デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年4月のデボーション
 ※ カレンダーより日付をクリックして、お進み下さい。
         1  2
 3  4  5  6  7  8  9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

 
【今月のディボーション】 【ホームページへ】



 
 
2006年4月1日(土) 聖書の箇所:使徒8章1〜40節/ 年間通読:申命記12〜15章
「さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」(4節)
  ステパノが殉教したことは大きな悲しみであった(2節)。それに追い打ちをかけるように大迫害が起こり人々は散らされていった。けれども決して意気消沈していたのではない。なおもみ言葉を伝え続けたのであり、またそこに大きな喜びが起こってきた(8節)。
またこのことをとおしてエルサレム以外のサマリヤにも福音が伝えられた。ユダヤ人でない神を敬う人にもみ言葉が伝えられた。神様は思いがけない方法で福音を拡大されるが、私たちも恵みと喜びにあふれ、み言葉を証すべく備えていたい。
“神様。どんな時にもどんな人にもみ言葉を伝えられますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月2日(主日) 聖書の箇所:使徒9章1〜43節/ 年間通読:申命記16〜19章
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)
  パウロ(サウロ)は主の弟子たちを脅迫し、殺害していた。福音が広がる中で教会には大きな苦しみと痛みがあった。パウロはダマスコ途上でこの主イエスの声を聞いた。
主イエスは、弟子たちが迫害されことは「わたし」が迫害されていることだと言っている。私たちが主のために有形無形の迫害を受けるときも同じである。主と私たちは一つであって、私たちの苦しみも痛みも主は「わたしのものだ」と言って共に負って下さっている。これほどの慰め、励ましがあるだろうか。
“主よ。喜びを分かち合うだけでなく、信仰にある悩みも共に負って下さり感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月3日(月) 聖書の箇所:使徒10章1〜48節/ 年間通読:申命記20〜23章
「すると御使が言った、『あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている』」。(4節)
  コルネリオに御使いによって、語りかけられた言葉である。
旧約の時代の信仰の中にあり、しかも異邦人であるコルネリオの祈りが神に聞かれており、その施しが神の御前に覚えられているということは、新約の信仰と救いの中にあり、神の御子によって祈る祈りと施しはもっともっと神に聞かれ届いているのである。だから、大胆に求めようではないか。
“主よ、人々を救い、成長させ、あなたの教会をたてあげてください。また、神の御業をあらゆるところで拝するようにしてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月4日(火) 聖書の箇所:使徒11章1〜30節/ 年間通読:申命記24〜27章
「そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった」。(21節)
  “彼ら”とは“数人のクプロ人とクレネ人”(20)である。そして、伝道の対象はギリシャ人であったようである(20)。
この章はペテロによる異邦人伝道が前半には、記されているが、このところでは、異邦人による異邦人への伝道が記されている。“主のみ手”とは主の力であり、聖霊の著しい働きである。大勢の人が主を信じて、主に立ち返ったのであった。迫害が返って宣教の拡大とリバイバルとなって行ったのであった。
“主よ、あなたをあなたの力によって宣べ伝えさせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月5日(水) 聖書の箇所:使徒12章1〜25節/ 年間通読:申命記28〜29章
「こうして、主の言はますます盛んにひろまって行った」。(24節)
  ヘロデの手によって、12弟子のヤコブが殉教した。尚も、ペテロをも殺そうとしていたのであったが、ペテロは御使いによって助け出された。
しかし、迫害の中心人物のヘロデは御使いによって打たれて死んでしまった。勿論、神の導きと主権の中でなされていったのであるが、この違いの背景には“教会では、彼のために熱心な祈がささげられた”(5)ということもあることを覚えたい。教会での熱心な祈こそ大きな違いの要因であったのである。そして、宣教が進んだのであった。
“主よ、教会の祈祷会を大事にして、出席させてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月6日(木) 聖書の箇所:使徒13章1〜52節/ 年間通読:申命記30〜32章
「しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである」。(30節)
  ピシデヤのアンテオケにおいてパウロが語った説教が書き留められている。ダビデの子孫として生まれた救い主イエスの死と復活が取り上げられている。そして、弟子たちはイエスの復活の証人になっていることが言われている(31)。
パウロは自分がダマスコ途上で復活のイエスさまにお会いしているが、それを尚確実にしているのが、復活の主に実際にお会いした弟子たちの証言であったのであった。更に、聖書の預言とその成就も復活を確信させるものであったのである。
“主よ、十字架の赦しと復活の命のうちに、日々歩ませてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月7日(金) 聖書の箇所:使徒 14章1〜28節/ 年間通読:申命記33,34章、使徒1章
「主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた」。(3節)
  “めぐみの言葉”とは祝福の言葉でもある。しかし、言葉が言葉で終わってしまっては説得力に欠けるのである。その裏づけが必要である。それがしるしと奇跡であった。しかし、それは主が行わせたのであった。
勿論、今も神さまは必要に応じて、このようなしるしと奇跡とを行わせてくださるが、時代や地域によってめぐみの言葉への証は異なってくるといってよいのである。罪びとの救いはしるしであり、奇跡でもあるのである。
“主よ、言葉にともなう証として、しるしと奇跡を顕わしてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月8日(土) 聖書の箇所:使徒15章1〜41節/ 年間通読:使徒2〜4章
「すなわち、聖霊とわたしたちとは」、(28節)
  この言葉の背景を考えると、一つは聖霊の助けと、導きのうちに会議がなされたということである。もう一つはわたしたちとあるように出席者の一致があったということである。それは、体験に基づき、御言葉に基づいた一致である。
神が異邦人のうちになされた救いの御業が大きな説得につながっているのである。それは、聖霊の御業であったのである。御言葉も聖霊によるのであり、救いの御業も聖霊によるのである。聖霊こそが最も大切な、決定的なお方なのである。
“主よ、聖霊により頼むものとしてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月9日(主日) 聖書の箇所:使徒16章1〜40節/ 年間通読:使徒5〜7章
「ふたりが言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』」。(31節)
  主イエスへの信仰によって、自分が救われるだけでなく、家族も救われるという約束である。このことがすぐこの先で実現しているのである(33)。
そしてこの約束は私たちに対するものでもある。この約束を信じて家族のために信じて祈っていこう。しかし、家族への伝道は、実際の生活による証が大切である。また、愛をもって、家族を支え、また、助けることも大切である。
家庭内での教会批判、牧師批判、不信仰な発言や行動、愛のない発言や行動は禁物である。
“主よ、家族に対して、よき証人とならせてください。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月10日(月) 聖書の箇所:使徒17章1〜34節/ 年間通読:使徒行伝8〜10章
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、」(24節)
  受難週。神様は万物の創造主である。聖書は、神様はこの世界を目的をもって、創られたと言っている。勝手にできたのなら何の目的もないがそうではない。広大な宇宙を創られた優れたデザイナーであるが、宇宙の塵ほどにもならない人をも創り、その一人一人に目を留めておられるのである。
 私たちはこの神様を見出し、その成し遂げようとされるみ業に参与させていただくのである。それが死人の中から甦らされたイエス・キリストを私たちも宣べ伝えることであり、裁きの日に共に命に預からせていただくことである。
“父よ。万物を私を創られた方を感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月11日(火) 聖書の箇所:使徒18章1〜28節/ 年間通読:使徒行伝11〜13章
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。、、、この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(10節)
  パウロの伝道を見てみると福音を伝え、信じる人々が起こされる。しかし反対する人たちが来てかき乱し、次の場所へ出て行くということが何回も出てくる。福音を伝えるのは平坦な道ではない。しかし主が、恐れるな、語りつづけよと言っておられる。このイエス・キリストをおいて他に救いはない。そしてまだまだ福音を知らない多くの人々がいることを覚えるとき、私たちも黙っているわけにはいかない。なんとかこの福音を語り伝えたい。
