デボーションの助け
 ディボーションとは、聖書を通して神様の御言葉に耳を傾け、
祈りを通して神さまとの交わりをもつことです。
 
聖書を読むための助けです。
まず、神さまに「心に語りかけてください」と、お祈りしてください。
聖書をお読みください。
そして、この「デボーションの助け」を読んでください。

2006年5月のデボーション
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2006年5月1日(月) 聖書の箇所:ローマ10章1〜21節/ 年間通読:士師9〜11章
「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(4節)
  「終り」と訳されている言葉はギリシャ語でテロスと言い、成し遂げて終わると言うことで、“完成”とか、“目標”とも訳される言葉である。すべてキリストを信じることによって、律法が目指していた目的が、全うされ、完成すると言うことなのである。ところで、律法が目指していたものは何かと言うことであるが、義と愛と言うことである。そして、義とされ愛の人とされた者が審きと永遠の滅びから救われ、永遠の命に生かされ、復活に与るのである。そしてこれらはすべて、イエス・キリスト御自身への信仰によるのである。
“主よ、あなたを心から信じさせてください。アーメン”
 

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2006年5月2日(火) 聖書の箇所:ローマ11章1〜36節/ 年間通読:士師12〜14章
「それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる」(5節)
  エリヤが本当にイスラエルの神さまを信じ従う者は自分ひとりだけと思って神さまに言った時、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」(4節)が神さまのお答えであった。7千人とは数そのものと言うより、“非常に多く”という意味である。それと同じく、真の神を信じ従うものが、今も残されていると言うことなのである。
神のみ言葉に望みをおこうではないか。
“主よ、今も多くの主の民が、残されていることを信じさせてください。アーメン”
 

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2006年5月3日(水) 聖書の箇所:ローマ12章1〜21節/ 年間通読:士師15〜18章
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(1節)
  12章から信仰の実践に移るのであるが、その第一に成さなければならないことは、献身なのである。キリストのゆえに生かされ、聖いものとされた体を、神の喜ばれるものとして、ささげることが、勧められている。これこそが、信仰から来るところの、当然成すべき、礼拝だと言うのである。中途半端な信仰でなく、このようなささげきった者となろう。
“主よ、あなたにこのからだを改めておささげいたします。アーメン”
 

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2006年5月4日(木) 聖書の箇所:ローマ13章1〜14節/ 年間通読:士師19〜21章
「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである」(10節)
  この愛はキリストと置き換えることが出来る。このキリストの愛は私たちに義ときよきをもたらし、隣人に祝福を与えるものである。そして、このキリストの愛は何よりも私たちに自由を与えるのである。
この自由は罪から、貪欲から、死の恐怖から、自己中心からの自由である。そしてこの自由は私たちを本当に生き生きとし、真に人をも愛するものと変えてしまうところのものである。そして、これはキリストにしっかりと結び合わされることによって起こるのである。
“主よ、聖霊によって、あなたの御愛を私の心に注いで下さい。アーメン”
 

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2006年5月5日(金) 聖書の箇所:ローマ14章1〜23節/ 年間通読:第1コリント1〜4章
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(17節)。
  神の国とは神の王国であり、神が愛と義をもって支配しておられるところである。そこにはシャローム即ち命の充実としての平和があるのである。そしてまた、この義に基づいた平和こそ真の平和なのである。同時に、そこには、聖霊による喜び、即ち神からの、尽きることのない泉のようにわいてくる喜びがあるのである。
そして、私たちは死んだ後にそこに入るのでなく、イエスキリストを信じることによって、生きているうちに入ることが出来るのである。
“主よ、キリストにあって、聖霊の喜びをあたえてください。アーメン”
 

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2006年5月6日(土) 聖書の箇所:ローマ15章1〜39節/ 年間通読:第1コリント5〜8章
「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように」(13節)
  私たちが信じている神は望みの神である。望みを与える神なのである。そして、この望みは喜びと平安をもたらすものである。そしてこれも、信仰と聖霊に満たされることによって体験できるものなのである。
そして、このような望みは、あなたが、まずイエス・キリストを信じる、イエス・キリストの十字架と復活とを信じることから始まるのである。
“主よ、あなたを本当に信じて、望みに溢れさせてください。アーメン”
 

