デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年3月のデボーション
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2006年3月1日(水) 聖書の箇所:ルカ22章1〜71節/ 年間通読:レビ15〜18章
「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」(31,32節)
  救われた者は主に従いたいと心から願う。実際は、思いとは裏腹にサタンによって全くうちひしがれてしまうばかりである。主はそのような私たちをご存知でなお愛して下さっている。
あの十字架に向かわれる主イエスがその命を注いで、私の信仰がなくならないように祈っておられる。
ならばどうして信仰がなくなるだろうか。十字架を見上げないでおれようか。同じような人を励まさずにおれようか。
“主よ。主のこの祈りを感謝し、立ち上がれます。アーメン”
 

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2006年3月2日(木) 聖書の箇所:ルカ23章1〜56節/ 年間通読:レビ19〜21章
「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」(43節)
  大変な驚きである、社会では到底赦されないで十字架につけられている犯罪人がパラダイスにいるとは。この犯罪人は何も償いをできなかったであろう、もっと生きたとしても。ただ主イエスの前にへりくだって、「わたしを思い出して下さい」と言うばかりであった。
私たちの罪もまた神様を認めないで生きてきたこともどんな代価を払っても償えないものである。しかし主イエスがその代価を払って下さった。ただ信じるだけで、私たちもパラダイスにいるのである。
“神様。私もただ信仰によって神の国に入れられていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年3月3日(金) 聖書の箇所:ルカ24章1〜53節/ 年間通読:レビ22〜24章
「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。」(32節)
  他の弟子たちもそうであったが、エマオの途上の弟子たちも、イエス様が死なれた事実に心を奪われて、イエス様が言われていたこと、聖書の解き明かしに心が開かれていなかった。そしてイエス様がそばにいるのに気付かなかった。
しかし主が彼らの心を開かれた。十字架を聖書のみ言葉を通して見たとき、復活を信じ、そして目が開かれてイエス様を認めることができた。私たちも信じて聖書を開くときに、現実を超えた神のみ業に気づき、燃やされる。
“主よ。目を開いて下さい。み言葉を信じ、心燃やされ証できますように。アーメン”
 

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2006年3月4日(土) 聖書の箇所:ヨハネ1章1〜51節/ 年間通読:レビ25〜26章
「わたしたちはその栄光を見た。」(14節)
  何と力強い証であろうか。言として神なるお方が肉体をとって人となり、私たちのうちに住んでいて下さっている。ヨハネは、それを直に聞き、見たのである。天地の始めから持っておられる栄光、十字架と復活を通して現れた無限なるめぐみとまこととを見たのだ。
だがこれは直弟子だけのことではない。「その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」。(33節)とある。弟子たちは復活の主に会っただけでは証人とはなれなかった。聖霊を注がれた時、真理を悟り、証人となった。私たちも御霊により主の栄光を見ているのだ。
“神様。主の栄光を仰ぎます。アーメン”
 

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2006年3月5日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ2章1〜25節
年間通読:レビ27章、マルコ1,2章
「水をくんだ僕たちは知っていた。」(9節)
  ぶどう酒がなくなったのに、僕たちはたくさんの水くみをしていた。今ほど簡単でない。イエス様の母親から「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。と言われなかったらしていなかったかもしれない。
主の栄光はなぜ、どうしてと言っているところには現れない。しかし、理由はわからないが主が言われるからその通りにしようと従うところに現されてくる。主のしもべとして、主の栄光を見、そのみ業に参与させていただき、「私は知っている」と言えることは何と幸だろうか。
“主よ。従います。主のみ業に私も参与させていただけることを感謝します。アーメン”
 

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2006年3月6日(月) 聖書の箇所:ヨハネ3章1〜36節/ 年間通読:マルコ3〜5章
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。(16節) 
  「ただほど高いものはない」と言われる。信じるだけでいい?そんなうまい話はないと言われる。
キリスト教は、決して安い話しではない、うまい話しではない。信じるだけでいいと言われる背後で、神の御子が尊い命を注ぎ出しているからである。
私のために、しかも私の罪のために死んでくれる人がいるだろうか。しかし神は御子の命を下さったのである。しかもただ信じるだけで救われる。何と大きな愛が注がれていることか。
“父よ、ただ信仰によって御子の命を賜わったことを感謝します。アーメン”
 

