デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年2月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
   1  2  3  4  5
 6  7  8  9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
 
2006年2月1日(水) 聖書の箇所:マルコ10章1〜52節/ 年間通読:詩篇135、136篇
「行け、あなたの信仰があなたを救った。」(52節)
  このキリストの宣言がなされるところ、どこにおいても奇跡が、癒しが、救いがなされた。
 イエスが求めておられる信仰はそんなに複雑怪奇なものではない。盲人のバルテマイがしたことといえば、助けを叫び、して欲しいことを単純明快にキリストの前に申し述べただけであった。キリストの求めておられる信仰、神の業の基点となるような信仰は実に単純である。そのことの故にかえって私たちは信仰の中心を見逃しやすい。
この“偉大なる単純さ”に身を置く者でありたい。今日もイエスにある信仰で、明日もその信仰で救われ、歩み続けていくのだ。
“主よ、今日も私をお助けください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月2日(木) 聖書の箇所:マルコ11章1〜33節
年間通読:イザヤ52,53章,出エジプト1章
「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(24節)
  ここでも祈りの力、信仰の勝利が語られている。“なんでも”、“すでにかなえられた”、“そのとおりになるであろう”と私たちにとっても大きなチャレンジと思われる言葉が続く。
誤解してはならないのは私たちの信仰、祈りではなく、神の子、キリスト・イエスの力と権威によって、神の側で、神の方法で、神のよしとされる時に必ずや、全うされる。将来の、明日の主の御業を信じて、期待して今日も信仰による求め主の前にさせていただこう。
“主よ、あなたを信じ求めるものとし給え。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月3日(金) 聖書の箇所:マルコ12章1〜44節/ 年間通読:出エジプト2〜5章
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」(30節)
  多くの律法学者、祭司長たち、宗教性に富んだユダヤ人たちに欠けていたもの、それが神への愛であった。宗教的儀礼でもなく、伝統でもなく、律法の知識でもなく、ただ単純な、純粋な神を愛する心が、まずキリスト教の第一番目に来る。
愛は決して一方通行的な、冷酷な、機械的な関係ではなく、豊かな、いのち溢れる、心と心のふれあいが溢れている関係を表しているといえる。
キリスト教は交わりの宗教である。神に愛され、神を愛するという豊かな、心が燃える神との躍動する交わりが私たちの信仰の土台となる。
“何よりもあなたを愛する者とし給え。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月4日(土) 聖書の箇所:マルコ13章1〜37節/ 年間通読:出エジプト6〜9章
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(31節)
  罪によって人に死が、罪という壊れ、病が入り込み、さらに壊れてしまった人間を通し、“壊れ”が被造物全体に広がっていく。悲しいかな、その壊れた世界には必ず、終わりが来る。すべては壊れ、滅びていく。
しかし、その神の言葉が表す祝福の約束、永久の救いの契約、また神の言葉に溢れ、示されている私たちへの神の愛と慈しみは変わることはない。さらに、この壊れない神の言葉を信じ、それを土台として生きる私たちも朽ちないものを着て、滅びから、壊れから免れて生き続けることが出来る。ハレルヤ!