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2006年5月7日(主日) 聖書の箇所:ローマ16章1〜27節/ 年間通読:第1コリント9〜12章
「彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである。彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝している」(4節)
  “彼ら”とは、プリスカとアクラのことである。パウロの伝道の背後には、神の働きと共に、神にある兄弟姉妹が文字通り命を懸けて、支えたのであった。勿論、パウロ自身も命を懸けていたことも忘れてはなられない。
彼らはまた、パウロ個人だけでなく命を懸けて教会を助け、支えたのであった。
あなたは如何か。
“主よ、命を懸けて支え合い、愛し合うものとしてください。アーメン”
 

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2006年5月8日(月) 聖書の箇所:第1コリント1章1〜31節/ 年間通読:第1コリント13〜15章
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(18節)
  コリントの聖徒たちへ書かれたパウロの手紙である。この章からは教会の中にどの指導者に付くかということで争いがあったことが伺われる。
しかしパウロは「同じ心、同じ思いになって、固く結び合ってほしい。」(10節)と述べている。なぜなら救いは神の御子キリストの十字架から来るものであり、どの指導者もキリストに代わることはできないからである。そしてどんなしるしも人の知恵も人を救うことはできないからである。
私たちは、主を誇りとして、主にあって心を一つにすべきである。
“父よ。人の知恵に優る主の十字架を見上げ一致します。アーメン”
 

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2006年5月9日(火) 聖書の箇所:第1コリント2章1〜25節
年間通読:第1コリント16章、ルツ1〜3章
「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。」(4節) 
  パウロというとどんな異教の地であっても乗り込んでいって大胆に福音をのべ伝えたという感じがしなくもない。だが3節を見ると「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。」とある。パウロにも多くの様々な恐れや不安があったのだ。
しかしパウロは、宣教は自分の知恵や力ではなく、神様の霊と力とによってなされるという信仰に立った。
私たちも自分の知恵や力でなく、主に信頼するところに主が働いてみ業をなして下さる。
“主よ。恐れやすい者ですが、主に信頼し、証させて下さい。アーメン”
 

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2006年5月10日(水) 聖書の箇所:第1コリント3章1〜21節
年間通読:ルツ4章、サムエル上1〜2章
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(16節)
  パウロはコリントの教会の人々に対して「霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。」(1節)
また「あなたがたは肉の人であって、普通の人間のように歩いている」(4節) と言っている。神の子、霊の子として生まれ者には、当然のこととして、神の御霊を宿し、普通の人、世の人と違った霊的な成長があるはずである。それは世の人が見ても違うと分かるものである。
私たちは神の宮であるから霊的な生活をさせていただこう。
“主よ。主の霊の導きに従い、成長させて下さい。アーメン”
 

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2006年5月11日(木) 聖書の箇所:第1コリント4章1〜23節/ 年間通読:サムエル上3〜6章
「わたしにならう者となりなさい。」(11節)
  聖徒の中で争いが起こるのは、恵みが神様から受けたものであることを忘れ、自分の持っていたもののように思って、高ぶったり人を見下げたりするからである。
こう話したパウロは福音にある自分の歩みを10〜13節に記しているが、呪われては祝福する歩みであった。まさにキリストの言葉の通り、またキリストの跡をたどる歩みであった。だからこそ、「わたしにならう者となりなさい。」と言い切れたのである。これは決して自慢ではなく主にある親心からの言葉である。こう言いうる聖徒に成長したい。
“神様。キリストを表す歩みをさせて下さい。アーメン”
 

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2006年5月12日(金) 聖書の箇所:第1コリント5章1〜25節/ 年間通読:サムエル上7〜10章
「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、」(5節)
  悲しむべきことには、コリントの教会の中には不品行があった。パウロは教会が決然とした態度をもって臨むべきことを示している。
一つは、そのような人は聖なる教会から追い出すことである。主の十字架を知りながら罪にとどまることはあってはならないことである。またその悪が教会全体を汚すものであり、他に波及しないとも限らない。
もう一つは、彼らの救いのために、執り成し祈ることである。裁きの日になんとか救われるようにと。私たちも大きな痛みを主のみ前に、そのままに持ち出して祈ろう。
“主よ。教会が痛みを超えて純真で真実に主を礼拝できますように。アーメン”
 