“主よ。難しいときもありますが、なんとかこの福音を伝えられますように。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月12日(水) 聖書の箇所:使徒19章1〜41節/ 年間通読:使徒行伝14〜16章
「また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。」(18,19節)
  ここに信者の大切な業が記されている。恵みによる業である。一つは自分の過ちを告白したことである。キリストの十字架によって赦されたのであるから恵みによって大胆に証ししたのである。宣教の力は証の中にある。
もう一つは、魔術の本を焼き捨てたことである。異教のものは、神様を悲しませ、自分を真理から離すだけである。明確な決別が大切である。あなたはどうか?
“主よ。主のみ業を人々に話します。異教のものを全部捨てます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月13日(木) 聖書の箇所:使徒20章1〜38節/ 年間通読:使徒行伝17〜19章
「聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」(28節)
  エペソ教会のいわゆる役員たちへのパウロの告別説教である。この前では「あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気を配っていただきたい。」と勧めている。ここに教会は神のものであって、御子の血であがない取られたものであることが記されている。
教会を軽んじる人もいるが、教会こそ、神のあがないと「主とその恵みの言」(32節)が現される場所である。教会に根ざして豊かな信仰を養っていこう。
“神様。愛する兄姉と共にあがない主をほめたたえます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月14日(金) 聖書の箇所:使徒21章1〜40節/ 年間通読:使徒行伝20〜22章
「わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。」(13節)
  受難日。パウロがエルサレムへ向かおうとすると、その行く先々で人々はパウロを止めようとした。聖霊によりそこでの苦難が示されたからである。
私たちはだれも苦難や困難を負いたくないと思う。しかし主は福音のためにそのような道を示される時がある。 その人々の内に鮮やかに描き出されているものは主の十字架であり、主イエスが私たちのために命を捨てて下さったという事実である。
主の十字架を思うとき、主に従ってどこへでも行かずにおれないのではないか? 
“主よ。私のための苦しみを覚え、御足の跡に従います。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月15日(土) 聖書の箇所:使徒22章1〜30節/ 年間通読:使徒行伝23〜25章
「行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ。」(21節)
  パウロといえば聖徒であり大伝道者として名を欠かすことのできない人物である。
だがこのパウロは最初は迫害者であった。ステパノを殺すことに賛成をし、多くの信じる人を獄に投じ、むち打ち、死に至らせてきたのだった。パウロと聞けば震え上がったり、憂えたりする者が多く、パウロが回心したと聞いてもだれも受け入れようとしなかった。パウロも罪赦されたが、取り返しのつかない数々の業に心痛めていたことであろう。
主はこのパウロを召された。私たちがどんなに愚かな者であったとしても主は最善に整え、用いられるお方である。
“神様。招きを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月16日(主日) 聖書の箇所:使徒23章1〜35節/ 年間通読:使徒行伝26〜28章
「わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである。」(6節)
  イースター。ハレルヤ。
主イエスは死を打ち破り、甦られた。現代人にとっても当時の人々にとっても復活ということは常識では考えられないことである。けれども確かに父なる神様は罪のないお方を死の内に閉じこめておかれずに、甦らせて下さった。このことを私たちに教えて下さるのが聖霊様である。弟子たちも受けて力強く証をした。
パウロは、裁判にかけられても、命を落としても、同胞に、異邦人に、ローマの皇帝に、全世界にこの主のよみがえりを伝えようとしたのである。私たちもその証人である。
“主よ。主の死からの復活を感謝し伝えます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>
 