“今日も朽ちない神の言葉とそのキリストの命に溢れさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月5日(主日) 聖書の箇所:マルコ14章1〜72節/ 年間通読:出エジプト10〜12章
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(24節)
  “血は命であるゆえに、あがなうことができる・・。”(レビ17:11)とあるように、唯一私達のしつこい、最悪の罪をゆるし、きよめる神の血、神のいのちをもってキリストは私達をあがなってくださる。
“メメント・モリ”はラテン語で“死を覚えよ”という意味だが、私たちキリスト者は十字架上でのキリストの死が即ち、信じる私達の命となることを覚えたい。主は私達のうちに、しつこい罪と恐ろしい死を洗い流し、私達を新しく、充実させる神の命を流し込んでくださった。この方の“血の流し”の故に今、私達は真に生きている。
“今日も、主の十字架の死とその効力を覚えさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月6日(月) 聖書の箇所:マルコ15章1〜47節/ 年間通読:出エジプト13〜15章
「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(37,38節)
  主イエスは残酷な十字架の死を遂げられた。
人の罪は、全く罪のない全き神、全き人である主イエスしか贖うことができないものであった。主イエスが死んだとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。神殿の幕は聖なる神と人とを隔てるものであり、その中は大祭司しか入れなかった。それが完全に裂け、神に至る道が総ての人に開かれたことを表わしている。私たちは、主のあがないによって聖なる神の前に出ることができるようにされたのだ。
“神様。主の十字架によって、赦されてみ前に出られることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月7日(火) 聖書の箇所:マルコ16章1〜20節/ 年間通読:出エジプト16〜20章
「イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。」(6節)
  3人の女性達が主イエスの亡骸に香油を塗ろうと墓に来た。そこで彼女らは、主はよみがえられたという驚くべき知らせを聞いた。主イエスの死にだれもが失望し、これで終りだと思っていた。
 だがそうではなかった。主は、死を打ち破り、よみがえり、マリヤに、そして弟子たちに自らを表わされた。死を味わい死を打ち破られた主イエスだからこそ、私たちの死・苦しみの時にも共にいて支えて下さる。
そして私たちはこの主にあって、私たちも死を打ち破りよみがえるという望みに生きることができる。ハレルヤ!
 “父よ。主イエスにある驚くべき望みを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月8日(水) 聖書の箇所:ルカ1章1〜80節/ 年間通読:出エジプト21,22章
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節)
  3節にあるように、ルカはイエスキリストの生涯を詳しく調べて書き記した。その目的はこの福音が確実であると知らせるためであった。そういう意味で私たちの信仰は闇雲なものではない。けれどもどんなに調べ確かめても、自分自身が傍観者では救いはわからない。
 造り主なる神様が確かで、救いの業をなしてくださったと信じるならそこに飛び込むべきである。イエスの母マリヤは、み告げを恐れ戸惑いながらも、み言葉をへりくだって受け取った。神様の中に飛び込んだのである。そこに主の業がなされた。
“主よ。あなたは真実です。主に従うと決断しました。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月9日(木) 聖書の箇所:ルカ2章1〜52節/ 年間通読:出エジプト23〜25章
「おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、」(13節)
  救い主がお生まれになったことは、知らされた羊飼いにとっての喜びであるばかりでなく、み使いをはじめ天に属するすべて、また被造物全体の喜びであった。暗く静かなベツレヘムの野辺に、主の栄光にめぐり照らされて喜びの賛美が響きわたった。
 私たちはこの喜びの賛美を受け継いでいる。さらに今は地にある私たちであるが、やがて天に迎えられ、いと高き神の栄光を仰ぎ見て賛美するときが来る。救いを感謝しつつ、これから与えられる栄光に思いを馳せて神様を賛美しよう。
“神様。神様に栄光、地に平和がありますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月10日(金) 聖書の箇所:ルカ3章1〜38節/ 年間通読:出エジプト26〜28章
「わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。」(16節)
  バプテスマのヨハネはイエス・キリストを紹介する人であった。
自分よりもはるかに力あるお方を紹介した。へりくだって紹介したヨハネもすばらしいが、紹介された方ははるかにすばらしい。聖霊と火によってバプテスマをお授けになるとは、赦されたということにとどまらないで主の証人とする聖霊の恵みが注がれることである。また主は善悪を裁くお方である。