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2006年5月13日(土) 聖書の箇所:第1コリント6章1〜39節/ 年間通読:サムエル上11〜13章
「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(20節)
  ここにもひどい教会の状態が表されている。教会内の争いが、神様を恐れない世の人々の裁判に出されているのである。
信仰においては、訴え合うこと自体が敗北であると言っている。しかし主の聖徒はみな「キリストの名によって、神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(11節)。
だから私たちはキリストのからだの一部であることを覚えて、また神の聖霊の宮であることを覚えて、神の栄光を表すために、自分のからだを用いるべきである。
“父よ。私の命の源であるあなたの栄光を表せますように。アーメン”
 

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2006年5月14日(主日) 聖書の箇所:第1コリント7章1〜33節
年間通読:サムエル上14〜15章
「わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。」(26節)
  この章では、結婚や男女間のこと、独身でいることについて、主の命令とパウロの勧めとを区別しながら語っている。
現代は、結婚が軽んじられたり、不品行(結婚外の男女間の交渉)が当たり前のようであったり、性的な魅力で人の価値を計ったりする傾向があるが、クリスチャンはどうあるべきであろうか。
この章では、結婚を勧めていないようでもあるが、エペソ5章には結婚の重要さと祝福が記されている。他のことも含め根底にあるのは、間もなく主が来られるから、「余念なく主に奉仕させたい」ということである。
“主よ。来臨の近さを覚え待ちます。アーメン”
 

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2006年5月15日(月) 聖書の箇所:第1コリント8章1〜13節/ 年間通読:サムエル上16〜18章
「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている」。(6節)
  イエス・キリスト以外にキリストなるお方はいないのである。また父なる神以外に神はいないのである。更に、万物はこの父よりいで、主イエスによって、存在せしめられているのである。
だから、最も尊ぶべきお方、礼拝すべきお方、崇むべきお方は、父なる神と主イエス・キリストだけなのである。
“主なる神よ、あなただけを拝し仕えさせてください。アーメン”
 

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2006年5月16日(火) 聖書の箇所:第1コリント9章1〜27節/ 年間通読:サムエル上19〜21章
「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」。(27節)
  “自分も共に福音にあずかるためである”(23節)とあるように、福音を宣べ伝えることはそれにともにあずかることなのである。
また、その福音に生きていることが大切である。肉体をそれにしたがわせるのである。そうでないと、人に伝えておきながら、捨てられてしまうというのである。私たちはどうであろうか。
“主よ、自分も福音に生きる中で、福音を宣べ伝えさせてください。アーメン”
 

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2006年5月17日(水) 聖書の箇所:第1コリント10章1〜33節
年間通読:サムエル上22〜24章
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。(13節)
  クリスチャンには、必ず試練があるといってよい。そしてそれはクリスチャンだけに特別にあるのでなく、世の人々が普通に経験していることなのである。
しかしクリスチャンの違うことは、神はその人に逃れる道を備えてくださるのである。これは恵みである。
“主よ、私たちを恵みの中においてくださることを感謝いたします。アーメン”
 

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2006年5月18日(木) 聖書の箇所:第1コリント11章1〜34節
年間通読:サムエル上25〜27章
「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」。(27節)
  主の晩餐(聖餐式)が初期から行われていたことを記した貴重な箇所である。パンが主の体であり、杯が主の血である。契約の血であるといわれている。それをいただくのにそれにふさわしくされなければならないのである。
そのためには、私たちはまず信仰と聖霊によって、パンと杯とによって十字架を受け止め、罪がきよめられ、次に、信仰と聖霊によって、十字架のキリストの聖なる命にあずかるのである。
“主よ、まず、聖餐にあずかる時、十字架によってきよめられた者としてください。アーメン”
 

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2006年5月19日(金) 聖書の箇所:第1コリント12章1〜31節
年間通読:サムエル上28〜31章
「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことが出来ない」。(3節)
  聖霊は神の霊であり、キリストの霊であり、真理の霊であり、慰め主である。また、キリストを証しし、キリストに栄光を得させるお方であり、信仰の霊でもある。
私たちは、聖霊によってキリストを知らされ、教えられ、信じるものとなるのである。「キリストが主である」というとは、キリストは神である」と信じて、告白することである。それは聖霊による以外ないのである。
“主よ、私たちも本当に、イエスが主であると信じ告白するものとしてください。アーメン”
 

