たちに主の弟子となるように、そして主の弟子を生み出すようにと命じて天に帰られた。だから、主の救いを受けた人は皆主の弟子である。
果たして私たちは主の弟子であろうか、主の御心を知っているだろうか。その師である主イエスの御心を知って、十字架にかかり、命を捨ててまで完成された救いのみ業を宣べ伝えていこう。
“主よ。私は救われた弟子です。福音を伝えます。アーメン”
 

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2006年1月23日(月) 聖書の箇所:マルコ1章1〜45節/ 年間通読:ルカ15〜17章
「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」。(35) 
  イエスさまは神であられるが、人となられ、神に祈るものとなったのである。ここに人間イエスの姿がある。彼は昼間、忙しくて祈る時間はなかったと思われる。それこそ食事する間もなかったのであった。
イエスさまがこんなに早く起きて、ひとり静かに祈っていたとすれば、私たちはもっともっと祈りの時間をとるべきなのである。ルターは1日の最も良き3時間を祈りのために用いたと言うことである。私たちはどうであろうか。
“主よ、私たちに祈る時間を与えて下さい。アーメン”
 

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2006年1月24日(火) 聖書の箇所:マルコ2章1〜28節/ 年間通読:ルカ18〜21章
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。(5節)
  ここには見せる信仰がある。ヤコブの手紙に「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」(ヤコブ2:18)とあるが、信仰は行動に現れるのである。それは愛のゆえにイエスさまのところに連れて行くことであった。
そして、その信仰の内容は、イエスさまなら必ず癒して下さる、なんとかして下さると言うイエスさまへの絶対的な信頼であった。
“主よ、あなたを絶対的に信じて、愛によって信仰の行動を起こさせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月25日(水) 聖書の箇所:マルコ3章1〜35節/ 年間通読:ルカ22〜24章
「また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、『あなたこそ神の子です』と言った」。(11節)
  神の子・メシヤとしての力が現わされて、病苦に悩むものが国内だけでなく、外国からも、多く押し寄せてきたのであった。そして、けがれた霊もイエスさまが神の子であることを認めてひれ伏したのであった。
悪霊はイエスさまに対して抵抗する力はなく、ひれ伏す以外ないのである。私たちは、このイエスさまによって、悪霊に完全な勝利を得ることが出来るのである。恐れることはないのである。
“主よ、あなたが神の子であり、絶大な力と権威を持っていることを信じます。アーメン”
 

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2006年1月26日(木) 聖書の箇所:マルコ4章1〜41節/ 年間通読:詩篇90篇、94篇
「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった」。(39節) 
  風も海も従うイエスさまの権威がここにはある。イエスさまはただ単なる人間ではなく、神なるお方なのである。
イエスさまによってすべてのものが造られただけでなく、すべてのものが従うのである。私たちは、このイエスさまと共に天上で座につかせて下さっているのである(コロサイ2:6)。
私たちもイエスさまにあって、自然も恐れることなく、それを従わせうるのである。
“イエスさま、あなたが神なるお方であることを信じさせて下さい。アーメン”
 

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2006年1月27日(金) 聖書の箇所:マルコ5章1〜43節/ 年間通読:詩篇 95篇、99篇
「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。(34節)
  大勢の人がイエスに触っていたが、この12年間長血を患っていた女性は「せめてみ衣にでもさわれば、直していただける」と信じて触ったのであった。するとイエスさまから力が出てその女性の病を癒したのであった。
イエスさまへの信仰があるないかかでこのような大きな違いが出てくるのである。私たちも信仰を持って、イエスさまに触れるものとなろうではないか。
“主よ、私たちにも、この女性のような信仰をお与え下さい。アーメン”
 

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2006年1月28日(土) 聖書の箇所:マルコ6章1〜56節/ 年間通読:詩篇100篇、109篇
「みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、『しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない』と言われた」(50節)
  逆風が吹いていて、こぎ悩んでいた弟子たちのところに夜明けの4時ごろ、イエスさまは海の上を歩いて近づいていかれたのであった。
自然の法則に縛られずに、悩みの時そばに来て下さるイエスさまを見ることが出来る。 そして、“私である。恐れることはない”と励まして下さるのである。なんともったいないことであろうか。
“主よ、悩みの時に、あなたがそばに来て励まし、助けて下さることを感謝します。アーメン”
 

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2006年1月29日(主日) 聖書の箇所:マルコ7章1〜37節/ 年間通読:詩篇120篇、124篇
「すると女は答えて言った、『主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます』」。(28節)
  へりくだりの信仰と求め続ける信仰がある。この女性はギリシャ人であった。ユダヤ人はこのような異邦人と、一緒に食卓に着くようなことすらしないで、軽蔑していたのであった。
イエスさまはそのような状況を知っておられて、この女性を試して小犬扱いをしたのであった。するとこの女性は、それを受け入れはしたけれども、なおもイエスさまを信じて、“小犬もパンくずはいただく”と言われたのであった。見事に、信仰のテストにパスしたのである。
“主よ、へりくだりと、求め続ける信仰をお与え下さい。アーメン”
 

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2006年1月30日(月) 聖書の箇所:マルコ8章1〜38節/ 年間通読:詩篇125、126篇
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(35,36節)
  人は意識する、しないに係わらず、何らかのものに命をかけまた、命を使って生きていると言える。
イエスはまず他でもない、私のために、福音の前進のためにあなたの命を使ってほしい、とチャレンジを与える。
堀江式錬金術が注目を浴びていたが、やはり“諸行無常の響きあり”を証明したに過ぎない。歴史の中で繰り返す“諸行無常”の世界を打ち破る豊かな命の世界がキリストに我らの命をまず預けていく時、開けていく。
“あなた命を得るものとし給え。アーメン”
 

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2006年1月31日(火) 聖書の箇所:マルコ9章1〜50節/ 年間通読:詩篇130、131篇
「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる。」(23節)
  おしとつんぼの霊につかれた子を持つ父親はすがるような思いで、この方以外に子を救って下さるお方はいないという背水の陣でイエスのもとに来たはずであったが、厳しい現実を目の前にすると、“もしできれば、あわれんでください。”との消極的な訴えになってしまった。
“もしできれば”、この言葉は私たちの口癖でもあるかもしれない。神の前にはなんら遠慮はいらない。“信ずる者には、どんな事でもできる”という神の側の信仰の法則に基づいて、私たちの背水の陣を打破させていただこう。
“主よ、全能の主をいつも信じさせて下さい。アーメン”
 

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