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2006年3月7日(火) 聖書の箇所:ヨハネ4章1〜54節/ 年間通読:マルコ6〜8章
「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(24節)
  主イエスはこの言葉を言われる前にこのサマリヤの女が最も触れて欲しくないことに触れられた。悪魔が私たちに近づくときも私たちの触れられたくない「傷」に触れることがある。だが目的は全く違う。
悪魔は私たちが立ち上がることのできないようにしようとするが、主は罪を除きその傷をいやし、真の礼拝をする者に建てあげようとしておられる。私たちは、自分でも触れたくないところを主に触れていただき、主の十字架と復活を仰ぐとき本当に霊とまこととをもって礼拝できるのである。
“私の心を探り知る神さま、心が自由にされ真の礼拝をささげられますように。アーメン”
 

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2006年3月8日(水) 聖書の箇所:ヨハネ5章1〜47節/ 年間通読:マルコ9、10章
「 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」(24節) 
  イエス・キリストが神であるということを「父と同じように働く」(17)、「父がなさることを子もする」(19)、「死人を起こして命を与えるように子もする」(5)、そして「さばきを行う」(22)などで教えておられる。
そのような中で、神の子の声を聞く人は生きると言うのである。これはただ聞くと言うより、聞いて信ずることであるが、子には人を生かし、またさばく権威が与えられているからである(27)。
“イエスさま、あなたが神であることを信じることが出来、本当の救いを得させて下さい。アーメン”
 

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2006年3月9日(木) 聖書の箇所:ヨハネ6章1〜71節/ 年間通読:マルコ11〜13章
「これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった」(6節)
  イエスさまは時々、ためそうとすることを心にとめておくことが大切である。それは、その人が考えることによって、信仰を引き出すためのものである。
信仰において、考えること計画することも大切である。しかしそれは聖霊に導かれてすべきである。神の思いと願いの中でするべきである。御言葉を思い巡らす中でなすべきなのである。
自分に思いや考えが湧いてきたとかと言うのとは違うのである。神の賢さをもって考えるのである。
 “主よ、聖霊に導かれて、考えさせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月10日(金) 聖書の箇所:ヨハネ7章1〜52節/ 年間通読:マルコ14〜16章
「これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」(39節)
  “御霊がまだ下っていなかった”とある。十字架こそは罪の解決、献身であった。復活は、救いの確かさと私たちを義とすること、私たちに永遠の命を与えること、私たちの復活の初穂また原型でもある。
そして、主は昇天して、天での贖いをし、父なる神さまから、栄光の聖霊を受けたのである。
そして、その贖いが私たちに実現されるためにその聖霊を注がれたのである。
“主よ、まず罪の赦しと献身をさせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月11日(土) 聖書の箇所:ヨハネ8章1〜59節/ 年間通読:民数記1〜3章
「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(32節)
  皆が真理を求めている。しかしその真理に到達できないでいる。私たちはイエスさまの言葉にとどまることによって、本当の弟子となり、そして、真理を知るのである。真理は霊的であり、知的であり、道徳的である。また、それは神にあり、神によって、与えられるものである。
そして、イエスさまご自身が真理そのものであるが、私たちはイエスの御霊であり、真理の御霊である聖霊によって、イエスさまの御言葉にとどまることが出来るのである。
“主よ、聖霊によって、あなたの御言葉の内に生き、本当の自由を得させて下さい。アーメン”
 

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2006年3月12日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ9章1〜41節/ 年間通読:民数記4〜6章
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」(3節)
  なんとすばらしい御言葉であろうか。これは創造者であり、救い主であるイエスさまだからこそ言い得たのである。神であるお方であるから言いうるのである。
しかし、そのお方が、同時に私たちと同じく、人でもあることをも覚えたい。目に見えないことや耳が聞こえないこと、また話せないこと、更に何かの病気にかかっていることなどはなんら問題はないのである。それによって一層神が崇められていくのである。
“主よ、全てにおいて、御心を知り、栄光を顕わせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月13日(月) 聖書の箇所:ヨハネ10章1〜42節/ 年間通読:民数記7〜9章
「羊はその声を知っているので、彼について行くのである。」(4節)
  ここでは主イエスと主に連なる者たちが羊飼いと羊に譬えられている。羊飼いは自分の羊の名を一匹一匹呼び、羊はその声を知って聞き従うのである。
この羊飼いと羊の関係は、他のだれも入り込むことのできない親密な関係である。私たち一人一人を良く知り、元気なとき、弱っているとき、喜びあふれるとき、うれいに沈むとき、成長するとき、衰えるときそれぞれに必要な養いをなして下さる。また私たちも主の声を良く知っている。
他の声と聞き分けるのは勿論のこと、その声が愛に満ち豊かに養うことを知って従うのである。
“主よ。主の声を聞いてうれしいです。アーメン”
 