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2006年5月20日(土) 聖書の箇所:第1コリント13章1〜13節
年間通読:サムエル下1〜3章
「不義を喜ばないで真理を喜ぶ」。(6節)
  13章は愛の賛歌として有名な箇所である。愛の代わりに、私という言葉を入れて読むと誠にそれにふさわしくないことを思わされるが、今度は愛の代わりに、キリストを入れて読むとぴったりなのである。
それ故、私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きることによって、愛なるキリストと一体となり、愛の人となるのである。それ以外には、私たちが愛の人になる道はないのである。
また、ここで愛というのが義と真理とに結びついていることを教えられるのである。
 “主よ、本当の愛を持つものとさせてください。アーメン”
 

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2006年5月21日(主日) 聖書の箇所:第1コリント14章1〜40節
年間通読:サムエル下4〜7章
「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。」 (33節)
  平和とはシャロームということで、命の充実のことを言う。争いや混乱の反対が平和なのである。命が充実しているところには、当然、秩序があるのである。
神が喜びなさることは、“神と人や被造物とが和解し、平和であることであり、同時に、人と人とが和解し、平和であるということ”である。そして、神との間に、平和を確立した人は、人との間にも平和を確立することが出来るのである。
これは、キリストの十字架の贖いによってのみ私たちにもたらされるのである。
“主よ、キリストの十字架によって、まずあなたと私との間に平和をもたらしてください。アーメン”
 

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2006年5月22日(月) 聖書の箇所:第1コリント15章1〜58節/ 年間通読:サムエル下8〜11章
「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、」(4節) 
  15章全体では、復活の主について論証しているが、それはパウロが最も大事なこととして伝えたことであり、自分が受けてきたことである。
私たちが「イエスは主である」と告白することは、復活された主の証人であるということである。私たちは、死を打ち破られたお方を内に持っているのである。内に持っているだけでなく、このお方は聖書に書いてあるとおりに、最後の敵、死を滅ぼし、万物を従わせ栄光を神に帰するのである(26〜29節)。
私たちへの救いは自分にも外の世界でもどんなに大きいか!!
“父よ。やがて来られる復活の主を仰ぎ見、ほめたたえます。アーメン”
 

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2006年5月23日(火) 聖書の箇所:第1コリント16章1〜24節
年間通読:サムエル下12〜13章
「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。」(22節) 
  私たちを救い、今もいつも共にいて下さる主イエスであるが、パウロはこの主が再び来られ、天に引き上げて下さる時をどんなに待ちこがれていたことであろうか。
私たちも同じである。しかしパウロはその時を夢うつつになって待っていたのではない。愛する兄姉にどんな風に届いていったらよいか、どこへ行って福音を伝えたらよいかと、主に祈りつつしっかりと現実を見据えて働いていたのである。逆に再臨を忘れたら目標を失っている。
しかし、一人でも多くの人に福音をと祈り労し献げ待ち望もう。
“主よ、来て下さい。多くの人と共にと祈り労し待ち望みます。アーメン”
 

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2006年5月24日(水) 聖書の箇所:第2コリント1章1〜24節/ 年間通読:サムエル下14〜16章
「わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」(5節)
  コリント人への第二の手紙は「慰めの手紙」と呼ばれている。いかなる患難の中においても神様は慰めることのできるお方である。パウロにとっての患難は、アジアで死を覚悟するほどの圧迫(8節)もあったが、パウロが関わり主にあって生み出された教会が、不品行や分裂のために、成長しないどころか、キリストから離れ、失われようとしていたことであった。
しかしその中でパウロは改めて「キリストの苦難」(5節)を知り、キリストの慰めが満ちあふれた。それはコリントの教会にも悔い改めと慰めとなったのである。
“主よ。主の慰めを感謝し、分かち合います。アーメン”
 

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2006年5月25日(木) 聖書の箇所:第2コリント2章1〜17節/ 年間通読:サムエル下17〜19章
「それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。」(10節)
  ここに互いに赦しあうことの実践を見る。ここでは、教会から処罰を受けた人を指して語っている。その人も悔い改め、むしろ愛を示す時となったのである。パウロは愛の悲しみからであったが、それとは別に、人には赦せない怒りがある。その原因は様々であり、別の形で赦せないことが表れるときもある。そこには「自我」がある。しかしキリストのみ前に出るとき、赦されている自分、悲しみを担われる主を知って赦す心が与えられるのである。そしてキリストにある交わりの喜びが生まれる。
“神様。キリストのみ前で赦します。自由を感謝します。アーメン”
 