一般的に死んだらすべて無くなると考える人も多いが、聖書は、死んだ後その生前の善悪によって裁かれると語っている。真に公平である。喜びと同時に厳粛な思いである。
“主よ。豊かに聖霊を注いで下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月11日(土) 聖書の箇所:ルカ4章1〜44節/ 年間通読:出エジプト29〜31章
「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。」(13節)
  主イエスは、悪霊に命じ、全く従わせる権威をお持ちであった。しかし悪魔はこの主に対してあらゆる試みをしつくした。
悪魔は、私たちが神様の存在や権威を疑ようにし向けたり、神様以上に自分自身や他の何かに信頼するようにし向けている。あらゆる面において試みられるならいったいだれが立ち向かえるだろうか。
だが主イエスは悪魔に翻弄されたのではなかった。一つ一つ(旧約)聖書のみ言葉をはっきりと示し、勝利されたのである。み言葉を御霊によってしっかりと握ることがどんなに大切であろうか。
“神様。み言葉により、試みに勝利させ続けて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月12日(主日) 聖書の箇所:ルカ5章1〜39節/ 年間通読:出エジプト32〜34章
「しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。」(16節)
  イエス様はペテロたちに声をかけ弟子とされた。群衆を教え、様々な病気を治された。その噂を聞いてますます多くの人が集まってきた。
イエス様はますます忙しくなる。だが忙しく働き回ったのではなかった。教えることいやすことを中断し、群衆をのこし、退かれて祈った。祈ることが不可欠だったのだ。父なる造り主との交わり、これが主イエスの命の源であった。
私たちにとって祈ることは、御子であるイエス様以上に不可欠であり命の源である。仕事、家事、勉強、伝道あらゆるものを横に置いて、神様の前に祈ろう。そして働きに出よう。
“主よ。私を満たして下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月13日(月) 聖書の箇所:ルカ6章1〜49節/ 年間通読:出エジプト35〜37章
「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。
洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。
よく建ててあるからである」。(48節)
  イエスさまのところに行って、その言葉を聞いて行う者の譬えである。
まず、イエスさまのところに行くとは、彼を信ずること、彼に結ばれることである。次に、命の御言葉を聴く気で聴くことである。
その時に、イエスさまから命と力と愛とが注がれて、行うということが可能となるのである。
“イエスさま、あなたのもとに行き、御言葉を聴いて、行う者にさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月14日(火) 聖書の箇所:ルカ7章1〜50節/ 年間通読:出エジプト38〜40章
「そして女に、『あなたの罪はゆるされた』と言われた」。(48節) 
  イエスさまの権威に、罪を赦すというのがあったのである。この権威は、「神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」(マルコ2:7)とある如く、神だけが持っている権威である。
詩篇51:4にも「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、」とある。
であるから、イエスさまは神と同じお方であることを示しているのである。
“主よ、あなたによる罪を赦しこそが、本当の罪の赦しであることが確信でき、感謝です。
 アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月15日(水) 聖書の箇所:ルカ8章1〜56節/ 年間通読:マタイ1〜4章
「イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』」。(54節)
  これも、イエスさまが神であることを示すものである。彼は死人を生き返らせる全能の力を持っておられるということである。彼は自然を支配し、病気を癒しただけでなく、死人を生き返らせることの出来るお方なのである。
これは、罪を赦すことが出来るということと深い関係があるのである。罪の払う価は死であるから、罪が解決するなら、当然にその結果である死も解決するのである。
“主よ、あなたは死人をも生かすお方であることを信じさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月16日(木) 聖書の箇所:ルカ9章1〜62節/ 年間通読:マタイ5〜7章
「祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた」。(29節)