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2006年3月14日(火) 聖書の箇所:ヨハネ11章1〜57節 / 年間通読:民数記10〜13章
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。(4節)
  主イエスはラザロが病気であることを聞いても動かなかった。何もされなかった。ただ神の栄光のためと言われて。だがラザロは死んでしまった。
私たちにも、どうにも動かすことのできないことがある。なぜ、もし主がおられたならどうしてと思うことがある。だがラザロの死は、神の栄光に変えられた。死は命に飲まれてしまった。
祈って祈って不信仰という心の石を取りのけていただこう。私たちに神の栄光を見させて下さる。
“父よ。あなたが神の栄光を見ると言われました。全く違って見えますが信じます。アーメン”
 

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2006年3月15日(水) 聖書の箇所:ヨハネ12章1〜50節/ 年間通読:民数記14〜16章
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
  しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(24節)
  本当に不思議なそして厳粛さを覚える命の法則である。文字通り私たちの救い主イエス・キリストは私たちの罪のために死んで下さった。そして数限りない人々が罪のゆるしを信じ、永遠の命を得ている。
 永遠の命を得たこと、それは自分の命を憎み失ったことでもある。なお主イエスは「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。」と言われている。あなたも(地に落ちて死んだ)一粒の麦とならないかと主は招いておられる。
“主よ。一粒の麦とならせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月16日(木) 聖書の箇所:ヨハネ13章1〜38節/ 年間通読:民数記17〜20章
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(34節)
  主が私たちに与えられた古くて新しい教えは互いに愛し合うことである。その究極が十字架であり、端的に現しているのが主イエスのなさった洗足である。
乾燥した大地を歩けばほこりまみれになった。弟子たちには人の汚い足を洗うことは屈辱的で自尊心を失う行為であった。だが主イエスはそれをなさった。神の子としての権威、プライドよりも愛がまさっていたのでできたのである。その究極が十字架である。
主が汚れた私を洗って下さった。低くならないでおれようか。
“神様。私は高ぶる者であると気付きました。愛し仕える者として下さい。アーメン”
 

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2006年3月17日(金) 聖書の箇所:ヨハネ14章1〜31節/ 年間通読:民数記21〜23章
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」(26節)
  主イエスは繰り返し助け主なる聖霊を遣わすと約束された(16節)。それを待ち望むように語られた。弟子たちは三年間主イエスと寝食を共にし十字架が目前に迫ったが、ペンテコステに至るまで主イエスの語る真意を理解し悟ることができなかった。
 聖霊は、私たちが主イエスを見る以上に主イエスのことを教え、聖書のみ言葉を悟らせ、主の業をなさせるお方である。
“主よ。聖霊に満たして下さい。主の栄光を見させ、み言葉を教えて下さい。アーメン”
 

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2006年3月18日(土) 聖書の箇所:ヨハネ15章1〜27節/ 年間通読:民数記24〜26章
「それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、」(16節)
  ぶどうの木のたとえを通して、主イエスにつながって、実を結ぶべきことが記されている。農場における収穫の時がどんなに楽しいときであろうかと思うが、主イエスにつながって結ばれる実は格別である。その実はいつまでも残る実である。
私たちは一生懸命にあるいは長い時間をかけてなにかすばらしいものを築きあげているかもしれない。だが確かに見えてもたちまち崩れてしまうものも多い。しかし主につながって結ぶ実は、失われることがない。ハレルヤ!私たちはこのために選ばれ、立てられている。
“神様。いつまでも残る結実を感謝します。アーメン”
 

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2006年3月19日(主日) 聖書の箇所:ヨハネ16章1〜33節/ 年間通読:民数記27〜30章
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(33節) 
  弟子たちは主イエスが去って行くと聞いて憂いとまどうばかりであった。この弟子たちについて主はさらに「散らされて」「自分の家に帰」る(32節)とも言っている。何とも不甲斐ない。
けれども主は、「わたしはすでに世に勝っている」と宣言された。十字架を前にして、これから負うべき苦しみを思いつつ言われた。主に連なる私たちは、主にあって、この世にいても世と全く違う、神の国の平安の中に生かされている。主はすでに世に勝っている。
“主よ。様々なことに一喜一憂するのでなく、主の平安主の勝利に生かして下さい。アーメン”
 

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2006年3月20日(月) 聖書の箇所:ヨハネ17章1〜26節/ 年間通読:民数31〜33章
「また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」。(19 節)
  “あなたの御言は真理であります”(17)とあるように、神の御言葉が真理であり、また、その御言葉によって聖別されるのである。
“彼ら”とは弟子たちのことである。そして、“わたし自身を聖別”するとは、真理の御言葉によって、即ち、それに従うことによって、自分自身を犠牲として献げて、十字架にかかることである。弟子たちの真理による聖別はイエスさまの十字架の犠牲によってこそ実現したのである。
“主よ、あなたの十字架により、私を聖別して下さい。アーメン”
 