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2006年5月26日(金) 聖書の箇所:第2コリント3章1〜18節/ 年間通読:サムエル下20〜22章
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(18節)
  私たちと神様との間を隔てる妨げが、キリストにあって除かれるとき、そこには主の霊によって、神様との「自由」な交わりが生じる。
私たちはこの地上でも仲良くしている人や尊敬している人と考えや仕草が似てくるが、主の霊にある自由な交わりの中に、主と同じ姿に、モーセの顔が光を放っていたのよりもはるかに栄光に富んだ姿に、変えられていく。終末的なことであるが現在もそうである。
 “主よ。この驚くべき栄光の交わりの中に加えられていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年5月27日(土) 聖書の箇所:第2コリント4章1〜18節
年間通読:サムエル下23,24章、 第2コリント1章
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」(7節)
  パウロは手紙を通して、人々に福音を語っているが、聞く人に注意を向けているというよりも、いつもキリストにある測り知れない神の栄光に心が奪われている感じがする。私たちは、私たちを変えて下さったキリストの栄光をすでに持っているのである。
ある人は、自分がもっと成長して立派になったら奉仕をしようというが、私たちはみすぼらしく無価値な器にすぎない。内にある宝にこそ無限の価値があるのだ。自分でふたをしないで、キリストの栄光を見せればよいのである。
“父よ。無価値の私の内に主の栄光が満ちていることを感謝します。アーメン”
 

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2006年5月28日(主日) 聖書の箇所:第2コリント5章1〜20節/ 年間通読:第2コリント2〜5章
「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。」(14節)
  この手紙は教会に書かれたはずなのに、「神の和解を受けなさい。」(20節)と勧められている。彼らは神との和解を受けているはずである。それは、救われても、罪から離れ神の義に生きることが徹底していなかったということである。
だがこれは、救われた喜びや、修行や努力でなされることではない。自分があの十字架のキリストと共に死んだことを信じるとき、キリストの命にのまれ、自分のためにではなく、キリストのために生きるものへと変えられるのである。ここが明確にされ、御霊の証印を帯びていこう。
“主よ。私は主にあって死に、主にあって生きています。アーメン”
 

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2006年5月29日(月) 聖書の箇所:第2コリント6章1〜18節/ 年間通読:第2コリント6〜9章
「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。(2節)
  “見よ”という言葉を2回も使って、恵みによる救いを強調している。「どんな悪人でも、恵みによって、信仰によって、今、救われるのだ」と叫んでいるようである。
しかし、この前で、パウロは“神の恵みをいたずらに受けてはならない”(1)とも言っている。恵みであればあるほど、その恵みによる救いを少しも割引しないようにしていくことが大切なのである。
また、この恵みをしっかりと恵みとして受けとめる時、その恵みに対して感謝と愛の応答がわきあがってくるのである。
“主よ、恵みを恵みとして受けとめさせてください。アーメン”
 

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2006年5月30日(火) 聖書の箇所:第2コリント7章1〜16節/ 年間通読:第2コリント10〜13章
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」。(10節)
  ここでは“悲しみ”に2種類あることを言っている。罪を悲しみ、神から離れていることを悲しむことは神のみこころに添うたものであるが、自分の思うように行かないので悲しむことはこの世のものである。
イエスさまが“悲しんでいる人たちはさいわいである”(マタイ5:4)と言われたのは神のみこころに添うた悲しみをさしていたのである。そのようなものは神によって慰められるのである。
“主よ、悲しみの中でも、あなたの慰めを信じさせてください。アーメン”
 

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2006年5月31日(水) 聖書の箇所:第2コリント8章1〜24節/ 年間通読:列王上1〜2章
「わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである」。(21節)
  前半で“この恵みのわざにも富んでほしい”(7)と言われたが、これは施す恵みのことである。
そしてこれは献金にもあてはまることである。施せば施すほど、献げるれば献げるほど、恵まれていくのである。
しかし、この恵みのわざが躓きになったり、非難の的になったりする場合もあるので十分気をつける必要がある。神の前には勿論、それだけでなく、人の前にも、躓きや非難のないようにすべきである。
“主よ、恵みのわざが人の躓きにならないようにしてください。アーメン”
 

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