  これはイエスさまの変貌、姿変わりのことである。ところがルカだけは、「祈っておられる間に」と記している。祈りは人間から神に向かってなされるのである。み顔の様が変わったということは、神たることを顕わすのである。人間であり、同時に神であるということを、顕すところの数少ない聖書の箇所といえるのではないか。まさにイエスさまはまことの人であり、同時に、まことの神なのである。
“イエスさま、あなたに聴き従うものとさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月17日(金) 聖書の箇所:ルカ10章1〜42節/ 年間通読:マタイ8〜10章
「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。(42節)
  この少し前には、マリヤが「主の足もとにすわって御言に聞き入っていた」(39)とあり、また、この言葉はマルタをたしなめて言われたのであった。
更に他には、「まず神の国と神の義と求めなさい」(マタイ6:33)、そして「御名があがめられますように」(ルカ11:2)とある。
それ故、なくてならないものは、“御名のために一心に御言葉に聞き、それに従い、神の国の中心であるイエスさまとその十字架を信じて神に義とされて、神の国に入ること”である。
“主よ、第一のものを第一とさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月18日(土) 聖書の箇所:ルカ11章1〜54節/ 年間通読:マタイ11〜13章
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(5節)
  私たちの地上の父は愛の故に私たちに、良い贈り物をして下さるが、善なる天の父はその愛する子のために、更にすばらしい最も良いものを贈って下さるのである。それは聖霊なる神である。
聖霊は私たちを真理に、まことの神に、まことの救いに、まことの喜びに、また、愛と信仰と希望に導いて下さるのである。
“主よ、悔い改めと信仰とによって、聖霊の満たしをお与え下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月19日(主日) 聖書の箇所:ルカ12章1〜59節/ 年間通読:マタイ14〜16章
「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」。(48節)
  私たちは今、聖書を全部読むことができ、聖霊が与えられていることから、この当時の弟子たちと同じく、主の御心を知らされているものであり、多く与えられ、多く任されているものである。
だから、私たちに、期待されているのは、この忠実な思慮深い家令と同じように、イエスさまが再臨されるのを待ち望みながら、目を覚まして、忠実に仕えることなのである。
“主よ、忠実な思慮深い家令として下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月20日(月) 聖書の箇所:ルカ13章1〜35節/ 年間通読:マタイ17〜19章
『イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。』(12,13節)
  安息日に癒せば当然問題になることを承知で、むしろ会衆の見ている前で、病気で18年も患っている女を主は病から解放された。主の関心事は周囲の状況、場所、時、慣習ではなく、ただこの女が病気の束縛から解かれ、主にあって健やかに生きることであった。
今日も主の心からの願いはあなたが何にも捕らわれず、健やかに、生き生きと主を崇め、歩むことだ。
あなたは今日、何かに縛られていますか?罪、死から解放を与える主が、今日もさまざまな縛りからあなたを解放し、健やかにしてくださいますように!
“主の解放の業を感謝!アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月21日(火) 聖書の箇所:ルカ14章1〜35節/ 年間通読:マタイ20〜22章
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(11節)
  この世の慣わしでは高いものがさらに高くされ、力あるものがさらに力を得ていくのが常である。しかし、神の国は全くこの世のあり方とは正反対の法則に基づいて成り立っている。
人間の高さは神の怒りを生むが、へりくだりと従順さは神の祝福の源となる。ただ、へりくだり傲慢や、自己憐憫の類であってはならない。主にある愛と慎みをもって、主と人に仕えていくのだ。そこにはいつも主の前に出て、主の光に照らされて自分自身の心を吟味していく不断の取り組みが必要となる。
“わが心を謙らせ、あなたに喜ばれるものとし給え。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月22日(水) 聖書の箇所:ルカ15章1〜32節/ 年間通読:マタイ23〜25章
「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。」(22節)
  悔い改めて帰ってきた放蕩息子に対して、父は一言も否定的なことを言わなかった。叱ることも、“こうすべきだった”などと説教じみたことも、嫌味もなにもない。慈しみ深く、広い心と無限の愛とをもってその存在を丸ごと受け止めた。
天の父も私たちの主にある悔い改めを溢れる愛をもって受け、私達を包み、その帰還を喜んで下さるだけでなく、最上の恵みを持って私たちの生涯を満たして下さる。徹底的に恵みを得るのは神にそむいて罪人だった私達だ。なんという大きな神だろうか!