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2006年3月21日(火) 聖書の箇所:ヨハネ18章1〜40節/ 年間通読:民数34〜36章
「『あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける』」。(37節)
  神の国、即ち天国の王であることをイエスさまが認めたところである。そうであるならば、イエスさまが“「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」”(ヨハネ14:6)と言われた言葉の真実性を裏付けるものでもある。
“主よ、あなたこそ真理であり、あなたにつくことによって真理にいることを感謝します。アーメン”
 

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2006年3月22日(水) 聖書の箇所:ヨハネ19章1〜42節/ 年間通読:ヨハネ3〜4章
「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった」。(28節)
  「全うされるため」とは聖書の言葉が完全に成就し、実現するため、欠けなく満たされるためという意味である。神の言葉の預言の実現と贖いの完成とが一体的に言われているのである。
 神の意思による神の御計画こそ十字架における贖いの完成なのである。そのためには「わたしは、かわく」と言われた様に、イエスさまは命も力もすべてのすべてを私たちのために与え尽して下さったのである。
“主よ、十字架の贖いの完全なことを感謝します。アーメン”
 

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2006年3月23日(木) 聖書の箇所:ヨハネ20章1〜31節/ 年間通読:ヨハネ5〜6章
「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。(31節)
  ヨハネがこの書を書いた目的がしるされている。それは私たちがイエスさまが神の子即ち神と信じ、またキリストと信じて、永遠の命を得るためであると言うのである。神の子による救いだからこそ、イエスさまによる救いは唯一、絶対であり、完全なのである。
“イエスさま、あなただけに、唯一絶対の、また完全な救いがあることを感謝致します。アーメン”
 

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2006年3月24日(金) 聖書の箇所:ヨハネ21章1〜25節/ 年間通読:ヨハネ7〜8章
「すると、イエスは彼らに言われた、『舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何か取れるだろう』。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった」。(6節)
  弟子たちは、復活したイエスさまにお会いしたにもかかわらず、自分たちの使命を十分に分かっていなかったようである。そこで、漁に出かけて言った。“しかし、その夜はなんの獲物もなかった”(3節)のであった。
ところが、魚が獲れる時間でなかったが、イエスさまの言われたその通りにすると魚が多く獲れたのであった。
“主よ、あなたの言われる通りに行なわせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月25日(土) 聖書の箇所:使徒 1章1〜26節/ 年間通読:ヨハネ 9〜11章
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(8節)
  私たちはイエス・キリストの証人となる使命がある。そのためには、聖霊を受けなければなり得ないのである。また本当に救いを体験することもこの聖霊なるお方によらなければ出来ないのである。
この聖霊は神なるお方であるから、まったく従順な、悔いて砕かれた者で、同時に、求め、信じる者に与えられるのである。
“主よ、あなたの証人になるために、聖霊の満たしを与えて下さい。アーメン”
 

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2006年3月26日(主日) 聖書の箇所:使徒2章1〜47節/ 年間通読:ヨハネ12〜14章
「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。」 (41節)
  教会に聖霊が注がれた時に、1日に救われて洗礼をうけた数が三千人ほどだと言うのである。聖霊が働くときにこのような業がなされるのである。
現在の私たちの教会においても同じ業がされるということを信じて行こうではないか。まず信じることが大切である。なぜなら、信じるところに聖霊が働くからである。
“主よ、このように多くの方々が、悔い改めて救われると言うことをまず信じさせて下さい。アーメン”
 

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2006年3月27日(月) 聖書の箇所:使徒3章1〜26節/ 年間通読:ヨハネ15〜19章
「しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。」(15節)
  ペテロは「イエスの名」によって足の不自由な人をいやし、神の御名が崇められた。多くの人はいやしという現象に心を奪われてしまうが、ここで大切なのはイエスの御名を信じることである。
み業は、父なる神にあって死人の中からよみがえらされたその御名によるのである。当時も現代も、私たちが自分でどうしても乗り越えることのできないものが死である。大切な人と私たちを離れさせてきたのも死である。預言の通り死からよみがえられたイエスの御名こそが私達のいやし・復活の源である。
“主よ。よみがえられた主の御名をあがめます。アーメン”
 