 
2006年4月24日(月) 聖書の箇所:ローマ3章1〜31節/ 年間通読:ローマ2〜5章
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」(22節)
  旧約聖書から引用されているように、いつの時代でも、「義人はいない。ひとりもいない」(10節)。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(18節)。
今の時代も「自由」が強調されているが、創造主を恐れないで、結局は創造の目的からはずれ、本来の光を失っている。神様から離れた不義を取り除くのが、キリストによるあがない(代価)(24,25節)である。キリストによるあがないは突然のものではなく、昔から聖書に約束されていたものである(21節)。
“父よ。私の生まれるはるか前から、救いの道を開いて下さったことを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月25日(火) 聖書の箇所:ローマ 4章1〜25節/ 年間通読:ローマ 6〜8章
「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、」(20節)
  アブラハムの信仰を通して、神様が信じる者を義とされることを記している。アブラハムは約束の子が与えられることを信じ、無から有を呼び出される神様を信じた。それによって義と認められたのである。
これは私たちのためでもあり、「主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも義と認められるのである」(24節) 。この主イエスを信じるわたしたちには、神様の祝福の約束、しかも無から有を呼び出すような祝福を受け取っていく歩みが備えられている。
“主よ。信仰によって義とされて、主の約束を望む歩みを感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月26日(水) 聖書の箇所:ローマ 5章1〜21節/ 年間通読:ローマ 9〜11章
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(5節)
  クリスチャンが復活の主にあっていだいている希望は、この世とは相容れないものである。だからこの世にあっては様々な、艱難、試練に遭うことがある。
しかし私たちの持っている希望は、この世では失われないものである。なぜなら私たちが悔い改めに導かれた今は、その前以上に神の愛が注がれているからである。この神の愛をデボーションの時にしっかりと実感して確かめていきたい。
“主よ。主の前に静まって、神の愛と復活の希望を握ることができて感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月27日(木) 聖書の箇所:ローマ6章1〜23節/ 年間通読:ローマ12〜15章
「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」(7節)
  罪ゆるされクリスチャンとなった者は、どのように生きるべきであろうか。赦されたけれどもこの世で再び罪に苦しみながら生きるのであろうか。それとも罪と戦い格闘しながら生きるのであろうか。
神様の御思いはどちらでもない。罪に支配されていた「わたしたちの内の古き人」はキリストと共に死に、律法の支配、罪の支配から解放されて、恵みの下にある。「キリスト・にあって神に生きている」(11節)のである。だから喜んで「自分自身を神にささげ」(13節)、神に仕え、義の実を結ぶのである。
“神様。私はキリストと共に死んだことを認めます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月28日(金) 聖書の箇所:ローマ7章1〜25節/ 年間通読:ローマ16章、師士記1、2章
「なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(18節)
  ここにクリスチャンの大きな悩みがある。罪のゆるしを知り、喜んで神に仕え善をなそうとするが、自分の中に別の法則があり、未だに罪の法則のとりこになっているのである。
どうしたらよいのか?神の律法も人間の道徳や倫理も心の葛藤には解決を与え得ない。ただ一つの道は、イエス・キリストの十字架に私たちの古き人も死ぬことである。死んでいれば、罪は何の力もない。
そしてキリストにあってよみがえらされ、神の「新しい霊」(6節)によって生かされるのである。
“主よ。私は善に無力です。しかし主キリストによって、あなたに感謝します。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月29日(土) 聖書の箇所:ローマ8章1〜39節/ 年間通読:師士3〜5章
「あなたがたは、、、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(15節)
  ここで示されている父なる神様は、何もできない幼児が父親を「おとう」と呼んで甘えることのできる父親である。それぞれに様々な父親像があるとは思うが、幼児は父親に全信頼をおいて、ありのままで甘えることができるのである。父なる神様は、遠くのお方でも、怖いだけの存在でもない。畏れ敬うお方ではあるが、どんなことも相談でき、子として親密に交わることのできるお方である。そして私たちはこのお方の相続人として喜んで神の国を継ぐのである。
“父よ。おそれつつ、すべてを信頼し甘えます。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 
2006年4月30日(主日) 聖書の箇所:ローマ9章1〜33節/ 年間通読:師士6〜8章
「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。」(2節)
  8章の後半では、どんなことがあってもキリストの愛から引き離すものはないと語ったパウロだが、心に大きな痛みがあった。同胞のイスラエル人がキリストを信じないことであった。その原因を32節にあげている。それはかつての自分の姿でもあり、ただ神の憐れみによって救われたのであった。パウロは、自分をもあわれんで下さった主に期待している。私たちも大きな悲しみを持っている。私たちの家族の救いのために、また日本のため、世界の救いのために、失望せずに祈り、よき証を続けてゆきたい。
“主よ。私の家族も、日本の民をもあわれんで下さい。アーメン”
 

  <ページのトップへ>

 

ホームページへ戻る