“あなたの計り知れない赦しと恵みを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月23日(木) 聖書の箇所:ルカ16章1〜31節/ 年間通読:マタイ26〜27章
「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。」(8節)
  不正な家令の話であるが、ここでは“不正”に注目するのではなくこの家令の抜け目なさ、思慮深さに心を向けるべきだ。
家令は職を辞めさせられるような危険が迫った時、自らの救いの場を求めて必死に、思慮を用いて行動した。人は罪から来る将来の滅びへの深刻な受け止め、そこからの救いを得るために必死に、その迫る危機に対応しなければいけないという、主の厳格なメッセージが隠されている。
救いようのない自らの姿に対する洞察、そしてそこに与えられる主の恵みと救いをなんとしてでも得たい、得続けてゆきたいとする “救いへの渇望”こそ、私たちが持つべき霊的な思慮深さであろう。
“主の救いを切望させて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月24日(金) 聖書の箇所:ルカ17章1〜37節/ 年間通読:マタイ28章、レビ1〜3章
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」〔6節〕
  からし種はその大きさが0.5ミリにも満たないような小さな、小さなものであるが、防腐剤、香辛料、薬草と、幅広く使われてきたマスタードタードの一種だ。成長すると3メートルにもなり、また黄色いきれいな花を咲かせる。
どんな小さな種であっても命が内にあれば大きく成長する。内にあるものが神の命であるならばなおさらのこと。あなたの内にかけらでもいい、“神は何でもおできになる”という信仰のいのちなる確信があればそこから主の業がなされる。
“主よ、信仰の確信を与え、なおなお成長させたまえ。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月25日(土) 聖書の箇所:ルカ18章1〜43節/ 年間通読:レビ4〜6章
「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」(7節)
  迫害や、自分の身に容赦なく起こってくる危害の状況の中でも失望せずに祈り続けていくことの大切さが語られている。
主への祈りも勿論大切だが、混沌とした状況の中で、やがて与えられる主の守り、正しいお取り計らいを信じ、待ち望み続けることも大切な要素だ。
失望しやすい私たち、落ち込みやすい私たちだが、生きておられる主にいつも望みを見出していくお互いでありたい。“望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。”(ローマ12:12)今日も望みをいだき、立ち上がろう!
“失望せずに祈る力を与え給え。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月26日(主日) 聖書の箇所:ルカ19章1〜47節 / 年間通読:レビ7〜9章
「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」(10節)
  ザアカイは税金を不正に取り立て、その恩恵により裕福な暮らしをしていた町の嫌われ者だった。イエスはそんな彼の名を呼んで、友人となり、共に食事をし、自らの哀れな状態に気づかせ、救いに導いた。
私達はならず者、嫌われ者ではないが、神の前に失われていた。失われている者は誰かが来て、声をかけ、話をし、気づかせてくれない限り、自分の哀れな状態には気づかない時が多い。主は自ら、私達のもとに来て、主にある気づきを与えるだけでなく、自らの命と引き換えに罪の中に失われていた私達を光と命の世界へと招き入れて下さった。
“あなたの大きな救いを感謝!アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月27日(月) 聖書の箇所:ルカ20章1〜47節/ 年間通読:レビ10〜12章
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである。」(38節)
  主イエスに対立する人々は様々な議論を仕掛けてきた。その一つは復活の有無である。今も復活の有無、霊魂の存在や行方などは様々に議論されている。
だが主イエスは、はっきりと語られている。復活にあずかる者は、神の子でもあるのでもう死ぬことはない。神は生きている者の神であって、神にあって生きている者こそが復活の命にあずかっているのである。神にあって生きる者は、アブラハムたちと同じように復活の命にあずかっている。主を信じる私たちも同じである。
“父よ。復活の命にあずかっていることを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年2月28日(火) 聖書の箇所:ルカ21章1〜38節/ 年間通読:レビ13〜14章
「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(36節)
  この章には、エルサレムの滅亡と世の終りの時が、重なり合って語られている。この終りの時には、様々な苦難があり、主が雲に乗って来られる。おじ恐れる必要がない(9節)ばかりか、私たちの救いの時である(28節)。
けれども、心が鈍っていては決して逃れられないことであり、神様の助けなしには受け止められないものである。主の滅びることのない神のみ言葉にしっかりと立ち、絶えず目を覚まして祈り備えよう。
“神様。世の終りの近づいているこの時、絶えず目を覚まし祈り備えさせて下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>


ホームページへ戻る