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2006年3月28日(火) 聖書の箇所:使徒4章1〜37節
年間通読:ヨハネ20,21章、申命記1,2章
「ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(13節)
  取り調べを受けたペテロたちは大胆に、けれども(旧約)聖書に基づいてキリストをあかしした。役人や学者たちがそのことに驚いたのである。これは聖書をどれほど知っているか以上に聖霊によって神の言葉を教えられたからである。
この聖霊は今も私たちをキリストの証人として立たせ大胆に語らせるお方である。彼らは脅迫されても、なお心を一つにして祈り、み言葉を大胆に語ることを求めた。そして神様も祈りに答え、再び聖霊に満たしてくださった。
“父よ。私たちをも、心を一つにして祈り、聖霊に満たされ、大胆にキリストを証する者としてください。アーメン”
 

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2006年3月29日(水) 聖書の箇所:使徒5章1〜42節/ 年間通読:申命記3〜4章
「あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」(4節)
  大胆に福音を語っていた弟子たちの間でサタンに心を奪われ聖霊を欺く事件が起きた。アナニヤとサッピラの言葉は4章最後のバルナバの行為への対抗意識から出たものであろう。神への奉仕のはずが功徳心へといつの間にかすり替わっていた。
神様は教会をこの世から聖別してくださっているがその教会の中でもサタンは働きうるのである。私たちもあのペテロ同様に「サタンよ。」(マタイ16:23)と呼ばれうるのである。だが主の前にへりくだる教会はサタンの業をうち破り主にあるきよさを保ち前進できる。
“主よ。へりくだります。サタンの業に勝利させて下さい。アーメン”
 

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2006年3月30日(木) 聖書の箇所:使徒6章1〜15節/ 年間通読:申命記5〜7章
「わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう。」(4節) 
  エルサレム教会に起きてきたもう一つの問題は文化的背景から来る摩擦であった。しかしそれ以上の可能性を含んでいた。それはこの問題が神の言葉に専念することを妨げ、神の言葉を二の次に追いやってしまうことであった。
私たちも何かに気を取られ、礼拝を後回しにしたり、デボーションをおろそかにしていないだろうか。弟子たちが祈りとみ言葉のご用を中心においたとき、7節のように、弟子が増えていった。牧師が祈りとみ言葉のご用に当たれるように何か助けることはできないだろうか。
“神様。祈りとみ言葉を中心に置きます。アーメン”
 

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2006年3月31日(金) 聖書の箇所:使徒7章1〜60節/ 年間通読:申命記8〜11章
「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」(60節)
  ステパノが石で打たれ殉教するときの最後の言葉である。この言葉を聞くとき、主イエスが十字架上同じように言ったことを思い起こす(ルカ23:34)。
ステパノは「聖霊に満たされ」(55節)とある。彼がこう言い得たのは生来のものではなく、聖霊による天からの恵みであった。聖霊を注がれるとは、キリストの心を自分の心とするように変えられて仕えることではないだろうか。ここにはもはやだれが偉いかと争っていた弟子たちの姿はない。十字架にあげられた主の思いに心を向けつつ、喜んで主を証ししよう。
“主よ。あなたの十字架を覚えつつ、赦す者として下さい。アーメン”
 

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2006年4月1日(土) 聖書の箇所:使徒8章1〜40節/ 年間通読:申命記12〜15章
「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」(4節)
  ステパノが殉教したことは大きな悲しみであった(2節)。それに追い打ちをかけるように大迫害が起こり人々は散らされていった。けれども決して意気消沈していたのではない。なおもみ言葉を伝え続けたのであり、またそこに大きな喜びが起こってきた(8節)。
またこのことをとおしてエルサレム以外のサマリヤにも福音が伝えられた。ユダヤ人でない神を敬う人にもみ言葉が伝えられた。神様は思いがけない方法で福音を拡大されるが、私たちも恵みと喜びにあふれ、み言葉を証すべく備えていたい。
“神様。どんな時にもどんな人にもみ言葉を伝えられますように。アーメン”
 

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2006年4月2日(主日) 聖書の箇所:使徒9章1〜43節/ 年間通読:申命記16〜19章
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)
  パウロ(サウロ)は主の弟子たちを脅迫し、殺害していた。福音が広がる中で教会には大きな苦しみと痛みがあった。パウロはダマスコ途上でこの主イエスの声を聞いた。
主イエスは、弟子たちが迫害されことは「わたし」が迫害されていることだと言っている。私たちが主のために有形無形の迫害を受けるときも同じである。主と私たちは一つであって、私たちの苦しみも痛みも主は「わたしのものだ」と言って共に負って下さっている。これほどの慰め、励ましがあるだろうか。
“主よ。喜びを分かち合うだけでなく、信仰にある悩みも共に負って下さり感謝します。アーメン”
 

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